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Channel: 相木悟の映画評
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『きっと、星のせいじゃない。』 (2014)

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さわやかに胸に沈殿する、純愛ストーリー!



瑞々しい若手俳優の好演、人生訓を提示する物語性と、硬軟が融合したまばゆい青春映画であった。
本作は、ジョン・グリーンが友人をモデルに書き上げたベストセラー小説の映画化。全米で公開されるやサプライズ・ヒットをかっ飛ばし、シャイリーン・ウッドリーを一躍スターダムに押し上げた注目作だ。こうした内容を評価されて興行を昇り上がった作品は信用できる上、脚色が『(500)日のサマー』(09)のコンビだというのだから、クオリティは保証済み。
いわゆる“難病モノ”というジャンルは根強い人気を保つも、最近は単なるお涙頂戴ではない洗練された作品も出てきている。そこに本作はどんな一石を投じたのか?興味津々で劇場へ向かったのだが…。

アメリカ、インディアナポリスに住む17歳の女の子ヘイゼル(シャイリーン・ウッドリー)は、末期のガン患者。なんとか薬で小康状態を保っているものの、酸素ボンベが手放せず、学校も不登校、当然友人もなく、家に引きこもる日々を送っている。見かねた母親(ローラ・ダーン)の薦めにより、ヘイゼルはしぶしぶガン患者の集会に参加。そこで片足を切断し、骨肉腫を克服した青年ガス(アンセル・エルゴート)と出会う。気が合った二人はすぐに仲良くなるも、ヘイゼルは長くは生きられない身を自覚し、一定の距離をおくのであった。
そんな折り、ガスがヘイゼルの愛読書の作家ホーテン(ウィレム・デフォー)とメールでコンタクトに成功。尻切れトンボの小説の結末を直に聞くべく、ホーテンが住むアムステルダムへ旅行することになるのだが…。

難病を患ったティーンエイジャー同士の恋愛モノと聞くと、つい身構えてしまうが、心配ご無用。確かに彼らは自分たちの境遇を悲観するし、サポートする両親の悲しみも描かれ、愁嘆場もたっぷり用意されている等、当該ジャンルの要点は押さえられている。しかし、暗い湿っぽさとは無縁で、先入観と実際の感触は随分違う。一重に脚本家の腕がいいのだろう。

明るい2人のユーモアある会話と、節々に提示される人生訓には大いに考えさせられる。火をつけない煙草、アンネ・フランクとのリンク等、劇中にはガスが好む“メタファー”が満載だ。
そして、理解ある善意の人々に囲まれ、ぬるくなりかけたところを、理想を壊す小説家ホーテンの登場でシリアスに引き締める。ウィレム・デフォーが怪演するホーテンの存在からは、様々なメッセージが読み取れよう。個人的には小説家という職業について、ふと思う。小説は誰のために書かれるのか。自己満足もあろうが、読者がいてこそ成り立つ職業である。小説を介した作者と読者それぞれの関係が成り立ち、時に解釈に齟齬をきたす状況は相互理解の難しさを謳っているように感じる。
その他者との交わりのひとつである恋愛の美しさや難解さといった彩りをとらえたのが、本作の形なのであろう。

よって、ヘイゼルとガスから、もともと限りある人生をたとえ小さな世界の中でも充実させ、幸せをつかむ心向きの大切さを教わった。「かわいそう」などという同情は誘わない。
しかも、かような高尚な感慨をうけながら説教臭くなく、むしろ肌触りは陽気で真っ当な青春映画となっているのだから奇跡である。

文字通り、立て役者は何といっても主役二人を演じたシャイリーン・ウッドリーとアンセル・エルゴートのフレッシュな存在感に他あるまい。彼らの光り輝く生命力が、湿っぽくなるところを清々しく爽快な風を吹き込んでいる。それでいて他者への気遣い、迫りくる死に対する恐怖という繊細な感情も炙り出すのだから、お見事!

オランダ・パートのロマンチックな旅情気分に反し、終盤は繰り返しが多く、蛇足のようにモタついてしまうのが残念ではある。
ただ、僕も『テラスハウス』は大好きであるが、このような良質な誠実作がもっと注目されてもよかろう。若者間でヒットして欲しいものである。


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『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』 (2014)

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人生再スタートを謳う満腹ロード・ムービー!



仕事とは?家族とは?人生における大切な命題を、明るく楽しく描いた良作であった。
本作は、『アイアンマン』2作を大ヒットさせたジョン・ファブロー監督作。なんと数億円のギャラが保証された当シリーズ第3弾の監督を断って手掛けたインディーズ映画だ。脚本、出演した『スウィンガーズ』(96)に原点回帰した按配であり、大リーグのオファーを蹴って広島カープに入団した黒田博樹投手のごとく、もうその男気だけで映画ファンとしては敬礼である。
そして気になる題材が、ロスのフードトラック・ブームの火付け役となったロイ・チョイ氏をアドバイザーに迎えた料理モノだというのだから、興味はふくらむばかり。はたしてどんな作品になっていたのか、お腹をすかせて劇場へ向かったのだが…!?

ロサンゼルスの一流レストランの看板シェフ、カール・キャスパー(ジョン・ファブロー)は、店に人気フード・ブロガー(オリバー・プラット)が来ると聞いて大ハリキリ。創造性のある特別メニューを提供しようとするも、オーナー(ダスティン・ホフマン)から反対され、仕方なく定番メニューを出すことに。案の定、料理は酷評。頭にきたカールが、よく仕組みの分かっていないツイッターで評論家に反撃したのが運のつき。SNS界で大騒動になり、オーナーとも揉めたカールは店を辞めてしまう。
思いがけず失業してしまったカールは、元妻(ソフィア・ベルガラ)の薦めでマイアミを訪ね、現地で食べたキューバサンドイッチに感動。当メニューを扱う移動販売を思いつく。さっそくカールは、息子のパーシー(エムジェイ・アンソニー)とシェフ仲間のマーティン(ジョン・レグイザモ)と共にフードトラックでマイアミからロスへ商売の旅に出発し…。

多くの批評で触れられている通り、カールはジョン・ファブローのまんま投影である。
勤めるレストランのオーナーにあれこれ口出しされ、自分の思うように料理をつくれない。しかも言う通りつくったら、批評家にボロクソ書かれ、当人に悪態をつく動画がSNSで拡散して世界的に大恥をかく始末。プロとしてのプライドも信用もズタスタに…。
嫌気がさして仕事を辞め、心機一転、規模も極小化し予算は限られるも、自分のつくりたいものをつくるフードトラックの道を見出すカール。見下していたジャンクフードをアイディアを駆使して極上の味に仕上げ、食べてもらった人々を喜ばせる基本精神に立ち戻る。
そして、今まで仕事人間で息子パーシーに表面的にしか接していなかったカールが、自らの技術を伝えるという形で、はじめて心の底から触れ合っていく。
これらは、まんま本作に至るファブローの映画人生に当てはまろう。(あえて対象となる作品タイトルは記さないが…)
もちろん、放たれるメッセージは映画業界だけでなく、どこの世界にも当てはまる。

