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『滝を見にいく』 (2014)

げに味わい深き、ガールズ・コメディー!

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心が洗われる、まさにマイナスイオン映画であった。
本作は、『南極料理人』(09)、『キツツキと雨』(12)、『横道世之助』(13)と高い評価を受けてきた若き奇才、沖田修一監督作。「40歳以上の女性、経験問わず」という条件で、女優を募集。演技未経験の役所の地域サポート係、役者を夢見ていた主婦、元オペラ歌手、劇団員といったバラエティ豊かなメンバーを起用し、撮りあげたユニークな一品だ。ノースターで、役者は無名のおばちゃんオンリーというこのチャレンジングな企画に、まずはビックリである。
「7人のおばちゃん、山で迷う。」という、いかしたキャッチコピーにつられ、フラリと劇場を訪れてみたのだが…!?

温泉付き紅葉狩りツアーに参加した7人のおばちゃんたち(下は44歳から上は79歳)は、幻の大滝を見るべく山道を分け入っていく。友人同士の主婦、桑田(桐原三枝)と田丸(川田久美子)はおしゃべりに夢中で、関本(荻野百合子)は一人マイペースに自然や野鳥を観察し、写真仲間の三角(渡辺道子)と花沢(徳納敬子)は常にカメラをパシャパシャ。何となく気乗りしていない主婦の根岸(根岸遥子)と美容師の谷(安澤千草)はバスの中で挨拶を交わし、親交を深めていた。そんな折り、先行したツアーガイドの男(黒田大輔)が、いくら待っても帰って来ず、しびれをきらした7人は二手に分かれて探索することにするのだが…。

冒頭に沖田映画お馴染みの男優さんがちょこっと出てくるのみで、本作はすぐに純然たるおばちゃんムービーと化す。スクリーンには、おばちゃんと山の自然しか出てこない。でも、失礼な言い方ではあるが、そうなっても全く苦にはならない。
彼女たちが山で遭難し、サバイバルを強いられていくうちに個性が明らかになり、キャラが立ってくる。すると、どんどん愛着がわき、気付くと7人のヒロインのチャーミングな魅力にすっかり虜になっていた。

劇中では、彼女たちの境遇を台詞で説明するような野暮な真似は、一切しない。泣き言を口にするシーンや心情を吐露する夢シーンもあるにはあるが、基本、年輪が刻まれたその立ち居振る舞いで察せよといわんばかり。それでも充分、バックグラウンドが伝わってくるのだから驚きである。
それもこれも沖田監督が、役者陣の半生をリサーチし、役と本人を重ね合わせて脚本を書き、演出しているがゆえ。この人とこの人がいがみ合う理由も、ある人物の明るい性格の裏にある悲しさも、驚くほど豊かに息づいている。自然にやっているように見えて、全てに計算が行き届いている見事な作劇だ。

7人全員を素人で揃えず、演技経験者を交える試みもまた、リアルと造り物が混在する不思議なアンサンブルを形成している。現実とあの世の狭間の世界を覗いているような感覚とでもいおうか。
確かにピンチではあるのだが、絶体絶命というほどシリアスでもなく、のほほんとした空気が充満。いうほど切羽詰まってもなく、それぞれが特技を活かしたハウツーものとしても薄味である。でも観ていて、クスクス笑いっぱなし。木の実を拾っているだけで笑みがこぼれてくる。それがユル~い沖田ワールドともいえ、その居心地のいい魔力に存分に浸れよう。

何より、演技をエンジョイしている彼女たちのキュートさに完全ノックアウト。少女に戻ったような無邪気さに、大いになごむ。苦難を共にして絆を育んでいき、状況にワクワクして生命活力を取り戻していく様は、老若問わず共感を呼ぼう。
そして、訪れる清々しいラスト。人生色々あるけれど、なんとかなる。年齢なんか関係ない。あきらめず行動すれば、何かが変わる。行動しなければ、何も変わらない。至極真っ当な力強いテーマが身に沁みる。
SF大作『インターステラー』(14)では、深遠な宇宙空間で当テーマを謳っていたが、本作のような小品でも同等の感動を得られるのだから何をかいわんや。映画の奥深さといえよう。
恐るべし、沖田修一。

本作は、ネット上で一般から資金を調達するクラウドファンディングサイトの大手と、松竹ブロードキャスティング株式会社との提携第1弾である。
かつてのATGのような作家性の濃い作品を送り出すべく結成された当プロジェクト。本作のような、およそ商業性とは無縁の作品を実現させた成果を讃えたい。
スポンサーや芸能事務所の干渉をうけず、なおかつ若手へ門戸を開いた意欲的な作品が生み出されることを期待したい。今後も注目である。


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『エレファント・マン』 (1980)

人間の尊厳を謳い、悪意を暴く至高の一本!

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元来、黎明期において映画は見世物小屋の出し物であった。ショーやアトラクションを楽しむ感覚で、当時の人々は映画に接していたのである。発明者リュミエール兄弟の作品『列車の到着』で、映像内で向かってくる列車に観客が逃げ惑ったという逸話はいわずもがな。
そうした映画に対する怖い物見たさ、下世話な感情は連綿と受け継がれており、実際、人間が大量死するディザスター・ムービーやアクション、難病モノは現在も人気を集めている。
反面、内容に人生訓や道徳、芸術性を見出し、自らを高める映画の効能を観客及び造り手は見出してきた。
いわば映画は、人間の二面性を如実にあらわす娯楽といえよう。
という訳で本作は、そうした清濁併せ持つ人間の黒と白の側面を容赦なくあぶり出した問題作である。
我らがデヴィッド・リンチの監督第2作となり、本作は大ヒット及びアカデミー賞8部門ノミネートという興行、批評面でW高評価をゲット。監督は大躍進を遂げた。(特に我が国では、なんとその年の興行記録NO.1に輝いている。リンチ作品が1位とは、現在の感覚からすると全くリアリティがない)
結果、SF超大作『デューン/砂の惑星』(84)をまかされる経緯となるのだが、当作はモメにモメて大コケ。その後、メジャー路線から離れ、異端の地位を築き、今に至るのはご存じの通り。でもそうしたキャリアを顧みると、ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグの成功ルートをリンチが辿っていた事実に驚かされる。
よって本作は、およそリンチらしくない雇われ仕事と見なす向きが世間にはあるが、しばし待たれい。なかなかどうして、リンチ節が全開した傑作である。

19世紀の末、産業革命に沸く英国、ロンドン。ある日、優秀な外科医フレデリック・トリーブス(アンソニー・ホプキンス)は猥雑きわまる見世物小屋で、“エレファント・マン”として衆目の眼にさらされている青年ジョン・メリック(ジョン・ハート)と出会う。多数のこぶに覆われ肥大化した頭部、腫瘍に蝕まれた全身、右腕が利かず、歩行も杖がなければ困難で、言葉も明瞭に発せないメリックの悲惨な状態に息を呑むトリーブス。解剖学に造詣の深いトリーブスは、小屋の主人バイツ(フレディ・ジョーンズ)と交渉し、メリックを引き取り、病院の屋根裏部屋に保護することに。
トリーブスによるメリックを対象にした学会の研究発表は大きな反響を呼ぶも、結局は病気の原因は分からず、快復の見込みは皆無であった。病院長のカー・ゴム(ジョン・ギールグッド)は、そんなメリックを他に移すよう宣告。トリーブスはカー・ゴムを思い止まらせようと面会を設定するのだが、その席でメリックはなんと聖書の詩をそらんじ、実は高い知性をもっている事実を証明し…。

本編で描かれるジョン・メリック(実名は、ジョゼフ・ケアリー・メリック。トリーブス医師の回想録での意図した匿名が定着してしまったのだとか)は、実在の人物である。
氏はイングランドのレスターに生まれ、生後21ヵ月で身体の変形を来たし、母を亡くしてから親戚をたらい回しにされ、救貧院へ。不自由な身体と特殊な風貌からやむなく、見世物小屋に働き口を求めることに…。
本作はその時点から、史実を参考に氏の生涯をなぞりつつ、独自の解釈を加えたフィクションとなっている。(ちなみに近年の最新研究では、メリックの症状は遺伝的疾患群をさすプロメテウス症候群であるとする説が発表された)

冒頭から30分を経るまで、メリックの姿を映さない底意地の悪い演出が鮮烈である。一見、飢餓感から観客の好奇心を高める『ジョーズ』(75)等のヒッチコック・テクニックのスリリングさを思い出すが、さにあらず。本演出により観客は、否応にも金を払って“エレファント・マン”を見る劇中の野次馬と同化してしまうのだから、只事ではない。
本編で、病院の警備員(マイケル・エルブィック)がメリックに鏡を突きつけて面白がるシーンがあるが、その鏡に映るモノは観客そのものの姿といえよう。

外科医のトリーブスは、たまたま見世物小屋で発見したメリックを憐れみと研究心から、外の世界へ救い出す。
するとメリックはトリーブスと親交を深めるうちに、これまで生きるためにあえて封印していた知能と感受性を解放。心優しく芸術を愛するメリックの本性に感銘をうけたトリーブスは、彼に病院内ではあれ、人間らしい生活を提供する。
そして募金をつのる報道により存在が世間に知られ、上流階級の人々がこぞってメリックのもとを訪れるブームが到来。そこでトリーブスは悩み始める。メリックを“宝物”と偏愛し、見世物にしていたバイツと、己のステータスのためにメリックを利用し、貴族を引き合わせ、研究欲と名誉欲を満たさんとしている自分は同一ではないか?と。

一方、メリックはトリーブスとの出会いにより心を開き、人間として成長。心のよりどころであった美しい母親の写真と共に部屋を紳士淑女の来客者たちの写真で飾り、窓から先端が見える聖フィリップ寺院の模型を想像で作っていく。
後半、ある悲惨なアクシデントにより、バイツのもとに舞い戻るのだが、尊厳を取り戻したメリックはもう従うことはない。メリックの意志は仲間のフリークスたちの心をも動かす。「私たちのような境遇の人間には、運が必要だ」とメリックを援助するフリークスたち。
そして公衆の渦中、図らずも好奇な悪意に晒されたメリックは、心の限り叫ぶ。
「私は人間だ!」。
そんなメリックの姿からは、人間の醜い部分を知ったからこそ、あらためて覚醒した気高さがみてとれよう。やはり負の部分を自覚しないと進展はなく、臭いものには蓋をする規制だらけの風潮の愚かさを本作は教えてくれる。

クライマックス。ある状況でメリックは人々の喝采を浴びる。何も考えないでみれば、ごく普通の感動場面だが、喝采を送る側と受け取るメリックとの意識のかけ違いを考えれば、自ずと本シーンが放つ深く辛辣なテーマ性が見えてこよう。
人生とは何か?を考えさせられる、メリックが下す最後の決断は、涙なくしては観られない。

本作をして監督のデヴィッド・リンチこそ興行師、偽善者だという評はあまりにも的外れである。
むしろリンチでなければ、本作はこれほどの名作にはなってはいまい。いくらでもお涙頂戴にできたところをそうはせず、抑制したスマートな語り口に終始。特にメリックを支援する実在の女優ケンドール夫人に『奇跡の人』(62)でサリヴァン先生を演じたアン・バンクロフト(プロデューサーを務めたメル・ブルックスの奥さんでもあった)を起用しつつ、当役を善でも悪でもない限りなくグレーに描いた点に好感をもてる。
また、産業革命時の英国という物質的進化と人間の精神性の変化のなさを対比し、配管や蒸気を不気味に映しだす表現はリンチ節炸裂!中でも人間の悪意が渦巻く宴シーンの狂乱ぶりは、圧巻の一言!まんま『ブルーベルベット』(86)である。ラスト・シーン等、ほのかに漂う幻想性もまた然り。
『イレイザーヘッド』(77)という奇作一本しか実績のない若干33歳のリンチに本作を委ねたプロデューサー、メル・ブルックスの慧眼に唸る。

また最近、ブルーレイで観直してフレディ・フランシスによるモノクロ撮影の美しさに息を飲んだ。
音楽ジョン・モリスの切ない旋律も静かに心をうつ。

人間の善良さと残酷さを克明に暴いた、美しくも哀しい傑作である。


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『ゴーン・ガール』 (2014)

二転三転、驚愕のサイコロジカル・スリラー!

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どんより暗くなる身も蓋もない内容ながら、めちゃくちゃ面白いサスペンスであった。
本作は、今やハズれるイメージのわかない名匠となったデヴィッド・フィンチャー監督作。ギリアン・フリンの同名ベストセラー小説の映画化だ。
フィンチャー監督といえば、ビジュアル派の先鋒として、センスのいい映像美で通を魅了してきたのはご存じの通り。それが昨今、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(08)、『ソーシャル・ネットワーク』(10)とオスカー戦線に絡む人間ドラマでも手腕を発揮。映像のシャープさと中身の深さを手中にした氏は、もう鬼に金棒の無敵状態である。そんな中、否が上でもファンが求めるのは、フィンチャー節のダーク・サスペンスであろう。原作小説を己の興味分野に特化させる腕が、とにかく冴える監督である。前作『ドラゴン・タトゥーの女』(11)はリメイクで新鮮味がなかった分、期待のかかる本作だが、はたして全米で大ヒットを飛ばしたその内容は如何に…!?

