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Channel: 相木悟の映画評
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『荒野はつらいよ ~アリゾナより愛をこめて~』 (2014)

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マクファーレン流、お下劣西部劇コメディを堪能せよ!



バカバカしくも、その実、真っ当な青春モノで、なおかつジャンル映画への愛を感じる良コメディではあった。
本作は、『テッド』(12)で一大旋風を巻き起こしたセス・マクファーレン監督作。今回は堂々、顔出し主演だ。ところが、『テッド』ほどのインパクトがなかったからか、はたまたアメリカの良心“西部劇”をおちょくった内容が拒否られたのか、興行はまさかの大コケ。
原題は『A Million Ways to Die in the West(西部で100万回死ぬ方法)』で、何やら面白そうなのだが、対してB級まっしぐらな投げやりなこの邦題…。
一体全体、内容はどんな代物に仕上がっているのか?真偽を確かめるべく劇場へ向かったのだが…。

1882年、西部開拓時代のアリゾナの田舎町。羊飼いのアルバート(セス・マクファーレン)は、口だけが達者なヘタレ青年。決闘を申し込まれても、平謝りして逃げ出す始末。ついに恋人のルイーズ(アマンダ・セイフライド)に愛想をつかされ、オタク仲間のエドワード(ジョバンニ・リビシ)に愚痴をこぼす毎日を送っていた。
ある日、アルバートは酒場の乱闘の最中、流れ者のアナ(シャーリーズ・セロン)を偶然救い出す。実はアナは悪名高い無法者クリンチ(リーアム・ニーソン)の妻だったのだが、そんなことは露知らず、恋におちてしまうアルバート。そして祭りの日、ルイーズの新しい彼氏である髭サロン経営者のフォイ(ニール・パトリック・ハリス)と諍いを起こしたアルバートは、なりゆきでフォイと一週間後に決闘する羽目となる。こうしてアルバートは、銃の名手であるアナから猛特訓をうけるのだが…。

モニュメントバレーの雄大な景色に、エルマー・バーンスタイン風の音楽が重なり、いかにもなテロップが躍る冒頭。造り手の当ジャンルへのこだわりが、ひしひしと感じられ、早々と西部劇ファンの心はキャッチされてしまう。

主人公アルバートは、西部開拓時代においては浮いている感覚の持ち主。いわば、現代常識を持ち合わせた“進んだ”人物なのだが、皮肉にもその時代では“おバカ”となる。要は、現代人が過去にタイムスリップして、カルチャーギャップに遭遇する『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(90)方式の肌触りに近い。日本でも戦国時代や幕末にタイムスリップする設定の作品が飽きもせず造られ続けており、今も昔も人気ジャンルであるのはご存じの通り。
本作では、それが“変わり者”の同時代人になっているだけなのだが、考えてみれば、そういう人物は当時もいたはずである。皆、同じな訳がない。得てして先見の明のある人間は、奇人扱いされるものなのだ。
意地悪な見方をすれば、そうしたタイムスリップものの安易さへのパロディとしても本作は機能していよう。

よって、劇中のアルバートは、西部劇の定番にことごとくノレず、冷ややかに突っ込み対処していく。死体が日常茶飯事の命を軽んずる無法状態の生活模様から、酒場での無意味なケンカ、バカバカしい決闘、いつも定位置にいる老父母まで、大小様々な西部劇ネタをおちょくり倒すアルバート。西部劇ファンには、いちいち笑え、堪らないものがあろう。
テイストがボブ・ホープやメル・ブルックスの西部劇コメディを匂わせるのも、また懐かしい。

もちろん、マクファーレン流のドン引き確実のお下品ネタもテンコ盛りだ。排泄物、ドラッグ、人種差別、娼婦、宗教、動物虐待、と迷いなく不謹慎ネタを投下するやりたい放題。グロ描写も容赦なく、『テッド』ファンは満足できよう。
この辺りも西部劇のリアル描写という意味で、パロディのスパイスとして効いている。

期せずして大悪党との戦いに巻き込まれた男のドタバタ騒動を、最終的にはきちんとした純愛モノへとまとめあげている点もまたマクファーレン流。
「生まれてくる時代と場所を間違えた」と自信をなくしていたアルバートが、自分らしく立ち上がっていく成長物語としてもストレートに胸をうつ。マッチョ信仰から“羊”の時代へと推移していく予感を匂わすラストの後味は、変に爽やかだ。

マクファーレン主演では弱いと踏んだのか、性悪役でも可憐なアマンダ・セイフライドと、ガンマン姿にしびれる男前なシャーリーズ・セロンという二大美女が配役されており、大いに眼福。
リーアム・ニーソンも悪党を気分良さげに貫録の快演。美尻のサービスまであるのだから、女性ファンはお楽しみに。
あっと驚く豪華カメオ出演陣にも注目だ。使い捨て扱いから、何処に出ていたのか不明な大物まで贅沢極まりない。

ただ、全体的にいささか笑いの弾数が少なかったのは確か。ドラマがしっかりしているだけに、物足りない。いまいち弾けなかったのも分かる。好きな人だけひっそり楽しむ良作といったところか。

しかしながら、誰かこんな時代劇のシニカルなコメディをつくってくれないものか。さぞかし、いじりがいがあると思うのだが。


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『ニンフォマニアック Vol.1』 (2013)

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問題児が投げかける色情狂時代、前編!



生命の根源でありながら(あるがゆえに)、タブー視される性描写。そこに果敢に挑んだセンセーショナルな一作の登場である。
本作は、数々の問題作、問題行動で名を馳せるデンマークの鬼才ラース・フォン・トリアー監督作。『アンチクライスト』(09)、『メランコリア』(11)と紡いできた“鬱”三部作の完結編だ。当監督については常々、苦手意識を表明している僕だが、自身の病まで糧に圧倒的な作家性でみせきる映画魂には平服するしかない。なんだかんだで劇場に吸い寄せられてしまうのも、むべなるかな。
しかも今回はタイトルからして、“色情狂”だ。エロをオシャレにコーティングするアート系は数あれ、今回はそのものズバリで、さぞかし女性客は気まずかろうと余計なお世話も焼きたくなるが、はたしてその内容は如何に…!?

雪の舞う、凍えるような冬の夕暮れ。年配の独身男セリグマン(ステラン・スカルスガルド)は、裏路地でけがをして倒れている女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)を発見。部屋に連れ帰って、介抱する。回復したジョーはセリグマンに、自分は幼い頃から“性”に強い関心を抱いていた“ニンフォマニアック”であることを告白。早熟だった生い立ちから、多種多様な男性遍歴を赤裸々に語り出すのであった…。

一体どんなエゲツないものをみせられるのか、と身構えて臨んだのだが…、その点ではハッキリいって拍子抜けであった。やってることはいつものトリアー節で、挑発的で迷宮的な内容とあけすけな性描写が続く。でも全然、生々しくない。というかエロくない。そして、さほどドス黒くもない。
どん底まで落ち込み、研ぎ澄まされ、結果、ドロドロしたものが丸くなった印象である。

ひとつに本作は、セリグマンがジョーから話を聴くというワンクッションは入った構成にあろう。これによりジョーの色情狂としての半生の寓話性が高まり、いつもより距離ができる分、入っていき易く、分かりやすいエンタメと化しているのだ。
セリグマンは堅物の博識キャラで、ひと段落つぐ度に、いちいちジョーの話を分析。フライフィッシングやファボナッチ数列、バッハと、あたかもいつものトリアーの煙に巻くメタファー演出を噛んで含めて解説してくれるのだから、何をかいわんや。これがめっぽう可笑しく、同時にポップ化する効果をあげている。当キャラのおかげで一般人とてして安心する余地があり、いつもの落ち込みが緩和されるとでもいおうか。

性の目覚めとなる子供時代の無邪気なお遊びから、ワイルドな男(シャイア・ラブーフ)への初恋とみじめな初体験。悪友(ソフィ・ケネディ・クラーク)とゲーム感覚で男を漁る高校生活。そんなジョーにいいように転がされ、時に人生を狂わされる男のみっともなさ。父親(クリスチャン・スレーター)との関係性。不毛な性生活からようやく愛という感情が芽生えるも、上手くはいかない皮肉な顛末…。
章立てで綴られるそれらの逸話も、各々趣向が凝らされ見応えたっぷりだ。

それに何といっても、こんなハードな作品に有名人がズラッと並ぶ異様な光景は、トリアー作品ならでは。
壮年のジョーを演じるシャルロット・ゲンズブールは、本作での活躍はナシ。今パートの主役は、若い頃のジョーを演じたステイシー・マーディンとなる。
少女時代から見守るシャルロット・ウォッチャーからすると、同人物を演じる二人の体型に違和感がない点が大変よろしい。よくぞ見つけた逸材だ。妖艶な体当たり芝居は、圧巻である。(※でも結合シーンは、吹替)
初恋の君ジェロームにシャイア・ラブーフ、父親役にクリスチャン・スレーターが登場。そして第3章では、ユマ・サーマンが見せ場をさらっていく。
観る前は、彼女がどう扱われるのか興味津々だったが、意外にもコメディ・リリーフでビックリ。劇中一番の怖くも爆笑の面白キャラになっているので、お楽しみに。

という訳で、ここで少々上映形態について物申したい。
『るろうに剣心』や『ロード・オブ・ザ・リング』といった、端から分割目的の興行には、別段文句はない。しかし、去年公開された『セデック・バレ』(11)もそうだが、もともと一本の構造の作品を二本に分けるのは如何なものか?本作も明らかに一本の作品をぶった切っている。せめて『Vol.1』、『vol.2』を同時公開にしてほしかったところである。
もう最後のブツ切り感が半端なくイライラするし、話が終わってない分、総括しようもない。連続して観ればよかったと後悔中である。
よって、全ての判断は、『vol.2』にて。


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『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』 (2014)

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皆大好き、熱き“消耗品”アクション第3弾!



3作目にしてテンション落ちず。物好きなファンを間違いなく満足させるテッパンの快作であった。
本作は、我らがスタローンが盛りを過ぎた古今東西のスターをかき集め、チーム・アクションとして世に放ち、支持をうけた『エクスペンダブルズ』シリーズ第3弾。もうファンにとっては、2年に1度の馴染のお祭りだ。
が、今回、本作が全米で大コケするという、まさかの事件が発生。メル・ギブソンの禊がすんでいなかったのか?海賊版が出回ったせいか?はたまた「もう飽きた」という今さらな意見まで数々の流言が飛び交い、ファンをやきもきさせている。永続を望む身としては、真価を確かめるべくスクリーンへ臨んだのだが…!?

バーニー(シルベスター・スタローン)率いる最強の傭兵集団“エクスペンダブルズ”は、アフリカの独裁国家の囚人護送車から、古株の仲間ドク(ウェズリー・スナイプス)を救出。そのままソマリアに向かい、武器取引を壊滅せんとするも、現場に予期せぬ男が現れる。男の名は、ストーンバンクス(メル・ギブソン)。“エクスペンダブルズ”の創設メンバーにして、かつてバーニーが葬った仇敵であった。ストーンバンクスの反撃に遭い、任務は失敗。おまけにヘイル(テリー・クルーズ)が重傷を負ってしまう。
後日、CIAの大物マックス(ハリソン・フォード)から、正式にストーンバンクスの生け捕りを依頼されたバーニーは、ヘイルの一件もあり、古いメンバーの入れ替えを図るのだが…。

構造はいつも通り、“エクスペンダブルズ”が悪人たちをこらしめる、シンプル・オブ・ベスト。よもやその辺りの妙味に期待して観にいく人はいまいが、個人的には前二作よりストーリーを楽しめた次第である。
消耗品である身に絶望し、悪に走ったかつての仲間を鏡合わせに苦心するバーニー。それが皮肉にも、現在の仲間たちと袂を分かつ決断へと至る。そうして若手チームを結成するバーニーであったが、紆余曲折を経て、大ピンチに。そこで再び別れた仲間が手を差し伸べ、チーム再結成となる展開が熱い、熱過ぎる!超ベタながら、その泥臭さが心地良い。エモーショナルな流れに乗せられ、点数上乗せだ。

メンバーの内輪ウケを狙ったキャラ付けも、ますます研ぎ澄まされている。もはや名人芸ともいえるシリーズの目玉といってよかろう。
まずは、新加入となるウェズリー・スナイプス。本来ならテリー・クルーズのポジションで一作目から登場する予定であったのが、やんごとなき事情(笑)により見送られ、ようやくの登板となった。(その割をくって、テリー演じるヘイルは早々と退場となるのだが、当キャラの顛末に関してもスタローンの母なる愛を感じることができるのでご注目)
もうアバンタイトルから、ウェズリーのいじりネタ満載で、エンジン全開である。それに応えるウェズリーもまた可愛らしい。久しぶりの現場を無邪気に楽しんでいるテンションが伝わってきて、大きな子供状態。そこに『ブレイド』シリーズの重厚さはない。アクションもキレキレである。

続いて、バーニーのもとに厚かましく売り込みにくるマシンガントークの元スペイン外人部隊の傭兵アルゴに扮したアントニオ・バンデラス。これが思わぬ伏兵で、一際笑わせてもらった。イケメンなのにしゃべると残念という、「こういう人いるいる!」的なコメディ・リリーフを見事に好演。かと思えば、テーマ性に関わるちょっとしたしんみりする過去があったりと侮れず、なかなかの儲け役だ。
なんともはや、ウェズリー共に愛らしい50オーバーである。この二人のダメ人間加減と愛嬌が、本シリーズのイコン。色々あって、陽気にがんばっている姿から大いに活力をもらえよう。

大物ハリソン・フォードもノリノリで、実にチャーミング。さすがに動きは少ないが、飛行機のライセンスを駆使(?)した活躍を存分にみせてくれる。前作まで当役のCIAポジションにあった薄情者のハゲはもう用済みだ。

そして、ここにいる誰よりも栄光の座からどん底に急落したスター、メル・ギブソン。DVから飲酒運転、差別発言と、考え得る限りの悪行三昧で完全に干されていた氏が悪役というのが、本作最大のジョークであろう。大衆から見放された氏にも、平等に救いの手をさしのべるスタローンの神々しさよ。
見せ場であるロッキーVSマッドマックスの対決が、ちょっと味気なかったのが悔やまれる。

他、アーノルド・シュワルツェネッガー&ジェト・リーの凸凹爆笑コンビから、ジェイソン・ステイサム、ドルフ・ラングレン、ランディ・クートゥアといったレギュラー陣にも、きっちり見せ場が用意されており抜かりはない。

とはいえ、『ザ・ヘラクレス』(14)で主役を張ったケラン・ラッツ、実際の女子総合格闘技の現役チャンプのロンダ・ラウジー、こちらも元ボクシング・チャンプのヴィクター・オルティス、『ダークナイト ライジング』(12)のグレン・パウエルといったニュー・ジェネレーション4人組を登場させたため、定番メンバーの活躍が削られたのは、やっぱり残念。
数が増える代わりに悪役がギブソンに絞られ、彼のとり巻きに個性の強い悪キャラがいなかったのも物足りない。
あと、ダラダラと続く銃撃戦の多さにも、いつものごとく辟易した。

とまあ、不満は色々あるのだが、キャスト陣の掛け合いに大笑いし、大爆破アクションでストレス発散、全体的にはご馳走さまである。
これだけ我が道をゆくレジェンドたちを演出し、ソツなくまとめあげた若手監督パトリック・ヒューズの健闘を讃えたい。(25キロ心労で痩せたという)
でも、やはりちょっと荷が重かったように思う。ここは当初の目論見通り、メル・ギブソンに監督をしてほしかった。いわずと知れたアカデミー賞監督賞を受賞した名匠である。どんな作品に仕上げたのか、想像すると胸が躍るではないか。
次作はぜひ、メルギブ監督でお願いします。


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『泣く男』 (2014)

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やがて哀しきコリアン・ノワール!