本作はそうしたテーマを軽妙なコメディ・タッチのロード・ムービーとして、人生哲学あり、家族愛あり、下ネタあり、ヨダレ流れる美食紹介あり、ご機嫌なラテン音楽あり、と盛りだくさんのエンターテインメントとして紡いでいく。皆、思わず笑顔になる肩肘の張らない、まさに満腹映画である。

また、もうひとつの提言として、様々な価値観の融合が挙げられよう。一流シェフとファストフードの組み合わせから、フードトラックでアメリカ横断をし、キューバ移民がアメリカに広めたサンドイッチに各地域の庶民料理とコラボしていくプロセスもさることながら、痛い眼にあったSNSを現代病と眼の仇にすることなく宣伝に有効活用、アナログと最新技術がきちんと手をとり合う道を示す。果ては遺恨を残した批評家との関わり合い、要するに作品と評論の相互作用もフォロー。映画人としての媚というより、ここは誠実さととろうではないか。
総じて前向きに転じる点が、実に清々しい。

役者陣もファブローの人徳なのだろう、ダスティン・ホフマンからスカーレット・ヨハンソンの贅沢な起用、ロバート・ダウニー・Jr.の特別出演等、超豪華だ。

テンポよく終盤までなだれこみ、すわ傑作かと予感していたのだが、ラストに少々難がある。最後にもう一捻り、山場、起伏があった方がよかったのではないか。個人的には、てっきり批評家との決戦で盛り上げると思っていたのだが…。なんとなくハッピーなまま、尻すぼみにフェイドアウトしてしまった感じである。
う~ん、ここはきちんとエンターテインメントの構成をとってほしかった。

それにしてもジョン・ファブロー、本作のような作品を放った後は何を撮るのだろう。動向に注目したい。


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『失はれた地平線』 (1937)

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堪能すべし、キャプラ流ユートピア論!



“理想郷”といえば、僕的にはすぐさまゴダイゴの『ガンダーラ』が脳内で自動再生されるが、言葉の意味を追及すれば奥深い人類の命題が浮かび上がって来よう。
そもそも理想郷とはどういった場所を指すのか?衣食住の快適な保証。不老不死。競争もいがみ合いもなく心穏やかな生活。等々…。それらが実現された世界が、はたして幸せといえるのか?個人個人の幸福基準を満たす、皆の願いが叶う理想郷などあるのか?
これまで件のテーマに挑んだ数々の理想郷モノがつくられてきたが、“シャングリ・ラ(=理想郷)”という言葉を世に浸透させたパイオニアが、ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』である。本小説は冒険家ジョージ・リー・マロイにインスパイされたヒルトンが6週間で書き上げ、1933年に発表されベストセラーとなった。
という訳で本作は、その映画化となるフランク・キャプラ監督の野心作だ。小説を読み即座に映画化権を競り落としたキャプラは、氏にしてはめずらしく空前の大予算を浪費し、全精力を傾けて製作。コロンビア社の製作者ハリー・コーンとの不仲や編集作業のすったもんだもありながら完成した作品はそれなりにヒットし、アカデミー賞ノミネートを果たす高評価を獲得したが、莫大な製作費は回収できずに終わった。
また、『オペラハット』(36)とアカデミー賞作品『我が家の楽園』(38)に挟まれ、当時全盛であった王道キャプラ作品とは毛並みが違う本作は、原作の知名度からすると若干、存在感が薄い一作となっている。文字通り、「過小評価ココに極まり!」といえよう。

1955年、中国奥地の小都バスクルにて騒乱が発生。イギリス人外交官のコンウェイ(ロナルド・コールマン)は弟ジョージ(ジョン・ハワード)、古生物学者ラヴェット(エドワード・エヴェレット・オートン)、元企業家のバーナード(トーマス・ミッチェル)、肺病を患うグローリア(イザベル・ジュエル)と共に飛行機に乗り込み、上海へと脱出を試みる。ところが翌朝、飛行機が別の方向に飛んでいることが判明。いつの間にか操縦士が謎の東洋人に入れ替わっていたのだ。空の上、運命に身をまかせるしか術はない一行であったが、やがて機体はチベットの奥地の雪山に不時着。衝撃で操縦士は死亡し、途方に暮れるコンウェイたちであったが、そこに原住民の一団が現れる。頭目の中国人の老人チャン(H・B・ワーナー)は、コンウェイたちを救助し険しい山道を進み、彼らが暮らす秘境へと案内する。辿りついたそこは地上の楽園“シャングリ・ラ”であった…。

名匠ロバート・リスキンの脚色は、流れは比較的、原作に忠実に進行。回想形式ではないが、実はシナリオ上そうなっていたのをスニーク・プレヴューの評判が悪く編集段階でカットされた。
ただ人物設定が大幅に変更されており、終始“シャングリ・ラ”に不信感をもち脱出を図る副領事のマリンソン大尉をコンウェイの弟ジョージに、東方伝道会のブリンクロウ女史を宗教的な問題を避けたのか厭世観に包まれた病気の女性グローリアへと改変。
コンウェイ兄弟それぞれに宮殿に住まうソンドラ(ジェーン・ワイアット)とロシア娘マリヤ(マーゴ)といった恋のお相手をあてがう等、エンタメとして工夫が凝らされている。

“シャングリ・ラ”の思想は、身分階級もなく政治システムすら持たず、何事も押しつけないホドホドの異端を認める“中庸”の原則。よって生活は西洋と東洋が合わさった適度に近代的な趣であり、音楽や図書といった芸術分野も充実。互いが互いを思いやる生活にストレスはなく、犯罪とも無縁のまさに理想郷である。
コンウェイと面会した“シャングリ・ラ”の大僧正(サム・ジャフェ)は、私利私欲に走り、やがて戦争で自滅する外世界の終末論を説き、“シャングリ・ラ”のシステムこそが未来を担うと力説する。
ただ、“シャングリ・ラ”は、周囲の厳しい自然環境により外敵を阻まれ、険しい山々の懐に生じた温暖な気候を擁し、金鉱による豊富な資金を利用して外交が可能となり、新鮮な食べ物や水による長寿化が成される等々、人跡未踏の地に偶然開かれた奇跡のスポット。当地の外に出ると急激に老化する、限定的なユートピアであることが示される。

この事実から大僧正の思想は、叶わぬ夢であることが分かろう。つまるところ、“シャングリ・ラ”は、個人の中にしかないというテーマが身に迫る。
と同時に、当地の人々のように思いやる心をもてば、世の中がよくなる可能性があるという複合するメッセージが胸に沁みよう。
シビアな内容ながら、最終的には楽天的なキャプラ・ムービーに帰結し、希望を抱かせてくれる本作。“理想郷”=“夢”に向かって歩を進める幻想的なラストが、いつまでも心に残る。