ミズーリ州の田舎町。双子の妹マーゴ(キャリー・クーン)とバーを経営するニック(ベン・アフレック)は、美しい妻エイミー(ロザムンド・パイク)と共に誰もが羨む結婚生活を送っていた…筈であった。5回目の結婚記念日のその日、エイミーが突如、失踪する。自宅には争った形跡があり、警察は事件として捜査を開始。全米メディアが注目する中、ニックは一躍、時の人となる。しかし、事件を担当する女刑事ボニー(キム・ディケンズ)と相棒のジム(パトリック・フェジット)は、事情聴取と捜査結果との食い違いや愛人疑惑、加えて清掃されたキッチンの血痕、等々、ニックへ疑いの眼を向け始める。同時にメディアと世間もまた手のひらを返し、ニックを猛攻撃するようになり…。

原作は未読。おそらくフィンチャーに寄せたであろう原作者自身の脚色術を検証できなかったことが悔やまれる。が、幸か不幸か予測不能のストーリー自体は存分に楽しめた。こんなレビューを書いていて何だが、予備知識ナシで観た方が衝撃度は高かろう。これから完全な白紙状態で観られる人が、本当にうらやましい。

美人妻エイミー失踪事件が発生し、夫ニックの物語を追う内に徐々に裏の本性が暴かれ、彼が単なる被害者ではない旨が判明していく。メディアによって悲劇の主人公として祀り上げられ、やがて突き落とされる。このメディアのヒステリックな上げ下げ感は、観客の心情とシンクロ。記憶に新しい実際の出来事を思わせ、身につまされよう。
並行して本編では、エイミーの日記を読む形式で、時間を逆行。こちらはエイミー視点でニックとの出会いからNYの生活、ミズーリ州に落ちぶれる顛末が語られ、夫婦間に潜む闇が見えてくる。
エイミーは、子供の頃から作家の母親(リサ・バネス)の描く作品で“アメイジング(完璧な)・エイミー”としてキャラクター化にされ、偶像化された理想の自分と思い通りに運ばない実人生との間に焦燥を募らせてきた。そんな夢見る凡人エイミーとニックとの間では、幸せそうに見えて価値観のズレがあり、時を経て溝は深まっていく。

そして、物語は中盤にふたつの時間軸が合致し、事件の真相が明かされる。ここから怒涛のどんでん返しのつるべ打ち!キャラクターの立場が急転直下、コロコロ変わり、凄まじい展開となる。もちろん野暮なネタバレはしない。ぜひこの丹念なスリラー・ジェットコースターをご体験あれ。

落ちつくところに、落ちついたラスト。未婚の僕からすれば、ひたすら暗くなった。要するに本作は、“結婚”というものを、猛毒の味付けでカリカチュアライズして表現した作品ともいえよう。自然、彼らには“ネキスト・ステージ”がある訳だが、落語の格言にあるように、そこに家族の希望を託すのは楽観的にすぎるだろうか?
また蓋を開けてみれば、人間関係なんてこんなもの。幸せって一体、何?という根源的な疑問も渦巻く。なかなかに一筋縄ではいかない映画である。
もちろん既婚の方、若者、年配者と捉え方はそれぞれ異なろう。その各意見を交わすのもまた醍醐味だ。(とはいえ、カップルや夫婦で観るのは、覚悟が必要であろうが…)
他方、窮余の策としてブラック・コメディーとして観るのもアリである。見ようによっては、ドタバタ・コメディーに見えなくもない。現にアメリカの観客は爆笑しているそうな。
これらの深い娯楽性が、『ブルーバレンタイン』(10)等のシビアな恋愛モノとは異なるポイントである。

自身のでくの棒の持ち味(褒めてます)を最大限に活かしたベン・アフレックの好演も讃えたい。はじめから怪しい香りがプンプン匂うも、個人的にはキャリー・クーン扮する妹とのやりとりに妙な安心感が漂い、人間臭いダメぶりが嫌いになれなかった。アゴをネタにされる愛嬌もヨシ。当キャラがキレ者だと、重すぎてついていけなかったように思う。

刑事役のキム・ディケンズ、エイミーの母親役のリサ・バネス、TV司会者役のミッシー・パイル、ニックの浮気相手役のキャスリーン・ローズ・パーキンス、と他の女優たちも適材適所、おしなべて魅力たっぷり。
中でもエイミー役のロザムンド・パイクが、鮮烈過ぎるほど鮮烈である。色んな表情をもつ複雑怪奇な女性を見事に体現。どの顔も実に魅惑的である。本作以後、大女優としてブレイク必至であろう。『007/ダイ・アナザー・デイ』(02)のボンドガール時代から注目していた身としては、何を今さらといった感じである。(ただ、体当たりという割には、脱ぎ惜しんでいる点がちょっと残念。オスカーに響かないといいが…)

しかしながら、これほど底意地の悪い映画を極上のエンターテインメントに仕上げたフィンチャーの的確な語り口には、ほとほと恐れ入る。
また別ステージへ進んだとみてよかろう。


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『超能力研究部の3人』 (2014)

括目すべき、変化球アイドル映画!

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衰えぬアイドル・ブームの中、奇妙奇天烈でいて実は本質を突いた珍作の登場である。
本作は、インディーズからメジャーへ見事羽ばたいた奇才、山下敦弘監督作。山下監督といえば、前田敦子とコラボしたことも記憶に新しいところであるが、今回は乃木坂46の3人を起用したアイドル映画だ。思えば、単発の配信ドラマを長編化した『もらとりあむタマ子』(13)も特殊ケースであったが、本作の経緯もまたユニークである。というか、ややこしい。
まず、当グループのシングル『君の名は希望』のMVを山下監督が手掛け、その内容というのがウソ映画のオーディションをメンバーに課すドッキリ企画。そこで生田絵梨花、秋元真夏、橋本奈々未の3人が合格したのだが、どうせなら3人で本当に映画を撮ろうという運びになり、大橋裕之の連作短編漫画『シティライツ』を原作にした脚本(いまおかしんじ脚色)を用意。しかし、何かが足りないと感じた監督は、メイキングを本編に合体するアイディアを思いつく。という訳で、一体どんな代物になっているのか全く想像がつかないが、はたしてその内容や如何に…!?

(映画パート、あらすじ)
北石器山高校の超能力研究部に所属する村田育子(生田絵梨花)、山崎良子(秋元真夏)、木暮あずみ(橋本奈々未)の3人は、文字通り、念力などの超能力を研究する冴えない日々を送っていた。そんな折り、育子の初恋騒動が勃発する中、スプーンを平然と曲げ、人の心を読める同級生の森(碓井将大)に遭遇。「実は僕、宇宙人なんだ」と告白する森の言葉を真に受けた3人は、彼を宇宙へ返すべくUFOを呼び寄せようと画策するのだが…。

はじめに予告編事件から記すと、当予告編は映画パートだけを抽出しており、これだけ観れば、いつものオフビートな山下節が炸裂した、それこそ『リンダ リンダ リンダ』(05)や『もたりあむタマ子』の学園版を十中八九、期待しよう。でもコレ、上記した如く真の内容とは異なり、ほとんど詐欺である。好意的に判断すれば、この虚偽予告もフェイク映画の象徴といえ、納得できないこともないが…。
小規模公開だから通用したイタズラであり、製作陣は結構危ない橋を渡ったと思う。倫理上、問題化してもおかしくはあるまい。

本編は、抽象的セットで撮られたリハーサル風景、映画パート、そのメイキングと3つのパートを行き来して紡がれていく。とはいえ、メイキング・パートに魅力がありすぎて比重が傾いてしまったと監督が語る通り、印象としてはメイキング・パートが大半を占める。映画パートの物語は、もとから濃くないからか、サラリと流れ、ほとんど頭に入ってこない。
個人的には、リハーサル・パートはなくして、その分、映画パートを挟んでいった方が、より物語が浮きだったように感じる。セットも幻想的で面白く、何より彼女たちの成長プロセスを見せる意図は分かるのだが…。

見どころといえば、やはり主演3人の悪戦苦闘ぶりである。女優業に挑み、経験の薄さから壁にぶち当たり、仲間との競争意識に苛まれ、将来に想いを馳せ、時に「アイドルとは何か?」という命題を突きつけられ自問自答する。様々な種類の涙を流して成長していく年端のいかない彼女たちの姿は瑞々しく、観応えたっぷりだ。

ところがどっこい、観ていて即座に気付くと思うが、本作にはさらに“ある仕掛け”が施されている。知っていても面白さは損なわれないので記してしまうが、ズバリ、このメイキング・パートもまたフェイクなのである。いわば、スタッフに見える人々にも役者が潜り込んでおり、山下監督自身も監督役を“演じて”いるのだ。そもそも山下作品の熱心なファンであれば、統括マネージャー“舟木”のキーワードに「!」なり、怪優、山本剛史扮する当キャラが登場すると「きたきた!」とテンション・アップは避けられまい。そして彼は我々の期待を裏切らことなく大暴れしてくれる。
この辺りの監督の手管は、『不詳の人』(04)から『めちゃ怖!』シリーズ(09)といったフェイクドキュメンタリーの作品群で実証済みだ。

他方、その特異な構成が、そのままアイドル論となっているところが本作のツボである。
アイドル文化とは、偶像を虚と理解しつつ愛でて、己の糧とする娯楽である。(中には、虚実が曖昧になって暴走する者もいるが、そこも本作はきちんと警鐘を鳴らしているのだから偉い)
その実在しないモノに対する信奉が、超能力やUFOといった超常現象に結びつく。さらに偶像を生み出す少女たちの人間的な苦悩は紛れもない真実であり、虚と実が入り乱れる、ある種、矛盾した重層構造もまた然り。
要するにこの映画自体と、それを観る経験自体が、アイドルというものの複雑さを総体的に表しているのである。

また、純粋なアイドル映画としても、本作は成功していることを付け加えておく。
というのも、僕自身、乃木坂46なんて微塵も興味なかったが、観終わった後は3人の顔と名前と個性を覚え、その健気さにすっかりファンになってしまった(笑)。

願わくば、映画パート本編も観てみたいもの。単独でも充分面白いものになっていよう。
何はともあれ、本作は一回しか通用しない奇手。流れでそうなったとはいえ、それをモノにした山下監督、恐るべし、である。


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『宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟』 (2014)

共存のテーマを深める本編付随の劇場版!

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TVシリーズ本編を補完しながらも、単体として新たな奥行を与える意欲作であった。
1974年に放送され、今日に至るまで熱狂的な支持をうける不朽のアニメ『宇宙戦艦ヤマト』。しかし、長らく権利闘争でなかなか復活を果たせず、近年ようやくリメイク・ブームにのって大々的に甦るも、続編アニメ及び実写版、共に迷走。翻弄されしファンの溜飲を下げてくれたのが、13年のファースト・シリーズの本格リメイク『宇宙戦艦ヤマト2199』である。「そう、これが観たかった!」とファンに好評をもって受け入れられた当シリーズ。最終回で劇場版のアナウンスがなされた際は、てっきり順を追ってオリジナル劇場版第2作『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(78)をリメイクするのかと思ったが、さにあらず。完全新作の本作では、TVシリーズをまとめた先行の劇場版『追憶の航海』に続く、24話と25話の狭間に起きた1エピソードを描くというのだからビックリである。正直、TVSPでいいのでは?とちょっぴり落胆したのだが…!?

西暦2199年。一大勢力を誇る異星国家ガミラスと交戦状態となり、大気を汚染された地球を救うべく、はるか彼方の惑星イスカンダルへ“コスモリバースシステム”を受け取りに抜錨した宇宙戦艦ヤマト。苦難の航海を経て、ガミラスを壊滅させ、イスカンダルからの帰路についたヤマトであったが、その前に戦闘民族ガトランティスの遠征隊が立ち塞がる。隊を率いる大都督“雷鳴”のダガームは、ヤマトの引き渡しを要求。ヤマトは無駄な戦闘を避け、ワープでダガームの追撃を振り切るも異空間に迷い込み、謎の惑星に辿り着く。調査のために惑星に降り立つ古代進と技術科員の桐生美影ら一行は、密林の中に戦艦、大和の残骸を発見。さらにその内部で、“七色星団の戦い”の生き残りで、復讐に燃えるガミラスのファムト・バーガー少佐とその仲間たちと遭遇し…。

冒頭。出発するヤマトを見送る側の視点、いわば、残された者のちょっとしたドラマが土方司令官と第7空間騎兵連隊員の斉藤始を通して描かれるのだが、ここが実にいい。オリジナル『ヤマト』の感傷的なノリが全開であり、一言、泣けた。反則気味ではあるが、この最初と最後のシークエンスで心をもっていかれた次第である。

本編で迎えうつ敵は、オリジナルTVシリーズ『宇宙戦艦ヤマト2』(78~79)の悪役となる白色彗星帝国ガトランティスの遠征部隊。今回のガトランティスは、オリジナルとは毛色が違い、まさに蛮族。力こそ正義の好戦的な戦闘民族となっている。しかも、倒した相手の技術者を奴隷にしてテクノロジーを奪い、兵器のレベルは異様に高いというタチの悪さ。
TVシリーズでは、ガミラスとの知的生命体同士のリアル戦争モノの様相を呈していた分、シンプルな脳筋思想をもつ勢力として、彼らの存在は新鮮にうつった。この改変はアリ、である。

そんなガトランティスと一戦交えた末にヤマトが辿りついたのが、異空間に浮かぶ謎の惑星。そこで調査に星に降りた古代たちは、壮絶な戦死を遂げたドメルの部下バーガーと出会い、不思議なホテル空間に閉じ込められてしまう。
ここからの展開は、TVシリーズで「?」であったままの伏線の回収劇となり、謎の惑星の正体も、ファンならニヤリと唸る設定が施されている。
怨みをもつバーガーとヤマト・クルーとの間に和ができ、種の起源が明かされることで、戦争というテーマと相互理解のメッセージが、TVシリーズを総括するようにミニマムでいて大スケールに浮き彫りにされる。

総監督の出渕裕によると、これらの要素を劇場版の形で語ることは、ある程度予定していたらしく、TVシリーズの中であえて伏線を散りばめておいたという。なるほど、本編にコレを組み込めば、散漫になっていたであろう。本スタイルが一番いい形であったと納得した。いってみれば、TVシリーズと劇場版との相互理解である。

そして、クライマックスはヤマトとガミラスが連携して、ガトランティスと決戦する展開に燃えさせてくれる。知略をつくして戦う様子と、古代が艦長を暗に継承するキレのよさが心地良い。
未開の民族の暴力に連合軍が対抗するこの光景は、現実をよくよく顧みればちょっと怖いが、よくできた構造である。
個人的には、特有の幻想シークエンスが苦手なので、ヤマト・ホテルの一連は退屈したが、総じて大満足であった。

何より、全員生き残る結果が分かっているサイドストーリー、なおかつ波動砲を使えないという制約まみれで、これだけ見事な劇場版をつくり上げた製作陣の挑戦を称えたい。ヤマト同様、無謀なミッションを完遂したといえよう。

しかしながら、満を持して本格登場と相成ったガトランティス。未登場の大帝と共に、どういった敵として地球と全面抗争になっていくのか、興味は尽きない。新シリーズへの期待がかかる。早く観たいっ!


