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Channel: 相木悟の映画評
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『捜索者』 (1956)

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アンチ西部劇ヒーローが突きつける、虚飾の終焉!



ジョン・フォードとジョン・ウェインのコンビといえば、すぐさま連想されるのは、西部劇の名作群であろう。フロンティア・スピリットや豪快で勇壮な気質が刻まれた当ジャンルは、古き良きアメリカのイメージとして人々の心に定着している。
かような作風同様、フォードもウェインもバリバリのタカ派であり、特にフォードは第二次世界大戦中、野戦撮影班として活躍し、豪傑ぶりを発揮した。だが、それはあくまで彼らのアイデンティティであるアイルランド人魂の男気であって、盲目的な愛国心ではない。
例えば、50年代前半にハリウッドを吹き荒れた赤狩りに対しては、フォードは公然と不快感を表し、当時の大勢を批判している。そしてその際、フォードはアメリカの理想の崩壊を感じとったのだろう。56年に自家薬籠中としてきた西部劇を用い、一時代にピリオドを打ちつける歴史的傑作を製作した。そう、それが本作である。
原作はアラン・ルメイの同名小説。本作は公開当時、全く注目されなかったが、後に再評価され、現在ではオールタイム・ランキングに選出。西部劇カテゴリーでは堂々一位に輝く、紛れもない名作である。

南北戦争が終結し、3年を経た1868年、テキサス。南部連合の一員として従軍したイーサン(ジョン・ウェイン)が、久しぶりに故郷の兄アーロン(ウォルター・コイ)一家のもとを訪れる。一家の歓待を受けるイーサンであったが、その中にかつてなりゆきで助けたチェロキー族の混血の若者マーティン(ジェフリー・ハンター)がまじっているのを見て、インディアンに偏見をもつ彼は露骨に顔をしかめるのであった。翌日、牧師兼テキサス警備隊隊長のクレイトン(ワード・ボンド)が来訪し、牛を盗んだコマンチ族を追跡するという。イーサンとマーティンも隊に加わり出発するも、道すがら殺された牛を発見し、自分たちがまんまと誘き出された旨に気付く。急いでアーロン家に戻るイーサンであったが、時すでに遅く、アーロン夫婦は惨殺され、ルーシーとデビーの姉妹は連れ去られた後であった。即座にコマンチ族を追う一隊であったが、河川での戦いで、敵の本隊を逃してしまう。それでも復讐に燃えるイーサンはマーティンとルーシーの恋人ブラッド(ハリー・ケリーJr.)と共に、いつ果てるとも知れない捜索の旅に踏み出すのであった…。

一際、鮮烈であるのが、ジョン・ウェイン演じるイーサン・エドワーズのキャラクターである。
インディアンへの偏見を隠さない差別主義者で、兄一家を殺害し、姪をさらったコマンチ族を追う復讐の鬼と化すイーサン。ようやく見つけたデビー(ナタリー・ウッド)がインディアンの文化に染まっているのを見ると、デビーさえ手にかけようとするアンチヒーローぶりの凄まじさ!
この西部劇の主役としては異色のキャラが、公開時の観客に受け入れられなかった最大の原因といえよう。

というのも、彼以外のパーツに眼を向けると、馬上の銃撃戦、恋敵との拳と拳の喧嘩、カントリー音楽とダンス、騎兵隊、鉄火娘との純愛、バッファロー、等々、フォード西部劇のエレメントがこれでもかと詰め込まれており、集大成的な贅沢さを誇っている。
ジェフリー・ハンターにヴェラ・マイルズ、当時、絶賛売出し中であった16歳のナタリー・ウッド、そしてワード・ボンドにコマンチ族酋長役のヘンリー・ブランドン、母子共演となるハリー・ケリーJr.とオリーヴ・ケリー、変人モーズ・ハーバー役で場をさらうハンク・ウォーデン、さらにジョン・ウェインの実子パトリック・ウェインのお遊び出演と、フォード一家を交えた役者陣も超豪華!

ゆえに余計、イーサンの異物感が座りの悪いものになっている。がしかし、その点こそが本作の狙いであり、魔性の魅力といえよう。
世の中がそこに気付くのは、60年代に入り、ベトナム戦争、公民権運動、等々の社会情勢によりアメリカの理想が崩壊し、国民の価値観が一変してからである。
ハリウッドでは、それまでハッピーエンドの夢工場であった虚飾の娯楽性に反旗を翻し、アンハッピーエンドなリアルな人間性をえぐったニューシネマが勃興。カウンターカルチャーのクリエイターたちに本作は、革命的な真の西部劇として迎え入れられ、再評価の機運が高まったのである。

結果、イーサン・エドワーズは現代のアンチヒーロー像に多大な影響を与えた。
一例を挙げると、ポール・シュレイダーは当キャラの影響下で『タクシードライバー』(76)のトラヴィス・ビックルを生み出し、『ハードコアの夜』(79)を撮り、またフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(79)も物語の構成は本作そのまま。デヴィッド・リーンやジョン・ミリアス、スティーヴン・スピルバーグらもまた、本作をベスト映画の一本に挙げている。
56年の時点でアメリカの未来を見越していたジョン・フォードの、芯のある視線に敬意を表さずにはいられない。

フォードの熟練の演出も全編に渡り、冴えに冴えわたっている。
お馴染みのモニュメント・バレーの景観も圧倒的な迫力であり、これほど美しい西部劇は他にあるまい。雄大な自然と人間を融合させて、ドラマを紡ぐ職人芸はまさに神技!内容的には本作は、酸鼻を極める残酷シーンのつるべ打ちとなるのだが、肝心なところは一切映していない。省略の美学ともいえるスタイリッシュさ、ちょっとした仕草で各キャラクターの関係性や感情の機微を雄弁に語らせる奥ゆかしさよ。
世界の映画監督が皆、本作を参考にするのもさもありなん。若き監督たちは本作から学ぶべきものが多かろう。

劇中で度々登場する、家屋内から外を映し、屋内側を黒くつぶして額縁のように配した有名な構図。
ラストでは、イーサンがここで左手を右肘にそえたポーズをとる。これはサイレント時代に苦楽を共にしたフォードの盟友である俳優ハリー・ケリーの決めポーズ。本シーンで共演したハリー・ケリーの夫人オリーヴ・ケリーは、フォードとウェインのオマージュに静かに涙を流したのだとか。(息子ハリー・ケリーJr.も劇中で共演)
なんとも泣かせる逸話である。

本シーンでとるイーサン・エドワーズの行動から、彼のもつ特性が如実に伝わってこよう。
7年の歳月を費やした壮絶な捜索の末に、彼が得たモノのとは何だったのか?
家=家族を求める孤独な魂のモチーフは、フォード映画に通底するテーマだが、イーサンの醸す哀しさは、古い価値観=西部劇の終焉を体現している。それは同時に上記してきた如くアメリカの理想の滅亡であり、古き良き時代への哀愁に胸を締めつけられずにはいられない。
事実上、ハッピーエンドでありながら、実はそうではない痛烈な二律背反性。だからこそ、観る者の心にいつまでも残るのである。
こういうのを名作と呼ぶのだろう。

「ride way, ride way, ride way…」
スタン・ジョーンズの主題歌がいつまでも耳に残る。


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『リアリティのダンス』 (2013)

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めくるめく、ちょっぴり優しいホドロフスキー・ワールドに陶酔せよ!



御年80才を越えたホドロフスキーの新作が観られる日がこようとは…。それだけで感無量なのだが、いまだ衰えぬパワーに終始圧倒された次第である。
本作は、いわゆる“カルト映画”という概念の始祖、アレハンドロ・ホドロフスキー監督作。『エル・トポ』(69)、『ホーリー・マウンテン』(73)等々、何がなんだかわからないけど、とにかく強烈なインパクトがある作品群は、映画ファンが集まればいずこともなく話題にのぼる伝説の遺産である。
僕は寡聞にして知らなかったが、日本では比較的ソフトが流通しており、海外ファンが羨むホドロフスキー天国だったのだとか。知らずに幸福を享受していた訳である。
最近になって、実現に至らなかった幻のSF大作『DUNE』の舞台裏と後世に与えた影響を追ったドキュメンタリーが公開され、ホドロフスキー・ブームが再燃。はたして、待ちに待った23年ぶりの新作の実態や如何に…!?

1920年代のチリの小さな村トコピージャ。ロシア系ユダヤ人の少年アレハンドロ(イェレミアス・ハースコヴィッツ)は、商店を営む父ハイメ(プロティス・ホドロフスキー)と、元オペラ歌手の母サラ(パメラ・フローレス)と三人暮らし。コミュニストの父は躾に厳しくアレハンドロにスパルタ教育を施し、母はアレハンドロを自分の父親の生まれ変わりと信じ溺愛していた。一方、学校ではアレハンドロは移民の子といじめられ、孤独な日々を送っていた。
そんな折り、父が軍事独裁政権を転覆させるべくイバニェス大統領の暗殺を企て、ホドロフスキー家に激震が走り…。

本作は、ホドロフスキー老の幼年時代を題材にした半自伝モノ。(同名の自伝アリ)
父親ハイメ役を『エル・トポ』の素っ裸の子供役でお馴染みの実の息子が演じており、次男と五男も役者で登場。また五男は音楽も兼任し、若妻は衣装を担当。ホドロフスキー自身は哲学的なナレーションをもこなし、時に自身の幼年役の美少年の背後から手を回す、ちとヤバイ画ヅラで実体が出現。無垢なるがゆえに傷つき、世を儚む幼い自分に助言を与え、勇気付ける縦横無尽の活躍をみせている。いわば、本作は完全な内面的ファミリー映画の様相を呈していよう。

つい出だしは『アマルコルド』(73)とダブったが、そこはホドロフスキー。奔放で幻想的なイメージの洪水、徹底して下品なグロとエロ、善行を施すと、しっぺ返しをくらう皮肉、真面目なのか不真面目なのか判断に迷う宗教への畏敬と懐疑。
そして、思想的に矛盾に満ちた父親ハイメの息子アレハンドロに対する、こそばしたり、平手打ちしたり、挙句の果てに麻酔なしで歯の治療をさせる常軌を逸した行動。なぜかアリアで謳うように言葉をしゃべる母親サラ。他、手足をなくした人々や小人、等々、突拍子もない行動をとる濃すぎるキャラが大挙登場。往時のホドロフスキー節、炸裂である。(でも子供の性描写に関しては、ちゃんと節度を守っていたりする)
が、今回は流れがシンプルで分かり易く、理屈抜きで“面白い”。

しかし後半、第2部といった赴きで、独裁的な大統領暗殺に向かった独裁的な父親ハイメの精神の放浪が紡がれていく。この先読み不能の波乱万丈な旅の顛末は、ぜひ劇場でご体験あれ。回想式の物語のセオリーを無視した、急にハシゴを外されたようなブッ飛んだ展開にア然とすることうけあいだ。我らがホドロフスキーの語り口は、どこまでも自由である。
当パートはメタファーに満ちた奇怪な寓話であり、俄然、混沌と神秘に満ちたホドロフスキーの独壇場と化す。本作は全編通して、この男ハイメの救済と再生の運命劇として捉えた方が正しかろう。

でも、劇中のホドロフスキー少年も母親に金髪のかつらをかぶせられ、母親の父として扱われ、父親は実際のホドロフスキーの息子が演じており(ややこしい!)、そもそも男系は一本に同化されているのかもしれない。
それら男どもを母性と神が無理矢理すくってしまう力技な幕締めは、圧巻の一言。あくまで本作は、想像で理想化した家族映画ということか。

しかしながら、自身の信念に基づき、人心の闇をさらけ出し、全てをみせきる悪趣味ぶりといった、ホドロフスキーの“芸術活動”(=“やりたい放題”)が、商業性のある娯楽映画よりリアルに見えてくるから不思議である。まさにリアリティのダンス。
人が眉をしかめるバイオレンスやグロの本質を、奇妙に楽しくコーティングしてしまう得難い作家さんといえよう。
もっと、たくさん作品をつくってほしいものである。でも先立つものは“金”であり、芸術を実現させるには儲けなければならない。この氏が孕む自己矛盾をも、本作はOPから訴えているのだから巧妙である。

あと本作はホドロフスキーと聞いて尻込みしている人にもとっつき易く、入門編として最適であることを付け加えておきます。


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『オールド・ボーイ』 (2013)

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かの韓流バイオレンス・ミステリー、ハリウッド版を楽しむべし!



相も変わらず名作のリメイク企画が後を絶たず、皆それぞれ健闘をみせてはいるものの、どうしてもオリジナルのインパクトに敵わないのが現状である。本作もその例にもれないのだが、なかなかどうして上質な一本であった。
作:土屋ガロン(別名、狩撫麻礼)、画:嶺岸信明による同名漫画を映画化し、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞したパク・チャヌク監督の韓国映画『オールド・ボーイ』(03)。僕も当作を目の当たりにした際、バイオレンス・ジャンルにおける韓流のレベルの高さに心底驚愕した一本である。本作は原作漫画の再映画化というより、当作のハリウッド・リメイクとみなした方がよかろう。
監督は、紆余曲折を経てスパイク・リーが就任し、ジョシュ・ブローリン主演という豪華布陣が実現。スパイク・リーといえば、今日に至るまで社会派から娯楽作と意欲的に作品を量産しつつ、タランティーノの『ジャンゴ 繋がれざる者』(12)に咬みつく等、ファンに「またか!」とあきれられる問題児。はたして、かような氏がアジアの名作をどう料理したのか…!?

1993年。広告代理店の重役ジョー(ジョシュ・ブローリン)は、有能だが女性にだらしなく、家庭を顧みず、酒浸りのすさんだ生活をおくっていた。そんなある夜、仕事で失態を犯した上に泥酔し、中華街をさまよっていたところ急に意識を失ってしまう。目覚めるとそこは見知らぬ一室。完全な密室に監禁されたことに気付くジョーであったが、身に覚えはない。食事はいつも餃子でTVしか気を紛らわせない単調な生活に気が狂いそうになるジョー。しかもTVでは妻が殺され、ジョー自身が犯人として指名手配されていた。ジョーは汚名を晴らし、娘と再会すべく、この生活に堪え脱出することを決意するのであった。
20年後。周到に準備していた脱出計画の目途がようやくついたその日、なぜか唐突にジョーは解放される。訳がわからないままジョーは、たまたま出会ったソーシャルワーカーのマリー(エリザベス・オルセン)の協力を仰ぎ、自分を陥れた人物を突き止め、復讐せんと動き出すのだが…。

なぜ20年間も監禁され、突然解放されたのか??
至極キャッチーな基本の流れは韓国版を踏襲しつつ、雑であった部分の辻褄を合わせて整理していった塩梅である。が、スッキリした分、おどろおどろしい毒気は霧散。主人公が監禁場所に乗り込み、カナヅチ一本で複数の敵をなぎ倒す有名な横スクロール1カット等、アクションやゴア描写自体はむしろパワーアップされているのだが、全体的に随分ライトな印象を受ける。
特に主人公が監禁された真相は、衝撃度はそのままながら主謀者サイドの事情を大きく改変。情感に訴えかける部分はオミットされた。これらはハリウッド・テイストにまとめたとみてよかろう。いうまでもなく韓国映画版は当国の文化的背景、禁忌と怨念の概念に彩られており、ハリウッドでリメイクする分、改変は理にかなっている。プロットの理路整然さもまた然り。要は、好みの問題であろう。というか、この比較の興趣がなければ、造り直す意味はあるまい。

ジョー役の巧者ジョシュ・ブローリンの見事な下衆男ぶり、だらしない体型から一念発起してムキムキに変化する役者根性と、さすがの横綱相撲。
昨今ブレイク中のエリザベス・オルセンの可愛さと体当たりぶりも眼福だ。
サミュエル・L・ジャクソンの怪演、シェールト・コプリーの不気味さ、と悪役陣も存在感たっぷり!
スパイク・リーの演出は、140分あったのを短くしたからか、前半の監禁シーンの精緻さから一転、後半の猛烈な駆け足ぶりが残念ではあるものの、的確ないい仕事をした。

そして本作を観て改めて思い知らされたのが、自分が韓国版の荒唐無稽な奔放さが案外好きだった事実である。確かに主人公のぶっ飛んだ行動等々、突っ込みどころは多いが、ある種、異様なエネルギーが漲っていたのは事実。やはりあの怒涛の勢いは、これから世界に打って出んと韓国映画界がノリにノッていた空気が影響していたのであろう。時代性という意味で、どうしても見劣りがしてしまうのはリメイクの悲劇である。
加えて僕は、韓国版のハッピーなのかアンハッピーなのか釈然としない締め方が気に入っていたりする。逆に人間臭いとでもいおうか。すんなり納得はできないのだが、そこが混沌とした作品の世界観に妙に合っていた。

他方、本作の新アイディアのラストも嫌いではない。本作をハリウッド・リメイクする意義として、主人公にアメリカという国の近代史を重ね合わせていることは自明の理である。犯した罪に無自覚で、不意打ちのようにテロに遭って自覚する。あのラストは「ちょっとは反省しろ!」というメッセージにとれよう。
でも普通に考えれば、その罪(または新たに犯した罪)を償うにしても、心を入れ替えて社会的な貢献をした方がいいに決まっている。闇ビジネスに頼るなんぞもってのほか。あの妙なしおらしさと浮かべる不敵な笑みは、ご意見番スパイク・リーからの「一時的に反省する姿をみせても、どうせまたやらかすんだろう?」という皮肉なのかもしれない。

それにしても本作は、いくら韓国映画版が尊重されているとはいえ、まがりなりにも日本漫画が原作である。なのに、このひっそりぶりはどういうことか。もうちょっと注目されてもいいのでは?