OP、バスクルの騒乱シーンは、キャプラお得意の群衆描写が炸裂し、迫力満点!続く“シャングリ・ラ”までの道程は、アドベンチャー映画の面目躍如でハラハラドキドキ。
雪山等はセット丸出しだが、きちんと息の白さが窺えたりと細部のこだわりに唸る。
豪華予算をかけた“シャングリ・ラ”の荘厳なセットも、要注目。
キャプラがコンウェイ役は彼しかいないと熱望しただけあり、ロナルド・コールマンは品のいい紳士然とした好演で見事期待に応えた。
キャスティングが難航した大僧正役のサム・ジャフェも、神秘的な奥深い味を醸しだしており、ナイス配役。
全体的なクオリティは、さすがに一級の仕上がりである。

不満を挙げれば、東洋のエキゾチズムが溢れる原作の妙味がいまいち薄い点である。キャスティングがあまりに欧米人よりで、東洋人はエキストラ扱いでほとんど出てこない。チャン役も西洋人のH・B・ワーナーが演じ(アカデミー助演男優賞ノミネート)、二人のヒロインも白人に改変。東洋人としては、あまり気分のいいものではない。
また、“シャングリ・ラ”に住み着いてからの各キャラのドラマが一本道でひねりがなく、緩急を失ってどうしてもダラけてしまう。それぞれの背負った設定は凝っているだけに、活かしきれていないのは勿体ない限り。

本作のオリジナル版の上映時間は132分だが、1943年に再公開された際に太平洋戦争真っただ中の世情からタイトルを若干変更し、反日設定をテロップで加えた108分の短縮版が上映された。その後、オリジナル版のフィルムが消失し、長らく短縮版でしか観れなかったのが、1973年から復元作業がスタート。なんとか残っていたフィルムが探し出され、125分の映像と132分の完全版のサウンドトラックが復元された。
よってDVDでは、125分の映像と音声しかない7分間をスチール写真の静止画で補った現在出来うる限りのオリジナル版を観ることができる。
ただ、こういっては何だが、個人的には間延びする分、慣れ親しんだ短縮版の方がいいかもしれない。


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『映画 暗殺教室』 (2015)

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猛毒たっぷり、ハートフル教育エンタメ!ではあるのだが…!?



決して面白くない訳ではなく、ケレン味ある演出で最後まで楽しめはするのだが…、どうしても失敗点だけが眼につく不遇な一作であった。
本作は、『週刊少年ジャンプ』で連載中の同名人気漫画の実写映画化。作者の松井優征氏は、異色作『魔人探偵脳噛ネウロ』でスマッシュ・ヒットを飛ばした個性派であり、僕も大好きな漫画家さんだ。本原作も初回から特大インパクトを放ち、ずっと愛読していたのだが…、最近は連載が長引くにつれて、少々ダレ気味。作者の宣言通り、きちんとした結末は用意されているとは思うのだが、出オチな内容だけにテンションが下がってきた感は否めない。それが今ここにきてのTVアニメや映画化の猛プッシュに、戸惑うばかり。氏の作風からして、メディア化は完結まで待つべきでは?そもそも悪ノリ加減が実写化には向いていないのでは?寒いことにならないか?数多の不安がよぎりまくる中、スクリーンに集中したのだが…。

マッハ20で空を飛び、不死身の身体を持ち、月の7割を破壊するパワーを備える謎のタコ型生物が地上に襲来。謎の生物は「来年の3月に地球を破壊する」と宣言し、なおかつ進学校、椚ヶ丘中学校3年E組の担任教師になることを希望する。当クラスは落ちこぼればかりを集め、辺鄙な旧校舎に隔離された通称“エンドのE組”であった。
政府は仕方なく、E組の生徒たちに謎の生物の暗殺を依頼。戸惑う生徒たちであったが、成功報酬100億円と地球を守るため、謎の生物を“ころ先生”と名付け、学校生活をおくりながら手を変え品を変え、暗殺を試みるのだが…。

脚本をもっと練る時間はなかったのだろうか?CGより何よりも、真っ先に優先すべきが脚色作業であるのは、ピクサー作品等で自明の理の筈なのだが…。
とかく前半の凄まじいダイジェスト感が興を削ぐ。主人公、渚(山田涼介)の簡潔なナレーション紹介を皮切りに、凄腕殺し屋のビッチ先生(知英)、問題児の赤羽カルマ(菅田将暉)、自律思考固定砲台(橋本環奈)、謎の力をもつ転校生イトナ(加藤清史郎)、防衛省出身の胡散臭い体育教師の鷹岡(高嶋政伸)と、濃い刺客キャラが次から次へと登場する怒涛の展開。ただでさえクセのある世界観なのに、もはや作中に入り込む隙がない。観る者は、ただ傍観者と化す。
しかも、各エピソードが、やってること自体は超生物“ころ先生”を相手どる超絶バトルなのに、(クライマックス含め)決着の仕方がどれもこれもしょーもないのだから何をかいわんや。

その隙間に一応、ヒエラルキーの批判や、教育とは何ぞや?という社会派命題を、“暗殺”という人道上、教えてはならない教育分野から投げかけ、結果、“ころ先生”と生徒たちが、理想の先生と生徒の関係になっていく反転の発想を提示。皮肉たっぷりに正統なメッセージを問いかける訳だが、如何せん情報量と謎が多く、進行が忙しなさ過ぎて、一向に響いてこない。語り口が整理されていないがゆえである。
願望としては、原作初期の人心の闇がドロリとはみ出たような緊張感あるブラックユーモアを捉えて欲しかった。そこがこの作者の味なのだから。現在のなあなあになってしまったヌルイ部分を映画化した按配であり、造り手が原作の本質を捉えていない証拠であろう。

“ころ先生”のCGも違和感があるような、ないようなフワフワした感覚であり、どちらかというとアニメと合成された『ロジャー・ラビット』(88)な印象である。この微妙さは、本作の中途半端な作風に幸か不幸か合致している。声優(試写の段階では、誰があてたのか秘密)の妙演に幾分救われていた。
他の役者陣は、若干老けてはいるが副担任の烏丸役の椎名桔平の安定感、菅田将暉や高嶋政伸の怪演、橋本環奈の技アリの使い方と、深夜ドラマ『49』(13)から密かに眼をつけていた茅野カエデ役の山本舞香の可愛さ等々、悪くはないが皆熱がない。他のミスキャストについては、あえて何もいうまい。
全体的にやっつけでつくったような軽さが、ついつい匂う。

特に物申したいのが、ストーリーのまとめ方。上記した如くファンは、どうやって未完の原作をまとめるかに興味津々な筈である。それが本作、残り10分になって、つい時計を確認し「どうやってまとめるんだ?」と不安にかられたが、これが取ってつけたようなお粗末なラストであった。原作と共謀したちょっとしたサプライズがあるものの、基本的には「to be continued」である。真相は何も明かされず、物語は何も解決していない。
最近、何度も記しているような気がするが、こういう場合、「第1章」なり何なり銘打つべきであろう。いい加減、観客を騙すような卑怯な手段にうんざりである。
要するに、ひとつの作品としては評価不可能ということである。

あとエンドロールでは、羽住英一郎監督のお得意の“アレ”が性懲りもなく行われていた。個人的には、現実に引き戻されて興醒めするので心底やめてほしい。一体あんなモノをみせて、何を表現したいのか。意図が全くわからない。


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『ドラえもん のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)』 (2015)

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ザ・シンプル・ヒーローものたる第35作!