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『その男、凶暴につき』 (1989)

ハプニングが生み出した、奇跡のデビュー作!

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いまや“世界のキタノ”として、名実ともに日本を代表する映画監督となった北野武。
そのフィルモグラフィの中では、北野バイオレンスの頂点『ソナチネ』(93)、一般受けがいい青春映画『キッズ・リターン』(96)、ヴェネチア映画祭金獅子賞を獲得し、内外に地位を確立した『HANA-BI』(98)、興行的に成功をおさめた『座頭市』(03)&『アウトレイジ』(10)、とバラエティ豊かな代表作が浮かび上がるが、俯瞰して意外に忘れがちになる重要な一本がある。
そう、記念すべき北野武の監督デビュー作の本作に他ならない。
“初監督作の中には、作家の全てが詰まっている”とは映画界でよく囁かれる格言だが、本作も例外ならず。ただ、誕生の経緯は他の一般監督および異業種監督とは、いささか異なる特殊ケースであった。
というのも、もともと本作は深作欣二監督、ビートたけし主演のアクション企画としてスタートし、深作監督が製作の奥山和由との意見対立で降板。すったもんだの末、ビートたけしが北野武としてメガホンをとる運びとなった。
要は、ある程度できあがった企画に偶発的に後から乗っかった、松田優作の監督作『ア・ホーマンス』(86)と同じ形態である。
それがどうした?と思われるかもしれないが、しかしここは案外見過ごせないポイントなのだ。

強引な捜査で組織から疎まれている一匹狼の所轄刑事、我妻諒介(ビートたけし)。当晩も浮浪者を袋叩きにした少年の家へ押し入り暴行を働き、無理矢理、自首させる始末であった。
ある日、港南署管内で麻薬の売人(遠藤憲一)が惨殺される事件が発生。我妻と新人の菊池(芦川誠)は、麻薬常習者や売人を対象に捜査を開始する。すると線上に裏で麻薬ビジネスに手を染める実業家、仁藤(岸部一徳)と配下の殺し屋、清弘(白竜)が浮上。しかも彼らに麻薬を横流ししていたのは、我妻の先輩である防犯課係長の岩城(平泉征)であった。ほどなく岩城は失踪し、首つり死体が発見される。頭にきた我妻は上層部の許可をとらず、独断で仁藤と清弘を裁くべく戦いを挑むのだが…。

本作をあらためて観ると、名脚本家、野沢尚が書いたシナリオの骨格の確かさに唸る。
己の凶暴性で悪党を叩きのめし、警察組織に厄介者扱いされる刑事、我妻。やがて警察上層部から見限られ、末端の我妻は簡単に切り捨てられてしまう。
一方、実業家の犯罪者、仁藤に飼われる殺し屋の清弘も、文字通り、捨て駒扱い。
アウトローの二人はいわば、似た者同士であり、互いに惹かれ合い、雇い主に牙をむき、最後には宿命の対決を迎える。
オリジナル脚本にはそこに、使用者を無敵化する麻薬“DIES”、精神の病を抱えた妹、灯(川上麻衣子)に対する「自分も遺伝的に異常をきたすのではないか?」という我妻の複雑な心境、そんな灯に成り行きで依存される清弘との三角関係、警察組織の官僚的腐敗、といったドラマを加味。再開発がすすむ東京の社会情勢に照らし合わせて、それらを展開させるテンコ盛りの内容となっている。(湾岸ウォーターフロント等のロケ地を見れば、オリジナル・プロットの残滓が窺えよう)
当脚本をそのまま深作監督がテンポよく撮っていたら、これはこれで面白いハードボイルドな作品になっていたに違いない。

しかし出来上がった本作は全く別物に改変され、新たな息吹を与えられている。
岩城を代表とする各キャラの背景、妹と清弘の関係性、麻薬“DIES”の設定、警察組織への我妻の抵抗といった、エンタメを構成するエモーショナルな要素はあえてオミット。我妻の異様な存在感でひたすら押し切る、不思議な映画になっている。
監督の身の丈にあったフィールドに、映画を引き寄せたといおうか。作品を自分色に再構成する非凡なバランス感覚ひとつ見ても、北野武の類稀なる才能が窺えよう。

まず徹底してセリフを削り、映像で表現する省略の冴えが鮮烈である。すでに本作から不親切キワキワの当スタイルが炸裂しており、実際、我妻は後半、一言もしゃべらない。刑事モノにあるまじき、前代未聞も珍事といえよう。
その代わり、我妻の歩くシーンを延々と写し、当キャラに対する思考を観客に強制する。
反面、どうでもいいキャラは棒のように立ち尽くすのみ(笑)。
時折り挟まれる妙な間、何を表現しているのか意味不明のショット、執拗すぎる暴力描写、等々、計算でやっているのか、ふざけてやっているのか、判断に苦しむテンポに呆然となるばかり。
野沢尚が手掛けたエンタメ脚本に、かように自身の実験的演出を盛り込んでいるのだからさもありなん。エピローグのどんでん返しも思い付きであり、最後の最後まで先読みできない。

一流の監督と脚本家が用意した土台を野心的に壊し、独自のスタイルを確立させた珍しいケースというか、いわゆるひとつの奇跡である。こんな贅沢は、ビートたけししか許されまい。
北野武自身、本作のようなアクシデント的な経緯がなければ、監督にはなっていなかったと語る通り、もしかすると一からはじまった企画では、うまく才能が花開かなかったかもしれない。

意気揚々とガサ入れするものの、逆に犯人に殴り倒される強面刑事、子供の見ている前で、スローモーションでバットで頭を叩き割られる善良刑事、犯人を追いかけるのに疲れ、道端でジュースを飲む刑事、途中で警察をクビになりリタイヤ状態となって、画廊や草野球を眺め放浪する主人公刑事、等々、斬新で悪意あるシーンのオンパレードも実に見応えアリ!
女子大生が突如起こった銃撃戦に巻き添えになるショットの生々しいインパクトは、日常に暴力が瞬間爆発する北野演出の真骨頂。
何より下町で我妻と菊池が麻薬常習者をパトカーで追跡する一連のシークエンスは、あらゆる意味で神懸り的なクオリティを誇っている。
クライマックスの我妻VS清弘の対決も、ことさらエキサイティング!
上記したように脚本がしっかりしているという事実もあるが、今あらためて観直すと北野映画の中で一番純粋に面白いのではないか?とすら思う。

キャスト陣で注目は、やはり本作で狂気の悪役に開眼した白竜!ギラギラしていた当時のビートたけしに張り合う不気味な迫力に圧倒される。
他、麻薬の売人役で若き日の初々しい遠藤憲一が、1シーン登場するのでお見逃しなく。
それに今回観直して、チンピラ役で小沢一義が出演していたことに初めて気付いた。
あと、北野組の常連となり、いまや名バイプレーヤーとなった寺島進が本作から顔を出している事実にご注目!

一言でいうと、「変な映画」ということになるが、今現在を踏まえると様々な発見があり、とかく見どころが多い一作である。
まさに最強のデビュー作といえよう。


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『バンクーバーの朝日』 (2014)

閉塞感を打ち破る、切なき輝き!

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史実が訴える重みに圧倒されつつ、深い感動に包まれる至高の一本であった。
本作は、『舟を編む』(12)にて最年少で日本アカデミー賞を制した俊英、石井裕也監督作。齢の割には老成し過ぎとやっかみの対象になりながらも、自主映画からメジャーへ着実にステップアップし、ついにビッグ・バシェットへ挑戦である。題材は、1914~41年まで実在したカナダ、バンクーバーの日系移民の野球チームを描いたスポーツ・ドラマだ。
恥ずかしながら、当チームについて全く知らなかったが、話を聞くだけで胸が熱くなる実話である。名脚本家の奥寺佐渡子のオリジナル・シナリオを迎え、純然たるジャンル映画になるであろうモチーフを如何なる手管で仕上げたのか?楽しみにスクリーンへ臨んだのだが…!?

1900年代初頭のカナダ、バンクーバー。一攫千金を夢見て新天地カナダへ多くの日本人が移民するも、当地では人種差別に直面。移民たちは低賃金と重労働に耐えながら、日本人街で肩を寄せ合うように暮らしていた。そんな中、当地で生まれ育った日系二世を中心に野球チーム“バンクーバー朝日”が結成される。製材所に勤めるキャプテンのレジー笠原(妻夫木聡)とケイ北本(勝地涼)、漁業に従事するピッチャーのロイ永西(亀梨和也)、豆腐屋で働く所帯持ちのキャッチャーのトム三宅(上地雄輔)、ホテルのポーターのフランク野島(池松壮亮)たちは、体格差で白人に歯が立たず連戦連敗のみじめな思いをしながらも日々練習に励んでいた。そして思案の末、自分たちの特性をいかした戦術的なプレイ法をレジーが見出し、徐々にチームは白人チームを負かすようになり…。

とりあえず真っ先に記しておきたいのが、当時代を完全再現した衣装や巨大オープンセットの美術の完成度である。正直、予告編を観た際は、現地でロケしたとばかり思っていた。セコさは微塵も感じず、ずっとそこにあったかのような建物と街並みのスケールの大きいリアリティに圧倒されんばかり。近藤龍人カメラマンが切りとるシャープな映像の美しさも相俟って、違和感なくタイム・トリップできよう。

ストーリーだけを聞くと、定番の成り上がりスポ根モノを想像してしまうのは、むべなるかな。確かにその要素はあるにはあるが、のっけから趣きが違う。なんせ厳しい冬のオフシーズンから話は始まるのだ。先の展開を知っている身としては、どうしても「早く早く!」と急いてしまうが、エンジンがかかるまでが異様に長い。
このパートでは、人種差別の屈辱に耐え、貧困にあえぐ日本人移民たちの過酷な生活が、キャラクラー毎に丹念に紡がれていく。とかく画面には、凄まじいまでの閉塞感が満ち満ちている。これはもう本作が、単なるエンタメではないという初期宣言に他あるまい。

野球シーズンがはじまってからは、エンタメ要素も快調に滑り出す。大柄な白人のパワー・プレーに対し、バントや盗塁といった俊敏な動きで翻弄し、情報分析で白人チームに対抗し、撃破していくバンクーバー朝日。そんな彼らの痛快な活躍が、常日頃から鬱屈していた日本人移民たちの希望と誇りになっていく。
また、彼らの“アリが巨象を倒す”スモール・ベースボールは、次第に白人の野球ファンをも魅了し、カナダ全土を席捲する。
もうこの辺りは、問答無用でテンション・アップだ。個人的には、暗い日本人街から陽の当たる球場に向って彼らが歩きながら徐々に集結していくシーンの高揚感にやられた!

一方、冒頭から引き続き、進学を夢見るレジーの妹(高畑充希)の理不尽な挫折や、肉体労働でこき使われる親世代、フランクの日本への帰国、そして迫りくる戦争の影といった“暗さ”も重低音で並奏される。
日系移民二世である彼らは、カナダでも虐げられ、かといって日本でも差別の対象となる。居場所のない哀しさが、観る者に重くのしかかる。それでも自分たちの出来ることを探し、そこを懸命にがんばれば、いつかは陽の目をみるというド根性が、彼らの野球を通してストレートに伝わってこよう。
いわば、野球は要素の一部に過ぎず、ネバーギブアップの尊い精神を描いた青春モノなのだ。

ラスト。彼らに待ち受ける顛末は、これ以上ない反戦メッセージとして胸をうつ。凡百の戦争映画では敵わない強烈さである。それもこれも的確な描写を冒頭から積み上げてきたゆえのヘビーさだ。

野球経験がないながらも形にした妻夫木君の役者魂を筆頭に、バンクーバー朝日のメンバーを演じたメイン・キャスト陣の好演はいわずもがな。
レジーの頑固親父役の佐藤浩市をはじめ、石田えり、宮崎あおい、貫地谷しほり、ユースケ・サンタマリア、本上まなみ、田口トモロヲ、徳井優、岩松了、鶴見辰吾、光石研といった脇役陣が、説明はなくとも彼らの背後にある人生が伝わってくる存在感で、豊かにスクリーンを彩っている。かの地の日本人社会を品良く点描する、この細かい配慮には唸らんばかり。(若干、二世たちの日本語の流暢さが気になったが…。皆、あんなに上手かったのだろうか?)

バンクーバー朝日の長い歴史を短縮した強引さや、ライバルの白人チームの強敵感が薄かったり、彼らがこだわった紳士的なポリシーを作劇上、無下にする展開があったりと、「むむむ…」という点もあるが、許容範囲。

やはり本作、石井裕也監督のインディーズから培ってきた独自手法とメジャー的職人芸をみせる器用さが、いいバランスで融合した稀有な一作であると思う。その不思議な味わいが、エンタメと社会派のジャンルが融合した多様性のテーマとマッチしていよう。氏の映画作家としての過渡期である、このタイミングだからこそ生まれた奇跡といえるのかもしれない。


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『ホビット 決戦のゆくえ』 (2014)

名作ファンタジーの前日譚、感無量の完結編!

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壮大なシリーズの幕引きと前シリーズへのブリッジという意味では、文句のない豪勢な一本ではあるのだが…。
J・R・R・トールキン著のファンタジー小説の古典の映画化として、歴史に残る傑作となった『ロード・オブ・ザ・リング』トリロジー(01~03)。本作は、その前日譚を描いた童話『ホビットの冒険』の映画化3部作、堂々の完結編だ。『スターウォーズ』のエピソード1~3ほど、前シリーズから期間が離れておらず、短い原作を3部作に引き延ばした関係上、取ってつけた感が半端なく、やや盛り上がりに欠ける本シリーズ。が、そこはピーター・ジャクソン監督。技術更新した脅威の映像体験で、ファンの期待に存分に応えてくれた。何より、こうしてまた3年経ってみると、なんだかんだ言って、氏のエネルギーと愛情には素直に頭が下がる。
という訳で、偉大なるサーガの完結を見届けるべく、劇場へ馳せ参じたのだが…!?