情感溢れるルックとクールな活劇に魅せられる一級の韓国映画ではあるのだが…。
本作は、『アジョシ』(10)にて韓流バイオレンスの凄まじさを世に知らしめたイ・ジョンボム監督作。主演は、『ブラザーフット』(04)で『アジョシ』の主役ウォンビンの兄を演じたチャン・ドンゴンだ。過去をもつ凄腕の男が闇組織を単身相手取るパターンとなると、どうしても二番煎じのあざとさが拭えないが、比べられるのは百も承知。あえて同スタイルで挑む監督の職人精神をこそ讃えたい。
はたして本作は『アジョシ』のエモーショナルなアクションを越えることができたのか…!?

中国系犯罪組織に所属する殺し屋ゴン(チャン・ドンゴン)は、アメリカで任務遂行中に過って幼い少女ユミ(カン・ジウ)の命を奪ってしまう。罪悪感から姿をくらまし、酒におぼれるゴンであったが、組織はそれを許さず新たな指令を下す。それは組織の秘密口座の情報を握っている可能性のある、投資会社の女取締役モギョン(キム・ミニ)の暗殺。しかもモギョンは、ユミの母親であった。覚悟を決めたゴンは韓国に飛び、モギョンのもとに赴くのだが、娘を失って悲しみに暮れる彼女に銃の引き金を引くことが出来ず…。

監督曰く、冒頭の少女の誤殺シーンは、少女を守って戦う『アジョシ』からの決別を意図しているそうな。この点から、なんとなく前作を過剰に意識しているのは、造り手である旨が窺える。それにより、考えなくてもいい余計な比較を観客に強いているように思う。
殺めた少女の母親との心が通いようもない断絶された関係と、『アジョシ』の主人公と少女の深い絆。多彩な肉弾戦と銃撃戦。漫画のようにケレン味があった『アジョシ』の敵キャラと、シリアスに抑えられた本作の敵キャラ、等々…。
こうしてみると、すべからく『アジョシ』と別ベクトルを目指す試みが目につこう。かような詮索自体が、個人的には逆効果なノイズになってしまった。本作は本作で勝負すればよいものを…。う~ん、勿体ない。

本編自体は、実にハードな内容である。哀しい過去を背負った殺人マシーンのゴンが、罪もない子供をミスで殺害したことをキッカケに、自身の内面と向き合っていく。殺した子供の母親であり、ターゲットである女性に自分を捨てた母親を重ね、“贖罪”と“許し”の狭間で惑い苦しみ、人間性を取り戻すゴン。
それらの葛藤をペラペラと内面を語ることなく、あくまでアクションで指し示す。モギョンを守るために組織に反旗を翻し、血を流しボロボロになりながら悲愴な戦いに身を投じる姿で全てを物語る。まこと玄人好みの、大人のダーク活劇といえよう。

さすがにアクションも、見応え大アリ。特にアパートでの白昼堂々の銃撃戦は、圧巻の一言。日本の団地と見紛い、身近なリアリティに鳥肌がたった。一般の人々の気配がないのが残念ではあるが…、これはクライマックスのタワービルも同様。どうせならこの辺りも丁寧につくってほしかったところである。
日本映画では、逆立ちしても無理であろうことを考えると悔しい限り。

寡黙な主人公ゴンを顔力でこなしたチャン・ドンゴンの鬼気迫る熱演も印象深い。やんちゃ坊主のような風貌ながら、危険なセクシーさも香る色んな面を味わえる俳優さんである。
モギョン役のキム・ミニさんの吸い込まれるような美人ぶりも眼福だ。

ただ本作。確かにラストはカタルシスがあり、感動はあるのだが、こちらに理解を要求する割にキャラが素っ気なさすぎてノリきれず、途中すっかり退屈してしまった。あまりに渋すぎる。敵キャラや主人公に近い脇役等にもう少し魅力的な人物を配して、メリハリをつけた方がよかったのでは?

過去の監督作はいうまでもなく、雰囲気はタイ映画『RAIN』(99)、香港映画『狼/男たちの挽歌・最終章』(89)をつい思い出したりと、決して真新しいことはやってはいないジョンボム監督。サンプリング・ムービーとは一味違い、オーソドックスなつくりをあえてなぞり、個性を見出していくスタイルは、それはそれで独特である。本作の出来はいまいちながら、心意気やヨシ!だ。
これからも追っていきたい監督であるのは間違いない。


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『ヒート』 (1995)

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青白く燃え上がる、男たちの魂の激突!



二大スターの共演映画といえば、かつては一大イベントであった。
五社協定を破って、三船敏郎と石原裕次郎の顔合わせが実現した『黒部の太陽』(68)、アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドが名コンビぶりをみせた『ボルサリーノ』(70)、ポール・ニューマンとスティーヴ・マックイーンが共闘した『タワーリング・インフェルノ』(74)、等々、映画ファンなら数多ある夢の饗宴を脳内リフレインできよう。
現在はカリスマ・スターが絶滅した分、共演が当たり前となり、『エクスペンダブルズ』(10)ぐらいの豪華面子を集めない限りは、すっかり有難味が薄れてしまった。
本作は、95年に世界を震撼させた大作犯罪映画である。本作にて、70年代から現在に至るまで一線で活躍を続けるアル・パチーノとロバート・デ・ニーロが刑事と泥棒に分かれて大激突!以前、『ゴッドファーザー PART2』(74)において共演してはいるが、過去と現代のパートに役が別れていたため、顔を合わせることはなかった。よって、本作が事実上の初共演となる。
公開当時は、同時代を牽引した伝説の演技派の対決ということで、ずいぶん話題になった。僕も一報を聞いてから、いまかいまかと心待ちにしていた記憶がある。
が、もちろん本作はそうしたイベント性を抜きにしても、断固、“男映画”の傑作だ。

ロサンゼルス。ニール(ロバート・デ・ニーロ)率いる犯罪チームは、無駄のない鮮やかな手口で現金輸送車を襲撃。有価証券を強奪する。しかし、冷静さを失った新入りのウェイングロー(ケヴィン・ゲイジ)が警備員に発砲し、ニールは輸送車の乗員全員をやむなく射殺してしまう。
通報を受けて飛んできた市警警部補のヴィンセント(アル・パチーノ)は、現場を見て即座にプロの仕業である旨を確信。捜査を開始する。
一方、ニールはブレーンであるネイト(ジョン・ヴォイト)の助言もあり、証券を持ち主であるヴァン・ザント(ウィリアム・フィクナー)に売り戻そうと画策。ところがヴァン・ザントは取引現場に殺し屋を差し向け、ニールはそれを返り討ちにする。
その頃、ヴィンセントは現場でニールの仲間マイケル(トム・サイズモア)が発した口癖から身許を掴み、すでにニールのチームを割り出していた。そうした仕事上の順調ぶりの傍ら、妻のジャスティン(ダイアン・ヴェノーラ)は薬物に依存し、連れ子のローレン(ナタリー・ポートマン)は精神が不安定になっており、家庭は崩壊寸前であった。
反してニールのプライベートは犯罪者の信念から質素そのものであったが、ひょんなことから書店に勤めるデザイナーのイーディ(エイミー・ブレネマン)と出会い、恋愛関係となる。イーディのために次の大仕事、銀行強盗を最後に足を洗う決意するニールであったが、自分たちを付け狙うヴィンセントの捜査が迫ってきて…。

監督のマイケル・マンは、TVシリーズ『特捜刑事マイアミ・バイス』(84~89)の製作で名を成した犯罪モノの名手であり、デビュー作から一貫する男臭い濃い作風により映画ファンを魅了し続けている。
氏の特性としては、第一にそのリアリティへの飽くなきこだわりが挙げられよう。ドキュメンタリー出身ということもあり、本物の刑事や犯罪者へ取材し、実際に指示を仰ぎ、犯罪の手口から銃器の扱い方まで役者を訓練する等、徹底的に凝りまくる。
氏の革命は、その現実的な土台にあえて非リアルを加味した点といえよう。例えば『マイアミ・バイス』ではリアルな銃撃戦で度肝を抜きつつ、観光都市マイアミのリゾート感にファッショナブルなセクシー刑事、シャレた音楽と、スタイリッシュな刑事モノに仕立て上げてしまうのである。

そんなマイケル・マンが、アドバイザーである友人の警官から聞き齧った、“犯罪者と心を通わせた”実話をもとに造ったのが、TV映画『メイド・イン・LA』(89)であった。そして時が経ち、『ラスト・オブ・モヒカン』(92)の成功で一級監督としての地位を築いた氏のところに舞い込んだのが、アル・パチーノとロバート・デ・ニーロをむかえた当作のリメイク企画、すなわち本作である。(タイトルの『Heat』の意味は、ズバリ、「対決」であり、犯罪者の隠語で「警察官」という意味もある)
完成した本作の尺は、171分。90分のオリジナル版『メイド~』と比べると、堂々の大作ぶりだ。それはオリジナルで描ききれなかった主役二人の葛藤を掘り下げ、脇キャラのドラマを丁寧に味付けた結果であり、贅沢にクオリティは上がっている。
全体の構成やほとんどのシーンは完コピだが、決定的に異なるのはそのラスト。解釈は180度異なり、この一点により全く違う作品と見なしてよかろう。

本作のテーマは、マイケル・マンの面目躍如たる“男の生き様”。簡単にいえば、仕事と家族、安寧と冒険、どちらを選ぶのか?その間であがく男の哀しき宿命の活写である。この辺りは女性の方がシビアであり、自然「男ってバカね…」となろう。
刑事のヴィンセントは家庭を顧みない仕事人間で、二度の離婚歴があり、現在三度目の結婚も破局間近。
対してニールは、「何かあったら、30秒以内に高飛びできるよう、しがらみを持つな」という先人の教えを守り、家に家具を置かず、他人と距離をおいた孤独の中を生きている。
プロフェッショナルで、人並みの家庭の幸せを犠牲にしている点で二人は似た者同士であり、お互いにシンパシーを見出すのは必然であろう。

他方、ニールの頼れる仲間たちには家族があり、各々の事情で犯罪に手を染めている。面白いのは、そんなニールたちが家族で会食する様子を盗撮していた刑事たちが、後のシーンでは影響されてか家族サービスに興じる、まさに裏表の表現である。
でも二つのグループは、似て非なるもの。劇中でネイトが語る通り、ヴィンセントたちの失敗は経歴に傷がつくだけだが、ニールたちの失敗は死か刑務所行きを意味する。よってサイドストーリーの比重は、どうしても迫真性のあるニール側に偏ってしまうのは致し方ない。

上記したマイケル・マン独特の綿密な取材に裏打ちされたリアル・クライム・ムービーたる見どころも、もちろん満載。これまで培ってきたノウハウの集大成たる赴きとなっている。
お互いに罠を張り巡らせ、時に相手を出し抜き、時に欺かれる丁々発止の情報戦は、緊迫感たっぷり!こうした形で頭脳戦を繰り広げる刑事VS犯罪者のスタイルは、新鮮であった。
また、もうひとつの特徴である荒唐無稽ぶりも本領発揮!軍隊のように訓練されたクレバーな犯罪者たちについては、ぜひとも堅気の職業を薦めたいところ(笑)。
中でも映画史に残る市街地を舞台にした銃撃戦は、圧巻の一言!あれだけ少数の強盗に対して、ありえない規模なのだが、リアルなガンさばきと音響、怒涛の弾着に眼が離せない。ハッキリいって“戦争”であり、その迫力たるやスゴすぎる。一度は体感すべし!

アル・パチーノとロバート・デ・ニーロの配役は、ハイテンションの刑事ヴィンセントとクールな犯罪者ニールという風に対照的に振り分けられ、ばっちりハマっている。この手のキャラはどちらも自家薬籠中であり、入れ替えても通用しよう。
こうして映画ファンの長年の夢であった奇跡のレジェンド共演が実現した訳だが、実のところ、同フレームで真正面から顔を合わせるカットはひとつもない。映っても肩ナメであり、あとはカットバックのみ。これは公開当時、物議をかもし、あまつさえ二人は共演していないのでは?という不仲説まで囁かれる始末。
当然、これはマイケル・マンの確信犯的演出であり、二人のキャラの同一性を表すため、鏡のように配しているのである。これはこれでベストな効果をあげていると僕は思う。(それでも不満な方は、二人ががっつり同じ画角に映り込む『ボーダー』(07)を観て、存分にガッカリして下さい)
ちなみに気になるスタッフ・ロールの順番は、アル・パチーノが先となった。ただ役の上ではどちらが主役かといえば、明らかにデ・ニーロであり、総体的にはいいバランスといえよう。

妻シャーリーン(アシュレー・ジャッド)との腐れ縁が泣かせるクリス役のヴァル・キルマー、いかつい風貌ながら良き家庭人マイケル役のトム・サイズモア、ある意味、一番の出世頭となったトレヨ役のダニー・トレホ、一番の極悪人ウェイングロー役のケヴィン・ゲイジと、犯罪者チームのキャラは皆立っており、エンクセレント!
他、胡散臭い大物感が絶妙なネイト役のジョン・ヴォイト、最低の浮気野郎を好演したハンク・アザリア、インテリの悪党ヴァン・ザント役のウィリアム・フィクナー、硝子のような脆い少女に扮した若き日のナタリー・ポートマンと脇も超豪華!

