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Channel: 相木悟の映画評
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『ルパン三世』 (2014)

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世界にうって出る、意欲溢れるジャパニメーション実写版!



国民的大泥棒がアニメから実写へ、既成概念を吹き飛ばす一大エンターテインメントとしてお目見えである。
数度のTVアニメ化を経て、人気を不動のものとし、今なお連綿と続く定番作となったモンキー・パンチの漫画『ルパン三世』。本作は、まさかの実写映画化である。(過去に『ルパン三世 念力珍作戦』(74)という一例があり、カルト映画と化しているのはご存じの通り)メガホンをとったのは、ハリウッドを拠点におく豪匠、北村龍平監督だ。
僕と『ルパン三世』との関係性は、原作は未読で、アニメ版をちゃんと観たのはファースト・シリーズのみ。一番支持を集めるセカンド・シリーズは子供の頃、日曜昼の再放送でチラチラ見ていた程度で、劇場版は『カリオストロの城』(79)をリバイバルで鑑賞したぐらい。よって、さほど思い入れがない分、キャスティングに対して沸騰している批難の嵐には、“造り手の数だけバージョンがある懐の深さがルパンらしさ”と寛容に構えている。むしろ日米を渡り歩いた北村監督の手腕に期待を抱き、劇場へ向かったのだが…!?

かつてアントニウスがクレオパトラに贈った世紀の秘宝“クリムゾン・ハート”。現在では秘宝は“光の首飾り”と“真紅のルビー”に分離され、めぐりめぐって世界有数の盗賊団“ワークス”の老頭目ドーソン(ニック・テイト)が“光の首飾り”を、アジアの闇社会を牛耳るMr.プラムック(ニルット・シリチャアンヤー)が“真紅のルビー”を所有し、お互いに虎視眈々と狙い合っていた。
ある日、ドーソンは後継者を発表するべく、自身の大邸宅に“ワークス”のメンバーを収集。ルパン三世(小栗旬)、峰不二子(黒木メイサ)、マイケル・リー(ジェリー・イェン)といった名立たる大泥棒が集結するも突如、マイケルが造反。プラムックと通じていたマイケルは一味を手引きし、邸宅を急襲。ドーソンを亡き者にし、“光の首飾り”をまんまと奪い去るのであった。
なんとか生き残ったルパンと不二子、ドーソンの用心棒の次元大介(玉山鉄二)ら一行は、剣豪の石川五ェ門(綾野剛)を仲間に引き入れ、秘宝の奪還を決意。秘宝が隠されるプラムックの難攻不落のセキュリティ要塞“方舟(ジ・アーク)”に挑むべく準備を進めるのであった。一方、同じくプラムック一味を狙うインタポールの銭形警部(浅野忠信)がルパンに接触し、ある取引をもちかけてきて…。

結論からいうと、なんやかんや一周回って一言、めちゃくちゃ面白かった!これはなかなかの代物である。
成功の要因は、北村監督にオファーした英断につきよう。北村監督といえば、デビュー当時から強烈な個性を打ち出し、主にアクション分野で頑なにブッ飛ばしてきた、好き嫌いの分かれる監督さんである。正直、僕は氏のいやがうえにも前へ前へと出てしまう“我”の強さが苦手であった。それがノイズになって、映画の中にうまく入っていけないのだ。とにかく自分の美学にこだわり抜いたカットだけをつないだ内容は、気合充分でサービス精神に溢れてはいる。が、裏方である監督の自意識が表面にほとばしる上に、肝心のキャラクターの感情が押しつぶされ、どうしても緩急のない一辺倒な印象になってしまう。
とはいえ、自主製でも大作でも、どんな環境であろうと作家性を打ち出してみせる情熱と、端からハリウッドを目指すギラついた向上心は、常々尊敬していた次第である。
『ゴジラ FINAL WARS』(04)後にハリウッドに渡り、一から出直す根性など本当にスゴイと思う。
ハリウッド進出第一作『ミッドナイト・ミートトレイン』(08)は、製作会社の政争に巻き込まれてまともに全米公開されず、第二作『ノー・ワン・リヴズ』(13)もあまり公に紹介されない不遇な扱いを受けてはいるが、どちらも高クオリティを誇っており、確実に地位を築いている。ワールドワイドな躍進は、まさにこれからであろう。
(それにしても、なぜ日本では、ハリウッドで奮戦している氏をもっと大々的に喧伝し、応援しないのだろうか?業界系の事情があるのかもしれないが、あまりに心が狭い。映画ファンだけでも後押しすべきである)

本作はそんな北村監督が、ハリウッドで習得したエンタメのノウハウを注ぎ込みつつ、日本らしさを醸しながら世界展開を視野にいれた、色んな意味でとんでもない内容となっている。
日本らしさという点では、アメコミ映画のリアル指向を真似せず、あえて漫画的な荒唐無稽さを色濃く残し、それでいて最低ラインの現実感を守る路線を開拓。この匙加減は絶妙である。同時に、軽妙な現実離れしたキャラたちの活躍で浮世の憂さを忘れる、『ルパン三世』の本質をよくとらえていると思う。

中でも役者陣の健闘が光る。
「ま、いいか」の笑顔が素敵なルパン役の小栗旬から、不二子役の黒木メイサ、次元役の玉山鉄二、五ェ門役の綾野剛、銭形警部役の浅野忠信と、皆コスプレ大会然としたカリカチュアとリアリティのギリギリの綱渡りを見事に成立させており、称賛に値しよう。
マイケル役の台湾スター、ジェリー・イェン、ルパン一味のメカニック担当のピエール役の韓国スター、キム・ジュン、『アジョシ』(10)で味のある名演をみせた傭兵ロイヤル役のタナーヨング・ウォンタクーン、『オンリー・ゴッド』(13)組の今回は“いい人”役で拍子抜けするウィッタヤー・パンシリガームと美しすぎるラター・ポーガーム、終盤に出てきてやたら強烈なインパクトを残す女ハッカー等々、韓国、台湾、タイの俳優陣が皆しびれるぐらい格好よく、存在感抜群だ。

他、撮影監督、アクション監督、VFXと国際色豊かなキャストとスタッフでつくりあげた肌触りは、かつてないものをつくらんとする熱気がみなぎっている。クライマックスの派手な軍事バトルまで、ゲップが出るぐらい忙しなく続くアクションも美術も、安っぽさは全くない。(海外ロケの効果が、あまり感じられないのは勿体ないが…)
鳴りっぱなしの音楽も往年のプログラムピクチャーを思わせ、ノリにノレた。

要は本作の全方位に至るハチャメチャ加減が、『直撃!地獄拳』(74)等の自由奔放であった古き良き時代のゴージャスな再現に見え、存分に楽しめた訳である。外国語で話すシーンを、吹き替えている違和感もまた懐かしい(笑)。(字幕版のワールドプレミアバージョンでも観てみたいぞ!)
陰気な邦画アクションより、この突き抜けた陽性ぶりがアッパレではないか。おそらくバカバカしいと「否」の意見が多くなるかもしれないが、僕は大いに支持したい。

ただ、惜しむらくは脚本である。もう少し、騙し合いやどんでん返し等のスパイものの醍醐味があってもよかったのではなかろうか?展開があまりに安易すぎる。
それにハリウッドの作品では、撮影システム上、ほどよくブレーキがかかり、監督の暴走がおさえられて、それが完成度を高めていたが、やはり日本映画ともなればやりたい放題が復活。以前に比べればスマートになったものの、押せ押せのアクションと執拗なキメ画の連続に辟易する部分も多い。
あと、これだけアニメ版に寄せているのに、製作母体のゴタゴタでお馴染みのテーマ曲が使えなかったのも痛恨の一撃であった。勿体ないにも程があろう。どうにか融通が効かなかったのか。

諸々の問題点は続編での改善に期待したいところである。緑ジャケットが端的に示すように、本作はあくまで序章なのだから。


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『TOKYO TRIBE』 (2014)

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前代未聞のバトル・ラップ・ミュージックカルに驚嘆せよ!



いやはや、ユニークな映画体験であった。ここまでやられたら、アッパレという他あるまい。
本作は、映画界で華々しく狂い咲く園子温監督作。今回は、ファッション誌で連載されていた井上三太のカルト漫画『TOKYO TRAIBE2』の映画化だ。原作は限りなく東京に似ている架空の都市トーキョーを舞台に、ストリートギャングが抗争を繰り広げるバイオレンス&ファッショナブルな、一般漫画とはちょっと異なる肌さわりの怪作である。ずっと映画化の企画はあったらしいが、難航したのもさもありなん。これは下手に手を出せばチープになるのがオチな危険な題材である。それを今さらながら園子温監督により映画化されると伝え聞き、「お!」と身構えた次第。いい意味で、『ヒミズ』(12)でも原作をぶっ壊した御大である。さらに原作のヤバさが増大するのでは…、と恐れおののきながら劇場へ向かったのだが…!?

近未来のトーキョー。若者たちはトライブ(族)を組み、各々の町を暴力で縄張り化。各トライブの実力は拮抗し、パワーバランスは保たれていた。そんな中、“ブクロWU-RONS”のボス、メラ(鈴木亮平)は、温和なトライブである“ムサシノSARU”のメンバーの海(YOUNG DAIS)を異常なまでに敵視し、スパイを送り込み、罠にはめんと画策。“ムサシノSARU”のキム(石田卓也)を餌に、まんまと海たちを配下の風俗店“SAGA”におびきよせることに成功する。しかしそこには、“ブクロWU-RONS”を裏で操る悪の帝王ブッバ(竹内力)が拉致した謎の女スンミ(清野菜名)が囚われており、海の手引きで脱走。彼女の正体が思わぬトリガーになり、新たなブッバ勢力“WARU”がトーキョーを蹂躙。果てはトーキョー中のトライブを巻き込んだ一大抗争に発展して…。

当初、園子温監督にはチーマーの世界に対する造詣がなく、どうアプローチしたらいいか悩んだところ、台詞をラップにしたミュージカル化を思いつき、活路を開いたのだとか。ならばヒップホップに詳しいかというと、さにあらず。それらは全て詳しい人間に丸投げしたというのだから大胆極まりない。
興味がないなら引き受けなければいいのにと一見思うが、逆境をパワーに変えるのが園子温の流儀。いわく、『ゴッドファーザー』(72)のフランシス・フォード・コッポラも『仁義なき戦い』(73)の深作欣二も互いにマフィアとヤクザに興味がなく、対象との距離感が名作を生んだ教えに準じたのだとか。

また、ロケ地も原作通り、実際に新宿、渋谷、池袋でのバトルは不可能ということで、なんとセットで町を丸ごと構築。監督がみそめたアーティストたちを集めて飾り付け、『ブレードランナー』(82)よろしく、けばけばしい世紀末的な異空間をつくりあげている。もう美術の豊富な情報量だけで、頭がクラクラしてくることうけあいだ。
個人的には原作のファンタジーながら、やたらリアルに再現された町々を破壊しながら死闘を展開するところが好きだったぶん残念だが、実現性を考えたら致しかたあるまい。
これらの経緯から、なるほど園子温監督だからこそ、これほど斬新な発想の映画が生まれえたことがよく分かる。

ドラッギーなアジアン空間の中、ラップで話すストリートギャングたちの血で血を洗う大抗争がハイテンションで紡がれていく。井筒和幸監督の『ガキ帝国』(81)、石井聰互監督の『爆裂都市 BURST CITY』(82)、ウォルター・ヒル監督の『ウォリアーズ』(79)等々が、本物のチンピラや暴走族を起用したように、本作もリアルなラッパーたちや荒くれ者たちが大挙出演。本物がひしめく果てしないバイオレンスとエロス、サウンドの熱量に、ア然としている間に終わってしまう。どう評していいか迷うほどの奔流映画となっている。

役者陣も、とことんヒートアップ!
『HK/変態仮面』(13)で裸芝居に覚醒したメラ役の鈴木亮平は、本作でも惜しげもなく肉体美を披露。全編フリきれている。おかげで海役にオーディションで抜擢されたラッパーのYOUNG DAIS君は、本来、主人公でありながら、メラのインパクトに埋もれてしまった感があるが、比べるのは酷というものであろう。
裏社会に君臨する大親分ブッバ役で怪気炎を吐く竹内力の、恐怖の暴走ぶりには大爆笑。ブッバの息子役の窪塚洋介もこれ以上なくクレイジーな世界観にはまり、倒錯ぶりが適役だ。
同じくブッバ一家の中川翔子、叶美香ら賑やかしも適材適所笑わせてくれる。
笑ったといえば、“ムサシノSARU”のリーダー、テラさん役の佐藤隆太のハマリ加減もGOOD。
スンミ(=百鬼丸)にくっついているオリジナルキャラの小娘ヨン(=どろろ)役の坂口茉琴の、やたらに高い格闘スキルも圧巻。鼻をこする、“どろろ”オマージュにも注目だ(笑)。
大司祭役のでんでんから、風俗店“SAGA”の店長ムカデ(!)役の北村昭博、セクシー要員の佐々木心音、純粋なラップ・ファン役でチラリと映る『テラスハウス』のてっちゃんまで、細部に宿るキャラ立ちはさすがという他ない。

そして話題沸騰のキャストといえば、何といってもスンミ役の清野菜名である。吉瀬美智子を若くソフトにしたような美人ぶりと、体当たりの活きのいい存在感に完全ノックアウト!またも園子温作品のパンチラ・ヒロインから、明日のスター誕生だ。

ストーリー自体は、原作を一応踏襲してはいるものの、基本メチャクチャである。スンミのエピソードなど、どうでもいい扱いとなり、最終的には完全放置。特にメラと海の因縁の改変には、眼が点になった。原作ファンは、ぜひ劇場でお確かめを。原作者は怒らないのか?と心配になるが、井上三太自身、劇中でレンコンシュフ役を楽しそうに演じているのだから何をかいわんや。この“戦いにまともな理由なんてない!”という改変ポイントに、なんでも感動話にする安直な日本映画への反逆精神が表れていよう。
というか、既成概念を吹き飛ばすように話の整合性を無視し、面白ければ何でもあり、前人未到の挑戦をはたした本作自体が、日本映画界への喝となっているように思う。それが“A SONO SION' S FILM”。
本作が多くの人の眼に触れ、刺激を与えることを望む。


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『NO ノー』 (2012)

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広告合戦で民衆政治を問う社会派ムービー!