邪竜スマウグ(声&モーションキャプチャー:ベネディクト・カンバーバッチ)が支配する王国エレボールに到着した、ホビットのビルボ(マーティン・フリーマン)とトーリン(リチャード・アーミテージ)たちドワーフ一行。かつての自分たちの王国と財宝を取り戻すべく、内部に侵入した一行は、そこでスマウグを目覚めさせてしまい、激闘の末、怒りを買ってしまう。スマウグは見せしめに湖の町へ飛び立ち、破壊の限りを尽くすのであった。そんな混乱の中、領主の子孫で弓の名手バルド(ルーク・エヴァンズ)が立ちあがり、代々受け継いできた黒い矢でスマウグの弱点を射抜き、仕留めることに成功する。
こうしてスマウグが滅び、平安が戻るも、エレボールの財宝の分配を要求するバルドたち町の人間とエルフたち、頑なに財宝を渡すことを拒むトーリンの間で不穏な空気が流れはじめる。その状況下、トーリンが血眼になって探す家宝アーケン石を密かに隠し持っていたビルボは、それを渡すことを迷う。結果、ビルボはドワーフたちのもとをこっそり抜け出し、人間とエルフにアーケン石をネタに和平をもちかけるよう提案して…。

前作から直通して、スマウグによる湖の町襲撃シーンから、本編は疾風怒涛のスタートをきる。まさにのっけからフルスロットル。凶暴なスマウグの吐き出す爆炎により、町を火の海にする迫力たるや!(膨大な人間が死んでいる割には、ゴア度は薄め)
本パートでは、バルドの決死の活躍が描かれ、スマウグと宿命の対決を果たすまでがアバンタイトルになる。
前稿から引き続きとなるが、この仕様には改めて物申しておきたい。やはり本シークエンスは、前作のクライマックスにすべきであろう。前作はバルドの物語としてまとめるべきであった。スマウグを生かして、3作目に引っ張りたかった意図は痛いほど分かる。でも、バルドの親子代々続いてきたスマウグとの因縁、屈辱に耐えてきた鬱憤を晴らす熱いプロセスが、2作に分断されてはあまり響かないのだ。これは残念。
本シリーズほどのヒット・シリーズなのだから、この辺りは興行性を度外視した構成にしてもよかったのではあるまいか。

スマウグ亡き後、それぞれの思惑で解放された王国の利権に群がる人間、エルフ、オーク、ドワーフたちが入り乱れていく。それらをつなぐ良心のビルボもまた、悪の指輪の力に魅了されている。(これが本当に児童書の内容か?と思われるほどの生々しさ)
ことほど左様に、人心の闇と光の揺らめきを大スケールかつエモーショナルに活写するのが、本シリーズの醍醐味であろう。
上記したバルドの汚名払拭のエピソードや、キーリ(エイダン・ターナー)とタウリエル(エヴァンジェリン・リリー)の種族を越えた恋愛、等々、内容は盛りだくさんだが、メインはもちろんビルボとトーリンの友情である。…筈なのだが、めくるめくハードな戦闘シーンに埋もれて、いまいち盛り上がらなかった。
第一にトーリンの思考が理解できない。何らかの魔力に侵されたのだろうが、神秘性に逃げずに納得できる人間的なドラマをつくって欲しかった。
これらの不備は、もともと2部作であったのを3部作にした事情もあろうが、もったいない限りである。

とはいえ、映像の観応えは折り紙つき。IMAX3Dで観るべき重量級であり、観逃す手はあるまい。エレボールの荘厳な威容と雄大な自然といった深い映像美もさることながら、各勢力が激突する軍団乱戦は、息を飲む一大スペクタクル!1カットにどれだけ手間と金がかかっているのか、想像を絶する情報量にクラクラだ。
オークのボス格、アゾグとボルグが手強いしぶとさを見せ、各キャラクターの見せ場をつくるアクションの数々も大満腹!
(しかしながら、終始、踏んだり蹴ったりの湖の民の不憫なこと…)

相変わらず『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズへの目配せも心憎い。ガラドリアル(ケイト・ブランシェット)、サルマン(クロストファー・リー)、エルロンド(ヒューゴ・ウィーヴィング)といったお馴染みのキャラの裏活躍もばっちり用意されている。
レゴラス(オーランド・ブルーム)が、もう一人の主役とばかりに過度にピックアップされているのもご愛嬌。本シリーズから観た人は、さぞ謎の存在であろう。

ラスト。親愛の表現と共にチクリとクギをさすガンダルフ(イアン・マッケラン)の一言が胸に突き刺さる。牧歌的なホビット庄で普通の暮らしに戻るホッとした感覚と、冒険の味を知ってしまった今、かつての日常には戻れない切なさ…。
長いエンドロールに入ると、ここでもう本世界観の新作が観れないのかと急激な寂しさに見舞われた。もう一回、『ロード・オブ・ザ・リング』を観直したくなった次第である。そして、おそらくまた本シリーズが観たくなる無間ループに陥るのであろう。
冒険と指輪の魔力に魅入られたのは、観客もまた同じである。


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『仮面ライダー×仮面ライダー ドライブ&鎧武 MOVIE大戦フルスロットル』 (2014)

フルーツ&カーアクション、異色の食い合わせを味わうべし!

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カラフルなフルーツを身にまとう戦国武者ライダー、爆走する車とメカニカルなライダーが入り乱れる、クラクラする画ヅラながら、しっかりドラマも堪能できる良品であった。
本作は、現役ライダーと前期ライダーがクロスオーバーする冬の劇場版『MOVIE大戦』シリーズ、早いもので第6弾。毎度記しているような気がするが、今一番面白い『仮面ライダー』劇場版といえば、本シリーズで決まりである。
理由を改めて記すと、約30~40分区切りの3幕構成がTVシリーズの体感時間に近くてまとまりがよく、春のお祭り映画のような「スケジュールのあう人だけ集めました」的なセコさもない。近々の2作である分、始まりと終わりの物語の補完という、きちんとした位置付けもあり、同時にダブル・ライダーのコラボという意味でも、純粋に楽しめる遊び心もある。今や、もう本シリーズだけで他の劇場版はいらないのでは?とすら思う。
はてさて、今年の出来や如何に…!?

●『仮面ライダー鎧武 進撃のラストステージ』
人類滅亡の危機を救い、遠く離れた惑星で新たな世界の創造主となった仮面ライダー鎧武こと葛葉紘太(佐野岳)と舞(志田友美)。ところが、二人の星に機械生命体メガヘクスが襲来し、舞を捕え、自らと星を融合してしまう。紘太の反撃もむなしく、その圧倒的な力の前に敗れ去るのであった。続いてメガヘクスは、地球を標的にし、沢芽市に降臨。唯一現存する戦極ドライバーをもつ仮面ライダー龍玄こと呉島光実(高杉真宙)と兄の仮面ライダー斬月こと貴虎(久保田悠来)が、果敢にメガヘクスに立ち向かうのだが…。

放送中は前評判ほど人気にはならなかったが、その様々な要素の詰め込みぶりと凝りようが、いずれカルト作に崇められるだろうポテンシャルを秘めた『仮面ライダー鎧武』。個人的には主役のキャラに愛着を持てず、芯が弱くていまいちノレなかったが、終わってみると「もう一度観直してみようかな…」と、つい惑う懐の深さは否定しようがない。

本編は、オーバーロードとなった紘太と舞のユートピアからスタートする。紘太の衣装を着せられているゴテゴテ感は、相変わらず苦笑を禁じえない。それはともかく、二人をおびやかし、地球を狙う敵役メガヘクスのスケールが大きく、残された者たちのドラマをきちんと描ききろうとする意欲はびしびしと伝わってくる。特にTVシリーズで充分に描き切れたとはいえない貴虎のドラマと、光実との兄弟タッグの勇姿は実に感動的だ。復活したメカ凌馬(青木玄徳)との決着もナイス。
そして、復活した紘太との共闘は、問答無用で熱い。主題歌の流れるタイミングに燃えた!

ストーリー自体のひねりはなく、アクションでひたすら押しまくる作劇ではあるが、それぞれの想いが迸り、なかなかの観応えである。

●『仮面ライダードライブ ルパンからの挑戦状』
巷を騒がす怪盗アルティメット・ルパン(綾部祐二)から、特状課に挑戦状が叩きつけられた。彼の目的は、“仮面ライダーの称号”。挑戦をうけた仮面ライダードライブこと特状課刑事、泊進ノ介(竹内涼真)は、ルパンに翻弄されながらも、とある古城に辿り着く。そしてそこでロイミュードかと思われたルパンの意外な正体を目の当たりにして…。

こちらはうって変って軽いノリで、刑事モノのスタイルを模したTVシリーズ同様、怪盗VS刑事の定番ストーリーが展開。この異なる世界観を直結させる極端な落差もまた本劇場版の妙味といえよう。

怪盗ルパン、転じて仮面ライダールパンを演じる綾部祐二(ピース)のワザとらしい芝居は、観ていてムカッとくるが、憎めないキャラではある。再登場に、ちょっぴり期待したい。
TVシリーズのツボを押さえたライト・ミステリー展開と、青臭い進ノ介の成長と相棒のベルトさんとの絆、そのベルトさんの秘密に踏み込んだ逸話、等々、さすが三条陸脚本、手際のよさで安心して観ていられる。(白倉Pのカメオ出演には、笑っていいのやら…)
アクション・シーンでは、魔進チェイサーとボス格のロイミュードが共通の敵に対し、一時的にドライブで手を貸すスペシャル感にベタながら震えた。

二つのエピソードを通して、“残された想い”のテーマを、始まりと終わりの違った角度からみせ、際立たせる仕組みも心地良い。
それらをつなげる敵の設定も、機械というキーワードでちょっとした整合性を与えており、この辺りの心配りもまたヨシだ。何より、個を否定して単一の個体にせんとする敵の思想が、(政治的な解釈は脇に置いておいて)敵も味方も個々のぶつかり合いと化した平成ライダーの時代性を否定する位置にいて興味深い。時代を経ても、仮面ライダーの宿敵は今も昔も独裁組織の“ショッカー”であるということか。

●『MOVIE大戦フルスロットル』
ラストの第3部は、究極の敵に向けて、鎧武とドライブが都合よく合流。タッグを組んで、悪を討つハチャメチャ・コラボを、ここまでくればもう楽しむだけである。前回、本パートがなかっただけに、うれしさ倍増だ。やっぱりこうでなくでは。

今回は夏の劇場版での顔合わせがなかったゆえ、鎧武&ドライブは初顔合わせ。それだけにコミカル度が増し、大いに笑わせてもらった。紘太もフリーターのあんちゃんのノリに戻り、妙になつかしい。互いが変身するオリジナル・フォームもケレン味たっぷりで楽しいのなんの!造り手のほくそ笑む顔が眼に浮かぶようである。
最終決戦の『トロン』風なCGも、ここまで振り切れば、テンション・アップだ。
コラボの醍醐味を文句ナシに堪能できよう。

ラストはきっちり『鎧武』パートで泣かせてくれる。こういうもうひとつのエンディングをちゃんともってくるところに、本作の重要性を感じよう。というか、これで真の決着である。
一方、『ドライブ』は、新キャラがお目見えしたり、中身の理解が深まったりで今後に期待をもてる。
こうしてみると本シリーズは、時期的にも内容的にも、増々いいとこ取りに見えてきた。
末永く本シリーズが続きますように。


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『海月姫』 (2014)

軽~く楽しめるオタク・シンデレラ・コメディ!

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突っ込みを入れるのが野暮にうつるほど、無難なエンターテインメントではあった。
本作は、東村アキコのTVアニメ化もされた同名漫画の映画化。NHK連続テレビ小説『あまちゃん』(13)で国民的女優となった我らが能年玲奈主演作だ。『あまちゃん』のイメージが強すぎたゆえに、以後は相当神経質な売り出し方をされている能年ちゃん。安易にTVドラマに出さずに、じっくり主演映画で勝負するスタイルが功を奏するかは不明ではあるが、キス封じ等、背後の締め付けが厳しいのは女優としては如何なものか?とは思う。二階堂ふみや満島ひかりみたく、曲者監督に体当たりで挑んで欲しいところではある。
例によって本作の原作は少女漫画である為、「少女漫画には手を出さない」という自らの掟に従って未読。はたして内容は如何に…!?