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『仮面ライダー鎧武 サッカー大決戦!黄金の果実争奪杯!/烈車戦隊トッキュウジャー THE MOVIE』 (2014)

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チームプレイで悪を討つ、型破りライダーの一成果!



●『劇場版 仮面ライダー鎧武 サッカー大決戦!黄金の果実争奪杯!』

決して悪くはないが、奇しくも昨今の仮面ライダー劇場版の勢いのなさを象徴する一本であった。
本作は、平成ライダーシリーズ第15作『仮面ライダー鎧武』の夏の劇場版。『鎧武』といえば、『魔法少女まどか☆マギカ』(11)の虚淵玄を脚本に招き、戦国武将、フルーツ、ストリートダンスと異素材を闇鍋の如くごちゃまぜにし、停滞した空気に新風を吹き込む意欲作と期待したのだが、蓋を開けてみれば、あら不思議。ダークなキャラ、シリアスかつ激動する展開とチャレンジ性は認めるが、個人的にはどうも表層的で真に迫ってこない内容に戸惑うばかり。色んな理由があれど、周囲に変化をもたらし、動かす主人公の魅力が弱いように思う。(『龍騎』の真司君と比べれば、明白)
それもこれもラストに向けて、「何かやってくれるはず!」と望みは残しており、本劇場版が起爆剤になってくれればと切に願っていたのだが…。

ヘルヘイムの植物とインベスに浸食された沢芽市で戦いを続ける“仮面ライダー鎧武”こと葛葉紘太(佐野岳)は、不思議な少年ラピス(田中偉登)に導かれ、異世界へと足を踏み入れる。その世界ではビートライダーズたちは、ダンスの代わりにサッカーで雌雄を決しており、死んだはずのチーム鎧武の初期リーダー裕也(崎本大海)やシド(波岡一喜)も生存していた。訳が分からないまま紘太も鎧武チームに参加し、あらゆる願いを叶えるといわれる“黄金の果実”が優勝者に与えられるオールライダー・カップに挑む羽目となる。しかしゲームの裏では、謎のアーマードライダーが暗躍し、次々に他のアーマードライダーを葬り、内紛を巻き起こす事件が発生。そして、その現場には常にラピスの影があり…。

元来、『鎧武』は一国一城の主たる戦国武将を模したアーマードライダーたちが、それぞれのダンス・グループの主として、領地(縄張り)をかけて争うチーム戦の様相を呈していた。フルーツは、それぞれのカラーを表す旗印だ。
そのコンセプトをスポーツ、ライダーキックとも合致するサッカーに重ねる狙いは分かる。理に叶っていよう。

ただ、パラレル・ワールドでこの設定となると、どうしても『映画ドラえもん』の『ミニドラ』的な添え物の印象がつきまとい、オマケでやるべき安っぽさは否めない。
それにワールドカップの盛り上がりに便乗しようとしたのだろうが、日本代表がああいう結果に終わり、急速に熱が冷めた状況下、それもまだ開催中ならまだしも、閉会した祭りのあとのタイミングで出されても場違い感が尋常ではない。最悪の状況である。同日公開の『思い出のマーニー』に客を吸い取られても仕方あるまい。

案の定、冒頭のサッカー・シーンから、あまりの寒さにげんなり。ゲストのサッカー選手も棒読みで気恥ずかしく、もともとサッカーに興味がないので「誰?」状態。スタジアムの客席もさびしく、もう少し後処理で盛るなり、どうにかならなかったのか?ゆえにライダーがサッカーをしている画ヅラの滑稽さ、おふざけ感が余計に浮き立つ悪循環である。

ところが、本格サッカー・シーンはこれだけで、てっきり各チームの試合が延々と続くと思っていた分、普通のドラマ・パートへ移り、心底ホッとした。
そして、ここからの出来が意外によく、負けても勝っても意義のあるスポーツと殺し合いを比較し、戦いのむなしさを説く構成には素直に胸をうたれた。
黒幕“仮面ライダーマルス”ことコウガネ役の歌舞伎俳優、片岡愛之助の品のあるダンディーさにもしびれまくり!悪役はこうでなくては。
鎧武がドングリやドリアンに次々にアームチェンジするシーンにも燃えた。(でもジンバーメロンにならなかったのは、減点)
クライマックスの各アーマードライダーが採石場で横並び勢揃いし、オールスターによるチームプレイも清々しい。次期ライダーの番宣もなく、興味深い本編とのリンクも垣間見え、最終的には悪くない優良な出来であった。

とはいえ、劇場版のスペシャル感があったかといえば別の話。毎年記しているような気もするが、やはり本編のTVシリーズが盛り場を迎えるこの時期の劇場版公開は苦しいのではなかろうか?結末を前にしたシリーズを、その直前に劇場版で盛り上げるのは至難の技であろう。
かつて、本編のラストを先取りしたり、未来を描いたり、はたまた過去を描いたり、あの手この手を尽くして盛大にやっていた昔がなつかしい。冬にメインの劇場版を配するよう、企画を練った方がいいのではないだろうか。(なら、1月に終わる併映の『スーパー戦隊シリーズ』に酷かといえば、性質上、大丈夫だろう)



●『烈車戦隊トッキュウジャー THE MOVIE ギャラクシーラインSOS』

25年に1度、地球に通りかかるといわれている、宇宙空間のギャラクシーラインを走るサファリレッシャー。本年、地球に近付いたサファリレッシャーは、シャドーラインの幹部ナイル伯爵(声:ヒャダイン)の襲撃を受け、バラバラになり先頭車両が地上に不時着する。サファリレッシャーの車掌レディ(福原遥)は、宇宙に戻るイマジネーション・エネルギーを得るために、トッキュウジャーのライト(志尊淳)に助力を乞うのであった。しかしそこにナイル伯爵一味が立ちはだかって…。

列車がモチーフということで、帰る場所(アイデンティティ)を探す主人公たちの旅の帰路、イマジネーションが道をつくる未来への行路、と設定とテーマ性がエモーショナルに相乗効果を上げ、大いに期待を抱かせてくれる本シリーズ。ダサさが郷愁を誘うのも一興だ。

今回も29分と短いので、ほどよくまとまった可もなく不可もないお話であるが、宇宙を走る列車というロマンティックな題材をもっと活かしてもよかったように思う。地上の戦いでギミック紹介にばかり尺が割かれ、せっかくの好設定がちょっと勿体ない。
でもまあ、ギャラクシーラインの車掌レディ役の福原遥ちゃんが可愛かったからヨシとします。


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『複製された男』 (2013)

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観る者を惑わす不可思議ワールドを堪能せよ!



観ている間は、「?」の蓄積に脳はフル回転。観終わった直後に、ついもう一回観直したくなることうけあいの魅惑の一本であった。
本作は、『灼熱の魂』(10)で世界的な評価を得て、ハリウッド進出作『プリズナーズ』(13)でも高い完成度でファンを唸らせたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作。ポルトガルのノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの同名小説の映画化だ。
トリック撮影の容易さから、映画が古来より得意としてきた一人二役のそっくりさんモノ。SFなのか、カフカ的純文学なのか観る前は不思議な印象をうける本作であるが、はたしてその中身の真偽や如何に…!?

カナダ、トロント。大学の歴史講師アダム(ジェイク・ギレンホール)は、同じことを繰り返す単調な毎日を送り、恋人のメアリー(メラニー・ロラン)との仲も冷え気味であった。そんなある日、同僚の薦めで一本の映画をDVDで観たアダムは、その1シーンに自分そっくりの人物を発見。気になってネット検索し、エージェンシーまで訪ね、その男がアンソニー(ジェイク・ギレンホール、二役)という三流役者で身重の妻ヘレン(サラ・ガドン)と暮らしていることを突きとめる。その後、アダムはなんとかアンソニーと接触しようと試み、いぶかしむ先方とついにホテルの一室で対面する運びとなるのだが…。

話の流れ自体は、至ってシンプル。ミステリアスなドッペルゲンガーものである。が、同じ人間が二人いる謎解きよりも本編は、不条理劇たる迷宮の様相を呈していく。
温もりのない幾何学的な街並の下、営まれるアダムの潤いのない渇いた生活。大学で講義を機械的にこなし、恋人メアリーとの義務的な食事とSEXにふける。このルーティンが執拗に描かれ、陰鬱なアダムの表情と共に、画面には終始重い空気が垂れ込める。
他方、アンソニーの性格は対照的でもうすぐ子供が生まれる妻帯者なれど、やはりマンション住まいで、不思議と雰囲気は変わらない。胸の傷から何まで全く同じ身体をもつ二人は、身体以上にどこか対になっている。
そんな二人が接触していくうちに情緒が乱れたアンソニーのある提案により、物語は怒涛のクライマックスへ辿り着く。が、劇中に立ちこめる暗雲共々、物語は煙に包まれたように判然としない。

大学の講義内容、ブルーベリー、秘密クラブ、蜘蛛、唐突に差し挟まれるシュールな映像、等々、そこココに散りばめられたメタファーをもとに「解釈は、どうぞご自由に」といわんばかりだ。
という訳で僕の、というか、おそらく一般的であろう解釈を記しておこう。

※以下、ネタバレ御免!






やはり、アダムとアンソニーは同一人物であり、どちらも“アダム”と見なしてよかろう。
アダムの母親(イザベラ・ロッセリーニ)への態度とアンソニーの(登場しない)母親への態度、ブルーベリーに対する両者のリアクションは、暴力的でもあり、荒ぶる性の衝動を秘めた人間の二面性の描出である。
母親に依存する孤独な生活の中、要は二股をかけてしまうマザコン男の浮気性を象徴した幻惑作品といえよう。
ビジネスライクな男女関係か、家庭におちつくか、そのふたつに分裂した潜在意識の具現化であり、ヒモ状態のアンソニーと都合のいい女メアリーはアダムの妄想に違いない。もしくは母親との会話から察するに、アダムの近過去の話なのかもしれない。
ヘレンとの生活に戻ったアダムに訪れる衝撃のラストカット。これは監督がいうように蜘蛛が母性の暗示であれば、近々、母になる女性に対するアダムの根源的な恐怖を表しているのだろう。
つくづく女性という蜘蛛の巣に囚われた男の憐れな話なのである。(ちなみに原作に、蜘蛛のモチーフはない)

それでも、本当にアダムが役者をしていのか不明であったり、時系列に矛盾が生じたりと説明がつかない点が多々あるが、そこは解釈の幅を拡げる妙味といったところか。

何はともあれ、90分とコンパクトな時間ながら、これだけ曖昧な内容を眼の離せない濃密な映像力で惹きつける監督の力量はやっぱりスゴイ。
二役を演じ分け、無常感を観客に共有させるジェイク・ギレンホールの上手さはもとより、メラニー・ロランとサラ・カドンの女優陣の美しさと迫真性を引き出す演出力もまた然り。
同じカナダ出身のデヴィッド・クローネンバーグ、アトム・エゴヤンのいいトコどりといった塩梅で、社会派ドラマからミステリー、心理サスペンスと多彩なジャンルを手掛ける当監督。やはり注目の才能である。


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『GODZILLA ゴジラ』 (2014)

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神々しき新生ゴジラの咆哮を見届けよ!



まさに夏休みの娯楽!色々と口を挟みたいこともあるが、ひとまず最強に面白い怪獣映画であった。
日本が世界に誇るスーパースター、ゴジラ。誕生から60年、シリーズ28作という長い歴史を紡ぎ、核兵器、戦争、自然災害、はたまた子供たちのヒーロー、等々、様々なメタファーとして日本人のDNAに定着している当キャラクター。それを海外で製作する難しさは、当の日本人が一番身に沁みていよう。という訳で本作は、ハリウッド製『ゴジラ』第2弾である。
かような難企画に今回挑んだ監督は、長編デビュー作『モンスターズ/地球外生命体』(10)が評価され、大抜擢された新鋭ギャレス・エドワーズ。概ね称賛され、全米大ヒットのスタートダッシュを記録するも急速にしぼんだ事実等、様々な憶測が乱れ飛ぶ中、自らの眼で確かめるべく劇場へ駆け込んだのだが…!?

1999年、日本。富士山の麓にある雀路羅(じゃんじら)市の原子力発電所に勤める科学者のジョー(ブライアン・クランストン)は、正体不明の波動をキャッチ。直後に襲った振動により炉心が異常をきたし、調査にむかった妻のサンドラ(ジュリエット・ビノシュ)が逃げ遅れ、命を落としてしまう。
15年後。ジョーの息子フォード(アーロン・テイラー=ジョンソン)は米海軍の爆弾処理班に入り、病院勤務の妻エル(エリザベス・オルセン)と幼い息子と共にサンフランシスコで幸福に暮らしていた。そんな折り、父ジョーが東京で警察に逮捕されたという連絡が入る。ジョーは日本に留まり、隠蔽された事故の真相を一人調査していたのであった。ジョーを迎えに来日したフォードであったが、逆に熱意にまけて、ジョーと共に汚染区域に侵入することに。しかし二人はパトロール隊に拘束され、原発跡に建設された研究機関“モナーク”の施設に連行される。そこで二人が見たものは、生物科学者の芹沢博士(渡辺謙)と助手のグレアム博士(サリー・ホーキンズ)の監視下におかれた巨大な繭であった。そしてその時、15年前と同じ周波数を計測し、繭の中の生物が動き出し…。


※本稿は、ネタバレ全開で参りますのでご注意ください!