政治を伝えるメディア、受けとめる市民について、当たり前になった日常を改めて考えさせられる興味深い良品であった。
本作は、パブロ・ラライン監督による『トニー・マネロ』(08)、『検死』(10)に続くチリ独裁政権3部作の完結編。東京国際映画祭に出品され、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされた注目作、ようやくの一般公開である。軍事独裁政権下のチリで行われた国民投票の宣伝戦を綴った実録モノだが、今や全くの他人事に見えないのが怖いところ。国民の政治への無関心、一党の強引な政治体制、大手新聞すら信用を失墜させる惨状、等々、不穏な空気に覆われている我々に本作は一体何を投げかけるのか…!?

1988年、南米チリ。長年にわたるピノチェト軍事政権の独裁に対する国際的な風当りが強まる中、政府は信任継続を問う国民投票の実施を決定。それに伴い、投票までの27日間、政権支持派の「YES」と反対派の「NO」、両陣営に1日15分のテレビ放送のPRタイムがふり分けられる運びとなる。
そこで「NO」陣営の中心人物ホセ(ルイス・ニェッコ)は、友人の腕利き広告マン、レネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)にCM製作を依頼。はじめは政権が対外的に正当性をアピールするだけの出来レースと気乗りしなかったレネだが、やがてプロ根性を発揮。明るい未来への希望を謳いあげるレネがつくる資本主義の象徴のようなCMは、内外の党員の反感をかうも、諦めムードを覆し、国民の心をがっつりつかんでいく。途端に危機感を抱いた「YES」陣営は、あろうことかレネの上司グスマン(アルフレド・カストロ)を広報責任者に抜擢。権力をもちいて「NO」陣営を押さえこもうと画策するのだが…。

軍事政権の転覆をあつかった映画ともなれば、レジスタンスを主役に、権力による脅迫や拷問といった熾烈な妨害工作に立ち向かう構造になりがちである。本作の場合、確かにそういった要素もあるにはあるが、基本、双方の宣伝合戦を中心にそえたユニークな視点をとっており、全然、血なまぐさくない。
独裁政権からうけた迫害を告発する暗い内容をあえて避け、色鮮やかな虹をイメージカラーにテーマ曲『チリよ、喜びはもうすぐやってくる』で自由を謳いあげ、ウィットに富んだオシャレで楽しいCMをつくるレネ。
一方、上司グスマンは、どういった対抗策をとったのか?なぜそれが墓穴を掘る結果となったのか?(この辺りは、我が国でもつい思い当たる例があろう)
エキサイティングな宣伝合戦の模様は、ぜひご自身の眼でご確認していただきたい。

が、エキサイティングと書いたが、本作のタッチは終始落ち着いて淡々としており、退屈にすら感じよう。そこには実は監督の秘めた狙いがあるのだが、それは後述するとして、まずは広告マンのキャラクターである。ひとつに彼らはノンポリで(レネの妻(アントニア・セヘルス)は、左翼活動家であるコントラストが面白い)、あくまでビジネスとして関わっているスタンスは崩さない。そのクールさにある種の虚無的な感情が芽生える、投票結果をうけた際のレネのリアクションにご注目。さらにその後のレネとグスマンの身の処し方は、多分に示唆的である。
かようなメディアにノセられて盛り上がってしまう我々市民は一体何なのか?つい我が身を振り返って煩悶してしまうことうけあいだ。

ではなぜ監督は、本作をこういった渋い作風に仕上げたのか?やろうと思えば『アルゴ』(12)のようにバランスをとったエンタメとして、いくらでも盛り上げられたはずである。
そこでチリの辿ってきた歴史的経緯を簡単にみてみよう。
1970年代初頭、反共産主義を掲げる陸軍総司令官ピノチェトの勢力をアメリカが支援。CIAエキスパートの協力をうけたピノチェトは軍事クーデターを起こし、政権を奪取。独裁体制を敷き、反対勢力を徹底的に弾圧した。
そんなピノチェト政権により、資本主義が当国に持ち込まれたのだが、最後は国民投票という形で終止符をうたれる羽目となる。当政権は自分たちが拡げた資本主義の魅力により、皮肉にも首をしめられた形である。
しかしその後、レネのつくった資本主義讃美のコマーシャルのように皆幸せになったかといえば、さにあらず。企業が肥大化し、格差はひろがり、現在は様々な問題が噴出している。その流れの起点が、民主主義を回復した本作の時点にあったとするのが、監督の観点なのだ。本作をハッピーエンドにできない思惑がそこにある。

そして、本作を現代に直結させるためにとった演出が、あえて画質を当時に近づけんとわざわざビンテージカメラを使った撮影法。美術や衣装といった再現性の高い画造りも伴い、劇中のアーカイブと自然につながっているのだから、その効果は推して知るべし。
要するに、現代から過去を振り返っているという感覚を無くさせることにより、逆に今日性を打ち出しているのである。

演説も選挙方法も、一昔前と全くスタイルが変わらない旧態依然とした日本の政治家たちを見ていると、いつ本作のような裏の第三者による革命が起きて、その波に操られ知らずに流されてしまう日がくるのでは?とリアルに思う。
もしかすると2014年に公開されたのは、天の警告なのかもしれない。


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『死霊のはらわた』 (1981)

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若き作家の情熱と血のりがほとばしる、スプラッター決定版!



今も昔も自主映画シーンにおいて、ホラー映画は隆盛を誇っている。現に劇中劇の自主映画といえば、皆、判を押したようにホラーを撮っている(笑)。
なぜか?
ホラーは他のジャンルと比べて、一種、独特な表現形態をもつ治外法権分野であり、“映像技術の手練手管で魅せる”という意味においては、実は極めて純粋な映画的魅力を秘めている。人生経験のない若造に土台、人間ドラマはハードルが高く、テクニックを特化して試せるホラーに群がるのは、当然といえば当然の成り行きといえよう。
という訳で本作は、スプラッター映画の金字塔として映画史に刻まれるサム・ライミ監督作。本作は仲間同士で造られた自主製作映画であり、いまや『スパイダーマン』シリーズ(02〜07)でヒットメイカーとなった大御所サム・ライミの名を一躍、世に轟かした伝説の一本である。

テネシー州。人里離れた山奥にある廃屋で休暇を楽しみに5人の男女がやってくる。イケメンのアッシュ(ブルース・キャンベル)と妹のシェリル(エレン・サンドワイス)、恋人のリンダ(ベッツィ・ベイカー)、友人のスコット(ハル・デルリ)と、その恋人のシェリー(セイラ・ヨーク)だ。不気味な気配と現象に不安を覚えつつ廃屋で過ごす5人。そして夜、地下室におりたアッシュとスコットが、髑髏の短剣とテープレコーダー、「死者の書」と記された古い本を発見する。面白半分でテープを再生してみると、そこには死霊を研究していた科学者が「死者の書」に記された呪文を朗読する声が聴こえてくる。その呪文により、森の中の“何か”が覚醒。危険を察知したシェリルが森に駆け出すも動き出した木々の襲撃をうける。辛くも逃げ帰り、半狂乱となったシェリルを連れ、山をおりようとするアッシュであったが橋が倒壊しており、それもかなわない。仕方なく夜明けをまつ一行であったが、やがてシェリルが死霊に憑りつかれ、凶悪な怪物に変貌し、4人に襲いかかってきて…。

ホラーの魅力とは一体何なのだろうか?
そのひとつは、ゾンビ映画を例に出すと分かり易いが、いわば、“飽食の時代への反動”が挙げられよう。豊かな時代において物質的には満たされながら、飢えを感じる人間の果てなき欲望の投影であり、一種、退廃的な庶民芸術なのである。
それがビデオの普及で勢いづき、安価な残虐ホラービデオが乱造され、ウィルスのように一気に広まった80年代。本作はその潮流に上手く乗り、劇場公開よりもビデオソフトでカルトな人気を博したという。
やがてそうしたホラービデオ文化の隆盛も、「不謹慎ナリ!」と良識派の摘発を受け、社会問題化。本作も急先鋒として槍玉にあげられ、裁判沙汰に巻き込まれることに。結果、ビデオにも規制が設けられ沈静化し、現在に至る。
我が国においても例外ではなく、ほとんどの方が当時の繁栄を忍ばせる百花繚乱たるB級ホラーの棚で、一際妖しく輝く本作を手に取られたのではなかろうか?

ちなみに僕が初めて本作を観たのは小学生低学年の頃、深夜のTV放送だった。当時は父親がTVのチャンネル権とビデオの録画権を独占しており、ホラーの類は観せてはくれなかった。よって、両親が寝静まった深夜にこっそり起き出し、暗闇の居間で一人、鑑賞。するとあまりの怖さに最後まで観れず、ベッドに飛び込み、ガタガタ震えて朝を待った。結局、夜に独りでトイレに行けなくなるほどのトラウマを植え付けられたのである。
後年、中学生になって幼き日の因縁に決着をつけるべく観直すと、本作が通り一遍の見世物ホラーではなかった事実に愕然とした。やはり良かれ悪しかれ、インパクトを与える作品は並の映画ではないのである。

上記したようにホラーの特質として、こと低予算スプラッターは、投げやりなそこはかとないデカダンスな香りをまとっている。
ところが本作に至っては、「俺の技術を見やがれ!面白いだろ!」とばかりに造り手の陽性の気概が無駄に漲っており、パワフルの一言。役者の契約が切れてからも、延々と長期間かけて特殊効果シーン等を撮影し続けた若いライミたちのありったけの情熱と執念が詰め込まれている。(編集にジョエル・コーエンが参加していることからも、彼らの自主製作仲間たちにスゴイ才能が集まっていた旨が窺えよう)
死霊眼線のカメラショット、自ら開発した原始的疾走移動カメラ“シェイキーカム”によるトリッキーなカメラワーク、木々が女性を強姦する悪ノリ、クレイアニメのようなレトロなコマ撮り、等々、既成概念に囚われないインディーズらしい自由な演出は、今観ても新鮮である。
中でも凝りに凝った効果音は特筆に値しよう。カメラの動きに音を付けるアバンギャルドな発想に要注目!かような一歩間違えばギャグになる擬音に加え、VS死霊のドロドロした血飛沫が大噴出する激烈なゴア描写もとことん突き詰めて、“笑い”へと逆転させる画期性にも唸らされる。
よって本作は、とんでもなく痛く怖く気色悪い内容であるにも関わらず、後味はそれほど悪くない。

また、エンタメとしてよく出来た脚本と、ジョン・コクトー作品といった古典へのオマージュにライミの映画的教養の高さが窺える。クラシックへ造詣が深く、基礎がしっかりしている点が、他の凡百のホラー作家と一味違う所為といえよう。
そうした映画的完成度が、本作がジャンルの枠を越えて名作として語り継がれる由縁である。
これらを20代そこそこの若者が造ってしまったのだから、奇跡としかいいようがない。

ちなみに本作には、『死霊のはらわた2』(87)と『キャプテン・スーパーマーケット』(93)という二本の続編が存在し、完全にコメディと化していく。
そして2013年に、本作の本格リメイクが公開され、ヒットを記録した。
本シリーズがライミのライフワークであることに変わりはなく、今後も正伝シリーズの続編および、リメイク・シリーズとのクロスオーバーが企画されているそうな。
僕としては本作のバランスが唯一無二であり、続編に関してはそこに冷や水をかけられたようで、あまり好きではない。でもまあ、シリーズの動向については一映画ファンとして楽しんで見守っていこうとは思うが…。どうなることやら。

また、今回ブルーレイであらためて鑑賞したのだが、こちらは正直、微妙であった。画像が鮮明過ぎるため、手造り特殊効果の限界といおうか、“見たくないモノが見えて”しまい、恐怖の興が削がれてしまったのだ(苦笑)。
やはり本作は、擦り切れたVHSの多少、粗い画像で観るのがベストであろう。
映画の楽しみ方も様々である。


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『イン・ザ・ヒーロー』 (2014)

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夢をおう、熱き男の生き様に感涙したいのは山々なのだが…?!



ストーリーを聞いただけで胸が熱くなるも、色々とひっかかり、終始ノレず。実に惜しい一作であった。
スーツアクターといえば、特撮ファンにとってはすっかりお馴染みの存在である。大野剣友会が回顧録でピックアップされたり、ソフトの特典メイキングの普及でその勇姿に触れる機会が増えたりと、昔と比べて今や大人のファンにとっては身近な存在になっていよう。本作は、そんなスーツアクターを主人公にしたサクセス・ストーリー。確かになぜ今までつくられなかったのか、不思議な題材ではある。ただ内幕モノは、扱うのにデリケートな存在であるのは事実。わざわざ映画館に夢を観にいくのになぜ裏側を?という疑念を払拭するのは容易ではない。はたして本作はその辺りをどうクリアし、過去のバックステージ・ジャンルの名作群の仲間入りができたのか…!?

“下落合ヒーローアクションクラブ”のリーダー、本城渉(唐沢寿明)は、特撮番組のヒーローや怪人のスーツアクターとしてアクションをこなす、その道25年の大ベテラン。ブルース・リーに憧れる熱血漢である本城は、いつか顔出しして映画出演することを夢見て、首に爆弾をかかえる満身創痍の身体で日々、努力を重ねていた。
そんな折り、ついに本城にヒーロー番組の劇場版で顔出し出演するチャンスが巡ってくるも、蓋を開けてみれば、人気絶頂の新人、一ノ瀬リョウ(福士蒼汰)に役を奪われてしまう。しかもリョウはハリウッド大作のオーディション中で、子供向けヒーロー番組をバカにする始末。そんなリョウの教育係をマネージャーに頼まれた本城であったが、現場に敬意を払わないリョウとことごとく対立するのであった。
一方、リョウがオーディションを受けているハリウッド大作の現場では、クライマックスの危険な大殺陣に配役された俳優が恐れをなし、降板する事件が発生。その代役として本城の名前が浮上するのだが…。

小生意気な若手俳優リョウは、年配スーツアクターの本城からチームワークでつくる現場のノウハウを叩き込まれ、やがて二人の間に師弟関係が芽生えていく。そして俳優として人間として成長していくリョウと、辛苦の末に夢を手中にせんとする本城の姿は、定番ながら観ていてまこと清々しい。八方美人のプロデューサーやワガママ大物監督、等々、描かれる業界の内幕があまりにステレオタイプ過ぎて、逆に嘘くさいのもご愛嬌だ。
そこでまずひっかかるのが、リョウのキャラクターである。もちろん実態は不明ではあるが、昨今の特撮モノの若手俳優陣はスーツアクターに敬意を払い、二人三脚で役をつくっていっているのがメイキング等を観ればよくわかる。ベテランスタッフに横柄な態度をとるどころか、厳しくしごかれている感すらある。画に書いたような天狗キャラのリョウみたいな俳優、今時いるのだろうか?ちょっとイメージが古すぎよう。
でもそれは別にいい。話が進むとリョウがハリウッド・デビューにこだわる事情と、『007』シリーズを全作揃えるほどの映画好きであることが判明する。芸能界をなめている世間知らずな若造ならまだしも、かように研究熱心な苦労人がスタッフに対して、あんな態度をとるまい。ベタなストーリーを流れさすために、キャラ作りを安易にし過ぎではなかろうか?