イラストレーターを目指す、クラゲオタクで冴えないダサダサ女子、月海(能年玲奈)が暮らすのは、レトロなアパート天水館。そこでは、鉄道オタクのばんばさん(池脇千鶴)、三国志オタクのまやや(太田莉菜)、和物オタクの千絵子(馬場園梓)、枯れ専のジジ様(篠原ともえ)といった似た者同士の面々が、「男を必要としない人生」をモットーに、世間に背を向け、身を寄せ合うように暮らしていた。
ある夜、熱帯魚店でトラブった月海は美しい女性に助けられ、自室に招待するも、翌朝、当の女性が蔵之介(菅田将暉)というイケメン男子の女装であったことが発覚。パニックになる月海であったが、女装した蔵之介は折にふれては天水館にやってきて皆に性別を偽り、入り浸るようになるのであった。
そんな蔵之介は実は政治家一家の次男。父は前大臣の鰐淵慶一郎(平泉成)で、腹違いの兄、修(長谷川博巳)はその秘書であった。そしてひょんなことから修が月海に恋をし、おまけに慶一郎が鍵を握る再開発計画により、天水館の取り壊しが持ち上がり…。

逆にバカにしているのでは?という勘繰りすらバカバカしい、あまりに表層的なオタク文化、都合の良すぎる展開、等々色々と言いたくなるが、むしろ深みのなさを許容して楽しむ、もしくは能年玲奈をひたすら愛でるのが、本作の鑑賞法である。そうわりきって観れば、お正月のファミリー・ムービーとして穏やかに楽しめよう。

本作の監督の過去作『こち亀 THE MOVIE』(11)、『ひみつのアッコちゃん』(12)と不満をつらつら書きつらねてきたが、やはりこの監督さんとはどうも性が合わない。職人技をもつ監督さんだとは思う。が、毒のない薄味ぶりが、個人的にちっとも心に響かないのだ。画のスケールの小ささも、良くも悪くもTV向きである。例えば、鰐淵慶一郎が街頭演説するシーンのエキストラ配置が、なんともしょぼい。どうにかならなかったのか。
脚本もエピソードが平板で強烈な起伏がなく、演出も輪をかけて単調で、滑り出しこそ快調だが段々飽きてダレまくった。
オタクたちの背負っているものや蔵之介の過去等、ジメジメとみせなかったのはよかったが…。

見どころは上記したごとく、何をおいても能年玲奈の可愛さである。フワァ~としたクラゲと本人の魅力が絶妙にマッチ。まさに水をえたクラゲである。『ホットロード』(14)なんかより、安心して観ていられる。

かような能年劇場の向こうを張るのが、女装男子の蔵之介を演じた菅田将暉だ。その美しさに、終始クラクラ。(とはいえ、どう見ても男なのだが…、おっと、突っ込み無用)
『仮面ライダーW』(09~10)のフィリップ君から見守る身としては、様々な役柄にチャレンジする役者としての急成長ぶりがうれしい限り。

メインとなるオタク・メンバーも芸達者が揃っており、過不足ナシ。他にも速水もこみちの美味しいトコどりや、片瀬那奈の外さないコメディエンヌぶりと脇役も充実。
堅物役の長谷川博巳のキャラに好感をもっただけに、彼の後始末もちゃんとしてほしかった。

オタク的な生き方、引きこもり生活を頭ごなしに否定せず、天水館のヌシが人気BL漫画家というイコン設定が示すように、その状態のままで外に向けて発信する生き方の標榜には全面的に同意する。そうは上手くは運ばないだろうが…。

加えて、クラゲの存在。見た目の気持ち悪さと海で刺される被害を顧みれば、忌むべき存在ながら、見方を変えれば、幻想的で美しく可愛くも写る。この多面的なものの見方こそ、本作のテーマなのだろう。
だとすれば、オタクを否定する人間たちの理論も平等に示してもよかったのではなかろうか?再開発を促進する側の利点等を描き、奥行きを持たせてもよかったように思う。

結局ウダウダ記してしまったが、多くを求めなければ、それなりに楽しめる一本である。


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『羅生門』 (1950)

日本映画の黄金時代を切り開きし、至宝の異色作!

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携帯端末における鎖国ビジネスで、ガラパゴス化という言葉が浸透して久しからず。そこには幸か不幸か、国内だけで商売の採算がとれる国土と人口をもつ島国ならではの事情が窺えよう。
当状況は映画界にも当てはまり、国内興行でそれなりに稼げるがゆえ、ワールドワイドな視点が欠如しているといわざるをえない。TVドラマ、アニメ、特撮のオマケと化した、いわゆる“劇場版”の氾濫をはじめ、大作になればなるほどその傾向が強くなる悪循環に陥っているようにみえる。
もちろん、そうした状況は今にはじまった訳ではない。戦前から戦後にかけて日本映画界および一般の人々には、邦画文化を外国人が楽しめる筈がないという先入観があり、海外に輸出する発想すらなかった。現在と決定的に異なるのは、実際は知らず知らずのうちに当時の邦画が世界レベルのクオリティに達していたという事実である。
という訳で本作は、日本映画の名を一躍世界に知らしめた黒澤明監督の記念碑的名作である。

本邦公開時は内容のユニークさが賛否両論を呼び、どちらかといえば否が多く、さほどヒットもしなかったという。ところがイタリア映画の輸入配給を行っていたジュリアーナ・ストラミジョリ女史のたっての希望で人知れずヴェネチア映画祭に出品され、現地で大評判を呼び、まさかのグランプリ(金獅子賞)を受賞。アジア映画をなめきっていた世界の映画人たちに驚愕をもって迎えられ、大絶賛を浴びたのである。
海外の人々以上にびっくりしたのが、当の日本人であった。黒澤明をはじめ関係者も寝耳に水であり、日本中は大フィーバーとなる。
かように本作は、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞、古橋広之進選手の自由形長距離水泳の世界記録樹立と並び、敗戦後の劣等感に苛まれていた国民に勇気を与えるイコンとなった。
さらに、黒澤監督の後に続けとばかりに、数々の名匠たちがカンヌやベルリンといった国際映画祭で大躍進。TVの台頭で弱体化を迎えるまで、日本映画界は輝かしい黄金時代を迎えることとなる。

平安時代。戦乱と天災、疫病により荒廃した平安京を象徴するかのように朽ちた姿をさらす南西の正門、羅生門。激しい雨の日、雨宿りに一人の下人(上田吉二郎)がやってくる。するとそこには、杣売り(志村喬)と旅法師(千秋実)が放心状態で座り込んでいた。「さっぱりわからねぇ。こんな不思議な話は聞いたこともねぇ」と呟き、頭を抱えている二人。下人は退屈しのぎに二人の話を聞くことにする。
三日前、山科の藪の中で、杣売りが侍の金沢武弘(森雅之)の死体を発見。杣売りは、武弘と妻の真砂(京マチ子)が旅している姿を目撃した旅法師と共に検非違使に呼び出され、調べに協力する運びとなる。
やがて武弘を殺した下手人として盗賊の多襄丸(三船敏郎)が捕縛され、連行されてくる。その日、昼寝をしていた多襄丸は、たまたま前を通りかかった真砂に心を奪われ、言葉巧みに武弘を騙し、拘束。真砂を武弘の前で手籠めにし、その後、武弘と決闘し、殺害したという。
続いて、寺に逃げ込んだ真砂、巫女によって霊界から召喚された武弘が証言するのだが、三者三様、顛末がくい違い、何がウソで何がホントか真相が分からなくなってきて…。

本作は上記した日本映画初の海外快挙というインパクトにより霞みがちだが、実のところ、黒澤監督のフィルモグラフィの中ではかなり浮いた異質の存在となっている。
東宝の経営陣と従業員組合が激突した“東宝争議”の影響で、ホームグラウンドを一時的に離れていた黒澤監督は、『静かなる決闘』(49)に続き、大映で一本撮る運びになった。そこでネタを探していた黒澤監督の眼に止まったのが、無名の新人、橋本忍の記したシナリオ『雌雄』である。
当時、橋本忍はサラリーマンをしながら伊丹万作監督のもとでシナリオを修行し、伊丹監督の没後は、同じ弟子筋の佐伯清監督に自作を託していた。その佐伯監督は黒澤監督のシナリオでデビューした経緯もあり、橋本氏の数冊のシナリオが黒澤監督に渡り、タイミングよくピックアップされたという訳である。

『雌雄』の原作は、芥川龍之介の小説『藪の中』。当原作は芥川龍之介が12世紀に書かれた説話集『今昔物語』にあったシンプルな一節に着想を経て、アメリカの作家アンブローズ・ビアスの小説『月に照らされた道』の話法を加味。殺人事件が発生し、三人の関係者の陳述がとられるも、すべて自分に都合のいい話を語るという、人間のエゴをえぐった独創的な小説を書き上げた。真相が分からなくなる現象を“藪の中”という語源となった名文学である。
当原作を正確に脚色したシナリオは、後年、数々の名作をモノにする橋本忍の得意技である時系列操作が垣間見られる注目の内容といえよう。

話をもとに戻して、当シナリオに可能性を感じとった黒澤監督は、原作の3つの証言に第4のオリジナル証言を加え、なおかつ橋本忍の咄嗟のアイディアである、同じ芥川龍之介の代表作『羅生門』の要素を組み込むことに決定。最終的に黒澤監督が最終稿をまとめた。
ほぼ『藪の中』の映画化といえる本作に『羅生門』のタイトルを付けたことにより、若干、古典に疎い後世の人々に混乱を与える弊害も生まれたが、この黒澤監督の融合術は天才的といえよう。羅生門という象徴的インパクトもさることながら、ラストに小説『羅生門』のエピソードとテーマに収束させる鮮やかさは見事という他ない。(橋本忍は、納得がいかなかったそうだが…)
ただ、この改変ぶりは、深刻ぶりなタッチとルーティンな展開と共に、とってつけたヒューマニズムと批判対象になってきたのは事実。しかし、僕はこの希望あふれるラスト・シークエンスがあるからこそ、本作は名画たりうると思う。
人間はたとえ霊魂になったとしても、総じて自分勝手で、ともすると最後に杣売りが語る目撃証言もウソかもしれない。それでも彼の最後の行動に一縷の希望を見出す、絶望しない姿勢が大切なのだと、本作は訴えかけているのである。「人間は人間を信じないと生きてはいけない。だから、いくら甘いといわれようがあのラストでいい」といいきった黒澤監督の言葉が心に沁みる。

本作はかような人間の業に迫る深いテーマ性と斬新な語り口が感銘を与えたのも確かだが、それと同等の衝撃を世界に与えたのが、何を隠そう宮川一夫の撮影である。
当時、宮川氏は稲垣浩監督作で実績を残していた名手であり、黒澤監督とは初タッグ。氏は黒澤監督のチャレンジ精神に応え、コントラストの強い光と影の美しいモノクロ映像を生み出した。中でもカメラを太陽に向ける行為がタブーとされていた当時、黒澤監督の「太陽を入れて撮って欲しい」という要望に応え、鏡照明で木の葉の間を洩れる太陽光線を表現した伝説はあまりにも有名だ。
この撮影技術の高さに世界は文字通り、度肝を抜かれたのである。

こうしてみると本作は橋本忍と宮川一夫というフレッシュな才能が、巨神、黒澤明よりさらに前面に押しでた珍しいケースといえよう。異色作たる由縁である。

もちろん、作品をコントロールした黒澤監督の演出力の高さもいわずもがな。豪雨とカンカン照り、森の中のドロドロとした人間の喧騒と検非違使のお白洲の静寂、等々、緩急をつけた展開も計算され尽くしている。
羅生門の荘厳な美術も、圧倒的な迫力!
評判はいまいちだが、“ボレロ”形式で作曲された早坂文雄の音楽もまた登場人物の感情の起伏に則り、実に効果的である。(よって、ラヴェルの「ボレロ」に似ているという指摘は、正しくない)

悪名轟く盗賊、多襄丸を演じたのは、お馴染み三船敏郎。野獣のような感覚的な演技でスクリーン狭しと暴れ回っている。
対して、静の演技をみせる武弘役を演じたのは、森雅之。作家、有島武郎の息子であり、育ちの良さがにじみでる高貴で知的な落ち着きが役と合致!
キーとなる武弘の妻、真砂に扮したのは、京マチ子。純真さから狡猾さ、妖艶さ、ヒステリックと様々な女性の顔を演じ分け、凄まじい存在感を発揮している。
ただ黒澤演出の欠点として、からみがあるにも関わらず、あまりエロティシズムが感じられないのがもどかしいところ。本作限りの黒澤映画出演となったのが残念でならない。

本作で個人的に注目すべきは、そもそも黒澤監督は本作で、サイレント映画を再考し、『貝殻と僧侶』(27)や『ひとで』(28)といったフランス製実験映画のように純粋に映画技術を極めたアヴァンギャルドな表現を目指した点である。
ゆえに題材に古典を選び、換骨奪胎し、画期的な作品を生み出してしまったのだから、本懐を遂げたといえよう。
今ではこうしたリスキーな作品は、自主製作はともかく、なかなか造られづらい状況にある。反面、ネタになるコンテンツは、古典小説はもちろん、漫画、アニメと山のように蓄積されているのだから何をかいわんや。
ガラパゴス化の殻をやぶる第二の『羅生門』の誕生を期待したいところである。


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『コブラ』 (1986)

スタローンの最強スター・オーラがほとばしるカルト・アクション!

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我らがシルベスター・スタローンの絶頂の当たり年といえば、何といっても1985年をおいて他にはない。何を隠そう、当年の全米興行ランキングの2位と3位を『ランボー2 怒りの脱出』と『ロッキー4』という氏の主演作が独占したのだ。(ちなみに第1位は、『バック・トゥ・ザ・フィーチャー』)
ロッキーとランボーという“持ちキャラ”を二つ確立する映画史上稀にみる快挙を成し遂げたスタローン。当年は、その二大キャラの続編を大ヒットさせたのだから何をかいわんや。まさにスターを獲得したマリオよろしく、無双状態である。
そして勝負の年となる次の年、青天井の野心をもつスタローンは第3の持ちキャラを生み出すべく手をうった。そのキャラの名は、コブラ!
という訳で本作は、スタローン伝説の重要な1ピースを担う(ファン基準の)快作である。はたしてスタローンの目論見は成功したのか…!?
…とひっぱったところで、皆さん結果をご存じだと思うので記してしまうが、一言でいうと、失敗した。アメリカでは中ヒットに留まり、もちろん(?)ラジー賞では主要部門ノミネートを達成。日本ではそれなりにヒットはしたが、現在に至るまでおバカ映画の烙印を押され続けている。
他方、ノリにノッている男が放つアクション映画としての異様な迫力がみなぎっており、カルトな人気を誇っているのも事実。僕も子供の頃からTVで繰り返し鑑賞し、ハッスルした心の一作である。

ロサンゼルス。今、街は“ナイト・スラッシャー”と呼ばれるカルト集団による連続殺人事件が発生し、市民を恐怖のどん底にたたき落としていた。今日も集団の一人が客を人質にスーパーマーケットに立てこもる事件が発生。機動隊員が手をこまねく中、“コブラ”と異名をとるロス市警のはみ出し者、コブレッティ刑事(シルベスター・スタローン)が招聘される。単身乗り込み籠城犯を射殺し、あっさり事件を解決するコブラ。しかしそんなコブラの容赦のないやり方に、世間と警察上層部は批難の矛先を向けるのであった。
ある夜、“ナイト・スラッシャー”の犯行現場を偶然目撃したモデルのイングリット(ブリジット・ニールセン)は、一味に追われる羽目になり、危機一髪、警察に救われる。イングリットの警護をすることになったコブラは、彼女の証言から“ナイト・スラッシャー”の素性を割りだすも、敵は警察内部にも浸食しており、仲間すら当てにならない。やむなくコブラは彼女を市外に逃がそうとするのだが、敵の追手が迫ってきて…。