『ゴジラ』シリーズが単なる怪獣映画としての娯楽以上に根深く神聖視されている由縁は、いうまでもなく1954年の第1作の社会的なメッセージ性にあろう。
ビキニ環礁の水爆実験により、住処を追われた原始怪獣ゴジラが放射能を吐き、東京を焦土と化していく。原爆の被害を受け、戦争の記憶が生々しく残る当時の人々にとってその光景は、真に迫る終末的恐怖であったことは想像に難くない。
制御不能の危険物を生み出し、あまつさえそれを利用せんとする愚かさ。そうした驕りに荒ぶる神が鉄槌を下す構図は、幸か不幸か普遍的である。
…が、ゴジラを生物を超越した自然への畏れと捉えるこの感覚が、宗教的な認識や農民族と狩猟民族の意識の壁もあり、他国製では成立し辛いのが現状である。ハリウッドともなれば、どうしても一作目を改変した『怪獣王ゴジラ』(56)よろしく、侵略者、危害を加える怪物は退治すべしという勧善懲悪の概念に寄ってしまうのだ。

という訳で、今回はその点どうなのか?
結果、指揮をとった監督がイギリス人だからか、1作目を研究した成果なのか、日本のゴジラ像をリスペクトしつつ、かつてないゴジラ像を生み出している。
まず設定として、劇中に出現する2種類の怪獣コジラとムートーは、高度の放射能に地表が覆われていた2億7千年前、放射能を主食に地上に繁栄していた巨大生物である。やがて地上の放射能を喰い尽くした彼らは地下に潜り、放射能を含むマグマを食するようになった。ところが、核兵器の乱開発により放射能濃度が高くなり、地上に再進出を開始したという訳だ。
元来、ムートーは原子炉を体内にもつゴジラを食べ、卵を産みつける習性をもつが、地上では原発を狙い、核弾頭に卵を産みつける。
一方、ゴジラは仲間の仇なのか、生物としての本能か、天敵のムートーを倒さんと付け狙う。
要は、人類は蚊帳の外なのである。いってしまえば両者にとっては、煩わしいハエみたいな存在なのだ。軍隊はゴジラを必死に攻撃するも、現に向こうは全然相手にしていない。あくまでもターゲットはムートーである。下手をすれば、攻撃されていることすら、気付いていないのではないか?
そんなゴジラを、バランスをもたらす神=救世主として勝手に解釈して敬う、新しいシチュエーションは、なかなかどうして新鮮である。我々の方を向き、敵として、味方としてアンビバレンスな感情を植えつける日本版と違い、そっぽを向いている無愛想さが逆に頭を空にして応援できてしまう。

また、『パシフィック・リム』(13)でもおざなりにされていた怪獣の哀しさをバッチリ押さえている点も好感度高し。
ムートーと親子二代で因縁のある主人公フォードは、母と父の仇をうつために雌ムートーの産んだ卵を焼き払ってしまう。我が子を黒焦げにされたムートーの嘆きの切ないこと。ムートーに悪気はないだけに同情を禁じえない。かといって、家族を守るフォードも責められまい。復讐の連鎖を描いた、シビアなドラマである。

怪獣の見せ方も完璧だ。常に人間の視点に寄りそうカメラと思わす同期して、スクリーンを見上げてしまう108メートルという最大サイズの巨大さ。日本版がどうしても出せなかった水滴の細かさ。今か今かとじらしにじらす登場シーン。フルCGにも関わらず着ぐるみ感を残した、見慣れると格好いいメタボ・スタイル。全身全霊をかける一撃必殺の放射熱線。極めつけは見得をきるような大咆哮と、鳥肌モノのシーンの連続だ。(なんとなくその諸々の熱さは、『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95)と似通っているのはご愛嬌)
ハワイ、ラスベガス、サンフランシスコの大決戦と、都市を破壊し尽くす怪獣バトルの興奮を味わうだけでも観る価値はあろう。

とはいえ、色々と突っ込みどころも多く、日系俳優の変な日本語や変な日本描写もやっぱり健在。
芹沢博士のキャラが、アインシュタインの轍を踏まぬよう自ら発明した兵器を自らの命で封印する“人類の業”を体現したオリジナルと違い、ほとんど傍観者となってしまったのは勿体ない限り。謙さんの顔力で存在感だけはあるのだが…。
助手役のサリー・ホーキンズ、司令長官役のデヴィッド・ストラザーンという名優の無駄使いも何をかいわんや。

特に、ビキニ環礁の実験がゴジラを殺す目的であったとか、日本での原発事故がムートーの襲撃が原因とだけで済ます神経等、これらの歴史修正はいただけない。それどころか、見ようによってラストは、結局のところ、ゴジラ=核&原発との共存を謳っているようにも見える。
広島の原爆の責任に触れるなど、過去の作品に比べれば前進は前進であろうが、やはり人類の罪を断罪、警鐘を鳴らすという側面からの深刻度は低い。
この辺りは、続編での健闘に期待したい。

しかしながら、本作を観ていると、原発事故以降、1作目のように日本が危機感と使命感をもって『ゴジラ』を作るべきだったと痛感し、悔しさがわき上がってくる。
余計、海に消えゆくゴジラの背中がさみしく見えた次第である。


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『ガンヘッド』 (1989)

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カルトな光を放つ和製ロボット・アクション!



ジャパニメーションのお家芸のひとつである巨大ロボット・ジャンル。『鉄人28号』、『マジンガーZ』、『ガンダム』と進化してきたその深い歴史は、まさに世界に誇る文化遺産といえよう。
ところがどっこい、そんな同ジャンルだが、意外なことに本格的な実写特撮映画として隆盛を極めるには至っていない。『ゴジラ』を例に出すまでもなく、怪獣特撮文化をもつお国柄から顧みると、不思議といえば不思議である。
実はロボットアニメの第一人者である製作会社サンライズも常々、ロボット特撮映画の初矢を放つのは日本でなければならない、というもっともな野望をもっており、80年代後半にすでに実現に向け動き出していた。(その際、プロットに関わっていたのが、若き日の會川昇)やがて、そこに東宝が合流し、企画は一気に加速。紆余曲折を経て、ついに世界初の特撮ロボ映画が誕生した。それが本作である。その意気込みたるやさすがに凄まじく、等身大の模型を投入した大々的な宣伝が展開された。
…が、蓋を開けてみれば、批評家、観客共々から総スカンを喰らい、興行的にも大コケ。すっかりダメ映画の烙印を押され、あまつさえロボ特撮分野の道を閉ざしたとまで批判される始末。
しかし、それでも長年、水面下でファンの熱い支持を得て、こよなく愛され続けているカルト作である。はたして、その魅力とは如何に…!?

2005年、アジア大陸から遠く離れた孤島8JOに、世界初のフルオートメーション工業タワーが誕生。8JOは世界最高のコンピューター“カイロン5”により管理されていた。
2025年7月4日、突如、カイロン5が人類に宣戦布告。世界連邦政府は鎮圧のため、無人戦闘ロボット“ガンヘッド”部隊を送り込む。しかし一年以上に渡る激闘の末、大隊はマザータワーの守護神“エアロボット”の前に全滅。同時に勝利を手にしたカイロン5も、何故か活動を休止するのであった。
そして13年後。人類はその頃、テキスメキシウムと呼ばれる未知の鉱石を発見し、燃料革命が起こり、科学技術が急速に発達。その影でプラスチックやコンピューターチップが金以上の価値をもつようになり、それらを求めるトレジャーハンターたちが活躍していた。
ある日、立入禁止となっている8JOにトレジャーハンター“Bバンガー”の面々が侵入。しかし面々は、カイロン5が連邦政府の研究所に派遣し、テキスメキシウムを強奪させた生体ロボ、バイオドロイドの襲撃を受ける。ただ一人生き残った青年ブルックリン(高嶋政宏)は、バイオドロイドを追ってきたテキサス・レンジャーの女性ニム(ブレンダ・バーキ)と合流。二人は島に潜んでいた子供、セヴン(原田遊人)とイレヴン(水島かおり)に助けられるのであった。そうして4人は覚醒したカイロン5に立ち向かうことを決意。ブルックリンは残骸をかき集め、なんとかガンヘッド507を有人機に改造し、反撃に出るのだが…。

鳴り物入りで公開された割には本作、製作費15億円とこの手の作品にしては、めちゃくちゃな大予算ではない。『天と地と』(90)に50億円かけるなら、本作にそれぐらいかけてほしかったところである(笑)。
よって、予算を有効に使うよう様々な工夫が成されており、舞台も屋内に限定し、ロボットの数と登場人物は必要最小限。ロボットのデザインも二足歩行ではなく、リアル路線を狙ったガンタンク・タイプの戦車形態となった。

かように制約の中で健闘しているといえる本作だが、惜しむらくは語り口がどうも上手くない。
バックに膨大な設定があるのは分かるのだが、如何せん説明不足で、のっけから観客は置きざり状態。全く世界観に入っていけない。要は誰が何の目的で、何をしているのか、細かい状況が一向につかめないのである。申し訳程度にブルックリンのナレーション解説が途中で入るのもスマートとはいえないし、第一、後の祭りである。
極めつけが、デザインが『仮面ライダーV3』の怪人テレビバエにそっくりなことが苦笑の的になっている敵役のバイオロイド。こいつに関しての説明がほとんどなく、設定資料を読めば分かるだが、素で観るとほとんど意味不明である。
カイロンタワーの構造もつかめず、位置関係も分からり辛く、フラストレーションがたまりまくり!特撮効果をリアルにする目的は分かるが、全体的な画面の暗さも分かり難さに拍車をかけている。特撮としては極めて異例な屋内脱出劇の妙を感じられないのは、実に勿体ない。
あと、グローバル感を狙ったのか、英語と日本語がチャンポンのセリフも煩わしいことこの上ない。

原田眞人監督のいつもの「どうユーモアあるだろ?」といわんばかりの気取った台詞回しも、今回は余計に鼻につく悪循環。「アメリカかぶれ」と悪口をいわれても仕方のないところである。
ちなみに氏は本作のアメリカ版ソフト発売の際、勝手に編集されたことに納得がいかず、監督名を“アラン・スミシー”表記にした。ご存じの通り、定番偽名である“アラン・スミシー”使用は全米組合員の権利であり、組合員でない原田監督が使用できるものではない。
念のために記すが、原田眞人監督は僕の最も尊敬する監督の一人である。
本作に関しても、キレのあるショット、編集、戦争映画にオマージュを捧げた展開と、類稀なセンスを見せつけてはいる。上記した台詞回しも、いきなりドジャーズの話をし始めたり、「確率なんかクソくらえ!」とのたまったりと、やたら人間臭いガンヘッドのAIとブルックリンのやりとりに関しては、ナイスな部分がある。
でも今回は、それらの特性のほとんどが上手く機能しなかった。とんでもない傑作を生む反面、ハズレも多い監督さんなのだ。

一体、本作はどれだけ観客をイラつかせたら気がすむのか?総じて、転と結だけをみせられているようで、観客に耐久力を試す作品である。
とはいえ、「つまらない」という点では、本作の支持者も大方、意見が共通しているところがカルト作たる由縁といえよう(笑)。

では本作の見どころとは何か?
まずは何といっても、古き良き特撮技術!ミニチュアの生々しい実在感は、やっぱりどこか血を騒がす魔力がある。建物内部を疾走するミサイルの攻防シーンの迫力は、圧巻の一言。
凝りに凝った美術も、ただただ素晴らしい。日本映画にはめずらしく、しっかり造り込まれている。今観ても充分通用しよう。この味は、CGでは今のところ再現不可能である。ハリウッド製『トランスフォーマー』なんぞ片腹痛し。あんなのロボット・アクションとはいえまい。

語り草になっている本多俊之のサウンドトラックもまた絶品!当音楽は昔から報道番組で使われまくっており、映画は知らなくても、おそらく音楽だけは皆ご存じのはずだ。絶対、「あ、これ『ガンヘッド』の音楽だったんだ!」と目からウロコとなろう。(とにもかくにも、DVDに特典で付くサントラは、永久保存である)

役者陣に関しては、ブルックリン役の高嶋政宏、ニム役のブレンダ・バーキ、セヴン役の原田遊人、イレヴン役の水島かおり以外のキャストはほぼ前半で姿を消してしまうが、トレジャーハンター“Bバンガー”のメンバーに川平慈英、斉藤洋介、ミッキー・カーチスがチョイ役で登場。今から観ると何気に豪華である。とかくこの“Bバンガー”の面々が、それぞれ無駄にキャラが立っており、使い捨てにするのは勿体ないかぎり。もう少し長く話に絡ましてもよかったのではなかろうか?
大根演技が評判の悪い高嶋君は、僕的にはヒーロー然とした花があり、アリだと思う。
ヒロインとしてハリウッドから招いたブレンダ・バーキも、安っぽくなく、実に魅力的!
ただ、監督の愛息子、遊人の縁故キャスティングは、相変わらずどうかと思うが…。

そして本作が強烈に人を惹き付ける要因は、何より造り手の情熱にあろう。
特撮関係では特技監督:川北紘一、メカニカルデザイン:河森正治、等々、超一流どころが揃っており、皆、命がけで取り組んだことが画面から伝わってくる。世界観に奥行をもたらせている緻密な設定もまた然り。バブル全盛期の熱気が匂い立つところもまた然り。
僕も本作のそこはかとない奥深さに魅了され、面白くないなりに何度も観ている。そういう意味では、脳内補完を要求する未完成感が愛嬌となり、期せずして魅力となっているといえよう。
と、かなり特殊な観方を要する一作だが、一見の価値アリ!
日本映画史レベルで再評価すべき作品であるのは間違いない。


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『どですかでん』 (1970)

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黒澤監督が解き放つ、極彩色の異世界群像劇!



映画が誕生して百云年。技術の進化により、その形態は数々の変節を遂げてきた。長いキャリアを誇る巨匠ともなれば、折々の革新にどう対応するかが問われよう。巨神、黒澤明もまた然り。
世がモノクロからカラーへと移りかわる際、黒澤監督は頑なに抵抗を続けたが、やはり時代の趨勢には購えなかった。それはカラー表現を否定していた訳ではなく、もともと画家志望であった監督の色に対するこだわりが強かったがゆえであった。こうして色を手に入れた監督は、一筋縄ではいかない独特のカラー作品を生み出していくこととなる。
という訳で本作は、記念すべき黒澤明初のカラー作品である。モノクロからカラーという区切りもさることながら、監督の人生的にも再出発となる重要作となった。

黒澤娯楽の集大成ともいえる『赤ひげ』(65)を放った後、監督は作家としてさらなるステップアップを望み、当然の如くその眼は海外に向けられた。一方、海外サイドも監督ほどの才能をほうっておくはずはなく、世界デビュー企画が次々に持ち込まれた。
そして、列車アクションの『暴走機関車』、真珠湾攻撃を描いた戦争大作『トラ!トラ!トラ!』と、実現すれば全世界に羽ばたいたに違いない絶好企画が動き出すも、残念ながら双方、頓挫してしまう。(この顛末の詳細は、田草川弘著の『黒澤明vs.ハリウッド』をご一読あれ!)
海外挑戦が失敗し、かつてないスランプに陥った黒澤監督…。そこに手を差し伸べたのが、木下恵介、市川崑、小林正樹という錚々たる名監督の面々であり、4人は協力して創作集団“四騎の会”を結成。黒澤監督の古巣である東宝スタッフも立ち上がり、監督は本作を製作する運びとなる。(ちなみに“四騎の会”は、その後、小林正樹監督の『化石』(75)を手掛けるにとどまり、残念ながら続きはしなかった)

本作の原作は、山本周五郎。『赤ひげ』と本作、作家人生の区切りとなる終わりと始めに同作家の連作短編をとりあげたのは興味深いところである。比較して見えてくるものが多々あろう。

とある郊外の廃墟のような貧しい街。知的障害のある六ちゃん(頭師佳孝)は毎日、他人には見えない架空の電車を運転し、街を周回していた。
そんなスラム街には、種々雑多な人々が住み着いている。

●足の長さが違い、顔面神経痙攣症の持病をもつ島さん(伴淳三郎)は、皆に好かれる好人物であったが、なぜかワイフ(丹下キヨ子)は性悪なグウタラで…。
●日雇労働者の増田(井川比佐志)と河口(田中邦衛)は、いつもつるんで仕事に行き、酔っぱらって帰る仲良しコンビ。ところがある夜、酔った二人はひょんなことから家を取り違えて一夜を過ごし、その日から家はおろか女房まで交換したまま平然と暮らし始めて…。
●廃車に住み着く浮浪者の父(三谷昇)と子供(川瀬裕之)は、いつも豪華な邸宅を建てる夢想に浸っていた。御託だけは一丁前に並べるも自らは働かない父のため、毎日、残飯を集めに飲み屋街に繰り出す子供であったが、ある日、もらった“しめ鯖”に二人は食中毒をおこしてしまい…。
●死人のような眼をし、無感情に生きる孤独な平さん(芥川比呂志)のもとに、元妻(奈良岡朋子)が現れ、一方的に世話を焼きはじめる。しかし平さんは一向に感情を表すことはなく…。
●浮気者の女房(楠侑子)をもつブラシ職人(三波伸介)は、それぞれ父親の違う5人の子供を我が子のように愛し、育てている。ある時、子供の一人がその事でいじめられていると職人に泣きついて…。
●調金職人の老人たんばさん(渡辺篤)は、街一番の良識人。でも街中で暴れる乱暴者(ジェリー藤尾)をいさめたり、家に入った泥棒(小島三児)に親切にしたりと、その行動はどこか凡人を超越しており…。
●伯父夫婦のもとで暮らす少女かつ子(山崎和子)は、伯母(辻伊万里)が入院したため、その代わりに日夜休みなく内職をさせられていた。しかも働かずに飲んでばかりいる伯父(松村達雄)の欲望の対象となってしまい、それがもとでかつ子はある事件を引き起こし…。