音楽と撮影は、タイトルの真逆をいく青いダークなルックに彩られており、低温火傷を負うイメージが堪らない。このセンスのよさには、完全ノックアウトである。

クライマックス。最終局面で家族を捨て、仕事を選ぶヴィンセント。
対して、女性にすがる弱さを露見してしまうニール。
勝負は時の運ではあるが、それ以前に勝負は決していたように感じる。

こいつなら殺されてもいいと思う男に出会った悪党の喜び。
唯一の理解者が犯罪者であり、感情移入してしまった正義の男の哀しさ…。
やるせなく美しいラストに男泣きである。


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『イコライザー』 (2014)

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弱きを助け強きを挫く、頼りになるDIYヒーロー登場す!



何かと理不尽な世に、神も仏もないものかと天に嘆きたくなる昨今。そんな憂さをささやかに晴らしてくれる快作ではあった。
本作は、演技派として重厚作に顔を出しながら、娯楽作もこなす名優デンゼル・ワシントン主演作。『トレーニングデイ』(01)で氏にアカデミー主演男優賞をもたらしたアントワーン・フークア監督とタッグを組み、今回挑んだのはTVドラマ『ザ・シークレット・ハンター』(85~89)を原案にしたサスペンス・アクションだ。
お客を呼べるアイドル・スターがいなくなり、アクション映画もオスカー級の演技派が務めるようになって幾星霜。ニコラス・ケイジのように転向してから落ちぶれるパターンもあれば、リーアム・ニーソンのような渋い役者が急ブレイクするケースも散見。その中でもデンゼルは、誠実な人柄を表すように絶妙なバランスで渡り歩いている。憧れから親しみへとアクション・スター像が変わってきた現実を、氏の活躍から如実に感じとれよう。

マッコール(デンゼル・ワシントン)は、ホームセンターで働く真面目な中年男。日課として深夜のダイナーで亡き妻の残した本を読みふける彼は、ある日、あどけない顔の娼婦テリー(クロエ・グレース・モレッツ)と知己をえる。テリーには歌手になる夢があるものの、ロシアン・マフィアに囲われ、17歳の若さで娼婦を強要させられていた。しかもある夜、客の暴力に反抗したことを咎められ、半殺しにあって病院送りとなる。そんなテリーの惨状を目のあたりにしたマッコールの表情は一変。実はマッコールは元CIAのトップエージェントであり、殺しのプロであった。ある決意を胸にマッコールは、ギャングのアジトであるロシア料理店へ単身乗り込んでいくのだが…。

じっくり描かれる主人公マッコールの私生活は、几帳面で穏やか。職場では面倒見がよく、人望も厚い。でも、素っ気ない部屋には生活感がなく、不眠症に悩まされている姿からは、心に抱える闇と只者ではない雰囲気がひしひしと漂ってくる。この男がいつ本性を表すのか?その興味がぐいぐいと観る者をひきつけ、ついに悪に対して暴発する瞬間のテンションを高めていく。
この辺りのキャラクターの実在感は、演技派デンゼル・ワシントンの面目躍如といえよう。気のいい兄ちゃんのリアルティと、凄腕の殺人スキルをもつ浮世離れしたヒットマンを同時に成立させるのだから何をかいわんや。下手にやれば、漫画みたいなキャラになったこと確実である。
銃やナイフといった武器をもたず、身の回りにある日用品を武器に変えて敵を瞬殺する庶民目線(?)の戦闘テクニックも実に心憎い。

マッコールとロシアン・マフィアの抗争は熾烈を極め、マフィア側は元KGBの異常殺人者テディ(マートン・ソーカス)を招聘。マッコールは頭脳を駆使してテディの裏をかきつつ、最終決戦たるクライマックスへとなだれ込んでいく。詳細はさけるが、その舞台とマッコールの戦法がまた膝を打つほど的確で、とにかく燃えに燃える。

ただ、構成的に物申したいのが、クロエ・グレース・モレッツ演じる娼婦テリーの扱いだ。
クロエちゃんに関しては、『タクシー・ドライバー』(76)のジョディ・フォスターほどの衝撃はないが、背伸びしている感じとはち切れんばかりのポッチャリぶりが可愛らしく、さすがの好演を刻んでいる。でも彼女が出てくるのは前半のちょっととオチだけで、出番は多くない。てっきり『レオン』(94)や『アジョシ』(10)みたいな展開を期待していただけに、拍子抜けであった。現にそんな宣伝をうっているし、劇中の流れ自体もそういう風になっており、ちょっと歪な印象をうける。彼女が消えてから、画面は急激に潤いを失い、退屈になってしまった。クロエちゃん目当てのファンは、注意を喚起しておく。
何か裏の事情があったのかもしれないが、どう考えても彼女をもっとピックアップし、物語に絡ませるべきであろう。それでいて無駄に長い上映時間をタイトにすれば、さらにクオリティはあがったように思う。これは心底勿体ない。

“イコライザー”とは、平衡化、平準化の意。本作は、世捨て人であったマッコールが自らの使命に気付き、弱者の味方として世に均衡をもたらす必殺仕事人と化すまでの誕生編。劇中では本筋の他に、同僚の家族を陥れた汚職警官や強盗などをマッコールが人知れず成敗するエピソードも紡がれていく。
この辺り、均衡の実行者が黒人で、悪人がロシア人、白人は周囲で右往左往するだけで、苦しめられるのはヒスパニックという、あざとい構図が若干気になるところではある。

世の中には、裏で全てを牛耳っている組織が存在し、正義の面でもこうした存在がいてほしいと願うのは、庶民の希望なのであろう。それが日本のTVドラマの専売特許ではなく、全世界共通であることが本作を観ればよく分かる。

なんとなく続編を匂わせて終わった本作。デンゼル・ワシントン初のシリーズ化なるか?それこそ必殺シリーズよろしく、色んな表の仕事につく仲間が出てきてチームを組めば、楽しいのだが。


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『許されざる者』 (1992)

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命題を突きつける深遠なる西部劇神話!



今や作品を発表する度にアカデミー賞に絡み、ハリウッドの尊敬を一身に集めているクリント・イーストウッド御大。
しかしながら、そうした正しい評価を受けるようになったのは、キャリアも後半も後半。スピルバーグ同様、ヒットメイカーとしてのやっかみから監督業も注目されず、アカデミー賞会員も冷たい態度をとり続けていた。
本作は、そんな状況を一変させた92年公開の監督作。第65回アカデミー賞にて作品賞、監督賞、助演男優賞、編集賞を獲得。いわば御大は、周囲が無視できず評価せざるをえない傑作を生み出してしまったのである。
本作のオリジナル脚本は、『ブレードランナー』(82)で有名なデイヴィッド・ウェッブ・ピープルズが70年代に執筆。当初はフランシス・フォード・コッポラが映画化権を有していたが、当脚本に惚れ込んだイーストウッドは交渉を開始。丁度その頃、コッポラの製作会社が倒産した経緯もあり、幸いにも御大は権利を手に入れることに成功する。
しかし、すぐに映画化に着手せずに、自らが主人公を演じるに相応しい年齢になるまで温存。齢と共にキャリアを重ね、充分に機が熟したタイミングで本作を世に放った。
そんな本作は、これまで御大が監督、プロデュースした西部劇内で描いてきた思想の集大成となっており、まさに作家としての到達点たる威厳を備えている。
本作が、ドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに捧げられている事実は、師と仰ぐ両氏へのオマージュというより、肩を並べた誇りといえよう。

1880年、ワイオミング州。小さな街ビッグ・ウィスキーである夜、娼婦が客に顔を切り刻まれる事件が発生。犯人のカウボーイは街を牛耳る保安官リトル・ビル・ダゲット(ジーン・ハックマン)に逮捕されるも、馬7頭の賠償金で釈放されてしまう。しかし、それでは腹の虫がおさまらない娼婦たちは、カウボーイの首に1000ドルを懸け、賞金稼ぎを集めるのであった。
一方、かつて列車強盗や数多の殺人で悪名を轟かせた伝説のアウトロー、ウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)は、若妻との結婚を機に改心。妻を病気で亡くした後も、幼い子供二人と共に郊外で慎ましい暮らしを送っていた。そんなマニーのもとに若い賞金稼ぎスコフィールド・キッド(ジェームズ・ウールヴェット)が訪ねてきて、件のカウボーイ殺しの協力を申し出る。11年という長いブランクもあり、返事をしぶるマニーであったが子供たちの将来を考え、再び銃をとることを決意。かつての相棒ネッド(モーガン・フリーマン)を仲間に加え、三人はビッグ・ウィスキーに向かうのであった。しかし娼館に辿り着いた一行の前に、無法者を忌み嫌うダゲットが立ち塞がり…。

本作が観客の度肝を抜いたのは、何をおいてもこれまでの西部劇のフィクションたる常識を覆す、リアルな描写の数々である。
徹底的に時代考証された美術や衣装もさることながら、銃撃戦ではなかなか弾は人に当たらず、敵をバタバタ殺しまくるエンタメの爽快感は皆無。人一人を殺す大変さを、その後の心理的ショックと共に観客に体感させる。
主人公マニーへのアプローチも、豚を追い回す登場シーンからはじまり、馬に乗れば落馬しまくる情けない姿を披露。元は冷酷な殺し屋といえども、血の通った普通の人間である旨を否応にも認識させる。この役をイーストウッドがやったのだから効果覿面。やるせない衝撃たるや尋常ではない。

御大の憎いところは、それでも全体的にはエンタメのフォーマットでラストをまとめている点である。
でも観た後は、モヤモヤしたものがどうしても拭えない。
僕も高校生の頃、鑑賞した際は、格好つけてわかった気になっていたが、その実、スッキリしてはいなかった。それは一重に本作が含む深いテーマ性の賜物といえよう。

まず注目は、物語上、悪役となる賞金をかけられたカウボーイ二名。
確かにそのうちの一人は、娼婦に暴力を振るった最低野郎だが、その原因となった娼婦の“暴言”の内容を聞けば、男なら彼がブチギレた気持ちも共感できよう(苦笑)。それにカッとなってやってしまっただけで、命までは奪っていない。保安官に捕まり、きちんと賠償金を支払い、罪を償ってさえいる。
彼らははたして殺されるだけの罪を犯したのだろうか?
特に実行犯はまだしも、連れであるもうひとりの男は、どう見ても誠実なイイヤツである。

他方、娼婦たちの尊厳を踏みにじられた怨みもまた痛いほど分かる。彼女たちは事件を名目に、自らの職業に対する世間の偏見や差別と闘っていたのだろう。
もちろん、顔に一生残る傷を受けた娼婦(フランシス・フィッシャー)の悔しさを慮れば、同情を禁じ得ない。
とはいえ、金で殺し屋を雇い、復讐する発想は健全といえるだろうか?

街を恐怖政治であれ、規律をたてて守っている保安官ダゲットも、観方を変えれば、正義のヒーローである。現に彼の中では悪いことをしている気は、微塵もあるまい。無法者がはびこる時代に、街の治安を守る最も適した方法を彼はとっているだけである。
本役でアカデミー賞助演男優賞をゲットしたジーン・ハックマンの迫力により、強烈な悪役として印象に残っているが、ジョン・ウェインのようなアメリカの良心が匂う配役にすれば、もっと面白くなったような気がしないでもない。
ちなみに本役の思想は、アメリカのメタファーとして解釈可能であり、彼が家を造っているのも、かの国が“新しい国”であることの象徴であろう。実際は大工(ダゲット本人)の腕がなく、雨漏りしている点も意味深だ。
賞金目当てにやってきた英国人ガンマン、イングリッシュ・ボブ(リチャード・ハリス)は、ダゲットにその捏造した経歴を暴かれ、袋叩きの眼に合う。そんなボブが街を追い出される際に吐き捨てるセリフが、痛烈にかの国の現状を風刺していよう。

そして、主人公マニーたちが貧困から金に眼がくらみ、殺人を引き受ける事情もまた理解できる代物である。
ターゲットのカウボーイを殺し、動揺した青二才のスコフィールド・キッドにマニーは諭す。
「殺しは非道な行為だ。人の過去や未来をすべて奪ってしまう」
キッドは、「あいつらは殺されて当然の人間だ。自業自得だ!」と自分を必死で慰める。
マニーはキッドに告げる。「それは俺たちも同じだ」と。

もうお分かりの通り、登場人物全員が善人でも悪人でもなく、“許されざる者”なのである。

そうした“許されざる者”たちによって本作が語りかけるのは、「人は人を裁く権利があるのか?」なる命題といえよう。
昨今のアメコミ・ヒーローは、正義の在り方について苦悩しているが、本作ではもっとシンプルに当問題の根本を突いてくる。
各勢力がそれぞれ審判を下そうと対立するが、それぞれが分かり合う道はあったのだろうか?
その問いには、テロップで語られるエピローグがシビアな解答を示している。
美しくも切ないラスト・カットの、これぞ名画と呼べる格調高さ。イーストウッドがノンクレジットで作曲したテーマ曲が、深く心に沁みわたる。

映画が提供してきた殺人エンターテインメントへの批評と人間の業を示した偉大な映画を、ぜひご体感あれ!
イングリッシュ・ボブのハッタリ自伝を執筆していた腰巾着作家(ソウル・ルビネック)は、劇中でダゲットに乗り換え、その壮絶なマニーとの対決を見届ける。
最終的に彼はどういった物語をつむいだのだろうか?


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『サボタージュ』 (2014)

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シュワちゃんの新境地を垣間見るミステリー・アクション!