本作の原作は、ポーラ・ゴズリングの小説『逃げるアヒル』なのだが、全く別物にスタローンが改変し、原作者の怒りをかった。(後に原作は、ウィリアム・ボールドウィン、シンディ・クロフォード主演で『フェア・ゲーム』(95)として忠実に再映画化)
もともと本企画は、ライトな刑事モノ『ビバリーヒルズ・コップ』として始動したのだが、スタローンが書き上げてきたコメディ要素のないダークヒーローもののシナリオにスタジオが難色を示し、スタローンは離脱。独自に『コブラ』として製作する運びと相成った。
いうまでもなく『ビバリーヒルズ・コップ』はエディ・マーフィー主演で84年に映画化され、シリーズ化もされる大ヒットとなった。もしスタローンがワガママをいわずに当初の企画に残っていれば、コメディ路線へのシフトは案外早々と成功していたかもしれない。なんとなくこの時点でスタローンは道を誤った気がするが、そこは悔やんでも詮なきこと。

ボクサー、兵士と続く第3のキャラとして定番の“刑事”をピックアップしたのは、眼の付けどころとしては悪くはない。
そこでスタローンが試みたアプローチは、ズバリ、映画史に残る刑事キャラ『ダーティー・ハリー』(71)のハリー・キャラハンの継承であった。
現在の感覚からすれば、大それた真似を!と呆れ果てるが、当時のスタローンの王様空気の中では、あながち違和感はなかったのかもしれない。むしろ老いたイーストウッドの代わりを担わんと敬意を表す姿勢は、殊勝な心がけといえよう。(実際にイーストウッドの許可をとったのかは不明)
現にキャラとストーリーラインは『ダーティー・ハリー』そのまんまであり、作劇は限りなくシンプルに90分の省エネで仕上げる当時のスタローン・スタイルを当てはめた格好となっている。
また、当作の悪役スコルピオ役のアンドリュー・ロビンソンを官僚的な上司役で、ハリーの相棒役のレニー・サントーニをそのままコブラの相棒役(役名も同じゴンザレス)に起用。今となってはお笑い草だが、大胆なオマージュを施している。なんともはや、可愛げがあるではないか。

そして何といっても、ハイパー・バイオレンス・コップ、コブラのキャラ造形にかけるスタローンの気合たるや、圧巻の一言。
ハーフミラーのレイバンに口に咥えたマッチ棒、黒のニットシャツにジーンズ、皮手袋、ロングのウェスタン・コート、愛銃はコブラの紋章が刻まれたコルト・ガバメントというファッションからして、メーターは振り切れている。バリバリのコブラ仕様の改造車マーキュリーも超クール!
マリオン・コブレッティのマリオンはいうまでもなく、ジョン・ウェインの本名であり、西部劇ヒーローにも敬意を表しているのだから気が抜けない。(名前自体は、F1ワールド・チャンピオンのマリオ・アンドレッティから拝借)
何よりそれらを問答無用で成立させてしまうスタローンの醸しだすスター・オーラに犯罪者でなくとも屈服してしまう。こんなキャラ推しだけの作品は、早々お目にかかれまい。

他、イングリット・ヌードセンという本名をエロくもじったヒロインを演じた、ブリジット・ニールセンのゴージャス美女ぶりも忘れてはならない。役名もいい加減だが、存在も薄味である。
やや本編が彼女とのロマンスに不当に傾いてしまったのも、スタローンと撮影前に結婚した影響であろう。(ただし撮影後に即、離婚)
シュワちゃんやトニー・スコット監督といった剛腕たちを渡り歩いたツワモノである彼女は、やはり悪役の方がしっくりくる。

全編繰り広げられるアクションも、実際問題、今観るとたいしたことはない。
だが、とんでもなく残虐な戦闘をしている割に、血がほとんど出ず、意外にグロくないのが新鮮である。この辺り、現代アクションが原点にもどって見習う必要があろう。
また、『ジェイソン・ボーン』シリーズが切り開いた、細切れ手振れアクションに飽き飽きしている世代としては、こういう手造りアクションを眼にすると妙にホッとする。バックで走行しながらコブラが敵の車にマシンガンをぶっ放すシーンのかっちょいいこと!

確かに褒められた映画ではない。同年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演作が『ゴリラ』という便乗タイトルで公開される等、一歩リードしていたスタローンだが、すぐにデッドヒートはシュワちゃんに追い抜かれ、凋落していく運命となる。アクション・スターの座をあけ渡す、氷河期の扉を本作が開いたといっても過言ではあるまい。
意味不明の狂信的な敵から女を守り、襲い来る相手をぶっ殺す。悪ボス役(ブライアン・トンプソン)の印象は、やたら格好いいオリジナル・ナイフのみという体たらく。全編突っ込みどころ満載の、ただそれだけの映画なのだから、さもありなん。
とはいえ、上記したキャラの魅力と、頭を空にして楽しめる迷いのないスカッとする展開に妙な愛嬌があるのは事実。あまりの薄さに内容は覚えていないが、何となく定期的に観てしまう魔力を本作は秘めている。考えるのではなく、感じる映画といおうか。
二度と観る気の起こらない内容ペラペラ・アクションは、今もなお乱造されており、それらと比べると本作の偉大さが骨身に沁みよう。

人は本作をバカ映画と呼ぶが、愛すべきバカ映画を生み出すのは、名作と同じくらい困難なのだ。
スタローンよ、いまこそ本作の続編をつくってくれないかなぁ。


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『ベイマックス』 (2014)

日本情緒ただよう痛快アメコミ・ヒーロー・アニメ!

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純然たるディズニーのフルCGアニメながら、アメコミヒーローものであり、日本アニメのエッセンスも色濃く香る不思議なエンタメ作品であった。
『アナと雪の女王』(13)の歴史的ヒットも記憶に新しく、今なおそのブランド力を見せつけたディズニー・アニメ。さらに次に放つ本作の原作が、傘下に入ったマーベルコミックというのだから驚きである。マーベルといえば、実写のイメージが強いが、考えてみれば、アニメ化するのが順当であろう。
でも予告編を見ると、マーベル・ヒーローものというより『アイアン・ジャイアント』(99)系の感動ものであり、それでいて昨今、影響力を拡大している中国ではなく、ここにきて日本文化にオマージュを捧げた内容が垣間見えたりと、事前情報は若干カオス状態。一体全体どんな映画に仕上がっていたのか…!?

近未来都市サンフランソウキョウ。14歳のヒロは、飛び級ですでに高校を卒業しているロボット工学の天才少年。3歳の頃、両親を亡くし、現在は伯母キャスのもとで兄タダシと共に暮らし、学校へは行かずに違法ロボット・ファイトに興じる日々を過ごしていた。そんなヒロを見かねたタダシは、自身の通うサンフランソウキョウ工科大学にヒロを連れていき、研究室の仲間やロボット工学の第一人者キャラハン教授を紹介。感銘をうけたヒロは大学へ入学するべく、研究発表会への参加を決意する。そして苦心の末、マイクロボットの集合体を思うがままの構造物に変化させる発明を披露し、キャラハン教授を唸らせるのであった。しかしその直後、急に会場に火の手が上がり、逃げ遅れた教授と助けに入ったタダシが命を落としてしまう。
唐突に兄を失い、悲しみのどん底に落ちたヒロは、部屋に引きこもる無気力な日々を送っていた。すると、そんなヒロの前に、生前にタダシがつくった白い風船のようなケア・ロボット“ベイマックス”が現れて…。

主人公からして日系人(?)であるように、劇中には日本要素が溢れ返っている。舞台となる街もサンフランシスコと東京を合体させた、まさに和洋折衷。若干、中国っぽいところもあるが、有楽町や新橋、歌舞伎町を綿密にリサーチしたであろう光景や細かい小道具に至るまで、なんちゃって感のない日本描写は感心するほど本格的である。
なぜ今さら日本をピックアップ?と疑問に思うが、映画雑誌『スクリーン』(2015年2月号)の西森マリー氏のコラムによると、我々が思う以上にアメリカ人にとってロボット=日本というイメージは定着しているそうな。
というのも、“神が自らに似せて人間をつくった”とするキリスト教の教義上、人が人型のロボットをつくる行為は神への冒涜とする考えが当国に根付いており、期せずしてロボット工学の遅れを招いたのである。その隙に『鉄腕アトム』、『鉄人28号』等、我が国ではアニメや漫画を筆頭に人型ロボットの発想が拡散し、ロボット工学も発展。一躍、当分野の先進国となり、アメリカ人に“日本”=“ロボット”のイメージを植えつけたのである。要は政治的な意味合いはなく、『ロボコップ』(87)から、『リアル・スティール』(11)、『パシフィック・リム』(13)とロボットを題材にすれば、自動的に日本が浮かび上がってくるだけなのだ。(もちろんジョン・ラセターやドン・ホール&クリス・ウィリアムズ監督の日本愛もあろうが)

また本編の内容も、マーベルコミックのオリジナルを原型がとどめないほど改変。『ドラえもん』や『マジンガーZ』、果ては『スーパー戦隊シリーズ』といった日本文化の伝統を寄せ集め、ごっちゃにしたストーリーになっている。こうまでやられると、親近感もわくし、悪い気はしない。作品を応援したくなろうというもの。

ストーリーも例のごとくしっかり組まれた安心仕様。タダシの死の原因をつくった謎の怪人“カブキマン”の陰謀に、ベイマックスと共に立ち向かっていくヒロ。ケア・ロボットであるベイマックスを、そうした戦いの渦中に放り込むことで発する、“戦いは必要?”という疑問から、“復讐の愚”まで健全なメッセージがストレートに心に響く。
同じ痛みをもつカブキマンとヒロの対比からの、ヒロの人間的成長。逆転の発想の大切さ。そして家族や仲間の温かさ。怒涛の伏線回収劇の中、気恥ずかしいぐらいのテーマが見事な収束をみせる。

ロボットのギミックを駆使したアクションの痛快さはいわずもがな。カブキマンをはじめ、それぞれの能力は真新しくはないものの、期待に違わぬハラハラドキドキのアトラクションを楽しめよう。
もちろん、あざとく分かってはいても、最後はきっちりと泣かせてくれる。

そんな本作最大の見どころといえば、何をおいてもベイマックスのキャラ。こいつの愛らしいこと!プワふにゃのボディは、思わず抱きしめたくなるほどの質感を誇っており、鈴をモチーフにしたというシンプルな顔が雄弁に感情を物語る。悪しき心もそのボディと優しい言葉で抱擁され、吸収されるかのよう。見ているだけで幸福に包まれることうけあいである。一台欲しい!と本気で思う。

…と、娯楽作としては、最高ではあるのだが、個人的に感じた不満点を少々。
まず、兄タダシとの導入部が意外に長い。ここはセオリー通りに、ベイマックスとの共同生活からはじめ、過去を紐解いてもよかったのでは?二人の関係にもっと時間をさいてほしかった。
また、ベイマックスとヒロの『ドラえもん』的な要素と、チーム・ヒーローものというふたつの友情モノが合体した構造も如何なものか。現に宣伝では、アメリカではそれこそマーベル然としたヒーロー活劇として、日本ではヒロとベイマックスの感動モノとして売り出している。(原題も『Big Hero 6』)
かように「どう観たらいいのか?」という分裂傾向が災いし、ベイマックスの強烈なキャラに全てを持っていかれて、ヒロに協力し、ヒーローとして覚醒するタダシの仲間たちの存在が薄れてしまった。富豪の息子フレッド、明るくキュートなハニー・レモン、几帳面なワサビ、クールなゴー・ゴーと、各自キャラも立っているし、見せ場も用意されているだけに、もったいない限り。

しかしながら、『アナ雪』の姉妹は王子様を卒業して、「ありのまま」に人生を切り開く女性像を描いたが、対して本作の主人公は、周囲に甘えて導かれ、ヒーローへの理想を捨てない。この辺り、現代男女評になっているようでいて、ちょっと興味深い。

あと、エンドロール後にオマケ映像があるのだが、これが実にマニアック。映画ファンなら爆笑だろうが、普通のファミリー層は確実に置いていかれよう。この温度差もまた得難い体験である。(笑)


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『百円の恋』 (2014)

負け犬人生を吹き飛ばす“痛い”一撃!

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予定調和なスポ根ものとは違う異色の味わいながら、最後にしっかり感動が心に刻まれる得難い一本であった。
本作は、松田優作の出身地である山口県周南映画祭で、2012年に新設された脚本賞『松田優作賞』第一回グランプリの映画化。
こうした公募シナリオの映像化は昨今、WOWOWが力を入れており、老舗の城戸賞も受賞シナリオを小説化してから映画化する回りくどい戦法が功を奏しているのはご存じの通り。しかしこれらは珍しいケースで、公募シナリオが映画化されるのは万にひとつの確率である。もっと増えてもいいと個人的には思うのだが…。
という訳で無難な原作ものが氾濫する中、こうした活きのいいオリジナル作品の登場は喜ばしい限り。しかも今回は、爆発力のある安藤サクラが体当たりで役に挑んだというのだから、その化学反応を楽しみに劇場へ向かったのだが…!?