本作は、興行的に大コケしてしまい、ショックを受けた黒澤監督は自殺未遂騒動を引き起こし、日本映画界から10年間、遠ざかる結果と相成った。その後も日本映画界の疲弊や加齢もあってか、往年の勢いは戻らず、5年に1本と撮影ペースは極度に遅くなる。
とはいえ、本作の評価が低かったかというと、決してそんなことはない。キネマ旬報のベスト・テンの3位に選出され、そもそもアカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされる快挙を達成している。

でも、観客が受け入れなかったのも、実は無理はない。
本作の公開年には、日本赤軍による日航機ハイジャック事件や三島由紀夫の割腹自殺が世を騒がせ、一方で大阪万博が開催され、高度経済成長にひた走る激動の時代であった。そうした前進的な世相に対し、古く後退的な本作の世界観は完全にズレており、当時の段階で本作を放つ戦略がいまいち窺えない。
さらに原作には、山本周五郎の作風である哀しくも温かい人情節が漂っているのだが、一転、本作は一種のファンタジーともいえるアプローチとなっている。本編で展開される世界は、リアルな汚しの割に生々しくなく、およそ現実の話とは思えない。ドギツイ色彩の中、エキセントリックな登場人物がおりなす幽界の群像劇である。
『赤ひげ』、『どん底』(57)と、これが同じ監督作だと一見して誰が分かろうか。

やはりこれは上記騒動の影響で、監督の作家精神が内面世界に閉じこもってしまったのだろう。いわば、心がガラパゴス化したのだから、世間と意識のズレが生じても詮なきこと。僕は本作以降の監督作全て、意識が外に向かうことはなかったように感じる。物語を牽引する三船敏郎や志村喬のような強力な外部の分身的存在を配置できなくなったことが、その病巣を象徴していよう。
当然、そうした作風の方向転換はこれまでのエンタメ路線とは180度異なるため、ファンにそっぽを向かれる羽目となる。が、それはそれでアバンギャルドな良さがあり、今一度、積極的に再評価していくべきであろう。
黒澤監督ほどの手腕ともなれば、どちらに転んでも並の作品が生まれる訳がない。

本作はそういう意味では過渡期の作品であり、さらに初カラーということで、かつてない迫力の異色作となっている。
黒澤監督は本作を、「リラックスして、明るく、軽く、可愛く、撮った」とおっしゃっているが、到底理解できない(笑)。
その言葉が似合うのは、武満徹の音楽のみ!今回の氏の音楽は、内容から浮き上がるほどにじんわりハートウォーミングである。

黒澤監督、小国英雄、橋本忍が共同で手掛けた脚色に関しては、まさに神の職人芸!
周囲に「電車バカ!」と罵られながらも想像上の電車を運転し、楽しく我が道を行く六ちゃん、一方、端からは現実逃避に見えない、ひたすら痛々しい乞食の父子の貧しき者の妄想。夫婦交換して平気な顔をしているおおらか(?)な夫婦と、妻の過去の姦通を頑なに許さず、抜け殻のようになっている平さん。悪妻に無償の愛をそそぐブラシ職人と島さん。自身の存在を好きな彼に示さんと、衝撃の行動におよんだかつ子の哀しいエピソード、等々…。
可笑しいものからシリアスなものまで、ごった煮にして、なおかつ相互作用させる見事なまとめぶりは唸らんばかり。

オープンセットが組まれたゴミ山の町の様相も、圧巻の迫力!いつもの如く凝りに凝った美術に見惚れてしまう。
この際、妙な色が浮き出た地面を喜んで活用した黒澤監督だが、実は土には近くで操業していた工場により、後に公害問題となる有毒の六価クロムが含まれていたそうな。ゾッとするシャレにならない逸話である。
今回、色彩に関して黒澤監督は、撮影法にこだわるというよりは、セットを奇抜な色に塗りたくり、地面に墨汁で影を書いたり、カメラの前に透明ガラスを置き、そこにマジックで色をつけたりと、被写体に直に色をつけていった。そのケバケバしい効果には賛否両論あるが、一見の価値はあろう。

役者陣も、『赤ひげ』の長坊役が鮮烈であった頭師佳孝が、本作のキーである六ちゃん役で見事なパントマイムを披露しているのをはじめ、菅井きん、三波伸介、芥川比呂志、奈良岡朋子、三谷昇、井川比佐志、田中邦衛、松村達雄、ジェリー藤尾、根岸明美、三井弘次、等々、黒澤組初参加の俳優たちも含め、バラエティ豊かな面々が勢揃い!
島さん役の伴淳三郎が同僚に瞬間的に怒りをぶちまけるシーン、たんばさん役の渡辺篤と自殺志願の老人役の藤原釡足の毒薬をめぐるやりとり、といったベテラン陣の圧倒的な長回し芝居は、一言、必見!
実力派役者陣のアンサンブルを眺めるだけでも、充分満腹感は得られよう。

まさに、生々しさを取り除いたうえで、“人間の本性”をあぶり出した、ジャンク・アートのユートピア!
一人の巨匠が内なる世界を開いた、ドラッキーな奇作をぜひご堪能あれ!


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『るろうに剣心 京都大火編』 (2014)

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疾風怒濤の剣劇活劇、満を持しての第2弾!



前作よりパワーアップしたアクション満載、全編かっ飛ばす快作ではあるのだが…。
本作は、94〜99年に週刊少年ジャンプで連載され、大人気を博した和月伸宏の同名漫画の映画化第2弾。前作で好評を得た大友啓史監督、佐藤健らキャスト陣は続投。原作でも圧倒的支持を集める“京都編”を2部作で映像化するというのだから、テンションMAXである。ご多聞にもれず、僕も原作の中であえて王道ジャンプ・バトルに挑んだ当パートが大好き!この主人公と仲間たちが悪の軍団と次々に戦っていく構図(車田漫画形式)は、単発の映画では成立し辛いのが現状である。それがこれほど贅沢なお膳立てでもって実現したのだから、期待するなという方が無理である。矢も盾もたまらず、劇場へ直行したのだが…!?

幕末、“人斬り抜刀斎”と恐れられた伝説の刺客、緋村剣心(佐藤健)は、明治の世になると、“不殺(こらさず)”の誓いを胸に逆刃刀をさげ、“流浪人(るろうに)”として各地を放浪。いまは神谷薫(武井咲)が師範代をつとめる神谷活心流道場の居候となり、弟分の少年、弥彦(大八木凱斗)と喧嘩屋の相楽左之助(青木崇高)、医師の高荷恵(蒼井優)と共に穏やかな日々を送っていた。
そんなある日、明治政府の内務卿、大久保利通(宮沢和史)が道場を訪れ、かつて剣心の後を引き継ぎ、役目が終わった時点で焼き殺されたはずの志々雄真実(藤原竜也)が復活し、京都で暗躍している旨を聞かされる。日本制圧を目論む志々雄一派に手を焼いた政府は、剣心に討伐を依頼するのであった。薫たちの心配を背に悩む剣心であったが、大久保が志々雄に仕える剣客、瀬田宗次郎(神木隆之介)に暗殺されたのを機に、一人京都に旅立つことを決意して…。

何をおいても真っ先に眼を見張るのは、新加入キャスト陣のクオリティである。
志々雄真実役の藤原竜也のビジュアル問題は、包帯グルグル巻きなので難なくクリア。なおかつ氏の大げさな芝居が、壮大な怪人キャラに合っている。
四乃森蒼紫役の伊勢谷友介は、キザでニヒルな雰囲気がぴったり。
加えて、とにもかくにも瀬田宗次郎役の神木隆之介が完璧すぎよう。天使の笑顔、漂う空虚さと神速の強さ。当役を演じるために生まれてきたのではと思えるほど、何から何まで宗次郎でそのものである。
大久保利通役の宮沢和史の実在イメージとの違い、巻町操役の土屋太凰ちゃんと張役の三浦涼介の違和感ある関西弁と気になる点もあるが、とりあえず文句なしのキャスティングであった。

さすが大友作品といえる美術や衣装の汚し、登場人物のメイクのリアリティも、相変わらず手がこんでいて唸りに唸る。
最大の見せ場である殺陣も、初見のインパクトはさすがに薄れたが、アクション監督、谷垣健治の腕が思う存分冴えわたり、大いに魅せられた。剣戟のみならず各種武器を用いたバトルから肉弾戦とバラエティに富み、動きだけで個々のキャラのドラマを表現せんとする気概がひしひしと伝わってこよう。そしてその試みは成功している。
超人スレスレのスピーディーな動きをリアルと非リアルのバランスで体現するアプローチも、あらためて好感度大。中国の武侠、カンフー、ハリウッドの銃撃戦、アメコミヒーロといった既出のいずれとも一味違うオリジナリティを切り開いた功績は、やはり讃えたい。

脚色に関しては、原作をソツなくまとめてはいる。が、如何せん途中参加の四乃森蒼紫が浮いてしまっており、御庭番衆サイドでまとめんとした努力は認めるが、一見、ラスボスが二人いる感は否めない。
個人的には、左之助と安慈(丸山智巳)との決戦が好きなだけに、二人の因縁もちゃんと描いてほしかった。
また、上記したアクションのつるべ打ちで飽きこそしないが、平和の世の訪れと共に、使い捨てにされた動乱の時代の殺し屋たちの贖罪と復讐のテーマが横たわり、終始重い。その上、エピソードが団子状で“戦い”、“説教”、“ボヤキ”のルーティンが続くので、シリアス・ムードに次第に辟易してくる。原作ではジャンプ漫画らしく適度に気を抜かせてくれる“おふざけ”があるのだが、本作ではオミット。コメディリリーフのはずの張や操もその役割を果たしていない。この辺りのポップさは、うまく再現してほしかったところではある。

クライマックスの京都市街戦もスケールが大きく観応えはあるが、基本、雑魚と斬り合うのみで、どれほど殺陣が凝っていても飽きてくる。十本刀の刈羽蝙也(原勇弥)と夷腕坊(山田崇夫)、もしくは才槌(島津健太郎)と不二(山口航太)を投入して盛り上げてもよかったのではなかろうか?十本刀(張を除く)を後編にむけて温存し過ぎであろう。
印象としては、間延びされた“ひき映画”として『ホビット 竜に奪われた王国』(13)と重なった。
でもまあ一ヶ月後に続きが観れるから、まだマシか。
作品としての正当な評価は、二部作まとめてから判断せねばなるまい。


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『ホットロード』 (2014)

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現代に甦りし、伝説の青春少女漫画ではあるのだが…?!



安定ヒットを狙った手堅いつくりではあれ、ちょっと物足りない一作であった。
本作は、86〜87年に別冊マーガレットで連載され、当時の若者の熱狂的支持をうけた紡木たくの同名少女漫画の映画化。原作者のお墨付きを得て、ようやくの実写版実現となった。が、当時の時代性を色濃く反映させた作品であるだけに、その古さをどう現代に成立させたのか?そんなことが可能なのか?不安一杯の企画であるのは確か。
加えて、なんといっても朝ドラ『あまちゃん』(13)で大ブレイクした能年玲奈ちゃんのドラマ後初主演の映画であり、今後をうらなう重要作として俄然、注目を浴びている本作。はたしてどんな作品に仕上がっているのか、ハラハラドキドキしてスクリーンに臨んだのだが…!?

1980年代。14歳の少女、和希(能年玲奈)は幼い頃に父親を亡くし、母親(木村佳乃)と二人暮らし。母親は現在、高校生時代から好き合っていた男(小澤征悦)と不倫中であり、自分が望まれた子供でなかったことを和希は一人思い悩み、窮屈な生活をおくっていた。そんなある夜、転校生の絵里(竹富聖花)に誘われ、湘南に赴いた和希は、ガソリンスタンドでバイトする暴走族“NIGHTS”のメンバー春山(登坂広臣)と出会う。はじめは何かと衝突し合う二人であったが、孤独な境遇に共感し、次第に距離を縮めていく。しかし春山はNIGHTSの総頭を引き継ぐことになり、敵対グループとの抗争に巻き込まれていき…。

映画化の報を聞いた際、まず思ったのが原作の設定通り80年代のままにするのか、現代に移し替えるのかという判断である。どちらも難しいのでは?と内心、危惧していたが、本作では一応、原作に準じた時代となっている。
ただ、字幕が出たりの説明はなく、TVに当時の番組が写ったりだとか、流行の音楽だとかの風俗描写はナシ。極力、時代性を感じさせないように慎重に撮られている。携帯電話がなかったり、制服の着こなしであったり、ちょっとしたことで窺えはするものの、過去であって過去でないような何処かフワフワした世界観で物語は綴られていく。
同時に、不良文化の要素も根こそぎ削ぎ落とされている。酒、煙草、シンナー、和希の有名な自傷行為等は全てカット。今さら暴走族なんて…という意見をあざ笑うように、そっち方面の生態はほとんど触れられない。要するに周囲の生々しさを取っ払ってぼやかし、和希と春山の青春ドラマにピントを合わせている訳である。

間違いを犯してしまう弱い親(大人)たちが汚いものに見え、社会に背を向けて刹那的な快楽に身をゆだねる和希と春山。裏腹な言葉を吐き、誰にも分かってもらえず焦燥を募らせる。「甘え」と片付けるにはあまりに純粋なその気持ち。愛に飢え、自分の居場所を見つけられずにもがく似た者同士の二人が、傷つけ合いながら心を通わせていく。
そんな二人を通して、「自分は誰かに大切にされているということを、大人は教えていかなければならない」という普遍的な問題提起を浮かび上がらせる仕組みである。
ネグレクトや子供の犯罪といった痛ましい事件が横行している昨今、本作を観ると、それらの受け皿に不良たちの仲間意識が幸か不幸か機能している事実が興味深い。現在はそうした不良ネットワークも希薄になってしまったのだろうか。
ことほどさように、和希の春山に特化した構成としては当テーマが現代性をもって迫って来よう。

また、上記したある種ファンタジーなノリなので、能年玲奈と登坂広臣がそれぞれ中学生と高校生を演じる年齢問題もさほど気にはならなかった。イメージが違い過ぎると賛否両論を呼んでいる登坂広臣のキャスティングも、春山のエピソード自体が大幅カットされているので、心配したほどの引っ掛かりはない。

…が、目論見はわかっても漫画『ホットロード』の映画化として成功しているかというと、ハッキリいって微妙なところである。
余白の演出やモノローグ、情景インサートと原作の詩情を最大限伝えんとした工夫は認めたい。でも、あえてオシャレっぽい非リアルな世界観にした為、内にとぐろを巻く登場人物のひりひりした感情、死に吸い込まれていく春山の危険さ、そこに和希が惹かれていく心情が真に迫らず、どうも嘘くさい。それはリアルに画となる映像と漫画の表現の差でもあり、なんとなくサクサクと流れるPVをみせられているような軽い印象をどうしても受けてしまう。
我らが能年玲奈ちゃんも終始出ずっぱりでキラキラ・オーラではなく、表情の変化でもたせる陰のオーラで存在感をみせてはいるが、役を演じている感がつきまとい演技下手にみえる。これも本作が造り出したマイルドというより表層的な演出の弊害だ。
エンドロールに流れる尾崎豊の『OH MY LITTLE GIRL』でつい感傷に流されそうになるが、個人的には当曲はあくまでドラマ『この世の果て』(94)の主題歌。おいそれと誤魔化されはしない。

よって本作、はたしてこれを『ホットロード』の映画化といっていいのか?と首を傾げるほど原作の味は出ていない。
他方、未読の若い層への波及としては無難にまとまっており、携帯小説の恋愛映画並には受け入れられよう。そもそも商売的にそこを目指したというのなら、もはや何もいうまい。
原作をバイブルとして大切にしている人たちは避けた方が賢明である。

僕個人としては、現実的ではないにせよ、原作の時代性やヤンキー文化を含めて酸いも甘いも徹底再現し、社会批評の視点を加えた方が本題材を扱うにおいては理に叶っていると思うのだが…。


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『華麗なるギャツビー』 (1974)

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成金男の哀しき人生に映し出される時代性!



