アンチ西部劇ヒーローが突きつける、虚飾の終焉!
ジョン・フォードとジョン・ウェインのコンビといえば、すぐさま連想されるのは、西部劇の名作群であろう。フロンティア・スピリットや豪快で勇壮な気質が刻まれた当ジャンルは、古き良きアメリカのイメージとして人々の心に定着している。
かような作風同様、フォードもウェインもバリバリのタカ派であり、特にフォードは第二次世界大戦中、野戦撮影班として活躍し、豪傑ぶりを発揮した。だが、それはあくまで彼らのアイデンティティであるアイルランド人魂の男気であって、盲目的な愛国心ではない。
例えば、50年代前半にハリウッドを吹き荒れた赤狩りに対しては、フォードは公然と不快感を表し、当時の大勢を批判している。そしてその際、フォードはアメリカの理想の崩壊を感じとったのだろう。56年に自家薬籠中としてきた西部劇を用い、一時代にピリオドを打ちつける歴史的傑作を製作した。そう、それが本作である。
原作はアラン・ルメイの同名小説。本作は公開当時、全く注目されなかったが、後に再評価され、現在ではオールタイム・ランキングに選出。西部劇カテゴリーでは堂々一位に輝く、紛れもない名作である。
南北戦争が終結し、3年を経た1868年、テキサス。南部連合の一員として従軍したイーサン(ジョン・ウェイン)が、久しぶりに故郷の兄アーロン(ウォルター・コイ)一家のもとを訪れる。一家の歓待を受けるイーサンであったが、その中にかつてなりゆきで助けたチェロキー族の混血の若者マーティン(ジェフリー・ハンター)がまじっているのを見て、インディアンに偏見をもつ彼は露骨に顔をしかめるのであった。翌日、牧師兼テキサス警備隊隊長のクレイトン(ワード・ボンド)が来訪し、牛を盗んだコマンチ族を追跡するという。イーサンとマーティンも隊に加わり出発するも、道すがら殺された牛を発見し、自分たちがまんまと誘き出された旨に気付く。急いでアーロン家に戻るイーサンであったが、時すでに遅く、アーロン夫婦は惨殺され、ルーシーとデビーの姉妹は連れ去られた後であった。即座にコマンチ族を追う一隊であったが、河川での戦いで、敵の本隊を逃してしまう。それでも復讐に燃えるイーサンはマーティンとルーシーの恋人ブラッド(ハリー・ケリーJr.)と共に、いつ果てるとも知れない捜索の旅に踏み出すのであった…。
一際、鮮烈であるのが、ジョン・ウェイン演じるイーサン・エドワーズのキャラクターである。
インディアンへの偏見を隠さない差別主義者で、兄一家を殺害し、姪をさらったコマンチ族を追う復讐の鬼と化すイーサン。ようやく見つけたデビー(ナタリー・ウッド)がインディアンの文化に染まっているのを見ると、デビーさえ手にかけようとするアンチヒーローぶりの凄まじさ!
この西部劇の主役としては異色のキャラが、公開時の観客に受け入れられなかった最大の原因といえよう。
というのも、彼以外のパーツに眼を向けると、馬上の銃撃戦、恋敵との拳と拳の喧嘩、カントリー音楽とダンス、騎兵隊、鉄火娘との純愛、バッファロー、等々、フォード西部劇のエレメントがこれでもかと詰め込まれており、集大成的な贅沢さを誇っている。
ジェフリー・ハンターにヴェラ・マイルズ、当時、絶賛売出し中であった16歳のナタリー・ウッド、そしてワード・ボンドにコマンチ族酋長役のヘンリー・ブランドン、母子共演となるハリー・ケリーJr.とオリーヴ・ケリー、変人モーズ・ハーバー役で場をさらうハンク・ウォーデン、さらにジョン・ウェインの実子パトリック・ウェインのお遊び出演と、フォード一家を交えた役者陣も超豪華!