ほどよく凝ったプロットに引き込まれ、なおかつアクションも堪能できる秀作であった。
本作は、2011年初頭にカリフォルニア州知事の任期を終え、ハリウッド・スターへ返り咲きを模索する我らがアーノルド・シュワルツェネッガー主演作。スタローン関連の助演はともかく、復活主演作に選んだ『ラストスタンド』(13)は、ヒットこそしなかったものの高クオリティの一作であった。何より監督にキム・ジウンを選ぶセンスには、感心しきり。そして今回選んだのが、デヴィッド・エアー。再び眼の確かさに、唸りに唸った次第である。当監督は『エンド・オブ・ウォッチ』(12)で高評価をうけ、オスカー級の話題作『フューリー』(14)が控える注目中の注目株なのだ。やはりシュワちゃん、頭がキレる。例によって今回も大ヒットとはいかなかったものの、期待充分でスクリーンへ向かったのだが…!?

DEA(麻薬取締局)の中で、“ブリーチャー(破壊屋)”の異名をもつジョン・ウォートン(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、精鋭チームを率い、数々の功績を挙げていた。ある日、ジョンのチームは激しい銃撃戦を繰り広げ、麻薬カルテルのアジトの制圧に成功。その裏でジョンたちは、一味の資金2億ドルの中から1000万ドルを着服する計画を実行する。ところが後日、ジョンたちがお金を回収すべく隠し場所に赴いたところ、あるべき1000万ドルは忽然と消えていた。その上、ジョンたちは不正の嫌疑がかかり、査問にかけられ、仕事を干される羽目となる。
半年後、証拠不十分で処分を解かれたジョンは、仲間を収集。トレーニングを開始する。しかしその夜からチームのメンバーが、一人また一人と残虐な手段で死を遂げていく。ジョンは事件を担当する市警の女刑事キャロライン(オリビア・ウィリアムズ)と共に犯人を追うのだが…。

本作についての初報では、アガサ・クリスティの代表作『そして誰もいなくなった』を原作にしたアクション(当時のタイトルは、『TEN』)と聞き、「なんじゃそりゃ!?」とのけぞった。それが公開される段になると、アガサ・クリスティの名は前面から消失。観てみると、確かに原案といわれれば、「そういえばそうか…」と気付く程度である。そもそもキーとなる人物のポジションと思考が根本的に違う。原作が頭になくても、問題はなかろう。
個人的には、推理小説の古典をモダン・アクションに転化するユニークな試みに期待していたのだが、少々拍子抜けであった。

劇中のミステリー面は奇をてらったものではなく、原案作品と異なり、あっと驚く真相はない。
とはいえ、“消失した1000万ドル”、“忍び寄る殺人犯の正体と目的”、といった謎が謎を呼び、緊迫感は持続する。さらにシュワちゃんのパブリック・イメージから、彼が悪人である筈はないという先入観、または“そう思いたい”観客の願いを巧みに作劇に活かしており、眼が離せない。この辺りの誘導の手際は心憎いほど上手い。(ただ、シュワちゃんに愛着がなければ、中盤退屈になる恐れもあるが…)

役者陣も最強チームのメンバーに、サム・ワーシントン、テレンス・ハワード、ミレイユ・イーノス、ジョシュ・ホロウェイと何気に豪華。仲間の中に1000万をくすね、仲間を殺しまわっている人間がいるのではないか…!?とチームプレイが信条であった筈の彼らが疑心暗鬼に陥るシリアスな演技合戦は、見応えたっぷりだ。

アクション面は、さすがのデヴィッド・エアー印。臨場感あるリアルな銃撃戦は、お手のもの。これまたリアルなグロ描写も全開だ。クライマックスには、派手なカー・アクションも用意されており、キリッとしめる。
シュワちゃんに関しては、相変わらずのそのそと恐竜みたいであるが、ボス然とした頼もし感が半端ない。うまく省エネ仕様でごまかして、テンションの上がる魅力的な見せ場が用意されている。

そして、倫理的に賛否を呼ぶであろうラスト・シーン。個人的には、大いにしびれた。ネタバレになるので記さないが、ハリウッド・エンタメとしてはかなりの冒険といえよう。全体的にもダークなピカレスクものであった事実が、あらためて突きつけられる。この衝撃度を顧みると、シュワちゃんを起用した意味があったように思う。こじつければ、『そして誰もいなくなった』のテーマの一面を強烈に表してはいよう。

ただ上記したように健闘してはいるが、シュワちゃんのアクション(&ラブ要素)はさすがにツライように見える。体型がアレであるし、動きの節々が老人である。スタローンやブルース・ウィリスらと比べると、やはりブランクは甘くはなかった。
でも本作のように才能ある監督と組んで身を委ねていると、いつか新境地を開くことであろう。別格の存在感を誇るレジェンドへ、ラヴ・コールを送る若手も事欠くまい。この辺りが「俺が!俺が!」といつまでも前に出ようとして(いい意味で)成長しないスタローンと違い、氏のクレバーなところである。
今後の躍進に期待したい。


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『25 NIJYU-GO』 (2014)

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遊び心弾けるピカレスク・バイオレンス!



不謹慎ながら無邪気に楽しめる大人のエンターテインメントであった。
『エクスペンダブルズ』を紹介した際に、「日本でも往年のアクション・スターを集めて造ればいいのに…」と願望を書いた記憶があるが、まさかの実現である。本作は東映Vシネマ25周年を記念して、ゆかりのある俳優を集めて製作したお祭りアクション。Vシネマ(実は本名称は、東映の商標)といえば、映画産業斜陽の時代、テレビでは放送できない過激な内容をウリにしたビデオ専用レーベル。低予算ながら造り手が自由に暴れられた反社会的な作品群は、レンタルビデオ全盛期に熱狂的な人気を博し、スタッフ&キャスト共に若手の人材育成にも貢献した。
僕は正直、『タフ』シリーズや三池崇史作品と夢中になったモノもあるが、勉強不足ながら語れるほど観てはいない。でもこうしたイベント・ムービーには野次馬根性で血が騒ぎ、ワクワクせずにはいられない。はたして気になる中身は如何に…!?

西池袋警察署の刑事、桜井(哀川翔)と日影(寺島進)は、日常的に押収した金を着服する悪徳コンビ。ところが今回は不正の追求をうけ、署長(大杉漣)から不明金250万を提出するよう命じられ、ピンチに陥っていた。
一方、年金基金の巨額横領事件の容疑者、九十九(温水洋一)は、入れあげている高級クラブのママ恭子(高岡早紀)を頼り、暴力団田神組組長の田神(小沢仁志)の手を借りて逃亡を試みる。しかし田神は近々、中国マフィアのジョニー・ウォン(竹中直人)との大型取引が控えており、その資金に九十九の横領金25億円を当てる腹積もりであった。そんな折り、たまたま走行していた桜井と日影の乗った車が九十九をはね、九十九の正体に勘付いた二人は、ただちに逃走。九十九を捕獲し、25億円をブン盗ろうと画策するのだが、田神組が黙っている訳がなく…。

何といっても豪華であるのが、役者陣…ではなく、脚本家の面々である。柏原寛司、大川俊道、岡芳郎、ハセベバクシンオーと、なんとVシネゆかりの腕利きが4人も結集。本編では、悪徳刑事、ヤクザ、半グレ集団、金を奪った人間の4つの勢力が23億円の争奪戦を繰り広げるのだが、それらを黄金時代の黒澤明システムよろしく分業で書き分けたというのだから贅沢極まりない。
話の筋自体は、大金をめぐる典型的な奪い合い。謎の殺し屋が乱入して無闇に掻き回したりと、多少入り組んではいるものの、やってることは至ってシンプル。それらを強烈なキャラ推しと銃撃戦でみせきる力技が、本作の醍醐味だ。

とにかく、キャラが立ちまくっている。全員悪人で、まともな奴は一人もいない。
哀川翔と寺島進の刑事コンビの軽妙さと、翔さんのやんちゃなヒーローぶり。ヤクザの哀愁を背負い、顔面凶器の迫力でシリアス・パートを牽引する小沢仁志と和義の最恐兄弟。そこに割って入ってイキがる半グレ武装集団の井上正大、中村昌也たち。各勢力を行ったり来たり、コメディ・リリーフを一身に担う温水洋一。男たちを手玉にとって渡り歩く高岡早紀と岩佐真悠子の悪女ぶり。いいところをさらう大物中国マフィア役の竹中直人。
他、大杉漣、嶋田久作、笹野高史、鈴木砂羽、石橋蓮司、袴田良彦、石井愃一、伊沢弘、工藤俊作、菅田俊といった多彩なゲスト陣が、隅々に顔をだして好サポート。
これらの濃いアンサンブルと一発芸を眺めているだけでも面白過ぎる。

クライマックス。廃屋でのドンパチも、バンバンひたすら撃ち合う超アナログ仕様で、ご都合主義アクションが炸裂。超絶な体技がある訳でもなく、ド派手な爆破がある訳でもなく、突っ込みどころ満載なのだが、妙に懐かしく一周回ってオリジナリティに溢れている。翔さんと小沢仁志の最終対決は、鳥肌モノの見どころだ。
それぞれの関係性と行動理念が丁寧に抑えられ、そこにきちんと情があるゆえ熱くなる。これぞ任侠魂といった按配である。

あくまで本作は、東映Vシネマの記念作であり、それほど潤沢な予算はなく、ぶっちゃけオールスターという訳ではない。見ての通り、この面子を揃えたと謳っても、ファンにとってもそれほどの感慨もなく、ましてや一般の人への波及力は皆無であろう。ちょっと残念ではある。
それに若手の勢いのなさも、気になるところ。目立っているのは、おいしい役を与えられた波岡一喜だけというのも、さみしい限り。井上正大も熱演してはいるが、今少し半グレ集団が活きれば、もう一段階弾けたかもしれない。いっそのこと、彼らはいなくてもよかったとすら思う。
Vシネマが衰退した分、次世代スターが育っていないのは仕方ないといえば仕方ないのだが、重鎮に喰いつくようなイキのいい若手の台頭も観てみたかった気もする。

とはいえ、全体的には、めちゃ楽しかった。造り手のノリの良さが伝わってきて、日本映画が失った不健全さと遊び心を大いに堪能した次第である。
それにVシネマというと、ついヤクザものやギャンブル、エロスを題材にした作品を連想してしまうが、当初はハードボイルド路線であったことを、本作を観て痛感した。
出来ることなら『26』、『27』と年に一度は観たいもの。ビデオ専門とこだわることなく、子供向けではないグレた大人の娯楽が劇場上映にあってもよかろう。


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『ニンフォマニアック Vol.2』 (2013)

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問題児があざ笑う色情狂時代、後編!



性をテーマに哲学的挑発をしながら、結局のところ苦笑を禁じえない喜劇であった。
本作は、好き嫌いが分かれるも、嫌いな人もつい観に出かけてしまうお騒がせ監督ラース・フォン・トリアーが放つ問題作。4時間の長尺を誇る大作を分割公開した後編だ。
前編のぶった切りのラストを観てからこのかた、後編に期待し、先が気になって仕方ないという風でもなく、どうも座りの悪い心地であった。これもトリアーの策略のひとつか…!?と無意味な深読みをしてモヤモヤする始末。
という訳でようやくの後編であるが、せっかくなので雰囲気を変えるべく『Vol.1』は新宿で観たので、今回は渋谷で鑑賞。客層がガラッと変化した中、スクリーンに臨んだのだが…!?

ある夜。年配の独身男セリグマン(ステラン・スカルスガルド)により、けがを負って倒れているところを助けられた女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)は、“ニンフォマニアック(色情狂)”である波乱の半生を語り出す。そして今や話も中盤に差し掛かっていた。
初恋の男ジェローム(シャイア・ラブーフ)と再会するも、不感症になってしまったジョー。ただジェロームとの関係は続き、男の子を出産。依然、病は治らず旺盛な性欲だけが残る状態にたまりかねたジェロームは、他の男との付き合いを許すのであった。こうしてジョーは、様々な性の試みに挑戦し、果てはK(ジェイミー・ベル)のSMセラピーに通い、新たな快楽を求めていく。しかしそれがジェロームとの別れにつながる事件を引き起こし…。

区切りとしては、今回から回想シーンにおいてもシャルロットの姐御が登場し、本格的な大暴れとなる。語り口のパターンはそのまま、章仕立てにジョーが性遍歴をセリグマンに話してきかせ、博識のセリグマンが衒学的にとんでも薀蓄でこじつけていく。
ただ、初っ端から薄々気付いていたセリグマンのある本性が暴かれ、ジョーとの関係性は徐々に転換の兆しをみせる。知識だけで対抗するセリグマンと体験型のジョーの微笑ましい(?)やりとりに、緊張感が漂い出す。

回想の物語は、不感症になったジョーの変化をきっかけにシリアス度が上昇。主役の変更もあろうが、やはり全然やらしくはない。本作の一体、何処がポルノなのか?ジョーの性に向き合う姿勢は真剣そのものである。
性による異文化交流(←お笑いシーン)、ジェイミー・ベルが妙演をみせるSMシークエンス、『アンチクライスト』(09)をパロった子供と母親の関係性、依存症と称してあくまで疾患として処理しようとする施設での生活、そしてウィレム・デフォーがようやく登場する闇社会へ。めくるめくジョーの数奇な人生の中、性という性を変幻自在に紹介し、女性のセクシュアリティのテーマを寓話的に炙り出す。
そして描かれれば描かれるほど、ジョーを取り巻く周囲の滑稽度が増していく。要は滑稽なのは我々で、滑稽だからあえてタブー視しているのか?とも思えてくる。

一方、性に縁のない人生を送ったセリグマンはどうか?こちらもやっぱり滑稽である。人間は皆、バカバカしいといわんばかりの意地悪さだ。
見せかけの格好良さに背を向け、自らの“魂の木”を探し求め、それを見つけるジョーの潔い神々しさよ。

終盤には、ミア・ゴス(驚愕の映画初出演!)演じる後継者Pを育てるジョーに、皮肉な運命が襲いかかる。
最後には、それこそ様々な伏線が回収された上、ちょっといい話へと感動的に着地するのだが、ここへ来てまたしっぺ返しが待っている。もはや笑うしかない。笑いながらも胸を突かれる。SEX前に真摯な気持ちや社会的意義といった無意味な御託をペラペラ並べる愚かさ、認めたくはない人間のくだらない本性といおうか。
ラース・フォン・トリアー、心底イヤな奴である。

2部作の上映形態については前稿でも批難したが、ただ今回、前半は新人ステイシー・マーディンのフレッシュなインパクトと、後半のシャルロット姐御との落差を顧みると、正直、寝オチしていた気がしないでもない。そういう意味では、後半をじっくり味わえてよかったとも思う。
が、やはり4時間を一気に観て、ジョーの半生を体感したかったという心残りはある。(できればボカシ抜きで。ボカシが余計に卑猥にしているような気がする)徒労感の中で、染み入るモノもきっとあったであろう。複雑な気分である。もしやこれもトリアーの…(以下、省略)。


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『紙の月』 (2014)

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ダークな人生論をえぐる妖しき犯罪劇!