幸せとは何か?
大金持ちになる?恋愛が成就する?やりたい仕事につく?はたまた夢を追っている過程?それとも平凡な日常?
答えの出ない問題を頭の中で巡回させた経験が誰しもあろう。そうしたテーマをズシンと胸に響かす傑作といえば、アメリカ文学史上、世紀の傑作と名高いF・スコット・フィッツジェラルド著の『グレート・ギャツビー』である。
F・スコット・フィッツジェラルドは、1986年ミネソタ生まれ。プリンストン大学を中退し、陸軍に入隊。除隊後の1920年、処女長編『楽園のこちら側』を出版し、ベストセラーとなる。第一次世界大戦という人類初のワールドサイズの戦争を経験し、価値観を一変させる大きな喪失感を味わった若者たち=“失われた世代”を代表し、未曽有の軍需好景気にわいた1920年代、国民が日がな一日、ジャズを聴いて遊びほうけていた、いわゆる“ジャズ・エイジ”を象徴する作家さんである。
私生活では、奔放な妻ゼルダに振り回され、世界恐慌でバブルがはじけた後は、急激に過去の人となり、結果、慢性的な財政難とアルコールに溺れながら44歳で死去。1925年に発表された『グレート・ギャツビー』が今日にいたる評価を受けたのは、死後十数年を経た後であった。
当作は何度も映画化されているが、一般的に成功作はないといわれている。
という訳で本作は、映画化作の中で最も有名なジャック・クレイトン監督作。
第47回アカデミー賞にて、衣装デザイン賞と音楽賞を獲得。当時、若手NO.1であった我らがロバート・レッドフォードをギャツビー役に招聘。同年に『ゴッドファーザーPART2』の公開を控え、まさに頂点を極めつつあったフランシス・フォード・コッポラが脚色を手掛けたヒット作である。

1920年代アメリカ、ニューヨーク郊外のロングアイランド。中西部から越してきた証券マンのニック(サム・ウォーターストン)は、従妹のデイジー(ミア・ファロー)と富豪の夫トム(ブルース・ダーン)と交流を深めていた。しかし、トムは馴染にしている修理工ウィルソン(スコット・ウィルソン)の妻マートル(カレン・ブラック)と不倫しており、二人の夫婦仲は冷えきっていた。
そんなニックが最近、気になっているのは、隣人の謎の大富豪ギャツビー(ロバート・レッドフォード)の存在。毎夜、大勢のセレブを邸宅に招き、豪華絢爛な宴を盛大に繰り広げるこの男は何者なのか?噂が噂を呼ぶ中、ニックもパーティの招待をうけ、ギャツビーと知己をえる。そしてニックはギャツビーの秘密を聞くことに。
貧困層出身であったギャツビーは、軍人時代にデイジーと出会い、愛し合う。ところがギャツビーが戦地に赴いている間にデイジーはトムと結婚。ショックをうけたギャツビーはデイジーを取り戻すべく、遮二無二働き、現在の地位に成り上がったのであった。
そうした事情を聞いたニックは、ギャツビーの想いを酌み、デイジーとの再会をお膳立てするのだが…。

比較的、流れは原作に忠実であり、傍観者である普通人ニックを語り部に、躁状態の時代を謳歌するミステリアスな大富豪ギャツビーというキャラクターの正体を暴いていく。
貧しい青年ギャツビーは自分を棄て、金持ちと結婚した元恋人デイジーが忘れられず、一念発起。裏稼業に手を染め、好景気の波に乗り、成り上がる。そしてわざわざデイジーの家の近くに大邸宅を構え、彼女を呼び寄せるべく大宴会を日夜、開催。静かにチャンスを待つ。アメリカ版『金色夜叉』といったところか。

たとえ大金持ちになっても、心が埋まらない人間の哀しき業。恋で盲目となり、薄っぺらい女の虜となる男の愚かさ。夜な夜な行われるギャツビーの虚飾の宴が、痛烈に人生の虚しさを訴える。これはまさに儚いジャズ・エイジの実感であろう。
そして一代の歴史しか持たないギャツビーという成金の空虚は、そのままアメリカという若い国の持つコンプレックスを象徴している。その点こそ本原作が当国の国民の心をわし掴む由縁といえよう。

F・スコット・フィッツジェラルドは、実生活を反映させて物語を紡ぐタイプの作家であり、本作においても、ニックやギャツビーといったそれぞれのキャラに自身を分散させ、デイジーに妻のゼルダを当てはめ、リアルな葛藤が表現されている。
派手好きのゼルダを養うべく、金になる大衆短編小説を書き続けねばならなかったフィッツジェラルドは思うように長編を書けなかった。だが反面、浮世離れしたゼルダの刺激がなければ、氏の作家的衝動は起動せず、そもそも『グレート・ギャツビー』の発想は生まれることはなかった訳である。その辺りの因果を登場人物に重ね合わせて観ると、より本作の理解が深まろう。

何となく原作よりのレビューになっているが、気を取り直し、本映画のキャスト陣をご紹介!
ギャツビーに扮したロバート・レッドフォードは全盛期であっただけあり、そのスマートな美しさはタメ息もの!謎めいた神秘の雰囲気を漂わせ、圧倒的な存在感を誇っている。まさにスターの横綱相撲!
ただ、如何せん育ちがよく見え、到底、裏稼業に手を染めた成金には見えない。本役はギラギラした野心、ダークサイドが垣間見える役者さんでなければ務まるまい。その辺りが少し、残念なところである。
対して、デイジーを演じたミア・ファローは、逆に生粋の金持ちのお嬢様には見えない。彼女こそ成り上がりに写る。
確かに魅力的ではあるが、あべこべな両者はミスキャストといえよう。演出的にも二人のメロドラマにより過ぎている気がする。美術、衣装、撮影と時代の空気をうまく再現してはいるのだが…。

さて。
かような本作だが、実は原作と全く印象が異なる作品に仕上がっている。
決定的であるのが、デイジーの描き方。原作ではデイジーの存在は曖昧なところが残り、人間性に関しては解釈をゆだねる形がとられている。妻ゼルダがモデルということもあり、フィッツジェラルドに当キャラ、いわば女性全般に対する温情及び理想があったのだろう。
一方、本作ではラストに数シーンを加えることで、デイジーは現金で理解不能な女に堕している。若干、思わせぶりな演出はあるにはあるが、ハッキリいって、最悪の女である。件の崇拝性は微塵もない。
ラストも原作では希望があるのだが、本作ではそうしたニックのモノローグもバッサリ甘さが切り捨てられ、救いようなく幕を閉じる。
ここはやはりアメリカン・ドリームが夢幻と化し、ニューシネマが勃興した公開当時の終末的な空気が影響しているのだろう。
もちろんそのことを批判している訳ではなく、名作文学の映画化のアプローチとして正しい在り方だと思う。普遍的な名作を各時代にマッチさせ、アレンジしてこそ造る意味があるというものだ。

とはいえ、ギャツビーの人生が与える感情は千差万別。
若きギャツビーがたてた健気な一日のスケジュールは、時代を越えて観る者の感涙を誘う。
結局、最後には何も残すことはなかった憐れな男の寂寞感…。そんな男に投げかけるニックのはなむけの言葉は、邦題の『華麗なるギャツビー』より、原題の『偉大なるギャツビー』の方が感覚として相応しかろう。


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『トランスフォーマー/ロストエイジ』 (2014)

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問答無用、スーパーアトラクションを体感せよ!



165分(!)の上映時間、くまなくバカ騒ぎできる一大エンターテインメントではあった。というか、それだけであった。
本作は、日本製おもちゃをもとにつくられたハリウッド製アクション『トランスフォーマー』シリーズの第4弾。一応前3作を区切りとし、キャストは一新され新章開幕となるも、我らがマイケル・ベイはもちろん続投。シリーズを重ねる毎にスケールが大きくなり、内容なんて頭に入ってこないほど、とにかく画の迫力で押しまくるのが本シリーズの醍醐味だ。3作やって、まだその上をいくテンションをもってくるのだから、監督の底知れないポテンシャルには驚かんばかり。もはやその無尽蔵なエネルギーに飲み込まれるしかあるまい。
IMAX3Dの最前列ど真ン中というポジションに陣取り、体調万全、頭を空にしてアトラクションに挑んだのだが…。

人類の存亡をかけた善悪トランスフォーマー、“オートボット”と“ディセプティコン”の決戦から4年後。トランスフォーマーを危険視した政府は、発明家ジョシュア(スタンリー・トゥッチ)をボスにそえた反トランスフォーマー組織“KSI”を立ち上げ、“オートボット”までも抹殺の対象とし、取締りの強化に勤めていた。
そんなある日、テキサスで廃品工場を営む自称、発明家のケイド(マーク・ウォールバーグ)は、安価で仕入れた中古トラックが、“オートボット”のリーダー、オプティマスプライムであることを知る。愛娘テッサ(ニコラ・ペルツ)の反対にあいながらも、深手を負ったオプティマスプライムの修理にあたるケイド。しかし、察知したKSIの襲撃に遭い、覚醒したオプティマスプライムとテッサの恋人であるレーサーのシェーン(ジャック・レイナー)の活躍により、ケイドたちはなんとか窮地を脱するのであった。そして、KSIにトランスフォーマーのバウンディ・ハンター、ロックダウンが協力している事実を知ったオプティマスプライムは、隠棲していたバンブルビーら仲間たちを収集。KSIの裏で蠢く陰謀を暴かんと立ちあがるのだが…。

一作目を観た時は、乗り物からロボットへ変わるトランスフォームを分子レベルで再構築するように一瞬でみせる演出に、「どこがどう収納され分解されるのか、そのプロセスが大切なのに、わかってないなぁ〜」と幻滅。かような切なる想いを無視して、シリーズを重ねる毎にどんどんスピーディーになり、トランスフォーマーは気色の悪いサイボーグと化していった。本作では喜ばしいことに変形速度は若干遅くなってビジュアル的には強化されたが、新たにロギア系能力者のように変幻自在に変形する人工のニュータイプが登場。何が起こっても信念を曲げない男、マイケル・ベイの面目躍如である。

ブロンドのナイスバディのねーちゃん、くだらないギャグの応酬(『パシフィック・リム』をライバル視?)、無駄にオシャレなカーチェイス。
前半で個性豊かに描かれた各キャラたちも、後半ではどうでもよくなってくるドラマ性のなさ。様々な陰謀が渦巻くも、結局どうでもよくなってくる構成のザツさ。それらを糾弾する思考自体を停止させる情報量の多い画造りと、押せ押せバトルの凄まじい勢い。
…と、期待を裏切らない怒涛のベイ・ワールドが展開していく。

何はともあれ、アクション・シークエンスは圧巻の一言!いま実現しうる最大のアクションといっても差支えあるまい。大火薬を投入した諸々の破壊シーン、襲来する巨大宇宙船、高所のハラハラ逃亡劇、恐竜型トランスフォーマー“ダイナボット”が参戦する熱いクライマックス等々、後半、中国へと舞台が移り、ちょっと盛りだくさんのサービス過剰なような気もするが、そこはラーメン二郎の心意気。全てに気合が入りすぎてメリハリを失うという本末転倒もご愛嬌だ。
興奮や満足より疲労感がおしよせる危険性に備え、体力勝負を挑む心積もりが必要である。
IMAX3Dカメラで撮影された驚異の映像は、それこそ高額を払ってIMAX3Dで観る価値はある。

ただ暴走しているとはいえ、米中合作映画としての配慮を怠らず、スポンサーサイドの意向を酌み、中国にきっちり媚びを売るベイの融通の良さは特筆に値しよう。わりきって金儲けとしてつくっているのかもしれないが、それをもパロディにして楽しんで造っているように見える。製作サイドにとってこれほどありがたい巨匠はいまい。

しかし、そんな能天気な本作だが、どこか腰のすわりの悪さを感じるのも確か。
まずケイドの友人ルーカス(T・J・ミラー)の死に様。これがこの手の大作ではめずらしく残酷な死を遂げ、しかもしつこく映し出す悪趣味ぶり。一体なぜこんなドン引きする真似をしたのか?
それにKSIは、CIAの高官アッティンジャー(ケルシー・グラマー)が黒幕として操っており、アメリカ政府および軍隊は蚊帳の外におき、独自に悪だくみを企んでいる。
本編から漂うこのキナ臭さは、自分たちの預かり知らない間に世の中が一変しているリアルな感覚を表現しているのではないか?
本作の世界興行成績が示すように、もはやアメリカは中心市場ではなく、いまや中国にうって変わられている。映画興行がアメリカの専売特許ではなくなっている事実を冷酷に物語るこの現実。本作の行き過ぎたゴア描写や歪な構造は、そうした潜在的な脅威に基づいているのではないか?
映画史的にも、さり気なく重要な一作であるのかもしれない。


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『STAND BY ME ドラえもん』 (2014)

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今の世にあらためて存在意義を問い直す、ドラえもんCG版!



『ドラえもん』とは何なのか?ふと立ち止まり、想いを馳せるのに優良な感動作であった。
本作は、日本が世界に誇る国民的アニメ『ドラえもん』初の3DCG化作品。TVシリーズ、春の大長編とも異なる夏の特別編だ。鬼門であったアメリカにも準備を整えて進出したタイミングで公開する本作が、藤子・F・不二雄先生の生誕80周年を祝す真の勝負作であるのは間違いあるまい。…が、共同監督・脚本に山崎貴の名が並んでいるのをみて、警戒心がわいたのは確か。案の定、山崎流の横文字タイトル、予告編から窺える「さあ泣け、ほら泣け」と押しつけがましい感動シーンの数珠つなぎぶり、極めつけは「いっしょにドラ泣きしません?」のキャッチコピー…。あまりのあざとさに出るはずの涙も引っ込もうというもの。
かように個人的に深刻な偏見をもって臨んだのだが、これが意外にも…。

運動に勉強、何をやらせてもさえない小学生のび太の机の引き出しから、ある日、子孫のセワシ君が飛び出してくる。22世紀からタイムマシンでやってきたというセワシ君がいうには、未来ののび太がつくった借金のせいで子々孫々、迷惑をこうむっているのだとか。そこでネコ型ロボット、ドラえもんをお世話係につけるので、どうにかして未来をバラ色に変えてくれと頼みこむのであった。こうして乗り気でないドラえもんとのび太は共に暮らすことになり、まずはのび太の意中の人である小学校のマドンナしずかちゃんと将来、結婚できるよう何かと策を練るのだが…。

物語は第1話から『さようならドラえもん』、『帰ってきたドラえもん』まで、いくつかの有名エピソードをかいつまんで一本化。
そもそもセワシ君とドラえもんはタイムパトロールに捕まるのでは?なぜドラえもんのような未来ロボットを、周囲が自然に受け入れているのか?等々、再構築とはいえ、その辺りの補正はされることもなく世界観はそのまま、新要素も必要最低限に抑えられている。
新要素では、ドラえもんの目的をズバリ“のび太の幸せ”としたことにより、やっている不正行為の邪念を少し弱め、ドラえもんに“成し遂げプログラム”という、のび太を幸せにしないと22世紀に帰れず、目的が達成されると絶対に帰らなければならない、というリミットを設定。特にこの“成し遂げプログラム”は、小憎たらしいほど巧妙に効いてくる。

基本的には原作エピソードに忠実に進むのだが、そこで昨今、台湾等の海外でも批判にあがるようになった、のび太に対する甘やかし問題への解答ともとれるメッセージ性を浮かび上がらせていく。要は、最終的にはドラえもんのひみつ道具ではなく、のび太自身の意志と努力によって未来を変えていくことを強調した構成になっているのだ。この抜かりのなさは、心強い限り。

という訳で、はじめは反感をもっていたものの、すぐに作品の中に入り込んでしまった次第である。これはもう原作の力といえよう。
はい、泣きました。泣きましたとも。
でも自分でも意外だったのは、ドラえもんとの別れを綴った定番の『さようならドラえもん』より、『たまごの中のしずちゃん』、『しずちゃんさようなら』、『雪山のロマンス』から『のび太の結婚前夜』に至る、のび太としずかちゃんのラヴ・ストーリーの方により涙腺を刺激されてしまった。結婚したことも、ましてや娘を嫁に出したこともないにも関わらず、だ。
これには布石があった。大人になったのび太たちを実写ドラマ仕立てで描いたトヨタのCMシリーズの一編。青年のび太(妻夫木聡)がしずかちゃん(水川あさみ)にたずねる。「どうして僕みたいなのと付き合ってくれるの?」しずかちゃんはいう。「私がいないと、のび太さんダメじゃない」。
このやりとりが無性に泣けたのだ。のび太はあらゆる意味で永遠に、ダメ人間の希望の星なのである(笑)。

また本編ののび太とドラえもんの関係性をみていると、友人のありがたさが骨身に沁みよう。共に遊び、笑い、何かあると泣きつき、相談できる友達。そういう存在がいれば、人は曲がらずに生きていける。劇中でも描かれるが、のび太やスネ夫、ジャイアンたちはなんがかんだで大人になっても仲良くつるんでいる。
それは現在、希薄になっている友達関係の理想なのだろう。甘えなどではあるまい。むしろ人はのび太のように、友のために一人立ちするのだから。

賛否両論を呼んでいる3DCGも、はじめは正直、「気色悪っ」と毒づいていたが、実際観てみるとアニメ感を残したタッチが割と親しみ易い。下手したら、表情の豊かさにおいて2Dよりキャラに入り込めたかもしれない。
新デザインのひみつ道具、壮大な未来世界の楽しいビジュアルと造り込みもさすがの一言。

とはいえ、一本の単体映画としては、お世辞にもよく出来ているとはいえない。いわば、『ドラえもん』を一切知らない人にこれを観せても、いかほどの感動も得られまい。これだけ感情移入できるのは、『ドラえもん』で育ったバックグラウンドがあるがゆえ。観る者の脳内補正によるところが大きかろう。でも『ドラえもん』ほどTVシリーズ、大長編と長年差別化されている作品ともなれば、それはそれで仕方ないとも思う。
3DCGの大長編をちょっと観てみたい。


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『東京裁判』 (1983)

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次世代に語り継ぐべき、入魂ドキュメンタリー!