ゆえに余計、イーサンの異物感が座りの悪いものになっている。がしかし、その点こそが本作の狙いであり、魔性の魅力といえよう。
世の中がそこに気付くのは、60年代に入り、ベトナム戦争、公民権運動、等々の社会情勢によりアメリカの理想が崩壊し、国民の価値観が一変してからである。
ハリウッドでは、それまでハッピーエンドの夢工場であった虚飾の娯楽性に反旗を翻し、アンハッピーエンドなリアルな人間性をえぐったニューシネマが勃興。カウンターカルチャーのクリエイターたちに本作は、革命的な真の西部劇として迎え入れられ、再評価の機運が高まったのである。
結果、イーサン・エドワーズは現代のアンチヒーロー像に多大な影響を与えた。
一例を挙げると、ポール・シュレイダーは当キャラの影響下で『タクシードライバー』(76)のトラヴィス・ビックルを生み出し、『ハードコアの夜』(79)を撮り、またフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(79)も物語の構成は本作そのまま。デヴィッド・リーンやジョン・ミリアス、スティーヴン・スピルバーグらもまた、本作をベスト映画の一本に挙げている。
56年の時点でアメリカの未来を見越していたジョン・フォードの、芯のある視線に敬意を表さずにはいられない。
フォードの熟練の演出も全編に渡り、冴えに冴えわたっている。
お馴染みのモニュメント・バレーの景観も圧倒的な迫力であり、これほど美しい西部劇は他にあるまい。雄大な自然と人間を融合させて、ドラマを紡ぐ職人芸はまさに神技!内容的には本作は、酸鼻を極める残酷シーンのつるべ打ちとなるのだが、肝心なところは一切映していない。省略の美学ともいえるスタイリッシュさ、ちょっとした仕草で各キャラクターの関係性や感情の機微を雄弁に語らせる奥ゆかしさよ。
世界の映画監督が皆、本作を参考にするのもさもありなん。若き監督たちは本作から学ぶべきものが多かろう。
劇中で度々登場する、家屋内から外を映し、屋内側を黒くつぶして額縁のように配した有名な構図。
ラストでは、イーサンがここで左手を右肘にそえたポーズをとる。これはサイレント時代に苦楽を共にしたフォードの盟友である俳優ハリー・ケリーの決めポーズ。本シーンで共演したハリー・ケリーの夫人オリーヴ・ケリーは、フォードとウェインのオマージュに静かに涙を流したのだとか。(息子ハリー・ケリーJr.も劇中で共演)
なんとも泣かせる逸話である。
本シーンでとるイーサン・エドワーズの行動から、彼のもつ特性が如実に伝わってこよう。
7年の歳月を費やした壮絶な捜索の末に、彼が得たモノのとは何だったのか?
家=家族を求める孤独な魂のモチーフは、フォード映画に通底するテーマだが、イーサンの醸す哀しさは、古い価値観=西部劇の終焉を体現している。それは同時に上記してきた如くアメリカの理想の滅亡であり、古き良き時代への哀愁に胸を締めつけられずにはいられない。
事実上、ハッピーエンドでありながら、実はそうではない痛烈な二律背反性。だからこそ、観る者の心にいつまでも残るのである。
こういうのを名作と呼ぶのだろう。
「ride way, ride way, ride way…」
スタン・ジョーンズの主題歌がいつまでも耳に残る。
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ジョン・フォードとジョン・ウェインのコンビといえば、すぐさま連想されるのは、西部劇の名作群であろう。フロンティア・スピリットや豪快で勇壮な気質が刻まれた当ジャンルは、古き良きアメリカのイメージとして人々の心に定着している。
かような作風同様、フォードもウェインもバリバリのタカ派であり、特にフォードは第二次世界大戦中、野戦撮影班として活躍し、豪傑ぶりを発揮した。だが、それはあくまで彼らのアイデンティティであるアイルランド人魂の男気であって、盲目的な愛国心ではない。
例えば、50年代前半にハリウッドを吹き荒れた赤狩りに対しては、フォードは公然と不快感を表し、当時の大勢を批判している。そしてその際、フォードはアメリカの理想の崩壊を感じとったのだろう。56年に自家薬籠中としてきた西部劇を用い、一時代にピリオドを打ちつける歴史的傑作を製作した。そう、それが本作である。
原作はアラン・ルメイの同名小説。本作は公開当時、全く注目されなかったが、後に再評価され、現在ではオールタイム・ランキングに選出。西部劇カテゴリーでは堂々一位に輝く、紛れもない名作である。
南北戦争が終結し、3年を経た1868年、テキサス。南部連合の一員として従軍したイーサン(ジョン・ウェイン)が、久しぶりに故郷の兄アーロン(ウォルター・コイ)一家のもとを訪れる。一家の歓待を受けるイーサンであったが、その中にかつてなりゆきで助けたチェロキー族の混血の若者マーティン(ジェフリー・ハンター)がまじっているのを見て、インディアンに偏見をもつ彼は露骨に顔をしかめるのであった。翌日、牧師兼テキサス警備隊隊長のクレイトン(ワード・ボンド)が来訪し、牛を盗んだコマンチ族を追跡するという。イーサンとマーティンも隊に加わり出発するも、道すがら殺された牛を発見し、自分たちがまんまと誘き出された旨に気付く。急いでアーロン家に戻るイーサンであったが、時すでに遅く、アーロン夫婦は惨殺され、ルーシーとデビーの姉妹は連れ去られた後であった。即座にコマンチ族を追う一隊であったが、河川での戦いで、敵の本隊を逃してしまう。それでも復讐に燃えるイーサンはマーティンとルーシーの恋人ブラッド(ハリー・ケリーJr.)と共に、いつ果てるとも知れない捜索の旅に踏み出すのであった…。
一際、鮮烈であるのが、ジョン・ウェイン演じるイーサン・エドワーズのキャラクターである。
インディアンへの偏見を隠さない差別主義者で、兄一家を殺害し、姪をさらったコマンチ族を追う復讐の鬼と化すイーサン。ようやく見つけたデビー(ナタリー・ウッド)がインディアンの文化に染まっているのを見ると、デビーさえ手にかけようとするアンチヒーローぶりの凄まじさ!