妻(和久井映見)と中学生の娘(杉咲花)と別居し、身体がズタボロになっても夢をあきらめない本城のキャラには誰しも共感を抱こう。
でもスーツアクターたち全般に対して、総じて役者になれなかった人たちという印象を個人的には受けたのだが、これはいかがなものか。中には本城のような人もいるだろうが、基本、スーツアクター、スタントマンの方々は、黒子に徹する仕事に誇りをもっているプロフェッショナルの集団であろう。裏方の切なさより、そこをこそもっと強調する部分がほしかった。
ちなみに劇中で、“スーツアクターは名前が出ない”と嘆かれていたが、『平成仮面ライダー』や『スーパー戦隊』シリーズでは、ちゃんとスタッフロールに出ている。あまりその世界に詳しくない僕ですら、名前を覚えている人が何人もいるくらいである。
ちょっと意地悪なことをいえば、映画の裏方さんは作品に名前が残るだけでも恵まれていよう。世の中には、表に名前が出ない裏方の人々が大半なのだから。

そして何よりひっかかるのが、クライマックスの見せ場の大殺陣シーン。劇中の打ち合わせで、当シーンは長回しでやると宣言しているのだから、そうやってみせなければ意味があるまい。外野のリアクションは押さえられないが、劇中映画を観賞する観客の視点で、実際に撮られたシーンとして披露すべきであったと思う。つい「どうせ唐沢寿明もスタントを使ったんだろう」と邪念が忍び込んでしまった。

他にも根本的に本城とリョウ、どっちがメインの筋なのか定まらず、エピソードがバラけて、まとまりが悪く、本城の仲間がスーツアクターを辞めるエピソードや、妻の再婚話も唐突で、リョウ同様いかにも取って付けたような雑な展開が目立つ。
よって、クライマックスのカタルシスにうまく感情が収束せず、いまいち盛り上がれなかった。

元スーツアクターである叩き上げの唐沢寿明は、さすがに想いを込めて熱演を披露。同じくスーツアクター経験者、寺島進による衝撃の女性ヒーローぶりは必見だ。『仮面ライダーフォーゼ』(11〜12)に主演した福士蒼汰の起用と、キャスティング自体はバッチリ。
吉川晃司の主題歌も燃えに燃える。
「アクションはリアクションがないと成立しない」、「日本でアクションスターになろうとすると、スーツアクターになるしかない」といった含蓄のある台詞の数々、日本とハリウッドの製作体制のシビアな対比、そして提示するテーマとストーリーラインの力強さと名作になる要素は孕んでいただけに、もったいない限りである。

…が、エンドロールの最後の最後。おまけ映像においての“ある人物”の言い分に仰天した。ある意味、真理であり、皮肉である究極の一言。このオチだけは最高であったことを付け加えておきたい。


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『ある優しき殺人者の記録』 (2014)

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日韓共同、ぶっ飛びPOVスリラー登場す!



国の違いも低予算も関係なく、アイディア次第で面白いものがつくれることを証明せし怪作であった。
本作は、フェイク・ドキュメンタリー界を席捲し、独自手法の研鑚を続けるお馴染み白石晃士監督作。今やB級ホラーから大作映画にまですっかり定着した感のあるPOV(主観映像)市場。我が国で当分野の成果を最も残している白石監督を、もっと評価するよう常々提言しているのだが、依然としてカルト監督のままであるのは歯痒い限り。
そんな監督が今回、なんと韓国オールロケで現地役者を使った合作スリラーを撮るというのだから、ファンとしては観逃す訳にはいくまい。はたして世界進出をねらった入魂作の実態やいかに…!?

ところは韓国。女性ジャーナリストのキム・ソヨン(キム・コッビ)のもとに、障がい者施設を脱走し、18人を惨殺したとされる容疑者パク・サンジュン(ヨン・ジェウク)から電話がかかってくる。実はソヨンとサンジュンは、幼い頃にあるトラウマを共有した幼馴染みであった。ソヨンはサンジュンの指示に従い、日本人カメラマンの田代(白石晃士)を連れて、廃屋マンションの一室を来訪。待ち受けていたサンジュンは、自分は神の予言に則って殺人を犯していると語り、これから起こる奇跡を記録におさめるよう命令する。間もなくサンジュンの言う通りに、最後の標的である日本人カップルの凌太(米村亮太朗)とツカサ(葵つかさ)がその場にのこのこやって来て…。

神の啓示をうけたと、のたまう男の奇怪な行動を追っていくうちに、はじめはバカにしていたのが、狂っているのはむしろ自分であり、この世界かも?という感情が芽生えていく価値観の転換は『オカルト』(09)に通じよう。肉体を凌辱することで、人間のエゴ=他者への愛をためす試練は『グロテスク』(09)、殺人者を密室で取材するというスタイルは『超・悪人』(11)を思わせる。(大元は、『ありふれた事件』(92)ではあるが…)
他、セクシー女優の的確(?)な使い方、バイオレンスとエロスが渦巻く中に忍び寄る絶妙なユーモア、そしてハッピーエンドなのかどうなのか判断がつかない、切なく不気味な余韻を残すラスト(ここは近々のある作品と同じ展開)と、エグさは控え目ながら確かに白石監督のフィルモグラフィの集大成といえる内容となっている。
それをかつてない86分のPOV、要するに“カメラマンの撮った素材”という名目のワンカット長回しで表現しているのだから、ワンランク上のステージへ進んだといってよかろう。(実際は幾度もカットを割っているのだが、パッと見では誰も気付くまい。これらも長年培った技術の結集といえよう)

本作を観てつくづく感じたのが、報道番組が事件を伝える現地映像の、リアルタイムでは何も起きていないにもかかわらず、そこはかとなく漂う怖さの吸引力である。件の報道映像に薄気味悪さを感じとるのは、実際にその場で事件が起こったという現実に則っているがゆえ。同様に白石作品も、えもいわれぬリアリティを映像が醸し出している。当効果の由縁は、白石作品に底流する“常識の通用しない異世界”がどこかに存在すると言いきる造り手の確信性にあろう。その辺りをぼやかして、いい加減にしている作品は、やはり興味をひかれない。逆に覚悟のある作品は、どんなバカらしい超常をやらかしても、興味がひかれるのだ。怖いもの見たさに加えて、神秘を覗く好奇心を刺激されるとでもいおうか。
なぜ生きているのか?全てのはじまりは一体何なのか。大いなる謎からは、誰も逃げられないのだから。

ことほどさように余すところなく白石ワールドの魅力を伝える本作だが、惜しむらくは言語の壁である。はじめ、日本語を話すのはカメラマンの田代(お馴染みのキャラですな)だけで、やりとりは基本、韓国語。日本での活躍が目立つ、『息もできない』(09)のへちゃむくれ女子高生のキム・コッビが好演を見せてはいるものの、彼女と殺人犯のスリリングな会話劇が字幕ではいつもの臨場感が出ず、ちょっと退屈してしまった。モキュメンタリーでは掛け合いの間合いが大事なのだと痛感。
よって俄然、勢いを取り戻すのは、日本人カップルが参入してから。このぶっ飛んだカップルにより、白石節が爆裂!いい意味で彼らが映画を掻き回してくれる。清純キャラで売る葵つかさのチャキチャキの関西弁にも注目だ。この両者のとんでもないクレージーぶりは、ぜひご自身の眼でご確認を。
ここから急激にストーリーは加速。5人の血で血を洗う狂騒がはじまり、「なんじゃそりゃ!」な文字通り、目が点になるラストまで一直線である。

しかしながら、白石監督はもう海外の方が先に眼をつけ、一足飛びにハリウッドのホラーで活躍してしまうような気がする
それでいいのか、日本映画界?


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『舞妓はレディ』 (2014)

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京文化を照射する、はんなりミュージカル登場す!



周防作品のハイ・クオリティぶりを実感しはするのだが、いまいち心躍らない一作であった。
本作は、我が国が世界に誇るエンターテインメントの旗手、周防正行監督作。何やら監督が20年来、温めていた念願の企画なのだとか。その題材とはズバリ、『マイ・フェア・レディ』(64)の舞妓版。頂点を極めた『Shall we ダンス?』(96)以来、長い充電期間を経て、今後は社会派監督として舵をきっていくのかな?と勝手に思っていたのだが、なぜかここにきて先祖返り。つい伊丹十三のフィルモグラフィに重ねてしまうが、そこはあえて突っ込むまい。
しかしながら、周防組に結集する馴染の俳優陣の豪華さと、すこぶるご機嫌な予告編を観るにつけ、期待は膨らむばかりなのだが…!?

古い歴史を誇る京都の花街、下八軒。かつてはにぎわいをみせた街も今や、舞妓が一人しかいないという寂しい状況。ある節分の夜、女将の千春(冨司純子)、芸妓の豆春(渡辺えり)と里春(草刈民代)、舞妓にしては少々老けた百春(田畑智子)が切り盛りするお茶屋の万寿楽に、一人の少女、春子(上白石萌音)がやってくる。鹿児島弁と津軽弁がミックスされた強いなまりで、舞妓になりたいと懇願する春子。周囲は呆れはてるも、たまたまその場に居合わせた言語学者の京野(長谷川博巳)は、老舗呉服屋の社長、北野(岸部一徳)に賭けを申し出、「彼女を一人前の舞妓にする!」と宣言。晴れて万寿楽の仕込み(見習い)になった春子だが、厳しい花街のしきたり、唄や舞踏の稽古、そしてなまりの矯正という超ハードな日常が待ち受けていて…。

『ファンシイダンス』(89)のお坊さん、『シコふんじゃった。』(91)の学生相撲、『Shall we ダンス?』の社交ダンスと未知の世界を楽しく描出するハウツーものの名手、周防監督。本作も徹底したリサーチに基づき、一般庶民には縁のない花街の風俗や座敷模様、知られざる舞妓&芸妓の裏側の努力と苦労を、春子の奮闘を通してコミカルに紡いでいく。その手際の鮮やかさ、“緋牡丹のお竜”へのオマージュといったマニアへのくすぐり、細部まで凝りに凝った美術の職人技、中村久美、岩本多代からAKBまで次から次に出てくる癖のあるキャラクター、等々、まさに横綱相撲といった按配である。
とはいえ、今回は趣きを変え、架空の街をまるごとセットでつくり、箱庭的ファンタジーへと昇華させている点が新しいところ。さらにそこにミュージカルを融合するという、とんでもない冒険に挑んでいるのだからビックリである。

ただ、監督のリアル指向と件のファンタジー性がしっくり噛み合っているかというと、正直、齟齬をきたしているように思う。
まず主人公の春子が正体不明の不思議ちゃん過ぎて、『Shall we ダンス?』の杉山さんのようにすんなり感情移入して物語に入りにくい。できれば素直に応援したくなる動機を、きっちり描いてほしかった。演じる女優さんも、イモ少女が美しくつややかに成長していく姿を上手に体現してはいるが、ややあざとさを感じるというか、ちと狙いすぎではなかろうか?
同様にヒギンズ教授の役割をはたす京野の動機も薄味。この二人の関係性が、ひとつも面白くならないのが致命傷であった。
個人的には、京野の助手を務める西野(濱田岳)という複雑な背景をもつキャラに惹かれたが、あまりピックアップされず…。彼と春子の恋愛話にした方が、よっぽど中身が弾んだのではなかろうか?

ミュージカル・シーンも趣向がこらされ、職業歌手でない役者が歌って踊る光景は、独特の味があるにはあるが、どうしても話の流れが止まり、気恥ずかしいのなんの。『レ・ミゼラブル』(12)のような“歌える役者”の迫力を目にした後では、ふざけているようにしか見えない。(印象に残ったナンバーも主題歌のみだ)

お話的にも結局のところ、春子がどういう風に問題をクリアして、ラストの変身に至ったのかよく分からなかった。あまりに淡々として、筋運びはあちこち散漫だわで、途中すっかり退屈してまった次第である。
『マイ・フェア・レディ』に思い入れのある人は、もっと楽しめるかもしれないが、好きでも何でもない人間からすれば終始ピンとこない。

花街のいちげんさんお断りの閉鎖性は裏を返せば、究極の“おもてなし”であり、それを受けられるのは成功のステータス。長い歴史を誇る座敷は、伝統を重んじる外界から隔絶された小宇宙であり、時に客との駆け引きにおいて知的なゲーム性すら擁するも、やっていること自体はくだらないというその落差。かように奥深い世界を、明るいファンタジーのアプローチでさらに異文化のミュージカルを合成させるチャレンジ精神と、あまつさえ成立させてしまう周防監督の演出力はやっぱり讃えるべきであろう。
でも今回は、失敗であったと思う。

…が、よくよく考えると本作の本音や泥臭さをコーティングして、表面を繕う淡泊さは、京文化を象徴しているような気もする。いわば、はんなり映画といったところか。
とすると、和洋折衷から、地域(街)が子供を育てる概念から、何から何まで計算してつくられた慎み深い日本人向けコメディに見えてくる。う〜ん、やっぱり名作かも。おそるべし、周防正行。
本作の感想を聞かれたら、「おおきに」と答えるようにします。


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『るろうに剣心 伝説の最期編』 (2014)

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テンションMAXで駆け抜ける、一大クライマックスに感嘆せよ!