単純明快なアドベンチャーを楽しめるのは確かだが、どうしても物足りなさの残る一品であった。
本作は、映画『ドラえもん』シリーズ通算35作、リニューアルして丁度10作目というキリ番記念作。今回の題材はズバリ、“ヒーローもの”だ。ご存じ伝統ある日本の特撮ヒーロー文化、昨今のアメコミ映画の一大ブーム、『ドラえもん』と戦隊ヒーローの影響をもろにうけたディズニーの『ベイマックス』(14)の大ヒットと、俄然衰えぬ盛り上がりをみせている当ジャンル。そこに数々の世界のピンチを救ってきたアニメ界の英雄である我らが『ドラえもん』がどう切り込んだのか!?さぞ本家の横綱相撲をみせてくれるだろうとワクワクして劇場へ向かったのだが…!?

今、子供たちの間では、ヒーロー番組『ミラクル銀河防衛隊』が大ブーム。例にもれずのび太とドラえもんも夢中になっていたが、ジャイアンとスネ夫、しずかちゃんが二人をのけ者にして裏山で自主ヒーロー映画の撮影をしていることが判明。裏山に乗り込んだのび太とドラえもんは、ひみつ道具“バーガー監督”を使い、皆にコスチュームと特殊能力を与え、本格的な映画撮影を開始する。すると、その光景を丁度、地球に不時着していたポックル星の保安官アロンが目撃し、ドラえもんたちを本物のヒーローと勘違い。宇宙海賊に狙われた母星を救ってほしいと懇願する。ドラえもんたちはこれもてっきりバーガー監督が演出した撮影の一環だと思い込み、宇宙海賊を退治するべくポックル星に向かう羽目となるのだが…。

ストーリー自体は、『サボテン・ブラザーズ』(86)、『ギャラクシー・クエスト』(99)、『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』(08)よろしく、なんちゃってヒーローが本当の戦闘にかり出される定番パターン。本作もこの巻き込まれ方が自然で、すんなりと話に入っていけて安定感はある。若干、『のび太の大魔境』(82)とシチュエーションのかぶりが眼につくが、のび太たちが危険を犯して悪に立ち向かう決意を下すプロセスも実にスムーズだ。
『ミラ・クル・1』等、散りばめられた藤子・F・不二雄先生へのオマージュも凝っており、ファンはニヤリとすることうけあいである。
無闇な開発、近代化に対する警鐘も説教臭くなく、テーマの押しつけがないのもヨシ。
最後まで全てが分かり易くライトで、肩ひじ張らずに観ることはできよう。
それもその筈、監督が語るように、今回は対象年齢を小学校高学年までと想定、等身も下げられ線も普通になり、原点回帰ともいえるギャグ漫画のテイストを強く打ち出した内容となっている。

個人的には、このスタンスに疑問を覚えざるを得ない。これまでの映画作品はシリアスで奥深い社会派な内容でも、大人と子供双方が楽しんでいた。子供は蚊帳の外という訳では決してない。監督の「作品を一回、子供に返してやろう思った」という感覚自体、間違っているのでは…?子供の理解力をなめてはいけない。とすると、今回は大人だけを切り捨てたということになる。明らかに後退である。
ハッキリいって、本作程度の内容なら「TVでいいじゃん」と思ってしまう。藤子・F・不二雄先生が意気込んだ映画ならではのポジションは守るべきであろう。
よって、大人のファンとしてはパンチがなく、極めて肩すかしである。

色々と突っ込みどころはあるが、いくつか記すと、こういうストーリー形態の場合、ポイントは“いつ本物であることに気付くか”という点。本作は、ここが結構早いような気がする。普通の映画ならいざ知らす、ドラえもん一行なのだ。気付いたら後は、いつものノリに戻るだけで、本設定の妙味はなくなってしまう。これは失敗である。少なくともメンバーの何人かは勘違いを続けてもよかったのでは?
あと、伏線の張り方があざとすぎて、展開が丸わかりなのもいただけない。ほとんどの観客が、「あ、この“機能”はクライマックスで利用するな」とピンとくるトホホぶり。裏をかいてくれたら気持ちよかったのだが、それもなし。分かり易さというか、単なる脚本の手抜きであろう。
のび太たちの個性を活かしたというヒーロー特性も「?」がつきまとい、それぞれの見せ場も上手く起用していない。
敵が全然怖くない安全仕様のぬるさも、ドキドキ感を奪っている。そもそも勧善懲悪の絶対悪を狙ったという割には、ポックル星の住人を言葉巧みに丸め込む狡猾さで、具体的に弾圧などしないインテリ集団と妙に生臭い。(幹部ハイドの声をあてた“爆笑問題”の田中裕二の達者ぶりには感心したが…)わざわざ市川正親を声優に起用しながら、ラスボスのしょぼさは特筆モノだ。あそこは二段構えがセオリーであろう。
子供向けを謳いながら、熱いエンタメの構成にしていないのだから、本当に理解に苦しむ。少し笑える部分はあるものの終始、盛り上がらないまま映画は終了。う~ん…。

長い歴史の中にこういう失敗作はあってもいいかもしれない。でも『STAND BY ME ドラえもん』(14)で改めて人気に火がついた後の、重要な時期にこれはまずいのではなかろうか…。
寺本幸代監督の次のオリジナル作に期待したい。


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『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』 (2014)

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辛き世の道理に翻弄されし、変わり者の尊厳!



人間社会の業に圧殺された少数派の成すスケールの大きい貢献、葛藤を描いた感動作であった。
本作は、コンピューターの概念を創造し、“人工知能の父”と呼ばれた天才数学者アラン・チューリングの激動の人生を描いた伝記ドラマ。2014年度の賞レースを席捲し、アカデミー賞で脚色賞を受賞した注目作だ。
個人的に今年度のアカデミー賞授賞式で一番心をうったのが、本作の脚本家グラハム・ムーア氏のスピーチであった。「変わり者であることを悲観することはない。そのままでいいんだ」。映画界最高の栄誉を手にした氏のメッセージに勇気づけられた方は多かろう。
という訳で、観る前から妙な親近感をもって劇場へ向かったのだが…!?