人間の内面の濃厚な飢えを多面的に活写した一級ドラマであった。
本作は、『桐島、部活やるってよ』(12)で映画ファンの熱い支持をうけた吉田大八監督作。今回手掛けるのは、角田光代のベストセラー小説の映画化だ。角田原作、先行放送されたNHKのTVドラマ、満を持しての映画版、となるとつい『八日目の蝉』(11)の勝利の方程式を連想しよう。『八日目の蝉』は映画ならではの大胆な脚色が施され、原作ファンやドラマ版の鑑賞者にも好評をもって受け入れられた。そういう意味では、吉田大八監督は『桐島、部活やめるってよ』で、下手をすれば原作をしのぐ改変をみせ、観客を唸らせたのはご存じの通り。土台、期待するなという方が無理である。
例によって、ドラマ版は未見。原作を超特急でチェックして、スクリーンへ向かったのだが…!?

バブルがはじけて間もない1994年。梅澤梨花(宮沢りえ)は、郊外のマイホームでサラリーマンの夫(田辺誠一)と二人暮らし。銀行の契約社員として営業に励む梨花は、職場では真面目な仕事ぶりが評価されるも、私生活では自分を見下す夫との関係にむなしさを募らせていた。そんなある夜、会社の飲み会が催された渋谷で、顧客の独居老人(石橋蓮司)の家で一度顔を合わせた大学生の光太(池松壮亮)と再会。その後、梨花は導かれるように光太と逢瀬を重ねるようになる。そして外回りの帰り、衝動買いした化粧品の代金が不足し、顧客の預かり金に手を付けてしまったことをきかっけに、度々、預り金の横領に手を染めるようになっていく。お金は学費に困る光太への援助や遊興費に浪費し、使えば使うほど金銭感覚が麻痺した梨花の横領額は歯止めがかからず、増加の一途を辿り…。

大きな改変といえば、原作は梨花と彼女の起こした事件に対する知人のリアクションを追った群像劇であったところを、本作では潔く梨花に絞られている。
特に度肝を抜かれたのが、梨花と光太の一線を越えるまでのプロセス。原作では、そう至るまで段階を踏んで克明に描かれるのだが、本作では一気になだれこむ。梨花と夫の関係性や置かれた立場と焦燥も、最小限のエピソードと繊細な芝居で的確に組み立てられ、光太への心の揺らぎも電車をつかった演出等で十二分に伝わってくる。見事な映像的省略といえよう。

梨花に的を絞った分、銀行内部のディテールはより深く掘り下げられている。そして、さらにドラマを豊かにするために加えられたのが、ベテラン事務員の隅より子(小林聡美)と、若い窓口係の相川恵子(大島優子)のオリジナルキャラ2名だ。この両者は、小説の地の文で詳細に記された梨花の心理を代弁する分身の役割を果たしている。いわば、誰の心にもある善悪の別人格であり、極端な願望とでもいおうか。
隅さんは厳格に仕事に挑む堅物で、他人の目を気にせず粛々と“あるべき道”を進むモラルの使者。
相川さんは天真爛漫に女の武器を利用して、要領よく立ち回るちゃっかり者。
どちらの生き方も選択肢にあったかのように、梨花の葛藤を浮き彫りにし、梨花は時に二人の台詞にすがる。そして正義の心は、やがて罪を犯した本人を追い詰める。

演じる役者陣が、また上手い。
漫画チックな外見に関わらず、隅さん役の小林聡美の情念を封じ込めた冷たいリアリティは、圧巻の一言。梨花の横領にじわじわと迫りくるサスペンスたるや。最強の敵役である。今年の助演女優賞は、彼女に決まりだ。
相川さん役の大島優子も、自身のイメージを活かして大奮闘。
もちろん東京国際映画祭で最優秀女優賞を射止めた宮沢りえの堂々たるヒロインぶりも素晴らしい。正直、はじめからキレイすぎて浮世離れしており、平凡な奥様が“変身”するという妙味はない。ただ、役への入り込みように圧倒される。自由を謳歌する無邪気さ、破滅への不安、全てを受け入れる達観、等々、真に迫る感情の機微を滲ませた芝居に、終始釘付け状態だ。
中でも横領に手を染めるシーンは必見であり、共に動機が高鳴る実にスリリングな名シーンとなっている。
嫌悪感を及ぼしてもおかしくないキャラに神秘の奥行を感じるのは、バブル期に絶頂を迎え、世間を何かと騒がした彼女自身のエキセントリックな人生が重なるがゆえ。まさに彼女のための映画である。

男性陣も負けてはいない。絵に描いたような好人物ながら腹に一物ある夫役の田辺誠一。いかにもな役をソツなくこなす、石橋蓮司や近藤芳正。
宮沢りえの相手をはる光太役に扮した池松壮亮のキュートなダメ男ぶりもまた超絶に上手い。ちょっとここで不満を記しておくと、本作では簡略化され過ぎて原作の当キャラの単なる悪ガキではない深みがなくなってしまった。梨花が断固けじめをつける本作の結末も悪くはないが、原作の光太の反応の方がショッキングであったと思う。好きな場面だっただけに残念。
何はともあれ、もうこの最高級のアンサンブルを観るだけでも価値はあろう。

時折り、挿入される梨花の学生時代の“寄付”の逸話。梨花の行為の正当性を説くように、そこでは人間の偽善が暴かれる。
所詮、人間にとって一番大事で基準であるのは、“自分の幸せ”。それにより他人が幸福になろうが、不幸になろうが関係ない。世の中は造りものであり、何か実体なのか判断がつかず、唯一、確かなのは自らの幸福感なのだから。
かような哲学的なテーマを、大いに考えさせられた。クライマックスの梨花と隅さんの鬼気迫る対決。やがて訪れる、世の道徳や善悪を突き破る“解放”のカタルシス。多分に映画的な躍動感で、観客に“幸福”を共有させた本シーンに、一言、感動した。
よって余計、エピローグのちょっとしたホロリ感は、蛇足に感じた次第である。

終わってみれば、またも原作を大幅に超える見事な映画化作品になっていた。
う~ん、恐れ入りました。


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『下妻物語』 (2004)

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ポップでとがった、真っ向青春活劇!



映像文化の発展により、CMやPVという新たな表現分野が切り開かれて、幾星霜。当ジャンルで才能を発揮したクリエイターたちが、劇映画に乗り出すケースが日米共に通例となっている。
ただ、そうした人々が撮る作品には、技巧に走って、ただ画が恰好いいだけで中身がペラペラな代物も多く、「やっぱり映画はドラマだよな…」と身に沁みることもしばしば。(ハリウッド製大作アクションには、そうした利害が一致した例が多数あるが…)
ところが、04年に公開された一本の作品に頭をガツンとやられる羽目と相成った。そう、本作『下妻物語』の登場である。なんとなく本作以前と以後で、邦画界の映像表現に対する流れが変わったような気さえする。
監督は、「しばづけ食べたい」のフジッコ漬物百選や、NTT東日本フレッツのSMAP出演「ガッチャマン編」、サッポロ黒ラベルの「温泉卓球編」、等々、数々の名CMを放った、中島哲也。氏は以前にも『夏時間の大人たち』(97)、『Beautiful Sunday』(98)と監督作を放ち、映画ファンの評価を得ていたが、僕は恥ずかしながら完全ノーマークであった。当時通っていたシネコンでやたら本作の予告編を眼にし、どうせキワモノだろと高をくくっていたのだが、そのあらゆる意味でぶっ飛んだクオリティに完全ノックアウト。度肝を抜かれた次第である。

茨城県、下妻市。見渡す限り田んぼしかないこの田舎町に住む竜ヶ崎桃子(深田恭子)は、フリル全開、メルヘンチックなロリータ・ファッションに命をかける女子高生。ロココ時代の快楽思想を信条に周囲の眼なんかなんのその、友達なんかつくらず我が道を突き進んでいた。そんな桃子の日課は、自らが崇拝するロリータ・ファッションのブランド、“BABY,THE STARS SHINE BRIGHT”の本店がある代官山に、片道2時間半かけて通うこと。しかし洋服を買う資金を早々調達できるものではなく、桃子は元ヤクザの父(宮迫博之)が大量に所蔵していた某ブランドのバッタモンの販売に着手する。すると、さっそく買いにやってきたのは、あろうことか時代錯誤のヤンキー娘、白百合イチゴ(土屋アンナ)であった。嬉々としてバッタモンを買っていったイチゴは、その後もどういう訳か、ちょくちょく桃子を訪ねてくるようになり、反発し合いながらも二人は奇妙な絆を築いていき…。

冒頭、母親(篠原涼子)からの誕生から、元ヤクザのダメ父親の怒涛の転落劇に巻き込まれ、兵庫県尼崎市から下妻へ流れ着いた桃子の半生が語られるのだが、すでにこのシークエンスの半端ない密度が本作の全てを物語っている。
登場人物が観客に語りかけるウルトラC、ベタなお笑い、唐突なファンタジー化、等々、トリッキーな表現のオンパレード!奇抜でカラフルな美術、衣装、ベスト・チョイスの音楽と完璧に世界観が造り込まれており、一気に惹き込まれてしまう。

本編がはじまっても作劇上、タブーである説明につぐ説明となるのだが、アニメを含む上記した手練手管を縦横無尽に駆使。サービス精神を揺るがせず、テンションを持続して最後まで突っ走る。
これらのスタイルは一歩間違えば、観客に見離される危険を孕んでおり、本作はそこを抜群のセンスとバランス感覚で乗り切った奇跡の一本といえよう。
何より、こうした“飛び道具”でありながら超ポップにコーティングされた作品が、日本で造られた事実に驚きを禁じえない。

とはいえ、本作が成立したのは、つまるところ、しっかりしたドラマ性が力強く流れているがゆえである。
ロリータ命の桃子は、“好きなこと”だけしか断固やらない、究極の自己中人間。優雅で怠惰なロココ時代とは正反対のヤンキーが群れる下町、尼崎“付近”に生まれ、果ては途方もない田舎町の下妻に島流しになる境遇にもめげず、信念を貫き通す。自然、周囲から浮きまくり、友達ゼロ。本人は性格がひん曲がっていることを自覚しており、あまつさえそれを誇りにし、孤独上等!とばかりに全く気にとめていない。
地元レディースに所属するイチゴは、バイクをこよなく愛し(愛車は、50ccの原付を族仕様に改造したもの)、一般市民と両親に迷惑をかけない硬派なヤンキー。勉強はからっきしでも、性格はいたって真面目。借りは死んでも返す、熱い義理人情を持ち合わせている。
ヒラヒラのロリータ・ファッションできめた桃子と、原色の特攻服と土方ファッションできめたスケ番イチゴ。
この水と油の二人が巻き起こす、異文化衝突たるスレ違いギャグは爆笑必至である。

ただ、真逆の価値観とスタイルを持ちながら、実はアウトローという点では両者の立場は同じであり、内面は限りなくピュアであるという根っこも共通している。
マイ・ウェイを猪突猛進する迷コンビが、反発しながらもお互いを認め合い、惹かれ合っていくプロセスは説得力充分。いわば、徹底した“ギャップ”が巻き起こす可笑しさとドラマ性が、これ以上なく見事に融合されている訳である。

そして物語上、桃子は憧れのブランド“BABY,THE STARS SHINE BRIGHT”の社長(岡田義徳)とひょんなことから知己をえて、愛する趣味を仕事にすべきか否か?将来の壁が立ちふさがる。
一方、イチゴは初恋を経験し、さらに尊敬していた暴走族のヘッド(小池栄子)の引退により、族内の方向性が変化し、岐路に立たされることに…。
レールを敷かれた道からドロップ・アウトしたはずの二人に降りかかる社会のしがらみ。二人はそこにどう立ち向かうのか?
好きに生きて人生を謳歌せんとする二人の自由さに観る者は憧れ、困難に立向かう姿を精一杯応援したくなろう。
ことほど左様に、真っ当な青春映画の泥臭さを根本に持ち合わせている点が、本作が万人の心を射抜く底力なのだ。

竜ヶ崎桃子に扮するは、マイペースなむちむち女優、深田恭子。お伽の国を抜け出したようなファンシーな外見ながら、内面がドス黒い小悪魔ギャップのイメージが、まさにそのまんま!(注:褒めてます)一世一代のハマリ役といっても過言ではあるまい。
白百合イチゴに扮するは、本作にて役者稼業で大ブレイクをはたした、カリスマモデルの土屋アンナ。こちらもイケイケぶりの本性とケバイ中に垣間見えるキュートさが、キャラクターそのまんま!(注:褒めてます)

他、福田麻由子、宮迫博之、篠原涼子、岡田義徳、小池栄子、阿部サダヲ、荒川良々、矢沢心、生瀬勝久、本田博太郎と脇を芸達者な役者陣が固めている。
そんな中、駆け出し時代の真木よう子がショップ店員の役で出演しているので、お見逃しなく!
あと、水野晴郎のカメオ出演も要チェック!

さて。
私事ながら本稿を機に、未読であった嶽本野ばらの原作小説の続編『下妻物語 完』を読んでみたのだが、内容の方は一先ず置くとしても、ラストに大泣きしてしまった。本作ファンは、ぜひご一読をオススメします。桃子とイチゴの友情の一区切りは涙なくして読むことはできない。
ぜひとも間髪入れずに同キャストで映画化して欲しかった。もう叶わないが…。

観始めたら最後、アッという間に終わる100%純粋に面白い日本映画をぜひご覧あれ!