この西部劇の主役としては異色のキャラが、公開時の観客に受け入れられなかった最大の原因といえよう。
というのも、彼以外のパーツに眼を向けると、馬上の銃撃戦、恋敵との拳と拳の喧嘩、カントリー音楽とダンス、騎兵隊、鉄火娘との純愛、バッファロー、等々、フォード西部劇のエレメントがこれでもかと詰め込まれており、集大成的な贅沢さを誇っている。
ジェフリー・ハンターにヴェラ・マイルズ、当時、絶賛売出し中であった16歳のナタリー・ウッド、そしてワード・ボンドにコマンチ族酋長役のヘンリー・ブランドン、母子共演となるハリー・ケリーJr.とオリーヴ・ケリー、変人モーズ・ハーバー役で場をさらうハンク・ウォーデン、さらにジョン・ウェインの実子パトリック・ウェインのお遊び出演と、フォード一家を交えた役者陣も超豪華!
ゆえに余計、イーサンの異物感が座りの悪いものになっている。がしかし、その点こそが本作の狙いであり、魔性の魅力といえよう。
世の中がそこに気付くのは、60年代に入り、ベトナム戦争、公民権運動、等々の社会情勢によりアメリカの理想が崩壊し、国民の価値観が一変してからである。
ハリウッドでは、それまでハッピーエンドの夢工場であった虚飾の娯楽性に反旗を翻し、アンハッピーエンドなリアルな人間性をえぐったニューシネマが勃興。カウンターカルチャーのクリエイターたちに本作は、革命的な真の西部劇として迎え入れられ、再評価の機運が高まったのである。
結果、イーサン・エドワーズは現代のアンチヒーロー像に多大な影響を与えた。
一例を挙げると、ポール・シュレイダーは当キャラの影響下で『タクシードライバー』(76)のトラヴィス・ビックルを生み出し、『ハードコアの夜』(79)を撮り、またフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(79)も物語の構成は本作そのまま。デヴィッド・リーンやジョン・ミリアス、スティーヴン・スピルバーグらもまた、本作をベスト映画の一本に挙げている。
56年の時点でアメリカの未来を見越していたジョン・フォードの、芯のある視線に敬意を表さずにはいられない。
フォードの熟練の演出も全編に渡り、冴えに冴えわたっている。
お馴染みのモニュメント・バレーの景観も圧倒的な迫力であり、これほど美しい西部劇は他にあるまい。雄大な自然と人間を融合させて、ドラマを紡ぐ職人芸はまさに神技!内容的には本作は、酸鼻を極める残酷シーンのつるべ打ちとなるのだが、肝心なところは一切映していない。省略の美学ともいえるスタイリッシュさ、ちょっとした仕草で各キャラクターの関係性や感情の機微を雄弁に語らせる奥ゆかしさよ。
世界の映画監督が皆、本作を参考にするのもさもありなん。若き監督たちは本作から学ぶべきものが多かろう。
劇中で度々登場する、家屋内から外を映し、屋内側を黒くつぶして額縁のように配した有名な構図。
ラストでは、イーサンがここで左手を右肘にそえたポーズをとる。これはサイレント時代に苦楽を共にしたフォードの盟友である俳優ハリー・ケリーの決めポーズ。本シーンで共演したハリー・ケリーの夫人オリーヴ・ケリーは、フォードとウェインのオマージュに静かに涙を流したのだとか。(息子ハリー・ケリーJr.も劇中で共演)
なんとも泣かせる逸話である。
本シーンでとるイーサン・エドワーズの行動から、彼のもつ特性が如実に伝わってこよう。
7年の歳月を費やした壮絶な捜索の末に、彼が得たモノのとは何だったのか?
家=家族を求める孤独な魂のモチーフは、フォード映画に通底するテーマだが、イーサンの醸す哀しさは、古い価値観=西部劇の終焉を体現している。それは同時に上記してきた如くアメリカの理想の滅亡であり、古き良き時代への哀愁に胸を締めつけられずにはいられない。
事実上、ハッピーエンドでありながら、実はそうではない痛烈な二律背反性。だからこそ、観る者の心にいつまでも残るのである。
こういうのを名作と呼ぶのだろう。
「ride way, ride way, ride way…」
スタン・ジョーンズの主題歌がいつまでも耳に残る。
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