32歳の一子(安藤サクラ)は、弁当屋を営む実家を手伝うでもなく引きこもり、ダラダラと無為な日々を送っていた。ある日、出戻りの妹(早織)と大喧嘩をやらかした一子は勢いで家を飛び出し、安アパートで一人暮らしをはじめる羽目となる。常連の百円ショップの深夜バイトにありつき、なんとか食いつなぐ一子。そんな中、通り道のボクシングジムで汗を流す姿を見ていたボクサーの狩野(新井浩文)が一子の店にやってきて、なんとなく二人は恋におちるのだが…。

先にいってしまうが、本作最大の魅力は主演の安藤サクラに尽きよう。
序盤のニート状態の彼女の、匂いが漂ってきそうなブヨブヨの身体と魂の抜けぶりのリアリティたるや!ペラペラと多くを語らず、彼女の佇まいからやさぐれた感情と苛立ちが伝わってくるのだから何をかいわんや。その強烈な存在感に惹きこまれ、終始釘付けである。

そんな安藤サクラ演じる一子は、家を出て不器用に世を渡り、散々ひどい目にも遭い、時に恋にトキメいて幸せを手に入れるも、やっぱり上手くいかない。そのやり場のない鬱憤を、たまたま出会ったボクシングで発散していく。それは何か目標がある訳ではなく、自身の存在証明。心持ちは、『ロッキー』(76)のロッキーと同様だ。その心情がシンプルな物語からストレートに伝わってくる。

そしてボクシングに熱中するうちにどんどん身体がシェイプアップする見事さよ。デ・ニーロ・アプローチもかくやの役作りには、心底脱帽だ。同時に彼女自身、表情も精悍に輝いてくる。文字通り、ユウェナリスの言葉の誤用、“健全なる精神は健全なる身体に宿る”だ。
クライマックス。渾身の試合シーンは、ただただ必見。醜くも美しい人間の生命力をこれでもかと見せられ、圧倒されんばかり。ボクサーとしての未来がある訳ではない無残な消化試合がこれほどエモーショナルな激情を呼ぶのだから、映画マジックここに在り、というか、安藤サクラここに在り、である。

そんな彼女を支える脇役たちも総じてキャラが立っており、インパクト抜群。
うつ気味の百円ショップ店長役の宇野祥平、おしゃべりの中年店員役の坂田聡、チャラい店員役の吉村界人、ジムの会長役の重松収、廃棄商品をもらいにくる謎のオバチャン役の根岸季衣、優作ゆかりの伊藤洋三郎から通り過ぎりのホームレスまで、隅々まで抜かりなし。
狩野役の新井浩文の、とらえどころのないダメ男ぶりもまた最高だ。
本作の白眉は、これら全てのキャラが悪人でもないが良い人でもないという微妙なラインに徹底している点である。一人ぐらいイイ人がいそうなものだが、皆どこか壊れていたり、黒い闇を抱えている。これが安藤サクラの醸す生々しい世界観に合っており、彼女の役をより一層豊かにしているのだ。本作は、総合役者力の映画といえよう。

また、かような癖のある人間たちが織り成すオフビートな面白さに、熱いスポ根を融合させたのがユニーク。
しかもラストは、自称“百円の価値しかない女”一子の気持ちが変化。その成長に胸をつかれ、なおかつ温かい幸福感に包まれるのだから食えない作品である。

美術も凝りに凝っており、どこか昭和の香りが漂うルックは、松田優作賞にあやかって当時のエッセンスを加えたのであろう。現代でいてレトロな不思議な感じがするが、足掻く若者の本質は変わってはいないことにも気付かされる。

武正晴監督については、『イン・ザ・ヒーロー』(14)にて苦言を呈した分、観る前は懐疑的であったが、その実、素晴らしいお仕事をされていました。お見それしました。


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新年のご挨拶と2014年度TOP5!

あけましておめでとうございます
旧年中はひとかたならぬご厚誼にあずかりまして
厚くお礼申し上げます
 
小生の拙文にお付き合い頂き、ありがとうございました
これからも努力を怠らず
読んでくださる方々のお役に少しでもたてるよう
刻苦勉励がんばる所存でございます

新しい年が皆様にとって幸多き年でありますよう、心よりお祈り申し上げます


という訳で、僕が昨年(2014年)に劇場で観た映画TOP5を発表します
それではいってみよう!TOP5!!


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第1位 『バンクーバー朝日


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第2位 『紙の月


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第3位 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー


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第4位 『GODZILLA ゴジラ


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第5位 『渇き。


本年はどんな映画に出会えるのでしょうか?
変わらぬご愛顧とご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます

映画のような夢を!



『シン・シティ 復讐の女神』 (2014)

カルトな魅力がほとばしる、コミック・バイオレンス第2弾!

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相当チャレンジングな作劇を試みながら不思議と後味は軽い、独特のノリを味わえる期待通りの第2弾ではあるのだが…!?
7000ドルで撮ったインディーズ映画『エル・マリアッチ』(92)で衝撃デビューをはたしてこの方、独自の世界観を貫いている監督ロバート・ロドリゲス。メジャーに成り上がってもなお、監督、脚本、撮影、音楽、編集と映画製作の全てを支配下におくスタイルは変化ナシ。技術の進歩でグリーンバックを駆使し、さらにその傾向を極め、低予算でメジャー作品を生み出しているのだから見上げた人物である。
そして、それらのノウハウが結実したのが、フランク・ミラーのグラフィック・ノベルを当人と共同監督した『シン・シティ』(05)だ。本作は、9年ぶりの続編となる。長い年月を経て、カルトな人気を誇る当作がどう甦ったのか!?期待してスクリーンに向かったのだが…。

暴力と欲望が渦巻く無法都市シン・シティ。その中のストリップバー“ケイティ”には、巨漢の暴漢マーヴ(ミッキー・ローク)や、私立探偵のドワイト(ジョシュ・ブローリン)、町を牛耳る上院議員ロアーク(パワーズ・ブース)といった面々が日夜集い、血なまぐさい夜の一時を過ごしていた。
時にドワイトは、かつて自分を裏切った元恋人エヴァ(エヴァ・グリーン)に翻弄されて罠にはまり、ある夜の“ケイティ”には若いギャンブラー、ジョニー(ジョセフ・ゴードン=レヴィッド)が流れ着き、ロアークにポーカー勝負を挑む。そして“ケイティ”のNO.1ストリップダンサーのナンシー(ジェシカ・アルバ)は、自分を見守り、ロアークに殺された刑事ハーティガン(ブルース・ウィリス)の仇を討つべく、日夜、復讐の炎をたぎらせており…。

構成は前作と同じく、オムニバス形式。原作のエピソード2編と映画用に新たに書き下ろされた2編は、例のごとく時間軸もバラバラであり、前作の後日譚でもあり、前日譚でもある。本作だけ観ても問題はない内容になってはいるが、前作の知識がった方がより深く楽しめよう。

冒頭に記したように、シリーズの醍醐味は健在。グラフィック・ノベルをそのまま現実の役者で動かしたような映像のケレン味は、格段にパワーアップしている。ほぼモノクロのシャープな色彩の中、ハードなバイオレンスが繰り広げられ、吐き気を催すような下衆がうごめく犯罪絵巻が紡がれるも、それほど後には残らないのも漫画の特質を上手く再現しているがゆえであろう。
グリーンバックで完全構築した世界で、それらを違和感なくみせきる演出術は、スゴイとしかいいようがない。間違いなく本シリーズだからこそ味わえる妙味である。

豪華役者陣も異世界の住人を存在感たっぷりに大好演。9年ぶりの続編ということで、お亡くなりになっていたり、家庭の事情があったりと全員続投とはいかなかったが、多くは前作に引き続き元気な顔を見せている。
低迷から復活の兆しとなった当たり役、心優しき野獣マーヴを、再び特殊メイクで豪快に演じたミッキー・ローク。相変わらずキュートではあるが、ストリップダンサー役なのに脱ぎ惜しみして迫力を逸しているナンシー役のジェシカ・アルバ。顔見せ程度ながらいいトコをさらうナンシーの守護天使ハーティガン役のブルース・ウィリス。悪徳政治家ロアーク役のパワーズ・ブース。娼婦街の女王ゲイル役のロザリオ・ドーソン。等々、そんな前作組が幅を利かす中、新加入組では魔性の女エヴァに扮したエヴァ・グリーンが群を抜いて妖艶なインパクトを刻んでいる。全編ほぼ裸で、眼はスクリーンに釘付けだ。
ドワイト役のジョシュ・ブローリンをはじめ、マヌート役のデニス・ヘイスバート、殺人兵器ミホ役のジェイミー・チャンと配役チェンジ組も違和感ナシ。
他、クリストファー・ロイドや歌姫レディー・ガガまで顔出しする贅沢ぶりだ。
いうまでもなく、トンデモ世界に説得力をもたせるのに、これらノリノリの役者陣の力も甚大である。

…と、映像と役者に関しては申し分ないのだが、如何せんストーリーに難がある。今回は“復讐”をキーワードに各ドラマが語られる訳であるが、すべからくワンパターンで、痛めつけられて車から放り出され、喧嘩沙汰に首を突っ込むマーヴを伴って敵地に殴り込む、というパターンの繰り返しである。あまりに芸がない。これを様式美といわれれば、そうかもしれないが、この中身のなさは如何なものか。

あと好みの問題ではあるが、前作を含めて本シリーズにいまいちノレないのは、モノローグを多用する語り口である。おそらくグラフィック・ノベルを意識してなのだろうが、どうしても客観的になり、作中に気持ちが入っていけないのだ。
やはり映画は、画で勝負して欲しいもの。モノローグをバッサリきって、画だけで押す形になっていれば、好きなジャンルであるだけに前作共々フェイバリットになっていたかもしれない。

そんな中、キラリと光ったのが、ジョセフ・ゴードン=レヴィッド扮するギャンブラーのジョニーを主役にしたエピソード。このハードボイルドさに、グッと心をつかまれた。特にラストの男の面子をかけた格好良さよ。このパートだけで一本の映画にしてもよかったように思う。
ジョセフ・ゴードン=レヴィッドにハズレなし、だ。


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『メビウス』 (2013)

観る者を揺さぶる驚愕のギドク劇場!

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これぞギドク映画としかいいようのない複雑怪奇な珍品であった。
本作は、奇才の名を欲しいままにする韓国の巨匠、キム・ギドク監督が送る問題作。『嘆きのピエタ』(12)にてヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞してもなお、その地位に甘んじることなく、さらなる領域に踏み込まんとするギドク監督。本作は、セリフが一切ない上に、過激な描写をめぐって韓国の映倫と一触即発になったという事前情報から、とんでもなくヤバイ雰囲気がプンプン匂ってくる。さらに『春夏秋冬そして春』(03)とタイトルの意味合いがたぶり、いつもの宗教的テーマも窺えるのだから何をかいわんや。
はたして、今回はどんなショッキング・ワールドを披露してくれるのか?おっかなびっくり劇場へ向かったのだが…。

父(チョ・ジェヒョン)、母(イ・ウヌ)、息子(ソ・ヨンジュ)の3人で構成される韓国のとある上流家庭。しかし、近所の雑貨店の女(イ・ウヌ 二役)と浮気をする父のおかげで家庭内は冷えきっていた。ある夜、嫉妬に狂った母が父の性器を切り取ろうと寝室に忍び込むも、間一髪、気付いた父はそれを阻止。部屋を追い出された母は、あろうことか今度は寝入った息子の性器を切断し、行方をくらますのであった。途方にくれる残された父と息子。やがて息子は同級生のいじめを受け、父は罪悪感から自らの性器を手術で切除するのだが…。

本作は、“セリフなし”ではあるもののサイレント映画という訳ではなく、いうなれば、人物がしゃべっているところ以外でつないだドラマといおうか。要は言葉以外の環境音はちゃんとある、妙な世界観である。
しかも、そこで繰り広げられるのは、ギドク印のおよそ理解が追いつかない奇妙な登場人物が織り成す奇妙な行動の博覧会。夫の不貞に錯乱した妻が夫の性器を切ろうとする行動までは分かるが、失敗して息子に矛先を向け、あまつさえ性器を食してしまうのだから突飛極まりない。色々と解釈は出来ようが、とりあえず意味不明の濃霧に包まれよう。
そうしたトンデモ要素が揃った寓話を、臨場感たっぷりに生々しく、グイグイみせてしまうのだから、このギドクの才能を誰しも否定はできまい。

人類を形づくる根源的な要素、生命誕生のもととなるのが男女間の性欲である。本作は、性器を失った父子を通して、ダイレクトに性欲をテーマに物語を紡いでいく。
本来、宦官よろしく性器をなくした男性は、権力一筋になるのが定説。そこをギドクは、欲望には限りがなく、性器がなくても人は新たな性的刺激を模索すると定義。その秘技を父と子は真面目に研究し、悪戦苦闘して探し当てる。(愛人と彼女を犯したチンピラの歪んだ関係もまた然り)
ギドク曰く、本作は“笑い”、“泣く”、“叫ぶ”だけの表現を試みたという。この辺りは紛れもなく“笑い”のパートであり、まんまコメディである。

終盤は、出戻った母を迎えて、“男性器の旅”ともいえるとんでもない展開を辿る。“エディプスコンプレックス”を暗喩した壮絶な様相には、ただただ呆然。
そしてラストには、仏教的な輪廻に帰結して、なぜか崇高な気持ちにおそわれる。
こんな無茶苦茶な映画は、キム・ギドクにしか造れまい。

ちなみに女優さんに一人二役を演じさせたこともテーマに合致し、至極印象的であるのだが、これは「単に他の女優さんが降板した偶然の賜物」と笑い飛ばすのだから、ギドク恐るべし、である。

ただ、映倫とやりあって編集を重ね、表現自体がソフトになっているのが、ちょっと物足りない。もっと突き抜けてもいいと思う。
でもこの商業性に理解を示すギドクの姿勢(お金に困っているだけかもしれないが…)は、彼が気難しい悲観的なアート作家ではないことの証しであろう。ドギツイ描写はあれ、全編に漂う滑稽さは、人間讃歌でもある。所詮、人間自体が下ネタなのだ。
この辺りを笑って受け入れるのが、ギドク作品を楽しむコツであろう。特に本作はシリアスにとると、バカバカしくなってくるに違いない。


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『神は死んだのか』 (2014)

信仰心を考える直球プロパガンダ映画!