とにもかくにも造り手とキャストのほとばしる熱量に圧倒される力作であった。
本作は、『週刊少年ジャンプ』の代表作のひとつである和月伸宏の同名漫画の実写化第3弾。原作の人気シリーズ“京都編”を2部作に分割した『京都大火編』に続く後編だ。1作目の大ヒットにより、これ以上ないお膳立てで実現した本2部作。前編のわずか一ヶ月後に、後編を観れる贅沢さは確かに堪えられないものがある。『京都大火編』も記録的なヒットをかっ飛ばし、盛り上がりはまさに最高潮。コミックの映画化で、興行と評価ともにこれほど絶賛の嵐に包まれた例はないのでは?
ファンや批評家筋から邦画界の未来を託す希望のシリーズとして祀り上げられている中、もう四の五のいわず、ひたすら楽しめばそれでいいとは思うのだが…。

志々雄真実(藤原竜也)一派に捕らわれた薫(武井咲)を救うため、東京へと侵攻せし甲鉄艦“煉獄”に乗り込んだ剣心(佐藤健)であったが、激闘の果て、薫と共に海中に没してしまう。意識を失い、浜辺に流れついた剣心は、師匠である比古清十郎(福山雅治)に偶然、助けられる。今のままの自分では志々雄たちに太刀打ちできないとさとった剣心は、清十郎に飛天御剣流の奥義の伝授を請うのだが、清十郎はまずは心の持ちようを改めるよう説き伏せ…。
一方、九死に一生をえた薫は、左之助(青木崇高)と弥彦(大八木凱斗)と共に東京へ向かい、剣心を執拗に付け狙う四乃森蒼紫(伊勢谷友介)は道中で待ち伏せ、そして浦賀沖に現れた志々雄一派は、煉獄の砲撃で明治政府を恫喝しはじめて…。

前作のラストで突如現れ、本作に対する最高の引きを演出した福山君。気になる役柄は、ファンの間で予想されていた通り、剣心の師匠、比古清十郎であった。イメージの違いと芝居はさておき、如何せんスターオーラが半端なく、剣心役の佐藤健との師弟関係が実に自然である。この新旧スターが火花を散らし、『スターウォーズ』シリーズのルークとヨーダの関係よろしく、主人公が活路を見出す当パートで掴みはOK。
2部作の後編だけにのっけからテンションが高く、ずっと緊張感をたもったまま、当シークエンスから後は、アクションにつぐアクションのつるべうち!怒涛の勢いで、迷いなく突き進む。谷垣演出のアクロバティックでスピーディーな殺陣はさらに加速し、剣心VS二刀流の蒼紫、剣心VS宗次郎の超音速バトル(神木君、やっぱり最高!)、左之助VS安慈(丸山智巳)の肉弾戦(なぜかココにきてのコミカル化に大いに異議があるが…)、人体発火するラスボス志々雄との爆炎バトル、等々、趣向を凝らしたアクションの数々は圧巻の一言だ。
何より1カットもおろそかにすべしと、造り手とキャストの凄まじい気迫がビシビシと伝わってくるのがスゴイ。『ダークナイト』シリーズのような重厚なパワーの込めようである。ただ、この圧迫が疲れるかといえばそんなことはなく、むしろ心地良さすらある。日本映画でこれだけ体育会系のパッションが前面に押し出た作品は、近年珍しかろう。

そしてかようなスタンスが、想いを戦いでしか表現できない旧時代の無骨キャラと絶妙にマッチ。権力に使い捨てにされ、新時代に至っても、いいように利用される彼らの哀しさ、もがき苦しみ死闘の果てに未来への光明をさぐるキャラたちの姿を、あくまでバトルを通してぶちまける構造が、ストレートにスクリーンから役者陣の本物の汗と共に伝わってくる。
やはりこの本物感は、邦画の新境地をみる想いであり、絶賛したくなるのも、むべなるかな。もうこれにて「オールOK」と筆をおさめたいのは山々だが、不肖、思うところがあり、少々記しておきます。

前作に関しては、一息つく緩急がなくて終始陰気くさいと批判した。その点、大友啓史監督としては、TVドラマのような長い話数があれば、原作のポップな要素を取り入れることも可能だが、映画ではなるべくシンプルにすべきだという判断で、シリアス一辺倒に押し切ったという。要は剣心が過去と決着をつけ、新たな生きる希望をつかむプロセスにしぼって、枝葉はカット。自然、剣心に関わらない多くのキャラは、削られる羽目となる。中でも特に割をくったのは十本刀であろう。(本作に至っては、宗次郎や操(土屋太凰)まで犠牲になっている)
個人的には120分の上映時間でも喜怒哀楽を彩り、他のキャラに目配せをするのも不可能ではないと思うが、この割り切って一本道にした大友監督のポリシーが、多くの観客の心を掴んでいる事実を否定はできまい。

でも、シンプルに心情に寄り過ぎて、物語的な妙とダイナミックさが少しおざなりになってしまったのは悔やまれる。煉獄を黒船に見立て、象徴的にピックアップし、決戦場にしたアイディアは素晴らしい。が、この煉獄だけで政府を脅すというのは、ちと無理があるのではなかろうか?おかげであれだけの小勢力に政府が右往左往するのも説得力がないし、いまいち危機感が感じられない。志々雄一派が日本を恐怖のどん底におとす、ワクワクする映画的高揚が欲しかった。
志々雄とのラストバトルを倉庫のようなセットで済ました味気なさ、ちょっとグダグダになるご都合主義な展開にも、やや萎えた。(何としてでも『プロジェクトA』(83)がやりたかったのか?志々雄の「誰だ、お前?」の連発には笑ったが…)

あと、どうしても個人的に気になるのは、それなりに思い入れのある原作からの、特に本作で顕著な改変ポイントである。
原作は、今さら説明するまでもなく、本格的な時代劇アクションという『週刊少年ジャンプ』にしては異質の内容だ。連載当初は僕もそのあまりの渋さに、すぐに打ち切りになるだろうと侮っていた。現に初期こそ危うかったが、徐々に人気を集め、それが最高沸点に達したのが“京都編”である。原作者が語るように、あえて『ジャンプ』の王道バトル、かつての敵や仲間が集結し、それぞれが一人ずつ各ステージで敵メンバーを撃破していく展開に挑んだ試みは大成功。僕も異端扱いされていた漫画がテコ入れなどではなく、エンタメ路線に真正面からのっかる珍事に熱狂した記憶がある。その衝撃こそが、“京都編”の肝だと思うのだ。
よって、実写版では、その王道エンタメぶりをきっちり表現してほしかった、というのが僕の本音である。

とはいえ、『ジャンプ』誌上、無二の異色作たる原作(以降、時代劇漫画の成功例は皆無)を、かつてない和製アクション映画に昇華させた点においては、原作の偉大さに準じていよう。やはりその功績は尋常ではない。

これだけ大ヒットしたのだから、きっと続編の企画は出てくるだろう。“追憶編”は同じような話になると思うので、構想にあったという西部劇風の“北海道編”なんて如何だろうか?


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『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』 (2014)

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痛快なり、ならず者スペース・アドベンチャー!



最新技術を駆使したスペースオペラであるのは間違いないものの、どこか昔懐かしいノスタルジックな娯楽作であった。
本作は、マーベル・スタジオが抱えるご存じ『アベンジャーズ』プロジェクトの新勢力。あれだけ人気が定まったヒーロー・ラインナップの中に、途中から参入するにはよほどのインパクトが必要であるが、そこで当スタジオとった手は最強の変化球。知名度の低い原作にスター不在、トロマ出身のカルト監督ジェームズ・ガンに180億の製作費を託し、トリッキーなヒーローものにチャレンジしたのだから何をかいわんや。(このような事例、日本では到底考えられまい。仮に監督の人選にしくじっても、建て直す体制が確立されてはいるのだろうが…)
そしてその目論見は的を射て、史上稀にみる特大ヒットを飛ばしてしまうのだから、マーベルの企画力恐るべし、である。

1988年アメリカ、ミズーリ州。9歳の少年ピーターは、母親を病で亡くした直後、飛来した宇宙船に連れ去られてしまう。
20年後。ピーター(クリス・プラット)は、“スター・ロード”と名乗り、トレジャー・ハンターとして宇宙を飛び回っていた。そんなある日、ピーターは惑星モラグの廃墟で謎の球体オーブを盗掘。しかしそれは銀河を滅亡させるほどの力をもち、宇宙の裏社会を支配せし“闇の存在”が探し求めるパワーストーンであった。案の定、オーブを換金しようとザンダー星のブローカーを訪ねたピーターは、女暗殺者ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)に襲われ、おまけに遺伝子改造されたアライグマのロケット(声:ブラッドリー・クーパー)と樹木型ヒューマノイドのグルート(声:ヴィン・ディーゼル)の賞金稼ぎコンビにも目をつけられ、大乱闘。結局、4人まとめて警察のお縄になり、凶悪犯だけが収監される宇宙に浮かぶ刑務所へ入れられる。そして所内にはガモーラを囲っているテロリスト、ロナン(リー・ペイス)に怨みをもつ怪力の超人ドラックス(デイヴ・バウティスタ)も囚われており、なりゆき上、5人は手を組んで脱走を企てる運びとなり…。

もう予告編からしてそのキャッチーさに胸躍るのだが、中でも常々話題となっていたのが、ランナウェイズからジャクソン5まで70年代のヒット曲をズラッと並べたサウンドトラックである。
冒頭、9歳のピーターはソニーのウォークマンを持ったまま宇宙人に誘拐され、その中には母親がヒット曲を編集したカセットテープが入っていた。(←これがそのままサウンドトラック『Awesome Mix Vol.1』として発売され、大ヒット!)母の形見として、地球への郷愁として、ウォークマンとカセットを肌身離さず持ち、曲を聴いているピーター。
あれだけ繰り返し聴いていたらテープが擦り切れるのでは?ウォークマンも壊れるのでは?(経験上、すぐ壊れるイメージがある)等々、疑問がわくが、そこは自前のラジカセを作っていたことからも、宇宙のテクノロジーで修理しているのだろう。
本作では、それら懐メロが時にBGMとして、ここぞのタイミングで流れる仕掛けとなっている。正直、知っている曲がほとんどなくてピンとこなかったが、ドンピシャ世代のオールド・ファンはいちいち歓喜感激するに違いない。いわば、世代でなくともサントラを予習してから向かうと楽しさ倍増という訳である。

ストーリー自体は他愛ないが、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(15)へ布石がある分、最凶最悪のスーパー・ヴィランのサノス(声:ジョシュ・ブローリン)、その配下で本作の事実上の敵役ロナン一味、パワーストーンを収集している謎の男コレクター(ベネチオ・デル・トロ)、ザンダー星の警察組織ノヴァ(指揮官がグレン・クロースで、隊員にジョン・C・ライリー)、ピーターが所属するヨンドゥ(マイケル・ルーカー)をリーダーに冠する盗賊組織“ラヴァジャーズ”と、様々な勢力が入り乱れ、無駄に複雑化。関係図を頭に入れておいた方が、幾分わかり易かろう。
かような大組織の間をお尋ね者の主人公たちが渡り歩き、あまつさえ“ガーディアンズ・ギャラクシー(銀河の守護者)”として救世主へと祀り上げられる痛快さが、本作の妙である。

何をおいても5人のキャラが最高に立っている。
まず主人公ピーターに色のついていないクリス・プラットを配したのが、大正解。異星人が並ぶ中、人間ということだけで目立っている分、余計なスター性はいらないのだ。いい加減なプレイボーイでも嫌味ない、彼の薄さのバランスが実に丁度いい。
緑色だが紅一点の女戦士ガモーラの、敵か味方か分からないピリッとした妖艶さ。
樹木型ヒューマノイドで一言しか言葉をしゃべれない優しき怪人グルート、筋肉バカのドラックスという二人の天然ぶりと凄まじい強さ。
そして、全てをもっていくアライグマのロケット!つい抱きしめたくなるほどの可愛い外見に関わらず、毒舌凶暴で武器のプロフェッショナルかつ戦術家というギャップが醸す“テッド”効果で劇中を席捲。僕も完全に彼の魅力の虜になってしまった。
おたずね者でダメ人間である彼らのおバカぶりに笑い、時にみせる友情に泣かされ、「オレたちは負け犬だ。でもやってやろうじゃないか!」と結束する光景に最大限熱くなる。彼らの一挙手一投足を眺めているだけで飽きない最強のキャラ推し映画といえよう。

それでいて、ガン監督の従来の悪趣味ぶりの隠し味もきっちり健在。常連のマイケル・ルーカーや師匠ロイド・カウフマンを義理厚く出演させ、エンドロール後のオマケまで爆笑させてくれるサービス精神やヨシ、だ。

そんな底抜けに明るいキャラたちの懐かしい味わいを醸す冒険活劇の本作は、とことんシリアス化したアメコミへのアンチテーゼとしての新鮮さもあろう。
しかし、それが妙に身近に感じるのは、全体的なノリが日本の漫画よりであるがゆえ。『ドラゴンボール』を例に出すのも芸がないが、宇宙人やしゃべる動物が混在する世界で、敵が味方になる等、多様なメンバーがチーム戦を挑む日本人のDNAに染み込んだエンタメ・スタイルが無条件に反応していることは想像に難くない。
ぶっちゃけ、よくできた筋の映画ではなく、強引さが眼につく大味な代物だが、無性に愛さずにはいられない一作なのだ。

一応は『アベンジャーズ』シリーズの一環である本作。今後はたしてガーディアンズとアベンジャーズとの接触はあるのだろうか?興味深くはあるが、彼らの独自の世界観を大事にしてほしいところではある。
とりえず早々と決まった続編での再会が待ち遠しい。


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『猿の惑星:新世紀(ライジング)』 (2014)

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示唆に富む、猿VS人間の哀しき戦争!