1939年、第二次世界大戦下のイギリス。若き天才数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)は、英国軍の機密作戦に参加することに。ミッションの内容は、ドイツ軍が開発した難攻不落の暗号機エニグマの解読。各地から集められたエキスパートが力を合わせて作業に挑む中、そもそも志願の動機が“難解なパズルを解きたかっただけ”という究極の変人チューリングは周囲に溶け込めず、孤立してしまう。やがては独断で莫大な予算がかかる暗号解読機の製作に、一人取り組んでいくのだが…。

本作はアラン・チューリングの寄宿学校を舞台にした少年期、エニグマ解読に尽力する青年期、そして世捨て人のように暮らす戦後、という3つの時代が並行して描かれていく。
もちろんメインとなるのは、ナチス・ドイツと戦火を交えていた第二次大戦下のイギリスで、勝利の鍵を握る史上最強の暗号機エニグマの攻略パートだ。

自信家で協調性がないアラン・チューニングは、当然のごとく班内でのけ者になる。チームを統括する海軍中佐デニストン(チャールズ・ダンス)にも、独走を咎められ、衝突ばかり。それでも暗号解読の情熱は人一倍で、デニストンを飛び越えて、あろうことかチャールズ首相に直訴。まんまと費用と責任者のポジションを確保するアクロバティックな行動力をみせる。さらにゲットした立場を利用して、役に立っていない仲間を斬り捨てる冷酷な一面も…。
そんな異端者チューリングだからこそ見出した紅一点が、ジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)だ。女性差別の根強い当時、能力を認めて彼女をチームに引き入れ、あまつさえ好意を抱き合う。その不器用なロマンスが、実に微笑ましい。
チェスの英国チャンピオンに二度輝いた天才であり、皆のまとめ役ヒュー・アレグザンダー(マシュー・グード)をはじめとしたチームの面々も、個性派揃い。はじめは反発していた彼らも徐々にチューリングを認めはじめ、チューリングもまた理解者ジョーンとの交流から仲間と打ち解け、チーム・ワークが育まれていく。
とかく本パートが軍事ミステリーとして抜群に面白く、グイグイ引き込まれる。

労苦の末、ついにエニグマを解読してからが、本作の真骨頂。ここから怒涛のシリアス展開に突入し、雰囲気は一気に変転。キーとなるのが、サブタイトルにあるエニグマとチューリングに関する“二つの秘密”だ。チューリングの秘密が何であるかは有名な史実だが、本稿では伏せておく。この二つの秘密がシンクロし、テーマが浮き上がる仕組みである。
一方、少年期パートでは、チューリングがそういう人物になるに至った形成経緯が語られ、戦後パートでは彼が辿る哀しい顛末が紡がれていく。
要は“秘密が明かされていく”というキーワードで、3つのパートがパズルのように有機的に融合する。人間の謎は、暗号機よりも複雑なのだ。とはいえ、ストーリー自体は難解ではなく、分かり易い見事な脚本術を堪能できよう。オスカー受賞も納得のクオリティである。

役者陣も、アラン・チューリング役のベネディクト・カンバーバッチがこれ以上ないハマりっぷりを披露しており、必見の一言。コミュニケーション障害で天才肌のエキセントリックな魅力を放つ役といえば、もはや彼の右に出る者はいまい。
ジョーン役のキーラ・ナイトレイの一筋縄ではいかない存在感、諜報機関MI6の敏腕エージェントのスチュアート役に扮したマーク・ストロングの妙演と、すべからく安心仕様だ。

エニグマ解読後の展開では、人間をコマのように扱う戦争の実態をあぶり出す。大人数を救うには、小さな犠牲はやむを得ないのか?キレイごとではない戦争の不条理な命題を突きつける。神でもない人間(のつくりだしたメカ)が安全な場所から、命の優劣を決定するシチュエーションのやるせなさ。人間は群れをなす生物で、誰しもその一部でしかない事実をいやが上でも痛感させられる。
加えて、戦後に見舞われるチューニングの悲劇からは、自分の理解できない者を排除する人間の性質、いわば、戦争発生のメカニズムが明らかにされる。
そうしたスケールの大きい多様なテーマ性を重層的に示し、なおかつ純なラブ・ストーリーに胸をうたれもする。まさに『シンドラーのリスト』(93)と『ビューティフル・マインド』(01)のブレンド版である。
群れに適応できない弱者を励ます視線と、極秘任務ゆえ、その偉大な功績を正当に評価されなかった歴史に埋もれた英雄の切なさに泣けた。(09年になってブラウン首相が政府を代表してチューリングに謝罪)

ほぼ室内劇の地味な道具立ての中、これだけ豊かな内容を詰め込みつつ2時間以内にまとめたモルテン・ディルドゥム監督の演出手腕は只事ではない。
まこと素晴らしい一作である。


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『博士と彼女のセオリー』 (2014)

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個人レベルから宇宙規模へ、深遠なるラブ・ストーリー!



導き出すのは、ひとつのセオリー。一筋縄ではいかない恋愛感情を知的に切りとった珠玉の一品であった。
量子宇宙論の形成に多大な影響を及ぼした理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士。若くして難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、身体の自由を奪われながらも研究に邁進した“車椅子の科学者”として有名な当博士。本作は、そんな博士の最初の妻ジェーンの回想録を基にした伝記ドラマだ。
2014年度の賞シーンでは『イミテーション・ゲーム』と期せずして天才学者対決となり話題となったが、結果、前者が脚色賞、本作が主演男優賞を獲得する痛み分け(?)となった。
はたして『マン・オン・ワイヤー』(08)といったユニークなドキュメンタリーで手腕を発揮してきたジェームズ・マーシュ監督が、如何なるアプローチで天才の恋愛を紡いだのか?興味津々でスクリーンに臨んだのだが…!?

1963年イギリス。ケンブリッジ大学で理論物理学を学ぶスティーヴン・ホーキング(エディ・レッドメイン)は、友人と参加したパーティーで、中世のスペイン詩を専攻する女性ジェーン(フェリシティ・ジョーンズ)と出会う。惹かれ合った二人はデートを重ね、恋人同士になる。やがてホーキングはペンローズの“特異点理論”の宇宙への適用を閃き、公私共に順調に進むかにみえた矢先、肉体に異変が起こる。歩行が困難になる等、麻痺症状が表れたのだ。検査の結果、ALSと診断され、治療法はなく余命2年の宣告をうける。ショックを受けて引きこもり、ジェーンとも距離をおくホーキング。しかし事情を知ったジェーンは、ホーキングと結婚し、共に人生を歩む決意をみせて…。

冒頭から、オタクに見せかけたイケメンのホーキング青年と、超絶キュートなジェーンとの初々しい恋愛模様が綴られていく。もう赤面モノのベタベタ展開である。
ところがどっこい、ホーキングが病に倒れ、ジェーンがそんな彼を受け入れ、苛酷な人生を選ぶ決意をみなぎらせる段階から甘いムードは一転。献身的なジェーンと病と戦いながら研究に没頭するホーキングの信念のドラマへとなだれ込む。
ただ、このまま普通にやれば、障がいのある夫を支えた妻の美談となるところを、そうはならないのが本作の妙である。