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わりきって布教エンターテインメントと捉えれば、(突っ込みどころ含めて)それなりに楽しめる一作であった。
本作は、“神の存在を証明できるのか?”をテーマに、全米の大学で実際にあったいくつもの訴訟事件をベースにつくられた論争映画。全米で少ない館数で封切られるも、記録的ヒットを飛ばした話題作だ。こうした渋い宗教系映画は日本では馴染みがない分、公開は難しいところだが、大作の聖書モノが相次いで封切られる勢いに乗ってか、めでたく公開と相成った。
普通なら完全スルーするところだが、内容が面白そうだったので観に出かけてみたのだが…。

弁護士を目指し、晴れて大学の法学部に入学したジョシュ(シェーン・ハーパー)は、ラディソン教授(ケヴィン・ソーボ)が担当する哲学のクラスを受講する。するとラディソンは筋金入りの無神論者であり、あろうことか生徒全員に「GOD IS DEAD」と書いた宣誓書の提出を義務付けるのであった。単位を落としたくない生徒たちは次々にサインに応じるも、敬虔なクリスチャンであるジョシュはこれを拒否。そんなジョシュにラディソンは「ならば神の存在を証明したまえ!」と迫り、授業終わりに3回スピーチの時間を与えると条件を提示する。単位がとれなければ将来に響くが、それでも信仰心は曲げられない。葛藤しつつもジョシュはラディソンを論破すべく、猛勉強に励むのだが…。

事前に情報番組から得ていた感触としては、クリスチャンの大学生と無神論者の教授との宗教論争よろしく知的なディベートが全編繰り広げかれるものとばかり想像していた。こうした神秘の現象や行為を理詰めで読解、解釈していくものは好物なので、大いに期待していたのだが…。実際、ジョシュとラディソンの議論シーンはほんのわずかで、内容もそれほど深くはない。というか、丁々発止の白熱した口論などほとんどないのだから、ガックリ。この辺りは、完全な拍子抜けであった。

いわば、本作は信仰にまつわる群像劇といった按配である。
ガンを宣告された働き盛りの女性記者。信仰に目覚める中国人学生。同じく親に隠れてキリスト教に傾倒するイスラム教徒の女性。そして、ジョシュとラディソンのそれぞれの恋人との擦れ違いと破局、といった劇中人物の多種多様な信仰ストーリーが並行して紡がれていく。
しかし、これらの造りがあざと過ぎて、ひとつの結果に向かっているのがバレバレ。結果が分かっている物語をみせられるほど、ツライものはない。神父の二人(デヴィッド・A・R・ホワイトとベンジェミン・オチェン)のレンタカーにまつわるドラバタ・エピソードだけは、ユーモラスかつ深い含蓄があり、秀逸であったが…。

ニーチェやカミュ、フロイト、チョムスキーらは皆、無神論者だと意気揚々と告げるラディソンが、そう至った過去もまた安直である。「徹底的な無神論者は、元信者だ!」という言い分に、少し唸ったぐらいだ。
ニーチェの「神は死んだ」宣言から幾星霜。信仰心をもたない人間も、窮余の際には本能的に神頼みをしてしまうのは確か。存在しないものに対して、どうして祈るのか?と問われれば、誰も的確に言い返せまい。その心理を理詰めで分析するぐらいの狡猾さをラディソンには見せて欲しかった。

ジョシュの講義に対する判決シーンも『いまを生きる』(89)風の感動を狙ったのだろうが、不気味でしらけるばかり。当作のラスト・シーンでは、全員が“同意”していない事実を造り手は考えるべきであろう。
そして、さらに凄まじいのが、クリスチャンのロック・バンドのコンサートを背景にそれぞれのキャラの顛末が描かれるクライマックス。ラディソンが迎えるオチには、「ここまでやるか!?」とのけぞった。いくらなんでも、やりすぎではないだろうか? この時点で、トンデモ映画確定であり、そう肩肘張らず大らかに観れば案外楽しめよう。

信仰心の是非については、もうあらためて記すべきものはないような気がする。劇中のジョシュの成長する姿から、信仰はすがるものではなく、糧に成長するものだというメッセージはよく伝わってくる。また各挿話から、キリスト教徒が信仰をどう捉えているかという観点もよく分かる。僕自身、信仰心ないしはキリスト教を否定する気など一切ない。
でもむしろ本作の構造からすれば、クリスチャンと無神論者、その他の宗教の人々がどう共存するかの道を探るべきであると思う。その方が今の時代、意義があろう。


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『ビッグ・アイズ』 (2014)

大きな瞳が訴えかけるアート界の業!

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芸術と商売について考えさせられる、含蓄のある一作であった。
大きな瞳をした子供たちの画を描き、60年代のポップアート界を席巻した“ビッグ・アイズ”シリーズ。本作は、その作者であるマーガレットと夫のウォルターが巻き起こした有名事件を扱った伝記映画。監督は、長年ヒットメーカーであり続ける個性派、ティム・バートンだ。
こうしたゴースト問題は最近、我が国を賑わした某事件よろしく世の常である。そこにはやむを得ない事情がある訳だが、この辺りを奇才バートンがどうえぐったのか?名作『エド・ウッド』(94)と同じ脚本家コンビとのタッグなだけに、興味津々スクリーンに臨んだのだが…。

1958年。夫のもとを飛び出し、幼い娘と共にサンフランシスコに流れついたマーガレット(エイキー・アダムス)は、家具工場で働きながら、休日はアーティストが集まる公園で似顔絵を描き、日銭を稼いでいた。ある日、公園でパリに留学経験があるという風景画専門の不動産屋ウォルター・キーン(クリストフ・ヴァルツ)と出会い、恋に落ち、結婚。お互い画家を目指す二人は、こつこつと作品を画廊に売り込むも、一向に相手にされない日々を送っていた。そんな折り、ウォルターの交渉でなんとかナイトクラブで二人の画を展示するも、小バカにするオーナーとウォルターは大喧嘩。しかしその騒動が記事になり、紙面にうつったマーガレットの大きな瞳の少女の画が、まさかの評判となる。そして調子にのったウォルターは、ついはずみでマーガレットの画を自分の画と偽って売ってしまい、話題になるにつけ、引っ込みがつかなくなってしまい…。

恥ずかしながら、日本の漫画やアニメのデフォルメに近い、マーガレット女史の瞳の大きい子供画ブームも、夫妻をめぐるゴースト事件についても全くの無知であった。センセーションな騒動ながら、なんともはや普遍的な命題を孕んだ、身につまされる事件である。

出だしから、まだまだシングルマザーが生き辛かった偏見社会で、当時のマーガレットのおかれた厳しい立場を丁寧に描写。ウォルターと出会い、恋愛の延長ではあれ、男の経済力に依存しなければならない彼女の境遇がよく伝わってくる。この辺り、はじめから胡散臭いウィルターのさり気ない伏線描写等、手際のいい進行に唸りに唸る。
そして、ひょんなことからマーガレットの画がウォルター名義で人気が出てしまい、幸か不幸か、そこで彼の社交的な才能が大活躍。陽気な人心掌握力とプレゼン力、企画力が開花し、成功の階段を一気に駆け上がっていく。
画の背景をお涙頂戴にでっちあげたウォルターに、まんまと乗せられるマスコミと市民への皮肉がピリリと効いている。

かようなマーガレットとウォルターは、足りないところを補う理想の関係に見えるが、さにあらず。自然、部屋に閉じ込められて作品製造機となり、我が子同様の作品たちの母となる名誉を得られないマーガレットの不満と不信感は募り、やがて爆発する羽目に…。
結果、マーガレットの暴露は、前代未聞のスキャンダルに発展する。

この構造は、アート界に常につきまとう宿命といえよう。
だいたいにおいて、絵画や演劇、音楽、映画、等々、芸事に進む人間は、社会に適応できないタイプが大半である。しかし、一握りの天才以外は、それで生計をたてようとすると、自ら商売に転化する必要がある。時には自分の作品を積極的に売り込んだり、コミュニケーションをとって人脈をつくったりする営業力が問われていく。要するに、芸術家にも社会人同様、もしくはそれ以上の社会性スキルが求められる訳である。多くのドリーマーたちがこの矛盾にぶち当たり、苦悩する羽目となる。
本作のマーガレットもウォルターがいなければ、芽が出ていないのは確実。いわば、お膳立てされたおいしいところを最後にもっていったともいえる。(そういう意味では、往生際の悪いウォルターにも同情の余地はあろう)
さながら、泥仕合になるマーガレットとウォルターの顛末を見つめるビッグ・アイズの哀し気な瞳が、あわれを誘う。俗な煩わしさをよそに、作品の芸術性自体は変わらないのだ。

マーガレットを演じる、エイミー・アダムスは相も変わらず超キュート。若い母親からおばさん化するまで、きちんと演じてしまうのだからスゴイ。
ウォルター役のクリストフ・ヴァルツも、嫌味なほど上手い。こうした腹にイチモツある男は、もうお手のもの。ポストカードの販売等、商業的な成功を“芸術にあらず”と批判した批評家(テレンス・スタンプ)に頭にきてくってかかるシーンのトホホ感たるや!詐称している彼が真剣になればなるほど、アンビバレンスな可笑しさがこみあげる名シーンである。

ただ本作、ティム・バートンのさすがの演出力で一気にみせはするが、いまいち淡白な後味は否めない。上記した命題に考えさせられはするが、感動としては迫ってこないのだ。理由は、マーガレット女史のファンであるバートンが彼女に傾倒しているがゆえであろう。
本作は、ダメ人間のウォルターの方に感情移入し、肩入れする人が撮るべきであった。潔白なマーガレットは、キャラとしてはあまり面白くはない。
マーガレットに比重を傾けるのならば、少なくとも女性問題に一家言ある監督が撮るべきである。女性を描くのが得意ではないバートンでは、いかにも上っ面を撫でているようで彼女の葛藤が薄いのだ。
ティム・バートン、今回はちょっと扱う題材を間違えたのではなかろうか?


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『96時間/レクイエム』 (2014)

子煩悩オヤジ、三たびの大暴走!

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愛すべき還暦ヒーロー、ブライアン・ミルズの活躍を、期待通り堪能できる一作ではあるのだが…。
本作は、演技派俳優リーアム・ニーソンを一躍アクション・スターへと覚醒させた記念碑『96時間』シリーズ第3弾。監督は前作に引き続き、オリビエ・メガトンが担当。製作、共同脚本は、もちろんこの人リュック・ベッソンだ。
一作目のサスペンスのキーとなる“96時間”のリミットを邦題にしてしまったため、続編でも意味不明に引きずる羽目となった本シリーズ。この珍事態が本シリーズの愛嬌を象徴していよう。はてさて、最終章と銘打つ今回は、どんな趣向で楽しませてくれたのか…!?

イスタンブールでの騒動の後、ロサンゼルスに戻った元CIA秘密工作員のブライアン(リーアム・ニーソン)は、娘キム(マギー・グレイス)との仲も良好。別れた妻レノーア(ファムケ・ヤンセン)からは現夫スチュアート(ダグレイ・スコット)とうまくいっていない旨を相談され、再び家族3人が集う幸せな未来に胸を躍らせていた。ところが、そんな夢は、突如崩壊してしまう。ブライアンの家で、レノーアの死体が発見されたのだ。しかも殺人の容疑者として指名手配されたブライアンは警察を振りきり、真相を追うべく独自調査を開始する。一方、市警の敏腕警部ドッツラー(フォレスト・ウィテカー)が事件の担当に当たり、ブライアンを追いつめていき…。

一作目では、パリに旅行中、アルバニア系犯罪組織にさらわれた娘キムを救出すべく、単身パリのアンダーグラウンドに乗り込んで大暴れ。二作目ではイスタンブールに家族水入らずの旅行中、前作で息子を殺された組織のボスの報復を受け、今度はブライアンが誘拐されるも壮絶な逆襲にうって出た。
それらのストーリーは、単なる巻き込まれ型ではなく、一作目は娘の軽率な行動であったり、二作目は復讐の連鎖であったりと自業自得の面もあり、プロットの冴えがキラリと光る。今回もその点は継承。ネタバレとなるので詳細は記さないが、よく練られてはいる。
本作は、妻を殺されて濡れ衣を着せられ、逃亡しながら犯人と黒幕を追跡する、まんま『逃亡者』スタイル。欧州から本拠地ロサンゼルスへ、追う者から追われる者へと毎回、路線を変えてくる創意工夫は讃えたい。

しかし、面白かったかと問われれば、残念ながらさにあらず。これが驚くほど盛り上がらなかった。
まず、敵は誰なのか?目的は何なのか?ブライアンが事件の謎を追っていくプロセスに、ハラハラドキドキがない。如何せん彼が万能過ぎて危機が危機に見えず、一本調子なのだ。
追う側の警部ドッツラー役に、フォレスト・ウィテカーを配したキャスティングは、若干タイプキャストながら許容できよう。でもこの人物、執拗さもないし、迫力もないしで、ちっともキャラが立っていないのだから何をかいわんや。『逃亡者』の劇場版(93)でジェラード警部を演じたトミー・リー・ジョーンズの存在感とは比べるべくもない。

さらに輪をかけて、悪役連中も頼りない。もっとブライアンに匹敵する強いライバルを出してもよかったのではなかろうか?個人的にはドッツラーを悪党にして、対決させるぐらいやってほしかった。
敵側が弱いのは毎度のことなので、わざとブライアンの無双押しに徹しているのかもしれないが…。

また、シリーズ最大の醍醐味といってもいいブライアンのあっと驚くCIA仕込みの様々なスキルの披露がほとんどないのもいただけない。
アクション自体は、ぶっ飛んだカーチェイス等、観るべきものはあるが、総じてソフト化。家族のためなら問答無用の殺戮マシーンと化す狂気の父性愛も削がれてしまっている。
でもまあ、これらの薄味がヨーロッパ・コープの味であるとはいえる。が、当社のライトさが気に入らなくとも本シリーズだけは支持してきたファンにとっては、軍門に下ったようで裏切られた感が半端あるまい。

そんな中でも、ブライアンを演じるリーアム・ニーソンの渋い魅力は相変わらず。アクション・ヒーロー姿もすっかり板についている。そういう意味では、もっとコミカルな味付けがあってもよかったように思うのだが…。

しかしながら、本シリーズ。宣伝文句の通り、本作をもって完結してしまうのだろうか?
今回は残念作であったが、毎回スタイルを変え、『トラック野郎』や『寅さん』のように恒久的にシリーズ化してもいいのでは?
思い起こせば、2作目も正月明けの興行であった。できれば、正月の恒例行事にして、世界各地でトラブルに対処するブライアン(とその家族)の姿をみせて欲しいところではある。


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