SFエンタメでありながら、身につまされる優れた教訓映画であった。
映画史に燦然と輝きながら、1作目を頂点に回を重ねる毎にB級へと下降線をたどったためか、どこか一段低い娯楽作とみられていた『猿の惑星』シリーズ(68〜73)。それを風刺的な妙味を現代社会と絡めてうまく活かし、前日譚として風格あるリブートをはたしたのが『猿の惑星:創世記』(11)だ。本作は、オリジナルの一作目に向けて物語の核心はここから、というタイミングで終わった当作の待ちに待った続編である。
監督は、マット・リーヴスに交代。インディアンのようにペインティングしたシーザーの姿にセデック族を重ね合わせ、いやが上にも期待が高まったのだが…。

新薬の実験により遺伝子操作され高い知能をえた猿のシーザーが、仲間と共に人類に反旗を翻してから10年。人類は自ら開発した悪性ウィルスを世界に蔓延させ、自滅の道を辿っていた。その間、シーザーはサンフランシスコ郊外の山奥に猿たちの一大コミュニティーを構築。妻コーネリアと息子ブルーアイズ、生まれたばかりの赤ん坊と共に平和に暮らしていた。
そんなある日、ゴールデンゲートブリッジを挟んだ都心部に生息していた人類がシーザーたちのテリトリーに侵入。ブルーアイズといざこざを巻き起こす。実はドレイファス(ゲイリー・オールドマン)をリーダーとする人類サイドではエネルギーが枯渇し、山奥にある水力ダムを稼働させる計画が持ち上がっていたのだ。しかしシーザーはわざわざ人類のもとに軍隊を率いて乗り込み、断固、森へ足を踏み入れぬよう警告する。そこで計画チームのマルコム(ジェイソン・クラーク)は、シーザーに直談判。なんとか誠意が通じ、ダム修復の許可をとるのであった。
一方、人間に不信感をもつシーザーの片腕コバは、人間側が武装している事実をつかみ、手遅れになる前に戦いを挑むよう息巻くのだが…。

一作目の『猿の惑星』(68)を子供の頃に観た際は、猿人の特殊メイクに驚愕しながら楽しんだ記憶がある。それがことココに至っては、猿メイクを施した役者どころの騒ぎではなく、“猿そのもの”が生物的に躍動。人間とリアルに共演しているようにみえるのだから、技術の進歩にはつくづく仰天せざるをえない。猿本来のアクロバティックな動きで、人間たちと迫真のバトルを繰り広げる戦争絵巻には圧倒されんばかりだ。
しかもパフォーマンス・キャプチャーによる人間味あふれる動作や表情の機微により、次第に同じ顔が並ぶ猿たちの見分けがつき、感情移入してしまうのだから何をかいわんや。当分野の第一人者アンディ・サーキスが、クレジットのトップに躍り出るのもさもありなん、だ。

もちろんエモーショナルに作用するのは、ドラマの強靭な推進力あってこそ。実によく脚本が練られている。
何をおいても、人の世に争いが起こるメカニズムを端的にみせきっている点が秀逸きわまりない。要は猿と人間の勢力の中でもハト派とタカ派に分裂する訳だが、善悪関係なくそれぞれに納得できる思想形成の理由付けが丹念になされていく。
さらに利便性をもとめるエネルギー問題と、武器が及ぼす影響力をも説得力をもって絡めていくのだから隙はない。
「猿は猿を殺さない」と人間との違いをスローガンにして、優位性を保とうとするシーザー。その涙ぐましい精神が、なぜ破られたのか?そうなるに至ったキーアイテムとは何か?
憎悪にかられた一部の存在により、扇動と暴力による恐怖支配がしかれる現実世界と鏡合わせのようなゾッとする展開が続く。
そんな中で繰り広げられるシーザーとマルコムのドラマには、胸が張り裂けそうになる。(本作は前作未見でもほとんど問題はないが、この点は観ていた方が感涙倍増だ)

猿たちがちゃんと猿語(ジェスチャー?)で会話している点にも、大いに感心した。ハリウッド映画ならこういう場合、しれっと英語で会話させていてもおかしくないところを、字幕スーパーで処理したリアリティのこだわりを讃えたい。
『國民の創生』(15)をパロったポスターからもビシビシ伝わる通り、造り手の並々ならぶメッセージ性が感じられよう。

人類と猿軍団との戦争は避けることはできなかったのか?
その問いに関する対処法は、すでにOPで語られている。うかつに動いて熊に襲われた息子にシーザーは言う。「行動する前に考えろ」と。事態を前に誰もが冷静を保てたら、理想は叶うのだろう。

本作は前作に引き続きサンフランシスコ限定で話が運び、ある種、箱庭的にコンパクトにおさめられている。これらはシンプルで無駄がなく、寓話性において効果覿面であったと思う。世界規模な拡がりをみせるのは、次回作からというわけか。どんな壮大なドラマをみせてくれるのか楽しみである。

良くも悪くも事態は動き出したら止まらない。シーザーがどんな決意の表情をみせるのか。胸をうつラストカットを、ぜひ劇場でお確かめあれ。


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『007は二度死ぬ』 (1967)

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荒唐無稽モードの開祖たる異色の第5作!



毎度お馴染み、荒唐無稽なアクションを活写する“007シリーズ”。中でも「一番の珍品といえば?」というクエスチョンには皆、声を揃えて答えよう。
『007は二度死ぬ』(67)と。
という訳で本作は、ルイス・ギルバートが監督を務めたシリーズ第5作。
高品質のスパイものとして映画史に名を刻む2作目『ロシアより愛をこめて』(63)、シリーズの雛型をつくった記念碑たる3作目『ゴールドフィンガー』(64)、そして超大作たる4作目『サンダーボール作戦』(65)にてシリーズはひとつの頂点を極めた。
よって、その頃には空前のスパイ映画ブームが到来。数々の類似品が乱造され、本家を脅かし、シリーズへのテコ入れが急務となっていた。そこで差別化をはかる意図で、極東の異国が舞台となる変わり種の原作をチョイス。いわば、本作は珍品になるべくしてなった運命の一作なのである。
結果、同年に公開されたパロディ作『カジノ・ロワイヤル』を蹴散らし、それなりのヒットを記録。パイオニアの底力を見せつけた。

アメリカの有人衛星が宇宙空間で謎の飛行物体に拿捕される怪事件が発生。アメリカはソ連の仕業を疑い、国際的緊張が高まっていた。そんな中、イギリスの諜報機関“MI6”は、謎の飛行物体が日本周辺から飛び立っている情報をキャッチしており、さっそくエージェント“007”ことジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)を日本へ派遣することを決定。“MI6”は敵の眼を欺くべく、香港でボンドが暗殺される芝居をうち、極秘裏にボンドは日本へ上陸するのであった。
さっそく蔵前国技館で現地諜報員のアキ(若林映子)と接触し、オーストラリア人連絡員のヘンダーソン(チャールズ・グレイ)に会うボンド。しかしヘンダーソンは殺され、刺客を返り討ちにしたボンドはその刺客に化けて、まんまと雇い主の大里化学工業の本社ビルに潜入。当社がロケット燃料を大量に扱っている書類をゲットしたボンドは、アキの上司である公安トップのタイガー田中(丹波哲郎)の協力を仰ぎ、本格的に大里の調査を開始する。すると大里のバックに潜む国際犯罪組織“スペクター”の世界を破滅に導く陰謀が明らかになってきて…。

ある意味、本作を一番楽しめるのは、我ら日本人であろう。まずはその特権を享受する広い心を持つことが肝要である。考えてみれば、これほどの贅沢はあるまい。
常々、ハリウッド映画に出てくる日本描写は誤解だらけであり、日本人観客を考慮に入れてはいない。自国の観客が観て面白いか?があくまで基準であり、どうしてもリアルなリサーチより誇張されたイメージに偏ってしまう。本シリーズはイギリス製インディーズ映画ではあるが、その例にもれず、眩暈を覚えるほどのビックリ光景が所狭しと展開される。

とりあえず主な箇所を挙げていくと、第50代横綱、佐田の山が現地の協力者という凄まじい設定で登場。ということは、横綱が公安の手先になり、常識的に考えれば不謹慎極まりない(笑)。あまつさえ本場所中の国技館の支度部屋でボンドと密会するのだから、何をかいわんや。(ちなみに本シーンで、なんと同じ横綱の大鵬と柏戸が画面の隅に写り込んでいる。東西に分かれるはずの横綱が同じ支度部屋に集結している図は異様という他ないが、おそらく真相は当の横綱たちが映画に出たかっただけであろう)
「常に男が先で、女は後だ!」と世界中のフェミニストを敵に回すような日本男児の女性観が開陳されるボンドとタイガー田中との混浴シーン、地下鉄丸ノ内線を走行する公安の専用車両、姫路城内で柔道、剣道の特訓をする忍者軍団(この撮影時、姫路城の城壁を傷つけ、以降、当所での映画撮影が禁止されるという禍根を残した)、街中で平気で展開する銃撃戦、等々、腹が立つより先にあまりのぶっ飛びぶりに大爆笑である。

同時に、他のシリーズに比べ、正誤はともかく日本文化の紹介にじっくり尺がさかれており、観光映画っぽい側面を押し出している点が異色たる由縁といえよう。
他にも、ボンドの決め台詞がなかったり、シェイクではなくステアしたマティーニをボンドが飲んだり、ボンドが車を運転するシーンがなかったり、ロンドンのシーンがなかったりと、番外編の印象が濃い一作である。

ただ、それらの勘違い描写を抜きにしても、本作はいちいち指摘するのが疲れるほど突っ込みどころ満載だ。
敵の行動も腑に落ちず、なぜか捕えたボンドをすぐに始末せず、凝った方法で殺そうとして逃げられるという意味不明行動が散見。ボンドがハイテク技術(?)で日本人に変装して敵の基地に程近い漁村(鹿児島県坊津)に潜入し、現地エージェントのキッシー鈴木(浜美枝)と偽装結婚するという、どう見ても無謀な作戦は今や語り草である。
脚本は、イアン・フレミングと親交があった『チャーリーとチョコレート工場』で有名な作家ロアルド・ダールが執筆しているのだが、これまでの脚本家リチャード・メイボウムの代役として突貫工事で仕上げた為、練り込み不足で、氏の味が全く活きていない。

毎度お楽しみのタイトルバックは、フランク・シナトラの愛娘ナンシー・シナトラが歌う主題歌の気怠い情感と、モーリス・ビンダーが手掛けたマグマと蛇の目傘と日本女性のシルエットのデザインが妖艶に融合。さすがのクオリティを誇っている。
ちなみに本作のタイトルは、松尾芭蕉の俳句の一節「人生は二度しかない、生まれた時と、死に直面した時と」から引用されており、映画は原作にないアバンタイトルのボンドの死を偽装するシーンを付け加えた為、分かり易い意味を持つ結果となった。

ボンドガールには、日本人女優の若林映子と浜美枝が抜擢され、どちらもボンドガールの名に恥じないさすがの美女ぶりを発揮している。
有名な逸話としては、当初、二人の配役は逆であり、英語特訓で浜美枝が上達しなかった為、入れ替わる羽目となった。でも結果的にビキニで動き回る役に長身でスレンダーな日本人離れした浜さんは、あの役で最適であったと思う。
一方、悪ボスに処刑されるパターン初の敵側ボンドガール、ヘルガ・ブランド(カリン・ドール)は、超絶美人ながらコレといった見せ場なく退場。ちと不憫である。

そして本作最大のトピックといえば、宿敵“スペクター”の首領ブロフェルドの顔出しだ。
演じるのは、ドナルド・プレザンス。後年はホラー映画でお馴染みの名優だが、本作へは先に当役を演じていた役者がミスキャストと判断され降板し、急遽、代役としての出演となった。とはいえ、そのインパクトは絶大で、パロディの『オースティン・パワーズ』シリーズでも引用される等、シリーズで一、二を争う悪役の地位を築いている。

日本側諜報部のトップ、タイガー田中に扮した若き日の丹波哲郎も、なかなかの格好良さ!ショーン・コネリーと男ぶりで互角に渡り合っている。英語力を活かし、日本人スタッフと海外スタッフとの橋渡しも兼ねていた氏だが、肝心のセリフは残念ながら吹替えとなった。

他、ヘンダーソンを暗殺する殺し屋を送迎する運転手にハリウッドスター、ロックのお祖父さんにしてハワイ出身の有名レスラー、ピーターメイヴィアが“スペクター”のNO.3役で、『ピンク・パンサー』シリーズの召使い役で有名なバート・クォークが、アバンタイトルの香港シーンでは名女優ツァイ・チンが登場。豪華に脇を固めている。
日本サイドでは、海女さん役で松田きっこが1シーン出演しているのでお見逃しなく。

“MI6”のM(バーナード・リー)とマネーペニー(ロイス・マクスウェル)は、原子力潜水艦内のオフィスで海軍制服姿を披露。
Q(デスモンド・リュウェリン)は日本までわざわざ出張してくるが、ガチに長旅に疲れているように見えるところがご愛嬌。

5度目のボンド役となるショーン・コネリーは、本作にて降板を宣言し、なおかつ日本での撮影で大勢のファンと報道陣にトイレにまでつきまとわれ、終始イライラしていたからか、キレが悪く俄然やる気を感じない。

アクション方面に関しては、当時の日本の風景の中で改造トヨタ2000GTが繰り広げるカーチェイスにテンションアップ!巨大磁石を使ったウルトラCな攻略法に呆然!
秘密兵器である小型ジャイロコプター“リトルネリー”VSヘリコプターとの空中戦もダイナミックで見応えたっぷりである。

ケン・アダムが手掛けた、火口にある“スペクター”の秘密基地の壮大なセットも圧巻の一言!本セットに『ドクター・ノオ』一本の製作費をかけているのだからスゴすぎる。
またデヴィッド・リーン作品で3度アカデミー賞を受賞した名カメラマン、フレディ・ヤングが切り取った日本の映像美にもご注目!
この二人の一級の働きぶりが、確実に本作の底上げに貢献していよう。

とかく、おバカ映画として名高い本作だが、奇想天外なエンタメ路線を切り開いた記念碑としてシリーズ下、極めて重要なポジションにある。フレミングの原作を逸脱し、大衆娯楽として長く続く礎を本作で築いたといっても過言ではなかろう。
歴史は繰り返す―。
ぜひいつか日本ロケを再敢行して、本作の路線に返り咲いて欲しいものである。


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『柘榴坂の仇討』 (2014)

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時代の荒波を乗り越える人の情!



誇り高き男の生き様を描いた直球の時代劇であった。ゆえに好感度は高いのだが…。
本作は、浅田次郎の短編集『五郎治殿御始末』に収められた同名小説の映画化。浅田原作、主演:中井貴一、音楽:久石譲とくれば、監督は滝田洋二郎かと思いきや、メガホンをとったのは『沈まぬ太陽』(09)の若松節朗監督だ。
原作ものの場合、ほとんどが長編を圧縮し、ファンの不満がもれるケースが大半だが、本作は逆パターン。原作を膨らます形の方が必然的に無理はなくなるが、はたして本作はうまくいったのか?くしくも同じ明治初期に材をとった『るろうに剣心』の派手さに比べると地味な印象が否めず、不運にも陰に覆われてしまった感があるが…。

時は幕末。彦根藩士、志村金吾(中井貴一)は、剣術の腕を認められ、大老、井伊直弼(中村吉右衛門)の近習に取り立てられる。ところが安政七年三月三日、登城途中の桜田門外で水戸浪士たちの襲撃をうけ、金吾は下手人の一人、佐橋十兵衛(阿部寛)と刃を交えているうちに、直弼の首をとられてしまう。この失態をうけ、両親は自害し、自分も切腹するつもりの金吾であったが、藩はそれを許さず仇討を厳命するのであった。
こうして13年の月日が流れ、時代は明治へと移りかわるも、金吾は酌婦に身をやつした妻セツ(広末涼子)に支えられながら任務を遂行。仇の最後の生き残りである十兵衛をひたすら探し続けていた。一方、十兵衛はすでに刀を捨て、車夫として孤独な生活を送っており…。

明治維新により、ライフスタイルが一変。武士階級が没落し、あまつさえ“仇討禁止令”まで布告される中、髷もそのまま、かたくなに武士の矜持を守り、仇を追い続ける金吾。しかしその真意は、主君への人間的な情に基づいている。旧システムを美化し、それにしがみついている訳でもなく、もちろんさっさと転身した武士たちに対する蔑みもない。およそ復讐心とも異なり、いわば、執着するのは“自分との決着”。普遍的な信念の生き様といえよう。
十兵衛もまた欧米化が進む現在を見て、開国派であった井伊直弼を討った行為に意味があったのか?と思い悩み、俥よりはるかにヘビーな過去を引きずっている。
かように重荷を背負った二人は、実のところはお互い相手に斬られる決着を望んでいる。死を欲していた二人が相まみえ、戦いの果てに辿り着く境地は、まこと感動的だ。中井貴一と阿部寛の静かなる熱演により、胸をうつ名シーンとなった。
そして、自らを滅して夫を援助する妻の存在を落としどころにしたのも、時代の進化を表しており、清々しいことこの上ない。

ことほどさように本作がいい映画ではあるのは間違いないのだが…、以下、不満点を少々。
やはり短編を膨らます脚色作業は相当難航したそうで、工夫のあとはみえるが、如何せん冗長になっているように感じた。
二人がいつ出会うのか!?という緊迫感がはりつめ、引き込まれはするが、探し当てるプロセスに芸がないのは如何なものか?正直、座ったしゃべりの芝居ばかりで、中だるみしてしまった。
同様に脚色で「?」となったのは、前半早々に小説の終盤で明かされる金吾の真意を、台詞でバラしてしまっている点である。最大の泣かせどころであるにも関わらずだ。
はじめは、クライマックスのテンポを上げ、愁嘆場を映像だけで見せて余韻を残す意図なのかな?と察していたのだが、どういう訳かクライマックスでも長々と同じことをしゃべらせている。ならば、どっちかひとつでいいのでは?