人類史上、未曽有の暗黒録を刻んだ第二次世界大戦が終結して幾星霜。いまだに当大戦の影響が中国、韓国、アメリカといった関連諸国と我が国との外交でくすぶり、尾を引いているのはご存じの通り。にも関わらず、若者には当戦争についての知識が欠如しており、戦後教育についての問題が浮かび上がってきている。
例えば、靖国問題。いわゆるA級戦犯について、そして彼らが裁かれた極東国際軍事裁判、通称、東京裁判についてはどうか?
韓国や中国の反日感情に嫌悪感を抱く前に、正しい認識を持つことが急務であろう。教育的な怠慢は免れないが、幸いそれらを補う優れた映画、書籍は巷に溢れている。
という訳で本作は、アメリカの国防総省(ペンタゴン)に保管されていた東京裁判の膨大な記録フィルムを編集し、超大作ドキュメンタリーとしてまとめあげた小林正樹監督の入魂作だ。

では東京裁判について、僕の拙い知識で解説していきたいと思う。
簡単にいうと本裁判は、連合国軍が指定した我が国の主要な戦争犯罪人を裁いた場であるのだが、その実、様々な問題を孕んだ裁判として後世に物議を醸している。

まず戦勝国が敗戦国を裁く構図が、正当かどうか?
仮に日本が独立して主権を取り戻した後で、自国内で自国人の裁判をやるというのならまだ妥当といえよう。戦勝国であるアメリカ側の民間人を大虐殺した空襲や原爆の罪を問わずに、一方的に敗戦国の罪が問われる図式は、公平性に欠けるといわざるをえない。

また、本裁判で被告が問われた罪の区分である、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、ポツダム宣言受諾の時点で急遽作られた条項である。要は、被告は後から作られた“事後法”によって裁かれた形となり、もちろん近代刑法において、事後法で裁く行為は言語道断、許されてはいない。
よって、法的にも明らかに成り立たない裁判なのである。

ではなぜ裁判は強行されたのか?
それは占領政策をすすめるべく、日本国民に敗戦のケリを提示する悪玉の象徴をつくり出すための政治ショーの意味合いであった。現に本裁判の主導は、連合国管轄下ではなく、連合国最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官が布告した条例に基づいている。
また裁判官及び検事は、戦勝国11ヶ国の代表者で構成されており、それぞれがそれぞれの思惑で自国の被害を訴える復讐劇の様相を呈していた。

結果的には、マッカーサーの象徴天皇制を残して、日本を統治する占領政策は歴史上、類を見ない成功をおさめた。日本国民は天皇信奉により国体を護持し、時の戦犯に罪を背負わせ、アメリカを救世主として諸手をあげて受け入れたのである。戦争は軍部の暴走であり、日本は“悪”であったとするこの自虐史観は、イコール東京裁判史観であり、日本人の共通認識として連綿と根付いているのである。

いってしまえば、裁く方も裁かれる方も茶番であることを承知で決行した、世紀の出来レースとでもいおうか。
本裁判が滑稽であるのは、批判を免れる布石として一応、民主主義の体裁をとっているため、上記した矛盾をあろうことかアメリカ人弁護士が真面目に裁判内で訴えている点である。それらはほとんど表に出ることはなかったが、水を漏らさぬ正論であった。
茶番である分、検察側の提出した連合国側の資料はほとんど採用されたが、弁護側の出した資料はほとんど却下されている。

また先に行われたドイツ戦犯を裁いたニュルンベルク裁判を前例に、同じ成果をあげようとした浅慮も誤算であったといえよう。
実際、ナチス党とその指導者であるアドルフ・ヒトラーの独裁体制下、軍も協力して世界征服を計画し、ユダヤ民族に対するホロコーストを行った当国と日本を同等に裁こうとすることに無理がある。
様々な派閥が対立し、政治が機能していた日本に安易に“共同謀議”を当てはめることが出来ず、アメリカ側の思惑はほころび、裁判は複雑化し迷走していく。(ちなみに東京裁判は2年6ヶ月もの月日がかかったが、ニュルンベルク裁判は10ヶ月で終わっている)

件の迷走ぶりを示すのに、興味深いのは裁判長ウィリアム・ウェッブ(オーストラリア)と主催国アメリカとの対立である。
上記したように連合国側も、自国の罪をひた隠すように日露戦争まで遡って日本を糾弾するソ連や、自国の被害から激烈に全員死刑を主張するフィリピン等々、一枚岩ではなかった。
特に天皇制を象徴として統治に利用すべく罪を問いたくないマッカーサーの意向と、どうしても天皇を法廷に引きずり出したいウェッブとの意見の相違は鮮烈であった。法的にいえば、天皇に責任が及ぶのは当然であり、ウェッブが正しいのだが、本裁判はあくまでショーである分、結局、アメリカの意見が尊重されたのである。
証言中、天皇についてうやむやにするよう話がついていたにも関わらず、東條英機が天皇の責任について口を滑らせ、あわてて検察官のキーナンが火消しに努める顛末など、ここまでいくともはやコメディである。

裁判は416回の公判が行われ、2年6ヶ月の歳月と27億円の巨費が費やされ、終結。
判決は、28名の被告のうち、入院して免除になった思想家の大川周明、公判中に病死した元外相の松岡洋右と元海軍大将の永野修身を除き、土肥原賢二大将、板垣征四郎大将、木村兵太郎大将、松井石根大将、武藤章中将、廣田弘毅元首相、東條英機大将の7名が絞首刑に、残る被告は終身刑または有期刑を宣告された。
その際、インド、オーストラリア、フランス、オランダ、フィリピンの判事が異議を唱え、中でもインドのパル判事による“全員無罪”とする主張は、現在でも世界裁判史上で高い評価を得ている。イギリスの植民地支配を受けていたインドと日本を重ね合わせた心情が浮かぶパル氏の判決書は、日本人必読であろう。
死刑囚の処刑は1948年12月23日未明、巣鴨拘置所で実施。1978年に靖国神社に合祀された。

そこで彼らA級戦犯が合祀される靖国への首相参拝が問題化されてくる訳だが、そもそも“A級”とは何なのだろうか?
簡単にいえば、本裁判が管轄した犯罪区分、A項「平和に対する罪」、B項「戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」のうち、A項の罪に問われた者、すなわち本裁判の被告ということになる。
なんとなくイメージ的に“最高の罪”=“A級”とみなされがちだが、要するにカテゴリーの表記であり、罪の大小とは関係ない。“A種”戦犯が、本来の意味で正しい表記である。いわば、BC級戦犯の中にも、同じクラスの大物はゴロゴロいる訳だ。
彼らを日本の戦争犯罪の象徴とするのは勝手だが、中国人や韓国人の中でこのA級の意味を正確に理解している人がはたして何人いるのだろうか?

本作を観ると、満州事変にはじまり、我が国が太平洋戦争へ突入するプロセス、そしてナチスが台頭したヨーロッパの世界情勢といった第二次世界大戦の大局が、被告の罪状が明らかになるにつれ分かり易く学べる。
左寄りの小林正樹監督も本作では、「真実を伝える」という公正な視線で臨んでおり、裁判の記録映像にニュースフィルムを織り交ぜ、あくまで素材の迫力を活かした端正で骨太な作品に仕上げている。(若干、南京事件の映像に中国側が差し出した信憑性の低いモノを使ったところに、感情的な面が垣間見えるが…)
何はともあれ、277分間、淡々と進む割に異様な迫力が漲っており、微塵も飽きさせない。
佐藤慶の歯切れのいいナレーション、名手、浦岡敬一の神懸りの編集という超一流の職人ぶりにも要注目!

前満州帝国皇帝、溥儀が保身丸出しの証言をする貴重なシーン、「我々は原爆を落とした人物を知っている!」と判事たちに迫る弁護人ブレイクニー少佐の感動的な弁論、証言に立った東條英機VS首席検察官ジョセフ・キーンとのクライマックスの決戦、そして、刑を宣告される被告人たちの模様を丹念に追った衝撃の映像、等々、括目すべきシーンが連綿と続く。
個人的には、裁判の始め、東條英機の後ろに座った大川周明が東條の禿げ頭をピシャリとひっぱたく有名な珍事が、やたら印象に残っている。(大川は精神に異状アリとして病院送りとなり裁判を免れるが、後に狂言であったといわれている)
頭を叩かれて苦笑する東條英機の人間臭い仕草や、同時通訳の要領の悪さにブチギレする様子に、「彼も普通の人間なんだ…」という感慨がわき、無性に胸をうつのである。歴史が日常に直結する感覚とでもいおうか。

マッカーサー元帥は裁判後、「本裁判が、すべての国家をして戦争を否認するにいたる象徴となることを願う」とう声明を発表した。
自らの利害得失を計算して、表向き正義を振りかざす本裁判の滑稽さは、太平洋戦争の実態であると共に世の縮図ともいえよう。
これほど人間の本質のドラマを描いた映画は他にないかもしれない。


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『プロミスト・ランド』 (2012)

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エネルギー問題であぶり出す、人生の決断!



丁寧につくられた、高品質な社会派ヒューマンドラマではあるのだが…。
本作は、俳優のマット・デイモンとジョン・クラシンスキーが製作と脚本を担い、ガス・ヴァン・サントがメガホンをとった期待作。マットとサントの組み合わせといえば、相方がベン・アフレックからジョンへ変更されたとはいえ、つい『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(97)を連想し、“良質”というイメージが先行してしまうのは、むべなるかな。アクションからシリアス、コメディ、さらに監督業まで幅広い活躍をみせる才人デイモンと、オスカー級の伝記ドラマ『ミルク』(08)からアート系の小品までこちらもバラエティ豊かな作品を手掛ける名匠サント。『グッド〜』は正攻法の一作であったが、はたして今回は両者のどんな一面が衝突したのか?公開が大幅に遅れたことに一抹の不安を抱きながら、実態を確かめるべくスクリーンへ臨んだのだが…。

大手エネルギー会社のエリート社員スティーヴ(マット・デイモン)が、さびれた田舎町マッキンリーにやってくる。新しい天然資源ガスとして注目をあびるシェールガスを生む頁岩層の埋蔵地に赴き、不況にあえぐ農場主たちから安く採掘権を買い占めるのが彼の仕事。さっそくスティーヴはパートナーのスー(フランシス・マクドーマンド)と共に戸別訪問を始め、財政再建の救世主として歓迎をうけるのであった。ところが町民集会において、元科学者の教師フランク(ハル・ホルブルック)が、環境保全に対して充分な検証がなされていないと反論。フランクに賛同する町民も多く、結果、採掘の賛否は数週間後の住民投票によって決められる運びになる。頭を悩ますスティーヴたちだが、さらに環境運動家のダスティン(ジョン・クラシンスキー)が乗り込んできて、旗色がますます悪くなり…。

郊外の地域住民と大企業のエネルギー問題の摩擦といえば、どうしても企業側が悪になるのが常である。現に本作のスティーヴも、町に入る直前、地元の雑貨店で安物の服を買い、フレンドリーに溶け込もうと画策。口八丁手八丁で、相場より安く採掘権を買い叩いていく。
さながら羊の皮をかぶったダーティーな拝金主義者といった趣きではあるが、その実そこまでやり手という訳でもない。集会で元科学者にやりこめられ、バーで出会った美人女性教師(ローズマリー・デウィット)に一目惚れする等、憎めない人間臭さをもっている。そもそも彼がこの仕事をしている動機も、荒廃した故郷を想ってのことなのだ。
一方、町民サイドも、狡賢くスティーヴを脅迫して代金をつりあげようとする有力者や、土地が金になることに単純に大喜びする面々がいたりと、まさに多種多様。ことほどさように本作の視点は、どちら側にも公平である。

シェールガス採掘を選べば、てっとり早く金は入るが、故郷の景観が失われ、地質環境に悪影響が出る可能性を否定できない。でもそうしなければ、周囲の発展に取り残されて格差がひらき、衰退が加速するのは明らか。貧しい家庭は、子供を大学にあげることもできない。
要は、起こるかもしれないリスクを受け入れ、利便性をとるか、現状のまま不便でもこれまでの伝統を守り抜くか。どちらの未来にも暗雲が漂っており、惑う姿は、あらゆる世界の日常であり、そのまま日本の我々にも身につまされよう。
本作はスティーヴとスー、町人、環境運動家の異なる各リアクションにより、問題を多方面から紡いでいく。当然、一筋縄ではいかない。

そして、どう決着をつけるかというところで、まさかのどんでん返しが発生。
詳しくは書かないが、当仕掛けは、こうした問題も実は大きな権力によって知らず知らずに結論が導かれているのかもしれない、という恐怖をまざまざと突きつける。これには心底ゾッとした。
本アクシデントにより、真の決断を下すスティーヴの姿は感動的であり、ひとつの解答であろう。
資本主義社会によって弱肉強食が加速し、“自由”という建国理念が失われゆくアメリカ。当国の根本が揺らいでいる危機感を、ひしひしと感じよう。神から与えられし、“約束の地”の重要性を我々は理解しているのか?何より本当に自分自身で考えて決断しているのか?二重三重の慎重な見極めが必要であることを、本作は教えてくれる。
(公開が遅れたのは、最大のシェールガス埋蔵国である中国に配慮して、お蔵入りにしようとしていたのか…)

ガス・ヴァン・サントの演出も的確で、牧歌的な美しい風景の下、個性豊かなキャラたちが、コメディ・タッチでテンポよく快走。笑いあり、恋愛あり、社会派メッセージあり、語り口に過不足はない。スーと雑貨店の店主(タイタス・ウェリヴァー)のほのかな恋などホッコリする。(本筋のマット・デイモンとローズマリー・デウィットの方は、薄っぺらいが…)
スティーヴのブーツ、レモネード売りの少女、エンジンのかからない車、とキャラの心情を表すメタファーもスマートに効いている。
ただ、ソツなくまとめ過ぎているだけに、逆に地味な作品になってしまった感は否めない。シェールガス問題についてもあえて背景に留め、踏み込まなかったこともインパクトを限りなく薄めていよう。
いい映画だけに、ちょっともったいない。


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『めぐり逢わせのお弁当』 (2013)

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お弁当がつむぐ、インド産人情劇!