やはり現実問題、死を免れ、麻痺が進むホーキングの介護をしつつ、生まれた二人の子供の面倒もみて、さらに自身の詩の研究という夢を犠牲した経緯を顧みると、ジェーンの心身が疲弊し、限界がくるのもさもありなん。そこに優しく、援助もしてくれ、なおかつ未婚という都合のいい男性ジョナサン(チャーリー・コックス)が出現。ジェーンの心が揺らぐのも、致し方ナシであろう。
最近はロマコメのハッピーエンド後の物語、結婚生活のシビアな現実をえぐったヘビーな作品も多くつくられ、未婚者の希望を奪ってきた。本作もその部類ではあるのだが、不思議と嫌な気はしない。むしろ、純愛モノのさわやかさを維持している。
もちろん劇中の二人は、変わりゆく関係性に悩む。でもそこは宇宙的スケールのセオリーを見出そうとするホーキング博士とその妻。まさにマクロとミクロ。人間二人が幸福になるセオリーをも図り、核を揺るがせはしない。その姿勢は、実に清々しい。いわば、上記ジャンルの別次元を示した新スタイルといえよう。無論、これはホーキングとジェーンだからこそ成しえた唯一無二のストーリーだ。
とはいえ、ピックアップされる問題は誰しも思い当たる庶民感情ばかりであり、節々で下す二人の決断はホロリと泣ける。

監督のドキュメンタリーで培ったのであろう当時代の美術や衣装といった完璧な再現感覚の説得力も見応えたっぷり。過度な演出を廃した引いた視線や、前半とムードを変える精緻な計算に唸りに唸る。

何より、ホーキング博士になりきったエディ・レッドメインの熱演は、圧巻の一言だ。挙動不審なオタク・ボーイの風貌から、身体の自由が徐々にきかなくなっていくプロセスのリアルさ。果ては、口すらきけなくなり、表情だけで全てを伝える芝居の高度さは神がかっている。下ネタ好きで子供っぽいユーモアを失わないチャーミングな魅力もきちんと表現。あまりに自然体で、観る者を作品世界にスムーズに取り込んでしまう。
ジェーン役のフェリシティ・ジョーンズの可愛らしさも特筆モノ。どんどん追い込まれつつも立ち向かう、凛とした感情表現の繊細さもさることながら、60~80年代の英国ファッションをコケティッシュに着こなし、経年変化もちゃんとみせた演技力に脱帽だ。エディ君が活きたのも、受けとめる彼女があってこそ。彼女の好演を最大限に評価したい。

若干、観客の共感を優先した為に、ホーキング博士の独創的な偉業についての描写に物足りない部分もある。といいつつ、そこがメインに描かれることはないものの、博士の研究内容をもっと予習しておけばよかったという悔いは残った。別段、知らなくても支障はないが、劇中には博士の研究内容が象徴的に色々と散りばめられている。ことさら、時間に関する研究については、時空を操る映画芸術ならではの表現で、最後に深い感動与えることに成功していよう。
なんともはや、存命中の著名な人物をモデルにしながらの強かな作劇に唸る。
げに知的な大人のラブ・ストーリーである。


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『男はつらいよ 奮闘篇』 (1971)

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デリケートなテーマを鮮やかに切り取りし第7作!



高嶺の花のマドンナに恋をし、時に娘のような齢のマドンナに父性を発揮し、果ては甥の恋愛守護神と化す我らが寅さん。観る者は「相変わらずダメだなぁ」、「こりないねぇ」と微笑みながら、トホホな結果に甘んじる寅さんにいつも癒され続けている。
…が、しばし待たれい!シリーズの悠久の歴史の中、およそノーテンキに笑ってはいられない切なすぎる一本の存在を忘れてはならない。
という訳で本作は、異例の珍品であるシリーズ第7作。キャストも地味で目立たず存在感が薄い本作だが、井上ひさし氏が絶賛し、実は山田洋次監督も気に入っていたという知る人ぞ知る隠れファンの多い一作である。

ある日、柴又の“とらや”に寅さん(渥美清)の生みの親である菊(ミヤコ蝶々)が、30年ぶりにやって来る。しかし寅さんは旅先であり、一端帰る菊であったが、ほどなく行き違いに寅さんが帰郷。しぶる寅さんを説得し、さくら(倍賞千恵子)と共に、菊の宿泊先の帝国ホテルを訪ねることに。ところが再会してすぐさま二人は結婚話がもとで言い争い、結局ケンカ別れとなり、菊は京都に、寅さんは旅へと東京を後にするのであった。
ところ変わって静岡県、沼津。寅さんは駅近くのラーメン屋で津軽訛りの少女、花子(榊原るみ)と出会う。軽い知的障がいのある花子は、青森から紡績工場へ出稼ぎにきて、そこを逃げ出してきたという。心配になった寅さんは、なけなしのお金と迷子札代わりに“とらや”の住所を渡し、列車に乗せるのであった。
しばらくして花子のことが気がかりで“とらや”に戻った寅さんは、花子が出迎えたのでびっくり仰天。なりゆきで“とらや”に居ついた花子の面倒をみるべく例のごとく寅さんの空回りがはじまるのだが、花子が障がい者であるがゆえにいつもより周囲が気を揉んで…。

冒頭は新潟の田舎駅で、集団就職する子供たちと見送る母親たちの光景が映し出される。それらの映像はさながら、深夜にたまたまつけたらやっているNHKのレトロ番組を観ているかのようなドキュメンタリー・タッチで、実際、集団就職に向かう素人さんの姿を撮影したのだとか。かようなリアリティ空間に寅さんがひょっこり紛れ込んでいる可笑しさたるや。違和感があるようでいてナチェラルな、妙な味わいがたまらない。

前半は2作目からの再登場となる寅さんの母親、菊が“とらや”を来訪。さくらたちと夢の対面(?)を果たす。菊を演じるミヤコ蝶々が関西弁の名調子で、“とらや”の面々を嵐のごとく翻弄するシーンは圧巻の一言!
続いて寅さんが帰ってきて、まずは菊に会う会わないで騒動を巻き起こし、会ったら会ったで親子喧嘩が勃発。文字通り、この母にしてこの子あり。渥美清と蝶々さんの丁々発止のやりとりは、名人芸の対決となり抱腹絶倒!「足りない頭に生んだのは誰だ!」「生まれた時は足りとったんじゃい!」両者一歩も譲らない応酬は、永遠に観ていたいほどのキレのよさ。似た者同士で、実はお互いの身を案じながら素直になれない不器用さがまた何ともいえない。
ちなみに、ここでやりとりされる“足りる足りない”の問答が、後の展開にじわじわと効いてくる仕組みとなっている。