原作は明治という転換の時代、グローバル化により失われてしまった古き習慣への郷愁を描き、「それでいいのか?」と問いつつも受け入れ、前向きに生きていく先人たちを温かく綴った短編で構成されている。特に一日を分秒で刻む時間の変革に対する悲喜こもごもを描いた一編『遠い砲音』には感銘をうけた。
以下、当作品の記述を要約して抜粋。
「かつては大河のごとく鷹揚に流れる時の中で、武士も町人も百姓も、けっして急かされることなく暮らしていた。東の空が白む明け六つに一日がはじまり、暮れ六つの鐘とともに、その一日が終わった。夏の一日は長く、冬は短かった。そのことに、いったい何の不都合があるというのか。
人は空を見上げ、影を見おろして時を知った。日々の勤めも、他人との待合いも、だいたいの時刻でかまわず、遅刻を咎めだてする者などいなかった。時計の針が二本になれば、待人は苛立つ。いずれ来る人をぼんやりと待つ、あの真綿のような時間は永久に失われてしまった」
本作は本作で、上記したテーマを見事に昇華させてはいるのだが、短編集にあった失われた文化に対するやるせない妙味は薄れてしまった。(瓦版屋のオリジナル・エピソードを加えたりしてはいるのだが…)
個人的には引き伸ばし作戦より、いっそのこと原作の各話を組み込んだ群像劇にしてもよかったように思う。

しかしながら本作、若者への波及力は、どれほどあるのだろうか?こういうメッセージは若者にこそ届けるべきなのだが…。


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『ジャージー・ボーイズ』 (2014)

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名曲の裏にあるサクセス・ストーリーをしっとりと味わうべし!



古き良きクラシカルな味わいが心地良い、匠がみせる一級の良品であった。
本作は、ハリウッドの生き神様クリント・イーストウッド監督作。60年代以降、アメリカを席捲したポップ・グループ、“ザ・フォー・シーズンズ”の激動の半生をミュージカル化し、ブロードウェイでロングランを記録、トニー賞を受賞した同名作の映画版だ。
プロのジャズ・ミュージシャンであるイーストウッド御大には、ミュージカル映画の企画が幾度も浮上するも実現せず、やきもきしていたところに登場した本作。役者、脚本と舞台版のスタッフを勢揃いさせ、どういった映画的アプローチで挑んだのか、興味津々だったのだが…!?

1950年代。ニュージャージー州の貧しい街。天性の歌声をもつ青年ヴァリ(ジョン・ロイド・ヤング)は歌手としての成功を夢見ながら、ギャングの真似事をしてくすぶっていた。やがて刑務所を行き来するチンピラのトミー(ビンセント・ピアッツァ)とニック(マイケル・ロメンダ)のバンドに加入したヴァリは、徐々にその才能を開花。ヴァリのファルセット・ボイスに惚れ込んだ天才作曲家ボブ(エリック・バーゲン)もバンドに加入し、4人は“ザ・フォー・シーズンズ”として活動を開始する。しかし世の中はそんなに甘くはなく、回ってくるのはバック・コーラスやボーリング場の営業等、ケチな仕事ばかり。一向に眼が出ず、くさる4人であったが、ボブが土壇場でつくった曲『シェリー』がまさかの大ヒット。続けてチャート1位のヒット曲を連発し、勢いにのった彼らは一躍スターダムを駆けあがっていくのだが…。

ザ・フォー・シーズンズといえば、ビートルズ上陸前夜にアメリカで人気を博し、息の長い活躍を続けたレジェンド・バンド。ご存じの通り、ビートルズ旋風によって音楽界に革命が起き、呼応するようにアメリカの世相もベトナム戦争の泥沼化や政治不信をうけて、カウンター・カルチャーが発生。ヒッピーのフラワー・ムーヴメントにより、音楽も反体制等のメッセージを放つ魂の咆哮へと様相が変化していく。
そんな中、ザ・フォー・シーズンズはアメリカにまだ理想があったのん気(?)な時代を継承したグループであり、ノスタルジックで甘い楽曲は当国の最後の良心ともいえよう。

…ともっともらしく書いたが、僕は洋楽に関しては完全な門外漢。ザ・フォー・シーズンズについても、「あ、この曲聴いたことある」程度の知識しかない。だからして本作はハードルが高いかな…と危惧していたのだが、まずミュージカルでなかったことに拍子抜け。中身は直球の伝記映画であり、その分、当バンドの成り立ちと功績をかいつまんで学ぶことができた。(とはいえ、ミュージカル・ファンに対する配慮を忘れず、美味しいサービス・シーンを用意しているところがニクイ)

ただ伝記映画としては、はなはだパンチが弱い。
貧しい若者たちが好きな音楽で成り上がり富と名声を得るも、問題を起こして足をひっぱるメンバーがいれば、他とくらべて才能のなさを痛感し存在意義に悩むメンバーもいて、忙し過ぎて家庭が崩壊するメンバーも出てくる。これら登場人物が直面するエピソードは、ド定番な代物ばかり。それらを今回、バンド・メンバーが持ち回りで観客に語りかけて解説するという舞台版を踏襲したトリッキーな仕掛けはあれ、基本、奇をてらわずしっとりと紡いでいく。マフィアとの関係といったダーティーなくだりもあるにはあるが、生々しくなることはない。
どことなく書割のシット・コムを観ているような平板さである。それでいて、時代性を出さんと造り込まれた美術や衣装の凝りようは素晴らしく、世界観においては完璧なリアルさを保っている。

役者陣もあえて舞台版からトミー役のビンセント・ピアッツァ以外スライドさせ、映画的には無名の若手陣を揃えており、現代性が匂わない不思議な雰囲気を醸成。スターはギャングのボスを演じるクリストファー・ウォーケン(意外にもイーストウッドと初顔合わせ)ぐらいである。

では、なぜこんな作劇にしたのか?
イーストウッドの狙いとしては、ザ・フォー・シーズンズというバンドが象徴する件の古き良き時代性を、『グレン・ミラー物語』(54)のようなクラシカルなタッチで再現してみせたというのが一点。
そして、後世に残った楽曲があくまで主役であり、それらの曲が浮き立つよう、ドラマ性を抑えたがゆえ。要はサクセス・ストーリーが過度に前に出ないようあえて淡白に簡略化し、巧妙にバランスをとっているのだ。
現に『君の瞳に恋してる』等の名曲を聴くと、街灯の下で歌うニュージャージー出身の4人組の姿が脳内再生される。地元を出る方法は3つ。“軍隊に入る”。“マフィアに入る”。あるいは“有名になる”。殺されないのは3つ目だけ。過酷な環境を成り上がってきた彼らのバック・ストーリーを思い出さずにはいられない。
イーストウッドの無駄のないスマートで高潔な演出には、唸らんばかりである。

しかし、かようなスタイルが地味な印象を与えるからか、本作の興行は全米で大コケしてしまった。これは勿体ない。
オールド・ファンより、僕のような当グループに無知な人間こそ観るべき映画であろう。


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『ミリオンダラー・アーム』 (2014)

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一球逆転、アメリカン・ドリームに胸を熱くせよ!



笑って泣けて、思わず拳をギュッと握りしめるディズニー印の花丸優良作であった。
本作は、ディズニーと組み、『オールド・ルーキー』(02)、『インヴィンシブル 栄光へのタッチダウン』(06)と良質なスポーツものを手掛けてきたメイヘム・ピクチャーズ作品。埋もれた逸材が眠る大国インドに眼をつけ、メジャーリーガーの発掘を試みた男の実録映画だ。
野球に微塵も興味のない僕でも結果を気にするぐらい、メジャーリーグでの日本人の活躍が当たり前になった昨今。世界の野球人口を考えると、まだまだ各地に才能が眠っている実態は想像に難くない。ほんのひとつのキッカケで状況は一変しよう。現に大相撲の番付がかような有り様になるのを、誰が予想したろうか?未来への確たる可能性を目撃する想いで、ワクワクしてスクリーンに臨んだのだが…!?

ロサンゼルスのスポーツ・エージェントのJB・バーンスタイン(ジョン・ハム)は、クライアントとして獲得寸前であった有望アメフト選手をライバル社に横取りされ、キャリアの危機に陥っていた。そこでJBは、たまたま見ていたクリケット中継から、起死回生の策を思いつく。それは12億の人口を抱える野球未開の地インドから、メジャーリーガーの原石を発掘しようとする、イチかバチかの賭けであった。
さっそくインドに渡ったJBは地元テレビ局と組んで、『ミリオンダラー・アーム(百万ドルの剛腕)』なる番組を立ち上げ、全土でコンテストを実施。結果、数千人の応募者の中から二人の青年、独特のフラミンゴ投法を駆使するリンク・シン(スラージ・シャルマ)と荒削りながら快速球を投げるディネシュ・パテル(マドゥル・ミッタル)を見出すのであった。意気揚々と二人を連れてロスに戻ったJBは、野球経験ゼロの彼らをプロテストに合格させるため、名コーチのトム(ビル・パクストン)に指導を託すのだが…。

第一に脚本がよくできており、非の打ちどころがない。
予期せぬ苦境から、何気なく見ていたTVで、スーザン・ボイルとクリケットの試合を交互にスイッチングして奇想天外な計画をひらめく導入部。インドへ入国し、ドタバタを経て何とか大々的なオーディションを開催。集まる応募者はトホホな人材ばかりで、絶望感が漂う中、ついにリンクとディネシュを発見。…と、落ち目のエリートの逆転劇を、高揚感たっぷりにテンポよく紡いでいく。
アメリカに舞台を戻してからは、貧しい暮らしをしていたリンクとディネシュの、いきなり富国に放り込まれたカルチャーギャップで笑いを提供。と同時にグローブすらはめたことのなかった二人は、野球への対応の難しさと慣れない外国暮らしに焦燥を募らせる。
さらにビジネスライクなJBと二人の間に溝が出来てしまい…。
そうして全てがどん底に落ちてからようやくJBは人間的に成長。二人とも友情で結ばれ、エージェントの仕事の真髄に覚醒する。
史実を知っている方も多いと思うが、落ち着くところに落ち着くラストは、定番ながら胸が熱くなろう。

ことほどさようにザ・エンターテインメントな物語の構成に、微塵も隙がない。サクセス・ストーリーにJBと居候の医学生ブレンダ(レイク・ベル)との恋愛(一応、実話)も無理なく絡めているのだから恐れ入る。無駄なキャラもなく、伏線はキレイに回収され、一切がスムーズに進む職人芸だ。
人はいつでも変われ、誰にでもチャンスはあるというメッセージ性も心地良い、文句なしの痛快作である。

キャラクターも活き活きと躍動しており、リンク役のスラージ・シャルマとディネシュ役のマドゥル・ミッタルのインド人野球選手役の堂に入り具合もお見事。特にスラージ・シャルマは右利きながら、左利き投手を見事に演じたのだから、何をかいわんや。(ポスト・プロダクションのマジックあり)
コーチ志望で、インドでJBに押しかけ、アシスタントの座をゲットするお調子者のインド人アミト役のピトバッシュも実にいい味を出している。コメディ・リリーフでありながら、きっちり見せ場で泣かせてくれる好サポートだ。
老スカウトに扮し、決めるところでは格好よく決めるアラン・アーキンの絶妙なアクセントも素晴らしい。
ヒロインのブレンダ役のレイク・ベルの嫌味なさ等、アンサンブルは完璧である。

ただ、野球に詳しくない身としては、彼らの後日談にもう少し踏み込んでほしかった。なんとなく煙に巻いている感じがなきにしもあらず。あと低予算で致しかたないとしても、試合シーンがないのもちとさみしい。
それらの不満点も全体的なクオリティからすれば、些細な問題である。

他、内容を斜にみて顧みると、色々と示唆に富んでいることにピンと来よう。
JBの会社のスポンサーは中国人であり、国技たるメジャーリーグでアメリカン・ドリームを体現するのはインド人と、ことごとく当国のお家芸を奪われているように見える。もはやインド、中国がこれからの世界の主役に躍り出るといわんばかりだ。
でもそれでこれだけの娯楽作をつくりあげるところに、ハリウッドの誇りが窺えよう。“アメリカ死すとも、ハリウッドは死なず”、といったところか。
なんともはや、たのもしい限りではないか。


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『幻肢』 (2014)

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ミステリー界の巨匠が仕掛けるラヴ・ミステリー!



ミステリー映画の新境地を切り開かんとする意欲はかいたいのだが、少々物足りない一作であった。
本作は、“新本格”ミステリーの第一人者、島田荘司の同名小説の映画化。という訳ではなく、御大が映画用に書き下ろしたストーリーの映像化であり、もちろん御大の小説版も出版される、めずらしい連動プロジェクトである。
島田荘司といえば、ミステリー界における重鎮であるが、実は映画作品は今回がはじめて。(氏が代表作である“御手洗シリーズ”の映像化に許可を出さないこともあるが…)それがこうした原作モノ映画に一石を投じるチャレンジングな企画で実現したのだから、ファンとしてはじっとしてはいられない。クラウドファンディングを実施し、自由に納得いくまで氏がクリエイティヴ面にかかわった本作の実態とは、これ如何に…!?