お弁当文化の深遠さと、しっとりとした大人の恋愛劇を堪能できる好編であった。
本作は、カンヌ国際映画祭、批評家週間の観客賞受賞を皮切りに、ヨーロッパ各地で異例の大ヒットを記録。インド映画の歴史を塗り替えたといわれる話題作だ。傷心の中年男とくたびれた主婦とのプラトニック・ラヴなど、日頃の憂さをはらす、歌って踊るお祭り騒ぎのボリウッド・ムービーとは正反対。およそ日本でも成立し辛い本企画を成功に導いたというのだから、その衝撃や推して知るべし、である。
監督は、サンダンス・インスティチュートでロバート・レッドフォードの教えをうけたリテーシュ・バトラ。長編デビューとなる本作で見事、国際色豊かなスタッフをまとめあげた新潮流の人材だ。
もはやアクション分野では行きつくところまで行きついた感のあるマサラ・ムービー。考えてみれば、サタジット・レイを生んだ当国である。ドラマ分野でも頭角を現してくるのは何の不思議もない。その真価をこの眼で確かめるべく、劇場へ向かったのだが…!?

インド、ムンバイ。郊外に住む主婦イラ(ニムラト・カウル)は、ビジネスマンの夫(ナクル・ヴァイド)と小学生の娘と3人暮らし。最近、冷え気味の夫との関係を修復すべくイラは、まずは胃袋をつかもうと、腕によりをかけてお弁当をつくることに。ところが、弁当配達人の手違いで、イラのつくったお弁当が、早期退社を控えた保険会社の会計係サージャン(イルファーン・カーン)に届けられてしまう。妻に先立たれ、やもめ暮らしであったサージャンは、久々の美味しい手料理に感激するのであった。一方、空っぽになって戻ってきた弁当箱に喜ぶイラであったが、夫の反応から誤配されたことを察知。次の日、イラはお弁当に手紙を忍ばせて送り、受けとったサージャンも事態を飲みこむのであった。こうしてお弁当を通した文通が二人の間ではじまり、イラは悩みを相談し、サージャンも次第に手紙入りのお弁当を待ちわびるようになり…。

妻を亡くし、話し相手のなくなったサージャンは日々に何の楽しみも見出せない、早期退職を望む孤独な男。
専業主婦のイラは、子供の世話だけをする味気ない日々にむなしさを募らせている。
暮らしに不自由はないが、サージャンにはすぐに自分の代わりとなる後輩が現れ、イラも夫に空気のように扱われ、自身の存在意義を見出せない。ムンバイという大都会がつくりだす忙しい奔流の中で二人は取り残され、時間だけを浪費する空虚さに苛まれている。
そんな二人が偶然、間接的に心を通わせ、お互いの隙間を埋めるように胸に光をポッと灯していく。
その手段がお弁当を介した文通というのが、絶妙だ。メールやSNSに対する手紙の是非というより、この時間差と手間暇が二人に合っていよう。現にはじめは、メールのような素っ気ないやりとりをしているのが微笑ましい。二人だけの特別な時空が形成されていく恋のプロセスが、よく伝わってくる。

ことほどさように、奥ゆかしい手紙のやりとり同様、最後まで抑制された演出は、淡々として退屈にも感じられよう。しかし、むしろこのゆったりとした時間に心地良く浸る作品である。
はたして、二人はどんな顛末を辿るのか?ぜひご自身の眼でご確認を。

ただ若干、イラ役の女優さんが美し過ぎるのが、難点ではある。こんないい女をおいて浮気する旦那の感覚がちょっと解せない。
とはいえ、そこを補う他のリアルさは圧倒的だ。ムンバイの日常の生活模様の繊細さに、眼を奪われっ放しであった。すし詰めの通勤電車や、パソコンのない社内風景(雇用数を減らさないために、あえてマニュアルで処理しているという)、イラと上の階に住むおばさんとの微笑ましいご近所付き合い、そして「へぇ〜」となることうけあいの弁当宅配システム。ムンバイでは、“ダッバーワーラー”と呼ばれる弁当配達人が各家庭からできたてのお弁当を集荷して、オフィスに届けるという配達サービスが確立されており、誤配送の確率は“600万分の1”なのだとか。その実態も本作を観れば、よく分かる。
そして、ナンやカレー、おかずが入った四段重ねのお弁当箱。これがまたおいしそうで、観終わったらインド料理屋に直行である。

他方、コメディリリーフとなるサージャンの後輩(ナワーズッディーン・シッディーキー)の存在が、現代インドの社会問題をさり気なく体現。こうしたスパイスを効かせる作劇も、本作の上手いところ。
異文化には違いないのだが、リアルに描けば描くほど、市井の人々の感情は普遍的に迫ってくる。所詮は同じ人間なのだ。世界の共通言語である映画の効能を、まざまざと思い知らされよう。

いうまでもなく日本の優れたお弁当文化は、世界に誇るコンテンツのひとつである。つくり手の想いのこもっている上に健康的という申し分ないアイテムでありながら、どうしても手間がかかってしまう。個人的にも、学生時代に毎朝用意してくれた母親への感謝の気持ちは絶えることがない。他人につくってもらう際は、この感謝の気持ちもまたセットであり、まさにお弁当は人情文化の集成といえよう。お弁当を扱った映画が人情モノになるのは必然である。

人は間違った電車に乗っても、正しい場所に辿り着く。人生捨てたもんじゃない。多くを語り過ぎない本作のラストは、観客それぞれの心にほどよい満腹感を与えてくれるだろう。


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『未来は今』 (1994)

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珍奇なり、コーエン流ハートウォーミング・コメディー!



格差社会や就職難、高齢化問題と何かと世知辛い昨今。荒んだ心を癒してくれるのもまた映画特効薬の効能である。
中でも、時代を越えて愛される、小市民の幸福と善意を謳ったハートウォーミングなフランク・キャプラの映画群は、まさに人類の宝。そんなバファリン並のマスターピースであるキャプラ映画に我らがコーエン兄弟が挑んだのが、何を隠そう本作である。
一見、シニカルなブラック・ユーモアのコーエン節とキャプラスクはミスマッチなようでいて、絶妙な化学反応が期待できる興味深い組み合わせといえよう。
本作は、兄弟の監督第5作であり、インディーズ・デビューから着実に成果をあげてきた兄弟が大物プロデューサー、ジョエル・シルヴァーのバックアップを受けた初の大予算映画。兄貴分のサム・ライミを共同脚本、第二班監督に招いている。
大手製作会社に満を持して雇われるものの、商業性において対立するのはインディーズ作家が一度は通る壁。今回も例にもれずワーナーと兄弟は対立し、結果、興行的に大コケとなってしまった。
が、それが鬱憤を晴らすように作家性を爆裂させる傑作『ファーゴ』(96)へと結びつくのだから、人の世に無駄なモノなどありはしない(笑)。
とはいえ、本作は失敗作などではむろんなく、揉めた割にはちゃんと兄弟の味が醸し出ている良品である。

1985年のニューヨーク。大学を卒業し、田舎から上京してきたノーヴィル・バーンズ(ティム・ロビンス)は、さっそく仕事探しをはじめるも、求人は経験者をもとめるものばかり。途方にくれていたところ、ひょんなことから眼についた広告により、なんとか大企業ハッドサッカー社の郵便室に職を得るのであった。
一方、その頃、ハッドサッカー社の上層部では社長(チャールズ・ダーニング)が重役会議の場で突如、飛び降り自殺する事件が発生。社長は遺書も残さず相続人もいなかった為、保有株が年明けには市場に開放される運びとなった。そこで取締役のマスバーガー(ポール・ニューマン)は役立たずを社長に抜擢し、会社の株を暴落させて買収する悪だくみを発案。たまたま彼の前で間抜けぶりを見せつけたノーヴィルを、あろうことか社長に仕立て上げるのであった。
予想通り、ノーヴィルは念願であった輪っかのおもちゃ“フラフープ”を売り出し、重役の冷笑を浴びながら順調に株価を下げていくのだが、ある時、“フラフープ”がまさかの大ブームを巻き起こしてしまい…。

冒頭。ふわふわと降り注ぐ雪の夜空、玩具の模型のように浮かぶ摩天楼の幻想的なカットに、即ノックアウト。一気にファンシーな世界観に引きずり込まれてしまう。
続いて、純朴な青年ノーヴィルがハッドサッカー社の職にありつくまでと、社長が自殺を決行するまでを簡潔に見せきる手際がまた素晴らしいの一言!ノーヴィルという青年の性質と未来の運命を、軽妙洒脱かつ象徴的に表現している。加えて、社長の死のビジュアル・インパクトとそれを眼にした重役陣のリアクションの可笑しさたるや!あれこれ詳しくは記さない。映画演出の冴えが凝縮された当シークエンスだけでも、本作を観る価値はあろう。映画偏差値の高い兄弟の才能の豊かさに、ただただ唸る。

そしてココから、『オペラハット』(36)、『スミス都へ行く』(39)、『群衆』(41)、『素晴らしき哉、人生!』(46)等々、キャプラ映画の寄せ集めともいえるストーリーが開幕。
傀儡社長として祀り上げられるも、まさかのヒット商品開発で天狗になってしまい、初志を忘れるノーヴィル、陰謀を嗅ぎ付け、ノーヴィルの秘書として潜入捜査を試みるも、結局、彼の善良さに陥落し良心の呵責に悩む敏腕新聞記者エイミー(ジェニファー・ジェイソン・リー)、他、ネームプレートを扉に刻む職人、時計職人、おしゃべりのドアマンといった“らしい”キャラがわんさか登場。クラシック・ファンをニヤリとさせる。

ウィットに富んだ会話とテンポのいいシャレた演出、所狭しと仕込まれたネタは兄弟作品の中で一番の手数といえよう。また膝を叩くほど、全てが上手い!
あっと驚く天使と悪魔(誰が天使で誰が悪魔なのかは、観てのお楽しみ!)の決戦、あっと驚くラストのミラクル、と兄弟独特の人を喰った“毒”も健在であるのがニクイところである。
美術も予算が潤沢な分、他の兄弟作品では考えられないほど豪華絢爛な点にもご注目。『未来世紀ブラジル』(85)へのオマージュに、これまたファンをニヤリとさせる。

しかし、それらが全て噛み合っているかというと、残念ながらそうでもない。ビッグバシェットのコントロール、キャプラ映画、コーエン兄弟の作家性、と各々の要素が不協和音を奏で、一種、異様な映画になっている。
第一に、パロディに寄り過ぎて、ストーリーがおざなりになっており、ブラック・コメディにもハートウォーミングなエンタメにも、スムーズに弾けきらない、どう観たらいいのか迷う仕上がりになってしまった。
キャラクターに関しても、乾いた感じが兄弟の持ち味とはいえ、ノーヴィルの人物性がいまいちよく伝わってこない。キャプラ映画の愛すべき主人公とは異なり、単なる変人に堕している。
それに根本的にキャラクターたちが、あまり躍動をしていないのも致命傷といえよう。クライマックスの問題解決方法が“人任せ”というのは如何なものか?
よって、上記した高度な造り込みの割に、如何せんパンチがなく、おそろしく地味で味気ない印象になってしまった。当てが外れた観客に見放されたのも、むべなるかな。
ただ、コーエン兄弟のフィルモグラフィの中の一環として、今なら新たな楽しみ方で再評価できよう。

キャスト陣もいわゆる常連組は少なく、フレッシュな陣営となっている。
主人公ノーヴィルに扮したのは、ティム・ロビンス。ぬぼっとした長身を駆使し、朴訥なコメディアンぶりを発揮している。
当年は『ショーシャンクの空に』の公開もあり、ステップアップの年となった。
悪役となる取締役のマスバーガーを演じたのは、映画史に残る名優ポール・ニューマン。まさかの大物登場である。悪役であるのに有能なのか無能なのか、よく分からない微妙なキャラであるのが残念無念。本役がもっとキリッと締まっていれば、今少し印象は変わっていたかもしれない。本人が楽しそうに演じているのが救いといえようか。
あと社長役でチャールズ・ダーニングが出演しており、せっかくなら共演シーンが観たかったところである。
ヒロインのエイミー役のジェニファー・ジェイソン・リーの可愛らしさもまたGOOD。
チョイ役で顔を出し、ちゃっかり場をさらうお馴染みスティーヴ・ブシェーミの怪演もお見逃しなく。

さて。
本作は、“円”がキービジュアルとなっており、時計やフラフープとさまざまな形で本編に登場し、もうひとつの重要エレメントである“落下”と関わってくる。
そう、落下行為も繰り返せば円となり、“浮き沈み”=“成功と失敗”があってこそ人生であるというメッセージを本作は投げかけている訳だ。
これには誰しも勇気付けられよう。僕も観る度に元気をもらっている。

フラフープは実は起源が定かではないほど、その歴史は古く、古代エジプトや古代ギリシャの時代にすでに輪っかの玩具が存在していたのだとか。
いにしえの昔から人類は件の円の教えを、潜在的にさとっていたのだろう。

ちなみに本作は、フラフープを再開発したWham-O社をモデルにしたフィクションなので、鵜呑みにして大恥をかかぬよう、くれぐれもご注意を。


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『クライング・ゲーム』 (1992)

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予測不能の妖艶サスペンス、至高の脚本術を堪能せよ!



川を渡りたがっている金づちのサソリが、カエルに背中に乗せてくれと頼んだ。
カエルは問う。「君を乗せたら、君は僕を刺すだろう?」
サソリは答える。「刺すもんか。僕が君を刺したら、両方ともおぼれてしまうじゃないか」
納得したカエルはサソリを背に乗せ、川を渡った。
ところが半分を渡ったところで、カエルは強烈な痛みを感じ、自分が刺されたことに気付く。
沈みはじめるカエルとサソリ。
カエルは問う。「どうしてこうなることが分かっていながら、僕を刺したんだい?」
サソリは答えた。「仕方ないんだ。これが僕の性(さが)だから…」

優れたストーリーの定義として、誰でも“概略を一言で説明できる”というものがある。
他、観ている間は観客の心をサスペンスフルに誘導し、鑑賞前と後に変化を即す“何か”を胸に残すテーマ性があること。
冒頭の小噺から、一体何をお感じになられただろうか?

という訳で本作は、本小噺を総合エンターテインメントへと転化したニール・ジョーダン監督がおくる奇跡の傑作である。
小説家でもあるストーリー・テラーの監督が、その本領を発揮。北米限定6館での単館上映だったのが口コミで話題になり、最終的には1097館まで拡大し、大ヒットを記録。アカデミー賞に主要部門でノミネートされ、脚本賞を受賞した。
ちなみに良い映画を観たければ、アカデミー賞の作品賞受賞作をチョイスすれば、ほぼ間違いはない。が、最高賞ともなると政治介入は否めず、そこで派手さのない、いわゆる賞向きではない高品質作には、帳尻合わせに主に脚本賞、脚色賞部門に賞を振り分けて評価するのが例年のパターンとなっている。
当部門受賞作を制覇していくのが、“通”への早道といえよう。

北アイルランドのベルファスト。英国軍に捕らえられた仲間たちの釈放を要求すべくIRA(アイルランド共和国軍)は、黒人兵士ジョディ(フォレスト・ウィテカー)を誘拐。アジトに幽閉する。そんな中、見張りについたファーガス(スティーヴン・レイ)とジョディは長時間、共に過ごすうちに奇妙な友情を抱き合う。ジョディはファーガスに自分が殺されたら、ロンドンにいる恋人ディルに「愛していた」と伝えて欲しいと遺言を託すのであった。やがて交渉は、決裂。ファーガスはジョディを銃殺する運びとなるのだが、ジョディは彼の甘さを見抜いて逃走を図る。ところが皮肉にもジョディは、救出にやってきた味方の装甲車に轢かれ死亡してしまう。
アジトが爆破される中、からくも逃げ延びたファーガスは、ロンドンに潜伏。律儀にもジョディとの約束をはたすべく美容師をしているディル(ジェイ・デヴィッドソン)のもとを訪ねるのであった。そして夜はバーで歌うディルの妖しい美しさにファーガスは次第に惹かれていき…。


※以下、ネタバレ注意!!