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『西遊記~はじまりのはじまり~』 (2013)

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チャウ・シンチー流とんでもファンタジー・コメディ!



漫画&アニメファンには堪えられない、至高のひと時であった。
本作は、『少林サッカー』(01)にて観客を爆笑の渦に巻き込み、虜にしたチャウ・シンチー監督作。続く『カンフーハッスル』(04)、『ミラクル7号』(08)と個人的にはテンションがどんどん下がってきたのだが、今回の題材は中国四大奇書のひとつ『西遊記』。我が国では、TVドラマから漫画まで数々のモチーフに取り上げられ、すっかりお馴染みの物語である。でも、それはあくまで日本ナイズされたイメージであり、本家の中国人とのギャップは大きかろう。僕も原作にチャレンジするも、読みにくくて挫折した思い出がある。という訳で今回も期待外れに終わるのでは…という不安は隠せなかった。
しかし、過去にシンチーは『チャイニーズ・オデッセイ』2部作(05)で孫悟空を演じた経緯もあり、原作への思い入れはひしひしと感じる。何かやってくれるだろうと、おっかなびっくりスクリーンに臨んだのだが…!?

昔々の中国。ある川辺の村で、半魚半獣の妖怪が出現し、村人を襲う事件が発生。若き妖怪ハンターの玄奘(ウェン・ジャン)が駆け付け、村人と協力し、なんとか妖怪を倒すことに成功する。妖力を失い、もとの人間の姿に戻った妖怪を玄奘は改心させるべく“わらべ唄三百首”を唱えるも効果ナシ。すると、そこに女妖怪ハンターの段(スー・チー)が颯爽と現れ、難なくカプセルで妖怪を封印してしまう。
“わらべ唄三百首”を使い、善の心を甦らせんとする自分のやり方に自信をなくす玄奘であったが、師匠の励ましもあり、気をとり直して次なるターゲットへ向かう。そこは山奥の料理店。店主の豚の妖怪が、やってくるアベックの客を手にかけていた。料理店に突入し、豚の妖怪に立ち向かう玄奘であったが、手下たちに大苦戦。しかし、そこにまたも段が現れて窮地を救われ、豚の妖怪を生け捕りにする。が、突如、豚が巨大イノシシに変身し、最終的にはとり逃がしてしまう。何やら玄奘に気がある様子の段を振りきり、師匠に報告する玄奘。すると師匠は、豚の妖怪を倒すには、五指山に封印された妖怪王、孫悟空(ホワン・ボー)の助けがいるとアドバイス。玄奘は悟空に会うべく五指山へ向かうのだが…。

さすがに最強のエンターテイナー、チャウ・シンチー、『西遊記』の世界を自由奔放に換骨奪胎した、とんでもアドベンチャーをみせてくれた。何といっても、後に三蔵法師となる玄奘の生業が“妖怪ハンター”なのだから何をかいわんや。仏門の教えに従って妖怪との共存を目指し、童歌で悪の心を浄化しようとする癒し系ながら、てんで実力がない。終始、武闘派の女妖怪ハンターの段に助けてもらう始末。
本編はそんな情けないイケメンの玄奘と、彼にベタ惚れした段とのドタバタ妖怪退治の模様が綴られていく。

初戦は川辺の町を舞台にした、半魚半獣の妖怪とのバトル。精緻に建てられたセットを縦横無尽に駆使する本シーンから即、心をもっていかれる。『インディ・ジョーンズ』系のケレン味溢れるアクションが楽しいのなんの!(掴みの戦いにしては、やや長いが…)
料理店で繰り広げられる豚妖怪との二戦目は、段の自由自在に変幻するリングの妖術戦、アクロバティックな殺陣を堪能。
続く、玄奘と段のコメディ・パートでは、段が率いるハンター・チームの濃い面々が大いに笑わせてくれる。(この手下たちに関しては、最後に少しでもフォローが欲しかった)
そして、クライマックスの孫悟空との超絶決戦。噛ませ犬の3人のハンター、拳法使い、足を巨大化できる足じぃ、四人の姥桜を無駄に率いる空虚王子が、いい味を出しており、奇想天外な術の数々で大いに盛り上げてくれる。

もちろん、チャウ・シンチーならではのブラック・ユーモアも満載。大ネタから小ネタまで息つく間もないナンセンスなギャグの波状攻撃にお腹一杯だ。今回は多少抑え目ながら、イケメンと美女がえらい目にあう、いつものマゾヒズムも健在。かと思えば、段役のスー・チーの見惚れるぐらい美しい舞踏シーンも用意されているのだから心憎い。
また、玄奘が三蔵法師へと覚醒するプロセスは真っ当に描かれ、きっちり泣かせる。童歌に秘められたメッセージも考えさせられるし、ヘタレだった玄奘の成長譚として、しめるところはしめている。最後の戦いの果て、映像のみで荘厳な仏教的テーマを謳う、真面目とバカバカしさの絶妙なバランスには唸らんばかり。

東洋人の役者に妖怪退治という親しみ易い題材に加え、日本サブカルチャーに造詣の深いシンチーによる『ドラゴンボール』へのオマージュ、お父さんの目頭が熱くなる、あっと驚くBGMの使い方(特にラストは大爆笑!)、等々、観ていてノリが自然に馴染む。『少林サッカー』よろしく、それが涙が出るほど心地良い。
往年のTVアニメや漫画の伝統芸を、なぜ日本人監督ではなく、チャウ・シンチーが正統継承しているのか。悔しさが募る。

そんな本作は、サブタイトル通り、はじまりの物語として、定番の古典をちゃかす一本として観ることも可能であろう。ココがこうつながるのかという興味はあるものの、先の展開を知っている分、如何せんストーリーの求心力は弱い。序章としての物足りなさが、どうしても残る。
これは、ぜひとも本番の冒険を描く続編を早々とつくってもらいたい。そうでないと困る。

しかしながら、ジャンル映画とチャウ・シンチーの相性もいいが、本作を観ると歴史モノにもハマると思う。ひねくれた視線で描くシンチー流中国史、観てみたいなぁ。


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『6才のボクが、大人になるまで。』 (2014)

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前代未聞の体感人生ドラマ!



いやはや、眼の肥えたファンをも唸らせる驚愕の一本であった。
本作は、実際の年月経過に劇中時間をシンクロさせ、同じ役者が演じるカップルの軌跡を9年スパンで綴る『ビフォア』シリーズ(95~13)のリチャード・リンクレイター監督作。今回はなんと12年に渡り、6才の少年を含む家族の物語を同じ役者で撮りためてまとめた画期的な一本である。
こうしたリアルタイムを長期記録した企画は、イギリスのグラナダ・テレビ製作のドキュメンタリー『セブン・アップ』シリーズ、日本の『北の国から』シリーズ、倉本聰監督の『時計』(86)と色々あるが、これだけの年月を一本の劇映画にまとめたのは史上初なのではなかろうか?その企画の困難さは、察してあまりあろう。完成させただけでも拍手を送りたいところが、はたして興味津々の中身や如何に…!?

テキサス州に住む6才の少年メイソン(エラー・コルトレーン)は、母オリヴィア(パトリシア・アークエット)と姉サマンサ(ローレライ・リンクレイター)と三人暮らし。母はキャリアアップのために大学への進学を決意し、3人はヒューストンへ移り住む運びとなる。そしてそこにアラスカへ放浪の旅に出かけていた父(イーサン・ホーク)が帰還。以降、メイソンは折にふれて父との時間を持つようになる。一方、母は教授のビル(マルコ・ペレッラ)と再婚。ビルの連れ子二人が家族に加わり、暮らしは一気に賑やかになる。ところが、実はビルはアル中で、度々暴力を振るうようになり…。

ドキュメンタリーではなく劇映画である分、メイソン君の境遇は、劇的な事件こそ起こらないものの波乱万丈ではある。ただドラマティックな演出は避けられ、あくまで日常を切り取る定点観測に終始。随分と淡々とした印象を受ける。それでもサクサクと流れる時間と登場人物のリアルな変化に眼が離せず、なおかつその圧倒的な実在性が共感を呼ぶ。誰しも身に覚えのある何気ないエピソードのオンパレードだ。
これは監督が役者陣と密にコミュニケーションをとった賜物であろう。フィクションに寄り過ぎれば、しらける題材であり、当然ドキュメンタリーとは違う。筋を決めて型にはめようとせず、年に一度の撮影時に近況を話し合い、役者本人を投影した未知のストーリーを紡いでいった経緯が、豊かに画面を彩っている。
本作の製作は、主人公の少年が駄々をこねれば、即アウトなのだ。強い信頼関係の上、フィクションとドキュメンタリーの中間の作劇を見出した点が、本作の奇跡といえよう。

本編では、ナレーションや年代のテロップといった説明はなく、いつの間にか時間が飛び、登場人物の経年変化により、観客は時代を知る。
可愛らしい少年が、恋やお酒の味を知り、イケメンの立派な青年へ、キュートだった姉も同様に大人の女性へと、あれよあれよと成長していく。(監督にとっては愛娘の最高の記録になったであろう)
イーサン・ホークは、ミュージシャンを夢見る大人子供だったのが、再婚して新しく子供をもうけ、最終的には落ち着いたおっさんへと変化。そして何といっても、時の流れの残酷さを身体をはって表したのが、母親役のパトリシア・アークエット。美人のシングルマザーが、どすこい体型になり、老けてまた痩せているサイクルが生々しい。

仕込みではないリアルな情景の変化も見どころだ。ファッションや日用雑貨、小道具のゲーム類の進化、『ハリー・ポッター』の出版イベント、『スターウォーズ エピソード3』の盛り上がり、懐かしのTV番組(アニメ『ドラゴンボールZ』の『魔人ブウ編』を子供時代のメイソンが観ているのだが、我が国では現在、当パートの再編集版が放送されており、時間軸の不思議を体感…)といった、種々多様なサブカルチャー描写に感慨しきり。
もちろんイラク戦争やオバマ旋風等の社会現象も差し挟まれ、離婚と再婚を繰り返す母親の社会進出といった家族模様から、チャンスの国である当国のちょい裕福なモデルケースといった見方もできよう。が、この辺りの妙味は単なる設定で、強くは打ち出していない。
あくまで本作の主役は、“時間”である。

本作の捉え方は、観る者の年齢によって異なろう。僕なんぞは終盤に母オリヴィアが嘆く、時間への絶望と、若きメイソンの意識のギャップにグサッときた。反面、若者が観ても、メイソンの成長と、ラストの“場所”とセリフが訴えるメッセージに得るものは大きかろう。

いずれによせ、“時間”というテーマを映画というメディアを通して語ったところがミソである。映画は、自由自在に時間をあやつれる芸術だ。しかも造られた作品は、半永久に残る。上映時間165分の中にリアルな12年の経過が圧縮され、あっという間の人生を疑似体験させてしまうこの底知れぬ味わい深さは唯一無二であろう。まさにやったもん勝ち。確実に映画史に残る一本である。


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『ザ・レイド GOKUDO』 (2013)

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パワーアップせし、インドネシア産ぶっとびアクション第2弾!



続編のたしなみ方の難しさを、あらためて痛感する一作であった。
本作は、インドネシアから突如放たれ、アクション映画ファンを仰天させたウェールズ出身のギャレス・エヴァンス監督作『ザ・レイド』(12)の続編。前作は、ビル内という限定された空間で繰り広げられる、低予算ながらアイディア一杯の銃撃&肉弾戦、特に伝統武術“シラット”の体技に圧倒された。それが今回は、街中に飛び出し、複数の組織が入り乱れる抗争劇へと一大スケールアップ。ただ、そうなると前作の手作りの旨味がなくなるのでは…?という不安がよぎるのは確か。前作とは別の次元へ挑まんとする造り手の向上心を信じ、スクリーンへ臨んだのだが…!?

インドネシア、ジャカルタ。麻薬組織の根城であった高層マンションの殲滅戦を生き延びた新人SWAT隊員のラマ(イコ・ウワイス)は、その直後に警察上層部とマフィアとの癒着を調べる潜入捜査を命じられる。まずは大物マフィア、バンクン(ティオ・パクサド)の息子ウチョ(アリフィン・プトラ)が収容されている刑務所に入所。囚人との乱闘で腕前を見せつけ、ウチョの信頼を獲得する。結果、出所後にウチョの口利きでバンクンの組織の一員になることに成功するのであった。しかし今、街はゴトウ(遠藤憲一)とその息子のケンイチ(松田龍平)率いる日本ヤクザとの緊張が高まっており、自分を認めてくれない父に不満を募らせていたウチョは、新興勢力の謎の男ブジョ(アレックス・アバド)と手を組み、双方を争わす反乱を企てて…。

ストーリーは前作の2時間後からはじまる、直通の正統続編。しかし、上記したように正反対ともいえる、まるっきり異なる構成になっている。
舞台は、密室から大都市へ、香港ノワールの潜入捜査モノのサスペンスが加味され、それぞれ思惑を抱える複数組織との抗争劇という日本のヤクザ映画のエッセンスすら取り込むごちゃまぜ仕様。文字通り、監督の趣味におもいっきり走った形になっている。その手の映画が好きなファンは、ニヤリとしよう。

アクションは、期待を裏切らない『ザ・レイド』印。大幅にバリエーションが増え、刑務所や工場、クラブ、レストラン等々、狭い空間から開けた場所まで縦横無尽に工夫を凝らした超絶バイオレンスが展開する。見せ方もトリッキーになり、臨場感とケレン味も向上。相変わらず、シラットの高速絶技は、「スゲェ…」と思わず口に出るド迫力だ。果てはカーチェイスまで飛び出し、こちらもちゃんと車内のバトルと並行した驚くべきクオリティを誇っているのだから、たいしたものである。

これぞ『ザ・レイド』といった、バットを武器に暴れるベースボール・バットマン(ヴェリ・トリ・ユリスマン)、二刀流のハンマーを駆使するハンマーガール(ジュリー・エステル)、キラー・マスター(セセプ・アリフ・ラフマン)といったブジョの殺し屋たちの個性も際立ち、死闘を濃密に盛り上げる。
組長の遠藤憲一、その息子の松田龍平、右腕の北村一輝といった日本人俳優に関しては、当初は彼らがあの狂犬連中の中に入って通用するのか?と心配したが、さすがに殺陣はなし。上手にアクセントとして存在感を発揮しており、悪くはない。

それに今回、売りのリアル・ファイトだけにとどまらず、美術も凝りに凝っている点も特筆されよう。アートな色彩のこだわりからは、予算の潤沢さがひしひしと感じられる(笑)。いうまでもなく、眼に映える贅沢は、正しい予算の使い方だ。
血生臭い劇中の中、うっとりするような叙情豊かなシーンも用意され、OPのロングショットの静謐な雰囲気からして、すでに前作とは違うアプローチであることを突きつけられる。特に前回、最強の敵マッド・ドッグとして出演し、本作ではバンクンに仕える殺し屋として再登場(これも『仁義なき戦い』っぽい!)するヤヤン・ルヒアンの任侠情緒な扱いは必見。彼に対する監督の愛を感じずにはいられない。

ただ、レベルアップは認めるが、面白いかどうかと問われれば、個人的には微妙であった。
アクションを魅せるという一点突破のスタンスにおいては、やはり前作の短い時間にシンプルに圧縮した形がベストであったように思う。今回のように込み入ったクライム・ストーリーの合間に、ここだけで独立したような気合の入ったアクションが挿入され、なおかつキャラの視線がコロコロ変わって分断されると、ドラマがなかなか頭に入ってこない。前回は単純な分、感情を乗せて観れたのが、漫然と活劇を眺める羽目となる。いくら正義と悪の狭間でアイデンティティ・クライシスに陥る潜入モノという定番の強みがあっても、話に入れないとやっぱりツライ。

それでもこれが『ザ・レイド』であり、四の五のいわず、わりきってアクションを楽しむべし!といわれれば、それまでなのだが…。
次作のさらなるチャレンジに期待します。


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『TATSUMI マンガに革命を起こした男』 (2010)

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“劇画”を提唱せし、先人の軌跡に敬礼!