“幻肢”とは、事故等で手や足を失った際、喪失のショックが生命を脅かすと脳が判断した場合、幻の手や足をみせて精神の安定をはかる自衛本能である。都内の医大に通う雅人(吉木遼)は、いわゆる幽霊の存在も、大切な人を失った衝撃から脳がつくり出す幻肢であるという見解をもっていた。
ある日、恋人の遥(谷村美月)とドライブ中に事故にあった雅人は重傷を負い、事故と遥の記憶を失ってしまう。記憶障害に精神を苛まれていく雅人をみかねた友人の亀井(遠藤雄弥)は、TMS治療を提案。TMS治療とは、脳に磁気刺激を与えるうつ治療に用いられている先進技術であり、事故以前に雅人は当治療を記憶の回復へと応用する研究をしていたのだった。さっそくTMS治療を受ける雅人であったが、時をおかずして眼の前に遥の幻が現れるようになり、さらに失った記憶も徐々に甦ってきて…。

エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』から発生した本格ミステリーは、時に幽霊や祟りに関わる不可能事件を探偵や刑事が、化学発想で論理的に解決する文学ジャンルとしてはじまった。ゆえに歴史を重ねるにつれ、科学の発展の影響をうけ、変化していくのは当然の成り行きといえよう。本格ミステリーと文明の進化は、きってもきれない間柄なのだ。
そこで長年、脳科学に着目してきた“知の巨人”、島田荘司氏が今回、目を付けたのが“幻肢”である。確かに映像でミステリーを紡ぐ手段としては、格好の材料といえよう。

また、本格ミステリーが映画として、なかなか成立しにくいのはご存じの通り。どうしても謎解き形式はTV的スケールを脱せず、推理モノの映画版は、とかく派手なアクションに傾いてしまうのが現状である。
そこを見越して、雅人と遥のラヴ・ストーリーにまとめあげたのもまた理にかなっている。

映画を念頭に置かれているため、上映時間90分と無駄がなく、駆け足でもなく、仕掛けも無理がない。島田荘司らしく推理の情報をフェアに提示する真っ向勝負だ。
他方、“別視点”で物語を描いた小説版も出版するという、さらなるお楽しみまで用意されているのだから、周到さには恐れ入る。

ことほどさようにまさに“満を持して”といった按配の作品であるのは分かるのだが…。正直いって、その出来は微妙である。
主人公の雅人は、開幕早々に事故に遭う。これは構造上、仕方ないといえば仕方ないのだが、彼がどういう人間かこっちも分からないまま、記憶喪失という状態で現れるので、如何せん感情が入りにくい。
脚本で不必要なモノローグも多く、何度も同じ説明を繰り返すくどさにも辟易。
そして何といっても、徐々に明らかになっていく雅人と遥におこった事故の真相、仕掛けられたトリックが全く真新しくないのが致命傷である。当方式をあつかった映画は、吐いて捨てるほどあり、ほとんどの人が早い段階でオチに勘付いてしまうのではないか?

島田氏が語るように、創作論を構築し、システマチックなゲームへと本格ミステリーを導いたヴァンダイン以降、パターンはすでに全弾撃ち尽くされており、新しいトリックを生み出すのが難しくなっている。それは映像の世界も然り。映画のスタイルも、ほぼ出尽くしているといってよい。
要は、脳科学という新たな鉱脈を見出すも、それをやりつくされた映像表現で語ってしまったのが本作の悲劇といえよう。ちょっと皮肉な結果になってしまった。
島田作品の初映画として、打ち上げ花火にならなかったのは残念でならない。

ただ、ファンが待ちに待った“御手洗シリーズ”の映像化がついに本腰を入れて動きはじめたという、ウソかマコトか希望ある情報も漂っている。“金田一シリーズ”のごとく、やりようによっては成功すると思うのだが…。今後の動向に注目したい。


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『荒野の千鳥足』 (1971)

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人生訓を指し示すマッド・ムービー!



観終わった後は頭クラクラ、それこそ千鳥足になる怪作ながら、どこか襟を正してしまう珍品であった。
本作は、71年に製作された『ランボー』(82)のテッド・コッチェフ監督による米豪合作映画。カンヌ映画祭に出品され、驚愕の内容で旋風を巻き起こすも、なぜか日本では未公開。さらにオリジナルネガが紛失されるというアクシデントにより、長らく幻の作品となっていた。
事態が動いたのが04年。米国で奇跡的に廃棄寸前の素材が発見され、レストアを施し、見事に復活。07年に再上映される運びとなり、この度ようやく日本上陸を果たした訳である。マーティン・スコセッシをして「凄まじいほど不快な映画」といわしめた本作。鑑賞する機会を逃す訳にはいくまい。

オーストラリアの僻地の小学校で教師をしているジョン(ゲイリー・ボンド)は、クリスマス休暇で恋人のまつシドニーへ帰ることに。途中、ヤパという田舎町で一泊するも、気のいい住人の過剰なサービスをうける羽目となる。さんざんビールを振る舞われ、理性を失ったジョンは気がつくと住民が熱狂する原始的なギャンブルにはまり込んでしまい…。

『荒野の千鳥足』というタイトルと荒廃したビジュアル・イメージにより、つい西部劇を連想してしまうが、さにあらず。主人公がふらりと立ち寄った街で無間地獄を体験する、ホラー映画等でお馴染みの不条理劇である。

教師という堅い仕事につく主人公ジョンは、単身赴任先から故郷に帰る途上、オーストラリアの茫漠とした荒野にポツンとたたずむさびれた街で一夜の宿をとる。退屈を紛らわすべく何気なく酒場に入るジョン。この街の住民は水の代わりにビールを飲むほどの酒飲み集団で、酒場は異様な喧騒に包まれており、ジョンは飲めや飲めやのビールの洗礼をうける。そこかしこにハエが飛び交い、轟くゲップの合唱、体臭すら匂ってきそうな画面の不潔な迫力たるや!その生々しい臨場感に圧倒されることうけあいである。
やがて、今の生活に不満のあるジョンはふと出来心で、ギャンブルに手を出してしまう。結果、文字通り、酒とギャンブルという俗悪の渦に巻き込まれ、色情女からホモセクシャルまで、堕落の饗宴にズブズブとはまっていく。
ジョンを世話する闇医者を演じたドナルド・プレザンスのクレイジーな存在感も圧巻だ。

そして挙句の果てに訪れるのが、悪名高い“カンガルー狩り”。及び腰であったジョンも周囲に翻弄され、ついには没頭。もはや単なる娯楽としての殺戮ゲームであり、これほど気分が悪くなる残虐シーンもない。飲酒場面の惨状もそうだが、全編とことん不快にさせられる。(※現在、カンガルーは保護動物であり、狩猟行為が犯罪である旨の説明が最後に出ます)

でも従来の映画のように主人公を「ダメだなぁ…」と他人事に見放すことができないのが、本作の醍醐味といえよう。僕自身、ギャンブルは一切しないし、お酒も飲めないのでその点は理解不能だが、おいしい話に揺れ、ゆるい流れに身を委ねてしまう“弱さ”は共感できる。
特筆すべきは、劇中に出てくる人々はお下劣ではあれ、別に悪人ではないという点である。どちらかというと、世話焼きのいい奴らなのだ。
要は、敵は自分自身。最後に無理矢理、やつあたりで“敵”を作り出したジョンの顛末をみれば、当メッセージ性は一目瞭然であろう。この手の作品としては、異色のスタンスである。

また、酒、ギャンブルの超絶な魔力に比べ、本編では色欲パートがやや薄い。これはジョンの拠り所が、シドニーにいる恋人に向いているがゆえ。ゴールにも女性の欲望が沈殿する構図は、まさに八方塞がりであり、人生の縮図にようにみえてくる。
結局は人生においては色々な誘惑があり、ほとんどの人はそれに陥落して、踏み出すことがかなわない。ジョンはラストにどういう結末を迎えたのか?そのループ感覚のむなしさは、人生のむなしさでもあろう。

主人公と一緒に悪夢をみたようなトリップ感覚に陥り、味わい深い余韻を残し、教訓を授けてくれる本作。トンデモ映画とうより、アメリカン・ニューシネマのアート系の一環と捉えるのが正しかろう。

劇場で観れてよござんした。


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『蜩ノ記』 (2014)

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高潔なる本格時代劇のお目見えとなる筈が…?!



若者を集客する娯楽作から年配層好みの激渋作まで賑わいをみせている時代劇。そんな中、正統派はコレだ!と突きつける真打登場となる筈だったのだが…。
本作は、黒澤明監督の遺伝子を受け継ぐ愛弟子、小泉堯史監督作品。こういった紹介の仕方は監督に失礼かとは思うが、黒澤組ゆかりのスタッフが集まり、黄金時代の香り漂う作品に期待をこめてしまうのは致し方あるまい。ただ、黒澤監督の遺稿を映画化したデビュー作『雨あがる』(00)から、清廉な生き方を貫く人格者の丹念なドラマという小泉監督の個性は一貫されている。そういう意味では、直木賞受賞の原作小説はドンピシャの題材といえよう。小泉監督自身が映画化を熱望したのも、さもありなん。
…と、なんとなくハズレようのない企画に一見、思えたのだが…。

豊後、羽根藩。城内で親友の信吾(青木崇高)とのちょっとした諍いで刃傷沙汰を起こしてしまった庄三郎(岡田准一)は、罪を不問に付す代わりに、幽閉中の元郡奉行、戸田秋谷(役所広司)の監視役を与えられる。7年前、秋谷は藩主の側室と不義密通した上、目撃した小姓を斬り捨てるという事件を起こし、10年後の切腹と藩史の編纂を命じられていた。秋谷と妻の織江(原田美枝子)、娘の薫(堀北真希)、息子の郁太郎(吉田晴登)と共に暮らしはじめる庄三郎であったが、3年後に迫った切腹に向けて家譜作りに励み、一日一日を大切に生き、“蜩ノ記”と名付けられた日記を綴る秋谷の生き様に感銘をうけていく。そして秋谷の人柄を知れば知るほど7年前の事件に疑念を抱いた庄三郎は、独自の調査をはじめ…。

OPの豪雨から小泉監督の本領発揮。時間帯によって刻々と変化する情感、期限ある秋谷の命を、うつろいゆく四季折々の光景を通して表現する等、自然描写の確かさは折り紙つきだ。造り込まれた美術と伴い、ハッとするような美しいシーンが続く。まさにベテランの職人芸を堪能できよう。
実力派俳優陣の決して前に出ない芝居や所作もまた格調高い。
特に、監督はこのシーンを撮りたかったんだなとつくづく思わせるラスト・シーン。役所広司の背中で語る妙演もあいまって、爽快かつ重厚な名シーンとなっている。堂々の小泉劇場といってよい。

がしかし、総じた評価は…、ごめんなさい、残念作という他ない。
圧倒的に足りないのは、ケレン味である。
まず本作は、一体誰の視点の映画なのか?普通に考えると庄三郎なのだが、彼の眼を通した話になってはいない。彼と薫の淡い恋愛、郁太郎との兄弟の絆も薄味だ。信吾との関係性など、説明不足で意味不明の域である。そもそも、はじめから高潔に過ぎよう。原作通り、秋谷に触れて青二才が成長していくプロセスをきっちり描いてほしかった。ラストのリアクションすら映されない彼の存在感は極めて弱い。どうも監督の興味が、全体的に秋谷に寄り過ぎている。

そして、映画化に際して一番懸念していたのが、秋谷の密通事件の真相となる“お家騒動”の顛末だ。小説ではそれなりにミステリーとして読ませるが、映像にするとしゃべりだけで、つまらなくなるのは明白である。どうするのか?と興味をもって見守っていたら、なんとそのままやっていた。尺をさいている割に退屈である。
ここはおもいきった脚色を施し、シンプルにすべきではなかったか?

加えて、もうひとつの流れとして本作には、農民と商人、武士との階級の確執があり、その駆け引きの緊張感が重要なテーマとなっている。なぜ秋谷のような人物が脱落して、狡猾な輩が上に君臨する羽目になるのか?このどうしようもない構造が、現実の政治と鏡写しとなっているのはいうまでもない。でも映画では、このパートの問題提起は、ほとんど伝わらない。もっと整理して、ドラマチックに処理すべきである。
村に起こる不気味な殺人事件もそれにからむ藩の権力抗争も、淡白に抑え過ぎだ。ゆえにクライマックスの悲劇も、驚くほど盛り上がらない。ここらの庄三郎と郁太郎のシーンは、原作では唇を噛みしめながら読んだパートだけに、あっさりし過ぎて拍子抜けであった。悪人役の家老、中根(串田和美)の扱いも酷過ぎる。

多くを語らず、黙して観客に察するよう即し、日本人のつつましい美徳を表現せんとした演出の狙いはわかる。実に崇高な意図だと思う。そこでオリジナリティを出そうとしたのかもしれない。だが、それは秋谷のキャラだけでよかった。だからこそメリハリが生まれ、彼の気高さが際立つというもの。当演出を全てのキャラに当てはめ、ストーリーをも味気なくしてしまったのが、本作の敗因ではなかろうか?

一流のスタッフとキャスト、原作が揃った期待作だっただけに残念!


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『FRANK -フランク-』 (2014)

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仮面が訴えるホロにがバンド・ムービー!