パーシー・スレッジの歌う『男が女を愛する時』が甘〜く流れ、遊園地が映し出される冒頭。いちゃつく黒人の男と女。突如、襲われ連れ去られる男。画面上で何が起こっているのか分からないまま、グイグイと観る者を惹きつける。
やがて誘拐された男ジョディは英国軍の兵士であり、誘拐した側はIRAのテロリストである旨が判明。そうして監禁されたジョディとIRA闘士ファーガスが会話を交わすうちに心の距離を縮めていく様子が、一足飛びではなくじっくり描かれていく。
ファーガスの本性である“優しさ”を見抜き、上記した『サソリとカエルの寓話』を語り聞かせるジョディ。
本パートは、緊迫感の中、腹の探り合いをしつつ末端兵士同士がシンパシーを感じ合う友情ドラマかつ社会派ドラマを存分に堪能できる。

ロンドンへ舞台を移してからは、身分を隠したファーガスとジョディの元恋人ディルとのラヴ・ストーリーへと一転。こちらも同様に、二人が恋におちていく過程をきっちり段階を踏んで紡いでいく。
雲天の下、場末のバーで歌う女と訳アリの男が織り成す禁断の愛―。どっぷりと色気のある雰囲気に酔いしれよう。

そして…、ことココに至って巻き起こる驚愕のどんでん返し!なんとディルが“男”であるとんでもない事実が発覚し、物語はさらにひっくり返される。
本作を封切り時に鑑賞した際、僕は不幸にも観る前に当秘密を心無い友人によってバラされてしまった。この一件に関しては、今でも悔しさが甦ってくる。
ストーリーはここからまた違ったベクトルの恋愛モノへと進化。ディルにジョディの格好をさせることから窺える通り、「ファーガスにもその気があったのか?」等々、目測が目測を生み、混沌とした様相を呈していく(笑)。
しかも、そこにジュード(ミランダ・リチャードソン)たちIRAの生き残った仲間たちが再登場し、ファーガスに要人暗殺の手助けを強要。ジャンルはサスペンスへと目まぐるしく変化し、ハラハラドキドキの展開を辿った上に、衝撃の結末を迎えることと相成る。

かように本作はひとつの映画に様々なジャンルが詰め込まれ、ゆえに予測不可能で、観始めたらあまりの面白さに一気観確実!あまつさえ一貫したテーマで、全体を成立させているのだから、奇跡のバランスとしかいいようがない。
ダイアローグも洗練されており、二度観ればよく分かるが、隅々に伏線が張り巡らされており、とにかく無駄が一切ナシ。教訓を強要する押しつけがましさも一切ナシ。気がつけば、じんわり心にテーマが沁み渡っている。
映画史に残る、まこと見事な脚本といえよう。

もちろん役者陣も優れた脚本と演出に応え、素晴らしいパフォーマンスをみせている。
ニール・ジョーダン作品の常連、ファーガス役のスティーヴン・レイは、武闘派ながら温かい心を持つ憎めない男を好演。くたびれた容貌が哀愁を誘う。
IRAの辣腕女闘士ジュードを迫力たっぷりに演じたミランダ・リチャードソンも、鮮烈に画面を引き締める。
前半パートを印象深く彩るジョディ役の、笑福亭鶴瓶ことフォレスト・ウィテカーも忘れてはならない。本作は氏の若き日の代表作のひとつなのだが、見かけは今と全く変わっていない点もご注目。
あと、名優ジム・ブロードベントがバーテン役で顔を出しているので、お見逃しなく。

そして、本作にて一躍、脚光を浴びたディル役のジェイ・デヴィッドソン。
実は氏は、本作が演技初経験。ディル役を探していたプロデューサーがデレク・ジャーマン監督のパーティで無名モデルであった氏を見初め、大抜擢。氏はさすがに冗談だと思い、革靴一足のギャラで承諾した逸話はあまりにも有名である。
妖艶な中性的魅力で本役を演じ、各方面に衝撃を与えたシンデレラ・ボーイは、見事アカデミー助演男優賞にノミネートされた。
しかし本作後は、ローランド・エメリッヒ監督の『スターゲイト』(94)で太陽神ラーを演じたあと、天狗行為が世を賑わせて評判を落とし、次第にフェイドアウト。現在は加齢により、普通のオッサンと化しているそうな。
文字通り、華々しき一発屋である。

全編をムーディに盛り上げるサウンドトラックもまた絶品!都合3回、違った歌い手で流れる往年の名曲『クライング・ゲーム』が頭にこびりついて離れない。元“カルチャー・クラブ”のボーイ・ジョージがカバーしているバージョンに本作の秘密が隠されている点がまたニクイ。

なんとなく本作のテーマを顧みれば、おっちょこちょいはおっちょこちょい、怠け者は怠け者、一生、性分は変えられないという身も蓋もないメッセージに思えるが、さにあらず。救いようのない印象は受けず、ラストは温かい感動に包まれる。
それは“らしさ”を許容する心の広さ、変えようと努力する姿を讃えた本作の懐の深さに他あるまい。

最後に少々、内容に関わる予備知識を付記しておくと、IRA(アイルランド共和国軍)は、英国統治を退け、南北アイルランドを統一せんとする武装組織。ルーツを辿れば18世紀後半まで遡り、数々の組織がIRAを名乗ってきたが、一般的には1969年に分派して誕生したゴリゴリの武闘派、“暫定派”を指す(現在は活動を停止中)。本作のファーガスは、当組織の一員となる。
そんなファーガスたちテロリストに捕えられたのが、英国軍の黒人兵士ジョディ。彼の出身地は、アフリカの旧英国植民地アンティグア・バーブーダであり、アフリカ人でありながらIRA暫定派が暴れ回る危険な任務地ベルファストに派兵されている。
そんなジョディの趣味は“クリケット”。当スポーツは英国では貴族のスポーツだが、植民地では庶民的スポーツとして根付いている実態が興味深いところである。
また、ロンドンでファーガスが、建設現場の上司にアイルランド人の蔑称「パット」と呼ばれる辺り、英国人のアイルランド人に対する差別意識を窺うことができる。
知っていなくても鑑賞に差し支えないが、IRAやイギリスとアイルランドの歴史を多少インプットしておけば、より本作を豊かに楽しめよう。

映画的面白さの詰まった極上ストーリーをぜひご堪能あれ!


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『喰女−クイメ−』 (2014)

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人間の愚かさを説く、妖しき普遍ホラー!



トリッキーに醸成された世界観に陶酔すべき作品であることは、重々理解できるのだが…。
多ジャンルを手掛け、縦横無尽の活躍をみせる日本一忙しい監督、三池崇史。その腕前はホラー分野においてもいかんなく発揮され、ホラー映画のオールタイム・ランキングで『オーディション』(00)が選出される等、世界的に認められているのはご存じの通り。(本人は、得意じゃないとおっしゃっているが…)
それが今回、柴咲コウと市川海老蔵、伊藤英明という三池作品の主演スターをゾロリと揃え、日本三大怪談のひとつにあげられる古典『四谷怪談』に挑むというのだから只事ではない。(原作は、山岸きくみの小説『誰にもあげない』)
どうスタンダードを料理して、ぶち壊してくれたのか?納涼気分で劇場へ出かけたのだが…!?

舞台『真四谷怪談』でお岩を演じる有名女優、後藤美雪(柴咲コウ)と伊右衛門役の長谷川浩介(市川海老蔵)は、実生活でも恋人同士。売れない俳優である浩介に甲斐甲斐しくつくす美雪であるが、浮気癖のある浩介はどこ吹く風。舞台稽古がはじまると、お梅役の新人女優、朝比奈莉緒(中西美帆)に手を出す始末であった。不貞の限りをつくす浩介に対し、平静を装う美雪であったが、次第にその行動は常軌を逸していき、浩介も怪現象に悩まされる羽目に。そして次第に二人は芝居と現実の区別がつかない狂気の世界へのめり込んでいき…。

本編は、現代の俳優たちが織り成す愛憎劇と、彼らが出演する舞台『真四谷怪談』のリハーサルである劇中劇が、交錯して紡がれていく。
伊右衛門を演じる浩介は役と同様、出世の道具に女性を利用して世を渡っていく女たらし。お岩役の美雪とお梅役の莉緒との関係が、そのまま『四谷怪談』へとシンクロし、やがて虚構と現実が混濁。今も昔も人間は、特に男は同じ過ちを繰り返している愚かさを浮かび上がらせるシステムだ。文明は利便化し、歌舞伎や落語、映画の題材に使い古されてきた『四谷怪談』という出し物の見せ方も技術発展してきているにも関わらず、人間の内面は変わっていない皮肉。真に進化すべきところは放置されている現状を、ほとほと考えさせられよう。

伊右衛門=浩介役に市川海老蔵を配した効能も見逃せない。齢を経てイメージがお茶目に丸くなってきた昨今、プライベートを役と重ね合わせるのは意地悪というもの。それよりも、やはり歌舞伎という伝統の担い手である氏が本役を演じることによって、教訓話の普遍性といったテーマがより深く浮きたつ。
特殊メイクを辞さず、お岩=美雪役を体当たりで熱演した柴咲コウの美しき狂気も必見だ。確実に本作の主役は、彼女である。
宅悦役の伊藤英明は気分良さげに怪演を披露しており、願わくば、もっと主演二人と絡んで欲しかった。

三池崇史監督の演出も、あえて説明を廃した不穏な語り口、丹念につくられた画、それでいてグロいケレン味溢れるサービス精神(?)と円熟の味を披露。
もはや『四谷怪談』は古典過ぎて、そのままやっても通じないと変化球に挑んだ判断も正解であったと思う。特に時代劇の『四谷怪談』パートをリハーサル空間という舞台調にし、異界にした試みは絶妙であった。つくり込まれた舞台美術が幽玄な香りを発し、戸板返しのギミック等、押さえるべきところを押さえる趣向もみどころだ。

…と、1カット1カットに滋味があり、美雪のちょっとしたセリフや、大量のパスタと妊娠検査薬等々、深層心理を探り、虚構と現実の境界の謎解きをする興味等、深読みして世界観に浸るべき作品であるのは分かる。が、如何せん、面白いかというと正直、退屈であった。
現代パートからして関係性は察せられるものの、登場人物に入りにくく、海老蔵氏の抑揚がない虚無な芝居もとっつきにくい。
舞台パートになると、より一層入りにくく、出てくる人物が皆異常すぎて、物語の基本であるはずの情念がいまいち伝わってこなかった。客観的に眺めているのみで、怖くもなんともない。
企画自体はよく練られて、気合が入ってはいるものの、空回りしてしまった印象である。実に惜しい。

でもラストだけは、男の身で心底戦慄した。思い起こせば、現代の浩介は伊右衛門ほど一線を越えるひどい行為はしていない。あらゆる意味で、結局は女性がキーを握っている事実を本作は強調。お岩=美雪の怨念は、本家越えである。
つくづく先代の残した教訓は、後世に活かさねば…と痛感した次第である。


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『グレート・ビューティー/追憶のローマ』 (2013)

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人生の意味を問いかける熟成ムービー!



観終わった後、沈思黙考してしまう味わい深い大人の映画であった。
本作は、カンヌ国際映画祭で評価をうけた『イル・ディーヴォ 魔王と呼ばれた男』(08)、ショーン・ペン主演の『きっとここが帰る場所』(11)で有名なイタリアの名匠、パオロ・ソレンティーノ監督作。13年度の映画賞を席捲し、イタリア代表として15年ぶりにアカデミー外国語映画賞を射止めた逸品だ。近年はなりをひそめていたが、イタリア映画といえば当部門の常連であり、かつてはヴィットリオ・デ・シーカ、フェデリコ・フェリーニといった大巨匠たちにより栄華を極めていた。そうしたイタリア映画の古き良き流れをくむ久々の会心の一撃ということで話題になった本作。となると映画ファンも、すわ難解モノか!?とつい身構えてしまうが、はたしてその内容とは…!?

40年前に発表したデビュー小説が高い評価をうけ、名声をえたジェップ・ガンバルデッラ(トニ・セルヴィッロ)は、その後、インタビュー記事をまとめるジャーナリストとしてお茶をにごしながら悠々自適の生活をおくっていた。文化人として一目おかれるジェップは、夜ごとローマの街にくり出し、セレブが集まるパーティーやイベントに参加し、乱痴気騒ぎの末に朝帰り。齢をとり、さすがに乱れた日々のむなしさを感じていた矢先、初恋の女性エリーザの訃報が届けられる。エリーザの夫は告げる。「彼女は35年間、君を愛しつづけていた」と。後悔と喪失感に苛まれたジェップは生き方を見直すも、相変わらず享楽の世界に没入。やがて旧友の娘でストリップバーの踊り子をしている若いラモーナ(サブリナ・フェリッリ)と知り合い、彼女に安らぎを見出していくのだが…。

冒頭から永遠の都ローマの歴史ある建造物が映され、荘厳な美しさに息をのむ。やがて定番イメージの日本人観光客の団体が現れ、突如その中の一人の中年男が倒れ伏す。悠久の歴史とはかない命のコントラストを目の当たりにした直後、クラブの飲めや歌えやの狂騒がめまぐるしく展開。こちらもローマの街並と刹那の快楽をむさぼる人間たちを対比し、古さと新しさ、宗教的神秘までもが融合した大都市の退廃をじっくり活写する。
すでにこの長いOPシークエンスが、本作の全てを物語っていよう。

主人公のジェップは、若くして処女小説で大きな賞をとるも、その後は筆を折り、インタビュー記者をして糊口をしのぎながら、毎夜パーティー三昧。結婚もせず、時に文化人面して知識人と議論を交わし、有名人と交流し、遊びほうける暮らしを続け、今や65歳になっている。
そんなジェップが初恋の人の死に触れ、ピチピチギャルと付き合い、そして若者の死に直面する等、様々なアクシデントをへて人生を見つめる過程を綴っていく。一見、彼の生活は何不自由なく、面白おかしく暮らす理想の幸福のひとつであろう。でも中身は限りなく空っぽであり、後ろを振り返るとむなしさだけが募ってくる。
すると、快楽に背を向けて、ストイックに何かを成し遂げた人生は充実しているのか?と問われれば、それもまた違う。彼にローマの風物や芸術作品を巡らせることで、「後世に功績を残したから何?」という虚無的な想いを去来させる。
一体、“幸せ”とは、そもそも“生きる”とはどういうことなのか。つくづく思い悩ませる作品である。しかし最後には、人生は死があるから意義があるという概念と、ある種、正反対の達観した境地を示し、ちょっと気を楽にさせてくれるのが本作の良心といえよう。

語り口は、方々で指摘されている通り、フェリーニやミケランジェロ・アントニオーニの作品群のオマージュが垣間みえる。ただ作家性の強烈な巨匠たちと同じ作品がつくれる道理はなく、本作も疾走するカメラワークといった独特の美意識をはじめ、“魂の彷徨”をえぐったパオロ・ソレンティーノ監督らしいアプローチとなっている。が、感触は限りなくフェリーニ作品に近い。散文的で流れが出来そうになると、わざとそれを断ち切る等、ビジュアル・イメージで真理を追究する作風は、ボーっとしていたら意識がとんでしまうことうけあいだ。観るのに気合と忍耐が必要ではある。

役者陣では、主演のトニ・セルヴィッロのダンディな老人ぶりにほれぼれ。スーツを着こなす姿からカジュアルなコーディネイトまで格好いいのなんの。神々しい遺跡にも、酒池肉林の宴にも、どちらも画になってしまうのだから、何をかいわんや。

前向き指向の映画が多い昨今、こういう老人主演で後向きに人生をとらえるスタイルは新鮮であった。まだ44歳なのに監督のこの熟成ぶりは何なのか?
久々に偉大な歴史を誇る芸術大国イタリアの底力をみた感じである。ヨーロッパにコンプレックスをもつアメリカが降参して、賞を献上したのも頷けよう。


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