偉大なる先駆者の魂にふれる漫画ファン必見の一作であった。
写実的な画と映画のようなコマ割りで表現する大人向けのストーリー漫画を“劇画”と命名した漫画家、辰巳ヨシヒロ。本作は、氏の自伝的作品『劇画漂流』の一部と短編5本をアニメ化し、作家論としてまとめたユニークな一本。シンガポールの重鎮監督エリック・クーにより、2011年に製作された本作の、ようやくの日本公開だ。
恥ずかしながら、僕は『劇画漂流』を読むまで辰巳ヨシヒロ氏の名前を知らず、“劇画”に関しても、さいとう・たかをが名付け親で、てっきり小島剛夕や池上遼一、原哲夫みたいな作画をそう呼ぶのだと完全に勘違いをしていた。これで漫画ファンを名乗っていたのだから、片腹痛しである。
さらに理解を深めるべく劇場へ向かったのだが…。

本編は、アニメーションといっても、辰巳氏の原作を活かした“動く漫画”といった趣きで、氏の世界観を最大限に活かした映像化となっている。一人六役の声優をこなした別所哲也の素朴な味わいも悪くない。監督の辰巳作品に対する敬意を感じよう。
構成は、辰巳氏のナレーションによる『劇画漂流』の主要シーンを挟み、終戦間もない大阪で、学生時代から漫画家としてかつてないジャンルを切り開くべく試行錯誤し、“劇画”誕生へ向かう氏の半生を手際よく紹介。その合間に、短編作品を挿入する形となる。
またも恥をさらすが、僕は氏の短編を読んだことがなかった。ちなみに貸本全盛期に活躍した作家たちは、大手出版社ではなく零細出版社に所属していたこともあり、後世に作品が流通しなかった。それが彼らの知名度を著しく薄めてしまった原因でもあるのだが、現在は復刊も進み、氏の作品も多くが読めるようになっている。

という訳で、本作にて5編の物語にはじめてふれたのだが、その素晴らしさに圧倒された。
原爆投下直後の広島で、壁に焼き付けられた親子の影を撮影したカメラマンの数奇な運命を描いた『地獄』。一匹の猿と暮らす職工の孤独を描いた『いとしのモンキー』。定年退職を控えた居場所のない初老男の哀しさを描いた『男一発』。連載が打ち切りという現実から逃避する絵本作家の焦燥を描いた『はいってます』。米兵相手の娼婦の冷ややかな世間に対する絶望を描いた『グッドバイ』。
この珠玉の5編の暗喩に満ちたストーリーテリングの見事さには、脱帽である。全体を通して、時代の大きな流れに翻弄される人々の痛みと悔しさ、閉塞感の中、身動きがとれない苛立ちが、ひしひしと胸に迫ってくる。そこには主人公たちの分身として、辰巳氏本人の心情が息づいていよう。
辰巳氏は劇中で語る。ストーリーを生み出すのではなく、自然に湧き上がってきたものを表現する、と。デフォルメされた子供の娯楽ではなく、リアリズムに根差した感動を与える効果こそが、氏が目指した劇画というジャンルなのだ。
本作は、この氏の思想と半ドキュメンタリー・アニメという構造が、絶妙にマッチしている。

監督はインタビューで、辰巳氏は、やりようによっては成功できたのでは?と発言している。現に商業主義に徹したさいとう・たかをは有名になり、さいとう氏もあくまで表現者の道を歩んだ辰巳たちと自身との方向性の違いを認めている。
メインストリームから背を向けても、我が道を貫き生きてきた辰巳氏。コインを裏に張り付けた定規を傍らに、ペンをとり、ひたすら愚直に机に向かうその高潔な姿に、思わず目頭が熱くなった次第である。

ただ、いくら事情があって偉業が語り継がれなかったとはいえ、現在の我が国においての名声は低すぎよう。再評価の気運が高まっているとはいえ、氏やその仲間たちが果たした“劇画”ムーブメントの功績は、もっと常識化して然るべきである。
そんな氏がアメリカやフランスといった海外で思わぬ注目を集め、シンガポールで本作のような映画が製作されたのは皮肉としかいいようがない。(なんと本作は、当国のアカデミー外国語映画賞の代表に選ばれている)
なぜ、『劇画漂流』を代表とする氏の作品が海外でブレイクしたかというと、氏の作品を気に入ったコミック作家エードリアン・トミーネの一大プロモーション、そしてアメリカの独立系出版社による“オルタナティブ・コミック”というジャンルで、氏の作品の文学性がフィットした等、数々の偶然が重なったそうな。(参考:椎名ゆかり氏によるコラム 文化輸出品としてのマンガ‐北米の漫画事情‐「辰巳ヨシヒロの『劇画漂流』のプロモーションについて考える」http://www.animeanime.biz/archives/7393)

話を本作に戻すと、内容は上記した作風のために、とりあげられた『劇画漂流』と短編をすでに読んでいる人には、少々物足りない内容になろう。新しく描かれた部分もあるにはあるのだが…。
本作で初めて氏の存在に接して、その世界に入るキッカケにする作品といえる。

当然、本作で描かれるのは、『劇画漂流』のほんの一部。さらに原作では描かくところまでいかなかった貸本屋の衰退、ブーム化して乱造された劇画への辰巳氏の幻滅と、まだまだ裏『まんが道』として陽を当てるべきシーンはたくさんある。
遅きに失した感はあるが、後は日本人監督の役目であろう。


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『インターステラー』 (2014)

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壮大なるテンコ盛りSFラブ・ストーリー!



哲学っぽい内容ながら、普遍的な感動を呼ぶスペース・エンターテインメントであった。
本作は、ハリウッド気鋭のヒットメーカー、クリストファー・ノーラン監督作。『メメント』(00)というユニークな作品で世に出た監督らしく、ビッグ・バシェットのアメコミ大作で稼いで、『インセプション』(10)のような冒険企画を手掛ける稀有な監督さんである。今回、挑んだのは、私的な好みが詰まったSF大作だ。
フィルム撮影に執着するロケセット好き、ブロックバスター映画への愛、オリジナル脚本へのこだわりと、作品の良し悪しはともかく、個人的につい親近感を抱き、ご贔屓にしてしまうノーラン監督。本作についても秘密主義を貫き、様々な噂が飛び交ったが、はたしてどんな驚くべき世界をみせてくれたのか…!?

近未来。大規模な環境異変により食糧難に陥った人類は、ゆっくりと滅亡の道を歩んでいた。アメリカ中部で農場を営む元宇宙飛行士のクーパー(マシュー・マコノヒー)は、妻を病気で亡くし、義父(ジョン・リスゴー)と15歳の息子トム、10歳の娘マーフ(マッケンジー・フォイ)との4人暮らし。ある日を境にクーパーの家では、本がひとりでに倒れる等、不思議な現象が起きており、感受性の強いマーフは“何か”を感じとる。そして、クーパーとマーフは、開けっ放しだった窓から入り込み、床に積もった砂の模様が座標を示していることを察知。さっそく座標の地点に向かった二人は、再編されたNASAの施設を発見する。クーパーと旧知の仲であるブランド教授(マイケル・ケイン)と娘のアメリア(アン・ハサウェイ)に迎えられる二人。ブランド教授は、人類の生き残る道は、木星近くに発生したワームホールを通って他銀河へ渡り、移住できる星を探すしかないと説明。すでに12人の宇宙飛行士が送り込まれ、はるか彼方の銀河の3つの惑星から信号が送られてきているという。ブランドはクーパーに、その信号の確認へいくプロジェクトへの参加を依頼する。悩んだ末、クーパーは人類を救うべく、申し出を受けるのであった。ただ、何年もの期間を擁し、帰還する可能性の少ない作戦に、マーフは猛反対。その溝が埋まらぬまま、クーパーが旅立つ日がやってきて…。

クリストファー・ノーラン監督がインタビューで語るのを聞くと、スティーヴン・スピルバーグとスタンリー・キューブリックといった自らが影響をうけたSF作品群を足したものをつくったという。「へぇ~」と唸った後、「そんなこと可能なのか!?」と即座に我にかえったが、実際観てみると、なるほど上手く融合している。

序盤は、不穏で静謐な終末感が漂う中、不思議な現象が起こる農家のファミリー・ストーリーが丁寧に紡がれる。主人公クーパーに対する『ライトスタッフ』(83)のエッセンスをはじめ、『未知との遭遇』(77)、『サイン』(02)といった先達のイメージが飛び交う当シークエンスは、なかなかに味わい深い。(個人的な好みでは、ちょっと退屈だったが…)

クーパーが宇宙探査に地球を飛び立つ段になると、一大スペクタクルへと変転。製作総指揮もかねた高名な理論物理学者キップ・ソーン氏によって考察された最新の宇宙描写も本格的で、見応え充分。相対性理論を適用した時間の論理等々、科学的精査に耐えられるよう造られている(そうだ)。
とにもかくにも、無機質な宇宙空間、苛烈な環境の他惑星、ブラックホールやワームホールといった雄大な映像美の数々は圧巻の一言だ。
加えて、この手の映画には欠かせないマスコット・キャラの“モノリス”型ロボットの、手塚治虫チックな愛らしいキャラ立ちも特筆モノ。

アクションに関しては、そこはいつものように、ハッキリいって上手くない。『ゼロ・グラビディ』(13)の驚愕ぶりには劣る。
でも、ことココに至って登場人物たちの行動原理は家族や恋人であり、感傷的に泣かせにかかるのが本作の肝。宇宙アドベンチャーと地球の家族の物語が並行して描かれ、宇宙にいる1時間が地球の数年分に値する時間の差がクーパーやアメリアにのしかかる。
さらに宇宙の果てで、人間同士が小さなエゴでいがみ合う愚かさよ。(あっと驚く豪華ゲストも、そこに花をそえる)
ことほど左様に、地球存亡という壮大な状況の中で、本作は至極マクロな視点に終始する。

そして、ストーリーは神秘&難解化。頭の悪い僕には正直、何がどうなって解決したのか理解不能であった。でも頭を悩ますことはない。『2001年宇宙の旅』(68)のように、哲学的な海に飲まれることはない。メッセージは、至ってシンプル。いわば、作品はベタに“愛”を叫ぶ。つまるところ、神の力ではなく、愛の力は時空を越え、全てを解決する。下手をすればお笑いとなるこの愚直な力強さに、僕は感動してしまった。高尚ぶっておきながら、きちんと人間賛歌のエンタメにまとめるノーランは、本当に偉い。
だた、驚愕のラストを明かすべからずと厳しい箝口令がひかれている割には、その仕組みは某有名漫画等で使い古された手であり、何ら真新しいアイディアではない事実を記しておく。

上映時間169分。こんな尺は不要であったとは思うが、ラストの清々しさもあり、観終わった後は心地よい疲労と充実感に覆われよう。
がしかし、顧みてみれば、スピルバーグやキューブリックの諸作品のインパクトには到底及ばず、既視感が邪魔をしてあまり後には残らない。名作を切り貼りして、オリジナリティを出そうとする試み自体は別に悪くはないし、現に成功している部分もある。が、結果的には名作にはなりえず、といったところか。

とはいえ、オリジナル作品を果敢に生みだす才能ある監督さんである。今後も次から次へ楽しませてくれよう。


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『寄生獣』 (2014)

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ついに登場、日本産ホラー・エンターテインメント、前編!