そして、ひょんなことから旅先で助けた花子と“とらや”で再会した寅さんは、彼女の働き口を探したりとあれやこれやと世話を焼くことに。花子の「私、寅ちゃんの嫁っ子になるかナ」という発言に本気になる寅さん。そこには恋愛や父性とはまた違う、“守る”という優しさが滲み出ていよう。
しかし、周囲の見方はシビアで、おいちゃん(森川信)も障がい者の花子との結婚について結構ヒドイ発言をしている。さすがにさくらは温かいフォローを入れるが…。
個人的には、ある意味、寅さんが堅気になるには最適の相手であると思う。でもそれは理想であろう。
青森からやってきた花子の身元引受人の福士先生(田中邦衛)曰く「障がい者であればこそ、密度の濃い教育を施さねばならない」というセリフが、深刻な現実を物語っている。要は、寅さんのような根無し草には保護者になる資格がないと、暗に切り捨てている訳である。
この辺り、人情派の山田洋次監督のリアリストな一面が垣間見れよう。また後年、『学校』シリーズで監督は、当問題を真正面から取り上げることとなる。

もちろん本編では、寅さんに厳しい現実を直接突きつけるような野暮はしない。寅さんと花子の関係の顛末は、さくらを通してラストシークエンスで間接的に描かれていく。
さくらが青森に帰った花子を訪ねるこの異色の展開は、シリーズ屈指の旅情緒あふれる趣向となっており、見逃し厳禁!学校での福士先生と花子とのしっとりとしたやりとりと、最後のホッとする笑いの緩急共々、映画史に残る名シーンといっても過言ではない。
山田洋次監督の極めて映画的な演出のスマートさに唸る。

ピュアなマドンナ、花子を演じたのは当時絶頂の人気を誇ったアイドル、榊原るみ。『帰ってきたウルトラマン』(71~72)のヒロインでお馴染みの可憐さが眩しい限り。観る者に迫るリアルさで、難役を見事に演じ切っている。

他、落語ファンの山田洋次監督のラブコールをうけ、柳家小さんがラーメン屋のオヤジ役で登場。類稀な話芸をみせてくれるので要チェック。
おっかない顔ながら人のいい交番の警官役、犬塚弘の好演も忘れられない。寅さんに「あとで寄れよ。茶入れっから」と声をかけるカットが、個人的には大好き!
渥美清も絶賛したという、花子の身を案じる福士先生役の田中邦衛の包容力ある存在感も完璧である。
また、記念すべき一作目のマドンナである御前様の娘、冬子(光本幸子)が赤ちゃんを連れて再登場。珍ケースを味わえる。

そして本作から以降、全シナリオを山田洋次と共にタッグを組む朝間義隆が参加したことも押さえておくべきトピックであろう。

なんとなくテーマだけ聞くとシリアスな内容に思えるが、まだまだ初期作品なので特に笑いが冴えまくっている。おいちゃん役の森川信と寅さんとの名調子や、寅さんの伝説的なちょび髭グラサンの扮装、花子への過保護ぶりで周囲を振り回す怒涛のシークエンス、等々、爆笑シーンも数多く暗くなることはない。

社会から外れたアウトローと障がい者の交流という、おそらく現代ではNGが出るであろうチャレンジングな題材を国民的シリーズで実現させた本作。観逃がす手はあるまい。


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『ndjc:若手映画作家育成プロジェクト2014』 (2015)

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日本映画の未来を担う好企画に要注目!



造り手の気合いがこもった、実に観応えのある短編5本であった。
若手映画作家育成プロジェクト、略称“ndjc”とは、文字通り、若手映画作家の育成と発掘を目的に、ワークショップや制作実習を実施。35ミリフィルムを使った30分の短編の製作、発表の場を提供する等、支援を働きかける文化庁委託事業である。2006年からスタートし、今年も5人の新進気鋭の監督の作品が集まり、特集上映が行われた。
元来、オムニバス映画は興行ベースにうまく乗らない定説があり、さらに新人監督ともなると難易度は増そう。ただピクサーの長編アニメと併映される短編よろしく、新人の才能を見極めるには短編が相応しいのは確か。そういう意味では本上映は貴重な機会であり、フラッと劇場へ足を運んでみたのだが…!?

●『チキンズダイナマイト』(監督:飯塚俊光)
いじめられっ子の中学生、橋本諭吉(岡山天音)は、元いじめられっ子の先輩(前野朋哉)から、いじめ救済を目的とした伝説のゲーム“チキンズダイナマイト”への参加を誘われる。それは当校のミスに選ばれた美少女(恒松祐里)と一週間付き合い、ブラジャーをゲットするという無謀なミッションであり…。

自らの進む道を見つける以前、その入り口に立つ段階の物語。まずは行動し、何かを起こしてみる、その大切さを『世にも奇妙な物語』風に活写した青春コメディである。
何より観ているうちに、女の子は可愛く、いじめられっ子の男の子もウザくなくなってくるのが心地良い。思想が青臭く、モタつく展開もご愛嬌にうつる好編であった。

●『もちつきラプソディ』(監督:加瀬聡)
夫との離婚を決意した美冬(星野真里)は、娘の歩が引っ張り出した古いビデオテープに眼をとめる。そこには故郷で幼い美冬が家族と共にもちつきをしている光景が映しだされていた。もちつきに興味を抱いた歩の提案で、美冬は折り合いの悪い3人の姉と認知症になった父(油井昌由樹)が待つ実家へ6年ぶりに里帰りするのだが…。

父と姉との確執、田舎から都会に出た負い目、娘と夫との関係、等々、家族をキーワードにそれぞれに内包された問題をまとめあげた手腕は相当なものである。
でも詰め込み過ぎて情報過多になっており、説明に終始。登場人物がしゃべりすぎ、必要な郷愁の情緒と肝心のもちつきが活きていないのが残念。個人的には姉3人と主人公の関係性がよくわからなかった。

●『本のゆがみ』(監督:草苅勲)
図書館職員の星野(金山一彦)、桑原(兒玉宣勝)、みく(小野しおり)は表面上、和やかに働きつつ、私生活ではそれぞれに闇を抱えていた。そんな3人が図書館であるアクシデントに直面し、にわかに力を合わせる羽目になり…。

3人の歪んだ人間の群像劇であり、ラストで人生観を問いかける放り投げタイプの一作。30分でまとめようとしてバタバタと四苦八苦したような前2作とは対照的な語り口だが、短編はコレで正解。解決させずにゆだねるスタイルが、むしろ自然であろう。
願わくばOPで、3人のドラマであるという描写が欲しかった。つい金山一彦のインパクトにより彼のドラマとして捉えてしまい、やや群像劇としての把握に出遅れた。

●『good-bye』(監督:羽生敏博)
クリーニング店で派遣社員として働く御崎紀子(安藤玉恵)は、娘二人と共にネットカフェ暮らし。貧しいながらも仲睦まじく暮らしていたのだが、ある日、紀子が職を失ってしまい…。