一見、奇抜なインパクトをうけるも、その実、直球に胸をえぐる青春映画であった。
本作は、『アダムとポール』(04)、『ジョジーの修理工場』(07)と、国際的に高評価をうけてきたアイルランド人レニー・アブラハムソン監督作。主演は米映画サイトが選出した“世界でもっともハンサムな顔100人”で第1位に輝いたスター、マイケル・ファスベンダーだ。がしかし今回、彼が扮するのは、カルト的人気を博したミュージシャン兼コメディアンのクリス・シーヴィーによる被り物キャラクター、“フランク・サンドボトム”を模した“フランク”役。(物語も当キャラが率いるバンドに在籍していた脚本家ジョン・ロンソンの実体験に基づいている)つまり彼は劇中ずっと張りぼての被り物をしており、顔出しナシというチャレンジングな役柄なのである。もうそのバカげた試みだけで笑みがこぼれ、猛烈に興味がわいてくるのだが…。

イギリスの片田舎。サラリーマンとして働きながらもミュージシャンになる夢を捨てきれない青年ジョン(ドーナル・グリーソン)は、ある日、海岸で一人の男が入水自殺を試みている現場に遭遇する。病院に搬送された男はインディー・バンド“ソロンフォルブス”のキーボード奏者であり、すかさずジョンは代役をアピール。めでたく夜のライブに参加する運びとなるも、バンドのフロントマン、フランク(マイケル・ファズベンダー)と会ってビックリ仰天。フランクは大きな張りぼての手作りマスクを被った究極の変人であった。おまけに演奏する音楽もアバンギャルドで、戸惑うばかり。虚をつかれたままその夜を終えるのであった。
後日、ジョンは半強制的に、バンドのレコーディングに参加する運びに。こうしてフランクはアイルランドの人里離れた山奥の一軒家に連れていかれ、メンバーと共同生活を送る羽目となり…。

冒頭。平凡な環境に生まれ育った主人公のジョン君は、何とか曲と詩をひねり出そうと街を練り歩くも何のインスピレーションも浮かばず、凡庸なものしか創作できない。自身の人間的な面白味と才能のなさに悩みもがくジョン君。もうここで一気に彼に感情移入し、のめり込んでしまった。素晴らしい導入部である。

そんなジョン君が、ひょんなことからフランクという天才肌のミュージシャンと出会い、負けず劣らずの奇人変人揃いの“ソロンフォルブス”のメンバーとの共同生活が綴られていく。
食事は流動食をとり、風呂も寝る時も絶対に仮面をとらないフランクの不気味な生活のディテールの可笑しさたるや。無表情なフランクの仮面に、いつしか愛着がわき表情が見えてくるから不思議である。とにかく全編通してこの不思議キャラの正体、いつ仮面を脱ぐのか?の興味の吸引力が半端ではない。
既成概念にとらわれない現代音楽製作の現場の興味深さ、新興宗教のような奇妙な隠遁生活に凡人が放り込まれた悲喜こもごもをオフビートな笑いで包み込む。ハリウッド・コメディのように冴えてはいないが、クセになるようなユルい味がある。

やがて皆に馴染んできたジョン君の主張により、メンバーは音楽の方向性を巡って対立。しかもフランクを取り合い、彼と依存関係にあるテルミン奏者のクララ(マギー・グレンホール)と妙な三角関係になる始末。
この辺りのジョン君の「認められたい!」という欲望と焦燥も、手にとるようによく分かる。そしてそれがバンドとフランクの運命を捻じ曲げてしまう。
そもそも、なぜフランクは初ステージの場でジョン君に眼をつけたのか?フランクもどこかで変化を望んでいたのであろう。ここから次第に本編はシリアス・モードへと変転する。終盤のジョン君の成り行きは、あまりに切ない。

最後にフランクの仮面の真相が分かり、なぜマイケル・ファスベンダーが配役されたのかにも合点がいく。
待ち受ける感動のラスト。名曲誕生の瞬間に涙し、一方、人生のホロ苦さに胸が締めつけられる。

“仮面を脱ぎ捨てる”=一人の人間が大人へと階段をのぼる通過儀礼の成長物語ともとれるし、“天才”と“凡人”の内訳を説いた物語にもみえる。(ダニエル・ジョンストンやキャプテン・ビーフハート等のアウトサイダーをミックスしたカリスマ・ミュージシャンぶりについては、元ネタを知らないので不明であるが…)
また、他人を感動させるアーティスト活動とはどういうものなのか?ものをつくるとはどういうことなのか?人と人をつなげる音楽の役割とは?
とかく色々な議題が去来し、深く考えさせられよう。

またネット社会についても鋭く切り込んでおり、ジョン君を調子に乗らせる原因として批判的に問題提起。かと思えば、最後にきっちり良い面も描くフォローが入れられ、バランスに抜かりはない。

上映時間95分にして、中身は驚くほど豊か。変てこだが、心に沁みるいい映画である。


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『男はつらいよ 寅次郎恋愛塾』 (1985)

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“無償の善意”を説く、恋愛指南編たる第35作!



シリーズの定型のひとつである、寅さんがあろうことか同じマドンナに惚れた恋敵を応援する“ズッコケ恋愛指南編”。何を隠そう僕も、当パターンが大好きである。
結果的に自分の首を絞めるのが分かっていても、恋に悩むダメ男の背中を押す、そのアンビバレンスな哀愁が堪らない。
僕も他者と競い合うぐらいなら身を引く小心者なので、感情移入しまくりである。社会システムの外で、豪放磊落、気ままに生きている寅さんは、弱き者の憧れであるのと同時に、その実、極めて身近な同士である点がシリーズの魅力といえよう。
という訳で本作は、タイトルそのまま件のスタイルをなぞりながら、奥深いテーマ性を加味したシリーズ第35作である。

長崎県、五島列島にやってきた寅さん(渥美清)とテキヤ仲間のポンシュウ(関敬六)は、道で転んだ老婆ハマ(初井言栄)を助け、一晩のおもてなしをうける。一人暮らしのハマの家で、ドンチャン騒ぎを繰り広げる寅さんであったが、夜中にハマの具合が悪くなり急死してしまう。カトリック教徒であったハマの葬儀は教会で執り行われ、参列した寅さんは、東京から駆け付けた孫娘の若菜(樋口可南子)と出会う。例のごとく若菜の美しさに一目惚れする寅さん。
数日後、柴又の“とらや”に帰ってきた寅さんは、若菜から届いた礼状をたよりに彼女のアパートを訪ねていく。すると再会した若菜は失業しており、見かねた寅さんは博(前田吟)にたのみ、就職口を世話することに。そんなある日、若菜のアパートに遊びにきた寅さんは、同じアパートに住んでいる司法試験の勉強に励む真面目一徹の男、民夫(平田満)が、若菜にぞっこんであることを察知して…。

毎度お楽しみ冒頭の夢シーンの題材は、『姥捨て山伝説』。老いたおいちゃん(下條正巳)とおばちゃん(三崎千恵子)を山に捨てにいくシリアスな展開からトホホなオチがつく本シーンを橋渡しに、物語の発端となる老婆ハマを助けるエピソードにスムーズに移行するシナリオの鮮やかさが光る。
導入部の舞台となる五島列島は、住民の10%以上がカトリック教徒という地であり、もちろんハマ婆さんも敬虔な教徒。そのハマ婆さんを寅さんが助ける、“無償の善意”が本作を覆うテーマとなる。

その後、寅さんは下心丸出しでハマ婆さんの孫娘、若菜の世話をたのまれてもいないのに焼きまくり、あまつさえ民夫に「あきらめろ!」と諭す始末。そのみっともない様に呆れたさくら(倍賞千恵子)の叱責により、心を入れ替えた寅さんは頼りない民夫をバックアップし始める。
“名選手、必ずしも名監督ならず”という世の真理通り、意外にも寅さんは名恋愛教師であるのは、ご存じの通り。現にさくらと博をくっつけたのも寅さんであり、後々は甥の満男(吉岡秀隆)に対してその威力を発揮していく。
ハッキリいって、教える内容はハチャメチャだが、強引に一歩踏み出させる有無をいわせぬパワーは効果絶大といえよう。
よって本作は、寅さんが献身的な“無償の善意”の体現者となる分、本パターンの味であるマドンナへの未練や「2番手の方が気楽でいい」といった複雑な情感は薄めである。
とはいえ、もちろん寅さんの“珍”恋愛指南はテッパンの大爆笑!こちらの期待を裏切らない。

他、笑わせてくれるのは、民夫の故郷、秋田を舞台にしたドタバタのクライマックス。リフトのやりとりは抱腹絶倒の名シーン!
若干、全体的にノリがふざけ過ぎな点が気になるが、最後には心が温かくなることうけあいである。

マドンナの若菜を演じたのは、樋口可南子。とにもかくにも、若き日の女史のハッとする魅力に息を飲む。喪服姿から浴衣姿の色っぽさまで、満男と源公(佐藤蛾次郎)と共にもうメロメロ。写植オペレーターという仕事がまた凛々しい赴きを醸し出している。
実は悲しい生い立ちを背負っており、男関係に苦労した重い過去もあり、仕事の面接時に今でいうセクハラ行為を受けるシーンがあったりと、影がある美しさがまた堪らない。
そんな彼女が、ウブで不器用な堅物の民夫に落ち着く顛末は、説得力抜群である。

寅さんに「平べったいカニみたいなヤツ」といわしめる民夫役の平田満のコメディリリーフな上手さも、絶賛に値しよう。
夢をあきらめて、地道な生活を選ぶその姿は、そうやって生きる大半の庶民の心をうつに違いない。劇中のさり気ないエピソードの挿入により、彼と博をオーバーラップさせる作劇の巧妙さも唸らんばかり。

タコ社長(太宰久雄)の娘あけみ役の美保純を今回久しぶりに見たのだが、その艶めかしい存在感に圧倒された。シリーズ屈指の名脇役である。
他、梅津栄、杉山とく子、松村達雄とお馴染みの面々が登場。それぞれベストパフォーマンスで場面をさらっていく。特に杉山とく子と二代目おいちゃん、松村達雄の丁々発止のやりとりは必見!
御前様役の笠智衆がぼやく、「イエス様が、寅を見捨てなければいいが…」というセリフもまた味わい深し!

そして今回特筆すべきは何といっても、関敬六が扮する寅さんのテキヤ仲間ポンシュウのまさかの大活躍!ラストのオチで、本作のテーマを担うある海外古典のパロディを体現した重要な役割を与えられている。ポンシュウ・ファンは、くれぐれもお見逃しなく!

ハマ婆さんを助けた寅さんは、一夜の宿とご馳走に恵まれ、“無償の善意”の恩恵を受けた。(なんとなく矛盾した文章になっているが)
対して、肝心の若菜と民夫のキューピット活動への報いは、寅さんに訪れるのだろうか?
そこは各々の胸にしまい込むのが、本シリーズを永遠に楽しむためのルールである。
他人に幸せを振りまく寅さんが、幸せにならないはずはないのだから。


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『ふしぎな岬の物語』 (2014)

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心を癒す、眩しき太陽の笑顔!



移りゆく時の流れと幸福の意味を考えさせられるハートフルなメルヘンものであった。
本作は、不滅の輝きを放つ大女優、吉永小百合の118本目(!)の出演作。今回は自ら惚れ込んだ原作をピックアップし、成島出監督と共に企画に名を連ねた意欲作だ。それでいて、モントリオール映画祭で審査員特別賞など二冠を獲得する成果をあげてしまうのだから何をかいわんや。無邪気に喜ぶ女史の姿を見ていると、こちらもハッピーになってしまう。紛れもない国民的スターである。
原作を読んでみると、確かに女史にドンピシャの役柄であり、混迷した世にこうした癒し映画を問う意義もよく分かる。よって女史の笑顔と先読みできる内容に満腹になり、つい出足がにぶってしまったのだが…。

岬の突端にポツンとたたずむ“岬カフェ”。店主の悦子(吉永小百合)が心を込めて入れるコーヒーは、村の住人たちやフラリと訪れるお客たちの心を和ませていた。カフェの隣の掘っ立て小屋に住み、悦子と共に毎朝、小島に石清水を汲みにいく何でも屋の甥、浩司(阿部寛)、30年間密かに悦子を想い続けている不動産屋のタニさん(笑福亭鶴瓶)、突然出戻ってきた漁師の徳さん(笹野高史)の訳アリ娘みどり(竹内結子)、等々、常連客で賑わう岬カフェであったが、永遠に続くかと思われた穏やかな日常も、徐々に変化の波にさらされて…。

原作は、カフェに集ってくるお客の人生の機微を綴った連作集となっている。当然、それを一本にまとめているのだが、実に大胆な脚色が施されており仰天した。さすが大御所、加藤正人&安倍照雄のコンビである。
原作の重要エレメントであり、そもそもモデルとなったお店の売りであった店内音楽の要素をバッサリとカット。確かに音楽を入れると色分けされ、まとまりが悪くなるゆえ、的確な処置といえよう。
原作通りのキャラもいれば、オリジナルキャラも大量投入。原作より村の存在を大きくして、共同体を強調しており、これはこれでアリだと思う。

さして大きな事件も起こらず、激しい恋愛劇もない。紡がれるのは、純朴な人々の素朴な日々。でもその裏には皆、シビアな悩みを抱えている。そんな村人にホッコリと癒しを与えているミューズの悦子も反面、客に孤独を癒されている。そうした関係性から浮き彫りになる人と人とのつながりの大切さ、幸福とは何かを問いかけるテーマ性は全く変わってはいない。

特に脚色で出色だったのは、原作ではそれぞれの章の人物がカップや包丁といった忘れ形見を残していき、想いが継承されていくところを、本作では捻って一工夫施されている。そして、それがクライマックスのある事件へと自然につながっていく。(この事件は、原作執筆中にモデルとなったお店に実際に起こった悲劇であり、原作には反映されてはいない)
このフランク・キャプラ映画のようなクライマックスの展開は、原作より一歩進んで力強くテーマを明確にし、ことさら感動的である。心底「上手い!」と唸らされた次第である。

また、若者が意図的に排除されている作劇にもご注目。花農園の中年(春風亭昇太)の結婚話の顛末からも分かるように、田舎を若者の安易な逃げ場にしておらず、「甘えるな」というメッセージが漂ってこよう。これは潔い。
“旅人のオアシス”たる大人の人情話なのだ。

吉永小百合も、相も変わらず、浮世離れした存在感でスクリーンを包み込む。一挙手一投足、本当にチャーミングである。
なんとなくカリスマ女性に男たちが群がり、右往左往している興ざめの構図になりかねないところを、ミステリアスさを残した一歩引いた演出で回避。絶妙なバランスをみせた監督の手腕を讃えねばなるまい。
悦子をずっと見守る笑福亭鶴瓶と阿部寛のコメディ・リリーフぶりも、作中にうるおいを与える好サポート。(外さない笑いは、安倍照雄のセンスのお手柄か)
石橋蓮司、不破万作、嶋田久作、モロ師岡、等々、豪華助演陣も豊かに画面を彩っている。米倉斉加年さんのお元気な姿もまた感慨深い。

ただ、ちょっと惜しむらくは、画が少々辛気臭い点である。監督の作風ではないかもしれないが、もう少しファンタジー風味を足してもよかった。個人的には悦子と浩司が乗る船の古ぼけ加減にまず冷めた。
宗教が混在し、気のいい人が集まるユートピア風な世界観なのに、この変に生々しい景色のギャップが残念である。

自分の認めた錚々たる監督たちと次々に仕事をしている吉永女史。素晴らしい活躍ぶりではあるが、次は若手と組んで新境地を開いてみてはどうだろう?
サユリストはそんなものを求めてはいないか。


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