賛否両論うず巻く人気漫画の映画化市場に、屈指のクオリティを誇る一本の登場である。
本作は、『月刊アフターヌーン』他で88~95年にかけて連載された伝説の同名漫画の映画化企画、2部作の第1部だ。原作は一時、海外の配給会社が権利をおさえ、ハリウッド映画化の報が流れるも、例のごとく製作は凍結。そのまま契約が切れ、待ってましたとばかりに即、日本での映画化となった。
個人的には、原作のシニカルなテーマ性と構造が日本的である分、その妙味を引き出すには我が国でこそ映画化されるのが順当だと思う。山崎貴監督の映像クオリティと、脚色の古沢良太氏の手腕は保証済みであり、よもやハズしはしないだろうと期待してスクリーンに臨んだのだが…。

ある夜、謎の寄生生物(パラサイト)が飛来し、数多の人間に侵入する。彼らは脳を乗っ取り、宿主に擬態。自由自在に身体を変形させ、その超常的な戦闘能力で人間を捕食していくのであった。
一方、平凡な高校生、泉新一(染谷将太)もパラサイトの襲撃をうけるが、咄嗟に反抗。何とか脳への侵入は防ぐも、パラサイトは右手に宿ってしまう。やがて自主学習した右手のパラサイトは言葉を発するようになり、新一は便宜上“ミギー”と名乗るパラサイトと奇妙な共同生活を送る羽目となる。しかし、そんな特殊ケースである新一とミギーは、他のパラサイトから狙われ、挙句の果てに新一の通う高校に、パラサイト同士のネットワークを構築せんと今後の道を探っている頭脳派パラサイト、田宮良子(深津絵里)が新任教師として赴任してきて…。

正直、予想を越える面白さであった。原作のエッセンスを忠実に、換骨奪胎した脚色が素晴らしい。パラサイトに寄生されて戸惑いつつも人類VSパラサイトとの戦争に巻き込まれ、その中で自分の使命に目覚めていく新一。第1部である本作を、まるで『スパイダーマン』シリーズの1作目のように、ダークヒーロー誕生編たる新一の成長(非人間化?)物語としてまとめている点に唸る。新一を母子家庭に設定し、田宮良子の妊娠とその両親とのエピソードも絡めた母と子のテーマに昇華し、プロセスを最大限に盛り上げる手管も上手い。
戦いがスケールアップする後編につなげる布石のワクドキ感も完璧だ。さすが名手、古沢良太。

見せ場のVFXは、確かに細部を突っ込めば、見劣りする部分も多いが、ケレン味でカバー。変形フェチであった手塚治虫から連綿と息づく日本漫画定番の、身体がメタルフォーゼして武器化して戦うグロテスクなビジュアルを、こうして本格的に実写で眼にする日が来ようとは。思わず胸が熱くなった。ハリウッドでこのノリは、おそらく出せまい。全く別の雰囲気になった気がする。
人体切断のゴア描写を、レーティングとの駆け引きを乗り越え、きっちりクリアしている点にも感動。この狂気と暴力性なくして本作のテーマは表現できず、ソフトになっていたらどうしようという不安があったのだが…、製作陣の方々、見くびっていてすみませんでした。

キャラクターに関しては、特に新一の印象が原作と全然違う。染谷将太君ははじめからエキセントリック過ぎて、それほど闇に染まっていく変化の機微は感じられない。でも氏の存在感の前では、それらもさほど気にならなくなってくる。
全然違うといえば、ミギーは声をあてる阿部サダヲのキャラが立ちすぎて、最初からコメディよりで人間味があり、無機質なゾッとする怖さは霧散してしまった。でもこちらも氏の芸達者ぶりにより、新一とのバディ・ムービーとして、すぐさま惹き込まれてしまう。
新一の幼馴染みの里美役の橋本愛の、インディーズっぽさも大変よろしい。
しかし本作のVIPは、間違いなく新一を監視するために田宮良子グループから高校に送り込まれたパラサイト、島田に扮した東出昌大。彼の棒読み芝居を逆手にとり、パラサイトの不気味なリアリティを出したキャスティングの勝利だ。文字通り、漫画から抜け出てきたように、世界観に馴染んでいる。
深津絵里をはじめ、他の役者陣も実力派が揃い、安心して観ていられよう。

少々不満を記せば、サクサク進む演出の味気なさが残念なところ。
特に新一の唐突な性格の変化には、一瞬誰の視点で観ていいのか迷ってしまった。一度、仮死する新一のピンチ・シーンも、もっとミギーの決死の努力を描写するべきである。ここはアニメ版の方が、上手に表現していた。クライマックスのミギーが眠った後の新一の覚悟のアッサリ処理も如何なものか?

あと、2部作にせず3時間ぐらいで1本にまとめてくれたら、本年度ベスト級に推していたかもしれない。本作タイトルに、“前編”や“第一部”と付けない宣伝方法にも疑念を抱く。

何はともあれ、完結編が待ち遠しい限り。作品のテーマ性も含めて、総評はやはり完結編を観てからである。


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『日々ロック』 (2014)

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爆走せし、ロック魂ムービー!



なにがなんだか分からないうちに、思わず心が熱くなる痛快作であった。
本作は、『週刊ヤングジャンプ』で連載中の同名漫画の映画化。『SR サイタマノラッパー』(09)で注目を浴びて以来、破竹の勢いをみせる入江悠監督作だ。原作は未読。ただ内容をみると、パッとしないダメ男のロック魂を描いた題材は監督にピッタリ。
また、急進撃をみせる若手女優の筆頭、二階堂ふみの主演デビューとなったのが、同監督の『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』(11)。
メジャーへの活路を開かんとする入江監督と今や売れっ子となった二階堂ふみが、今このタイミングで再びタッグを組んで送り出したものとは?興味津々で劇場へ向かったのだが…!?

勉強もスポーツもできず、女の子にも縁のない、いじめられっ子の高校生、日々沼拓郎(野村周平)は、ロックへの愛だけは人一倍。仲間の草壁(前野朋哉)と依田(岡本啓佑)と共にバンド“ザ・ロックンロールブラザーズ”を結成し、卒業後、一発当てるべく上京する。しかし現実は甘くなく、伝説のライブハウス“モンスターGOGO”に住み込み、オーナー(竹中直人)にこき使われつつ、数人の客の前でステージにたつドン底生活を送っていた。そんなある日、拓郎たちのライヴに酔っぱらった若い女が乱入し、マイクを奪って熱唱。観客の心を鷲掴みにしてしまう。その女の正体は、オーナーの姪っ子の超人気アイドル、宇田川咲(二階堂ふみ)であった。咲は拓郎たちを散々罵倒するも、後日、私のために曲を書いてくれと拓郎に頭を下げてきて…。

僕は音楽に疎いので、とりあえずロックの概念だけでも頭に入れておこうと、文明の利器インターネットを駆使して調べてみるも、いまいちつかめず。歴史を辿っても、ほとんど聴いたことのない曲で、全くつかめず。でも、その“つかめなさ”がロックなのではないかと、無理から結論づけてみる。要するに、何にも迎合しない自由な自己表現とでもいおうか。いや、でもそれだと、「これがロックだ!」という発言は、“ロック”という枠にはまっているのではないか…?と、無間地獄に陥ったのだが…。
しかし、かような訳のわからなさも全部ひっくるめてロックだとしたら、なるほど、本作の主人公、拓郎君は当てはまる。

原作でどうなっているのか知らないが、なんせ劇中の拓郎は、終始オドオドしているばかりで、観ていてイライラするぐらいまともに言葉をしゃべらない。全てをライヴで吐き出している按配だ。
とはいえ、正直、肝心の詞も聴きとりにくく、頭に入ってはこない(笑)。でも、ギャーギャー喚く彼のいわんとする感情だけは伝わってくる。それが本作の醍醐味なのであろう。

物語は至ってシンプル。底辺でくすぶっている冴えない拓郎たちのトホホな日常が、カリスマ・アイドルの咲と出会うことで変化していく。咲は人気絶頂ながら、本当にやりたい音楽が出来ず、自分が虚像であることを受け入れている。しかも夢を叶えるのは、物理的に不可能な宿命をも背負っている。自然、彼女は、誰にも見向きもされない境遇ではあれ、とにかくやりたいことを全力でやっている拓郎たちに憧れを抱く。そんな拓郎たちは、彼女の意気に応えて一念発起する。
『かまってちゃん』同様、赤面するような超ベタな展開であるが、それでもシンプルであるがゆえにライヴ・シーンには感情が乗りまくる。ラストの暴風雨の中の、入魂のライヴ・シーンは圧巻だ。想いが炸裂して溢れ出る、まさに泣き笑いの極致。落ち込んでいる時に観ると、元気をもらえることうけあいである。

全裸パフォーマンスを厭わず、ハイテンションで拓郎役を演じきった野村周平君も絶賛に値するが、やはり特筆すべきは宇田川咲を演じた二階堂ふみ。ゲロを吐き、罵詈雑言を浴びせる凶暴さも中身のピュアさも、総じて“めちゃカワ”。この観る者を引き込む活きのよさを観れば、数多の監督たちに引く手あまたになるのも当然といえよう。

また彼女のキャラも、本人が少し重なって見えるのも面白い。有名になって新鮮味が削がれ、勢いを失っていく現状。周囲の高評価の中で、自分のやりたいことを見つめる姿に迫真性を感じよう。
それは入江監督にもいえ、ハッキリいって、氏がくすぶっている時代に本作をつくった方がもっと名作になったと思う。技術も金もないが、情熱だけはほとばしり突き進む、といったテーマ性がもっとストレートに爆発したに違いない。
今やキャリアを積んでレベルアップし、大作も手掛ける巨匠へとのし上がりつつある監督は、あえて本作ではそれらをブチ壊して、メチャクチャやろうとしている感じがする。やり過ぎともとれるバイオレンス描写やナンセンス・ギャグ、整合性をガン無視した展開といった破天荒さは、ハングリーな初心に戻ろうとする監督の焦燥がこもっているのだろう。
その心意気は買いたい。

日本映画界を背負って立つ二人の再タッグ作品として、後々、歴史的に意義のある作品となるのではなかろうか。


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『フューリー』 (2014)

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凄惨なる戦場の体感!



戦場とはどういうものなのか?想像すらつかない一般観客に端的に示す戦争映画であった。
本作は、俳優業だけでなく昨今はプロデューサー業でも手腕を発揮し、『ワールド・ウォーZ』(13)、『それでも夜は明ける』(13)と娯楽、社会派面と絶大な信用度を獲得しているブラッド・ピット製作総指揮、主演作。海軍で潜水艦に乗り込んだ経歴を持ち、リアルな警察モノを手掛けて、評価うなぎ上りのデヴィッド・エアー監督が送る渾身作だ。
史上初、本物のティーガー戦車を投入した本格仕様の撮影が、マニア間で俄然注目を浴びている本作。プラモデルを完成させた経験のない不器用な僕としては、その辺りは全く興味ナシ。それよりもあのデヴィッド・エアーが、どう戦場を映像化したのか?興味深く劇場へ足を運んだのだが…!?

1945年4月。第二次大戦下のドイツ。連合国軍のコリアー軍曹、通称“ウォーダディー”(ブラッド・ピット)が車長を務めるM4中戦車シャーマン、その名も“フューリー(憤怒)”には、砲手の“バイブル”(シャイア・ラブーフ)、操縦手の“ゴルド”(マイケル・ペーニャ)、装填手の“クーンアス”(ジョン・パーンサル)が乗車。彼らは息の合ったチームワークを発揮し、転戦した各地で成果をあげていた。ところが、先の戦闘で仲間の一名が死亡し、新たに若いノーマン(ローガン・ラーマン)が配属される。しかしノーマンはまともな戦闘経験のない元タイピストで、急襲してきたナチスの少年兵をとっさに撃つことができず、隊に損害を出してしまい…。

アフリカ戦線からベルギー、フランスと死線をくぐり抜けてきたフューリーのメンバーは、共に悪態をつきながら家族のような固い絆で結ばれている。そこに新しい家族、ノーマンが加入。文字通り、ウォーダディーは家長として、戦場で生き抜く術を教育していく。
女子供であろうと敵であれば、容赦なく殺さなければならない。それは、殺さなければ、自分が殺される、生き延びるための戦い。また、ミスは自分が死ぬだけならまだしも、他の人間まで犠牲になる可能性もある。
普通の少年だったノーマンはウォーダディーの手荒な実戦指導により、徐々に変化。占領した町においての初恋を経て、そこから復讐心が芽生え、敵を冷酷に殺す兵士へと成長していく。その過程を観客はつぶさに体感する羽目となるのだが、あまりの説得力にゾッとする。誰も異論を挟めまい。

家族のホームであるがゆえに、ウォーダディーはフューリーを見捨てることが出来ない。結果、決死の戦いを挑む姿は、責任感や自己犠牲とは何処かニュアンスの異なる、およそヒロイックではない戦争の真理をあぶり出す。
そして、ラストの英雄誕生の皮肉。かつての自分の良心をそこに見る、やるせなさとむなしさよ。勝った負けたの痛快さや悔しさは微塵もない。

膨大な資料を検証、退役軍事や専門家を招いて徹底リサーチし、当時の状況を完全再現。戦車内における役者陣のプロフェッショナルな一挙手一投足等々、自然に滲み出る実在性から一瞬たりとも眼が離せない。かようなリアル指向で描かれる、人が虫けらのように死んでいく戦場の緊張感と臨場感の凄まじさは特筆に値しよう。
中でもミリタリーマニアが括目する最強と名高い伝説の戦車ティーガーと、性能が劣るフューリーとの一騎打ちシーンの恐怖感たるや!戦車戦の在り様もよく分かり、息を飲みっぱなしであった。

ただ、てっきりクライマックスは、ティーガーとシャーマン軍団との、少数精鋭VS物量の決戦が一大スケールで描かれると思っていたのだが、両車あいまみえるのはこの中盤の一戦のみ。勝手に期待していたこちらが悪いのだが、終盤のアクシデント的展開には、「アレレ…」と拍子抜けしてしまった。

不満といえば、デヴィッド・エアーの語り口にしては、ノーマンのエピソードの造り過ぎ加減が気になった。ウォーダディーと仲間たちは野暮な説明抜きに関係性を匂わす実録風な分、全体のタッチが随分ちぐはぐな感じを受ける。善悪を越えて理屈抜きにスター・オーラが眩しいブラッド・ピットは例外として、シャイア・ラブーフ等の脇キャラの存在感が埋もれる弊害を生んでしまっているように思う。
迫力の映像に飲まれているうちに、あっという間に観終わるのだが、あえて高揚感ある娯楽化を避けた分、意外に淡泊な印象となった。これなら総じてドキュメンタリータッチで通した方が潔かったのではなかろうか?
高クオリティーなだけに、ちょっと残念である。

OP、馬への愛情を垣間見せるウォーダディー。人類は戦場の友として馬を使い、それから戦車へと発展していった。昨今は近接戦闘ではなく、椅子に座り、飛び道具を使った間接戦闘と化している。ラストのエモーショナルな俯瞰の構図が、その現状を不気味に語りかけよう。


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