説明を省いたドキュメンタリータッチで、底辺の暮らしながら健気に暮らす母娘の様子を追っていく。劇的なことは起こらない。ひたすら重く、シリアスな模様を淡々と突きつける。リアリティとしては、確かに「?」な部分も散見される。が、映画に求められる迫力が備わっており、グイグイ引き込まれるのだからスゴイ演出力である。短編というカテゴリーさえ忘れさせるのだから、一番上手に30分を使い切ったといえよう。手際のいい語り口より、断然こちらを推す。
別の作品を観てみたいと思わせる監督さんである。

●『エンドローラーズ』(吉野耕平)
葬儀屋の映像制作担当の中本(三浦貴大)は、喪主(でんでん)から、工業用ロボットアームの金具を製作していた故人に見合う映像をつくるよう依頼される。中本は旧職の伝手を辿り、ロボットが出てくる映像を製作するも、それを見た喪主は大喜び。孫を喜ばすためにもっとロボットを推すよう無理難題を要求してきて…。

監督は「人間に興味がない」と語っておられたが、なるほど、“葬儀”と“ロボット”という組み合わせに仕込まれた非人間的ブラックユーモアを存分に楽しめた。芸達者な役者陣の好演も光る。
主人公の境遇がいまいち分からなかったのと、旧職よりも葬儀社本体をフォローした方がスッキリしたように思う。

さて。
簡単に全作をさらって偉そうに文句を並べたが、さらに全体的にいえば、惜しむらくは映画的な色気が乏しい。テーマを語るのに躍起になって、客を楽しませんとするエンタメ性にまで手が回っていないように感じた。文化庁が噛んでいるので仕方ないかもしれないが、要するに真面目というか優等生というか…。世界に打って出るには、大人し過ぎるのではなかろうか?
また、プロの脚本家が指導に入ってはいても、基本、監督に脚本を書かせるスタンスに疑問を抱く。脚本軽視の日本映画の悪弊を暗に示していよう。これが質の低下の元凶である旨を、お上が理解していない証拠である。脚本家の育成プロジェクトも併設してもいいのではないか?
上映会のタイトルも、知らない人には「なんのこっちゃ?」である。もっとキャッチーなものを考えた方がよかろう。

しかしながら本プロジェクト自体、素晴らしい理念であるのは間違いない。もっと多くの一般観客の眼に触れるよう、がんばっていただきたい。


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『サーカス』 (1928)

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笑いとペーソスに彩られた、チャップリン喜劇の真骨頂!



コメディーとして腹の底から大笑いさせつつ、辛辣な社会批評や反戦思想、純愛、といったテーマをエモーショナルに昇華させるチャップリンの作品群は、まさに人類の宝といえよう。そんな中、笑いとペーソスに特化させた世紀の大喜劇映画たる本作の存在を忘れてはならない。
前作『黄金狂時代』(25)の劇中、パントマイムの温床であるサイレント時代が終わりつつある実感を、ドタ靴(=自分)を食べることで表現したチャップリン。かような決意を受けて、最後に思いっきり得意技を披露してやろうと目論んだのが本作である。
10歳のころから喜劇一座で修行を積んだチャップリン自身の芸を培ったサーカスを題材にし、シンプルなドタバタに原点回帰。御大の名人芸を理屈抜きに堪能できるという点では、紛れもなく集大成といえよう。
極端にいえば、どの国のどんな人が観ても、きっと本作は楽しめる。こんな技術をもつ映画人は、おそらくもう出て来まい。

ある日、巡業サーカスにふらりとやってきた放浪者(チャールズ・チャップリン)は、ひょんなことからスリと間違えられ、警察官に追われる羽目に。本物のスリを交えて逃亡劇を繰り広げた放浪者は、なりゆきで本番中のサーカスに駆け込んでしまう。すると舞台上で放浪者と警官が演じた追いかけっこが観客には大ウケ。団長に腕を見込まれた放浪者は、サーカスに入団する運びとなる。
やがて放浪者は、いつも怒られてばかりいる団長の娘(マーナ・ケネディ)に恋をするも、娘は綱渡り師の青年(ハリー・クロッカー)に夢中になっており…。

放浪者の登場シーン。抱かれた赤ちゃんのホットドックを盗み食いする一連の笑いから彼のキャラ、性格、境遇に至るまでを瞬時に説明してしまう離れ業に唸る。そして、そこで警察に見つかったスリが、スッた財布を放浪者のポケットに入れたことから世紀の追いかけっこがスタート。単なる追う者と追われる者という構図ではなく、警察官とスリ、巻き込まれた不幸な第三者の放浪者という三すくみの複合的な構図がチャップリン・コメディーの真骨頂。
もうのっけからクライマックスといった按配で、からくり館のミラールームを駆使した攻防戦、人形に化けてスリを撃退する放浪者と、笑いが絶えることなくノンストップで快走。
サーカスに乱入し、ショーを台無しにするも客には喜ばれるという大騒動から、入団テスト、ライオンの檻に閉じ込められるヒヤヒヤから、なぜか放浪者を見ると突進してくる馬との因縁、等々、笑いが笑いを生む波状攻撃に腹がよじれるほど苦しめられる。
最大の見せ場となる綱渡りシーン。命綱ナシで実際にチャップリンが猿の襲撃を受けている当場面は、まさに生と死のコントラスト。緊張と緩和の笑いを、一大スペクタクルの如く味わえる。

予算を湯水のように浪費し、納得いくまで撮影に時間をかけ、それこそ“命がけ”でじっくり熟成された笑いの数々は圧巻の一言。全てのシチュエーションに工夫が凝らされており、観れば観るほど考え抜かれたアイディアに度肝を抜かれよう。
放浪者自身はいたって大真面目であり、周囲を笑わす気など全くない。でも彼が一生懸命になればなるほど事態はこじれ、爆笑が派生する。(逆に笑わそうとするサーカス団員の芸は、ひとつもウケない皮肉!)
当然それらは全てサイレントの“動き”の笑いである。この一点をみても、常に奇人変人を出して笑いをとるTVのお笑いとの差は歴然であろう。

そして、抱腹絶倒のお笑いジェットコースターから急転直下、ラスト・シーンに急激に訪れるペーソスは、文字通り、“祭りのあと”といえる寂しさ。愛していた娘のために裏で献身的に立ち回り、仲をとりもった放浪者。でも一握りのプライドからサーカスの車には乗らず、一人残されテクテクと去っていく…。いくら貧乏人でも誇りだけは失わない、と前向きではあるものの、観る者の心をえぐる道化の哀愁たるや!完璧に寅さんの原型といえよう。
一切無駄のない、見事な流れにタメ息をつく他ない。

本作の撮影は、天変地異に見舞われセットが破壊されるわ、現像ミスで撮影したフィルムがダメになったりと数々の不運に見舞われた。しかも私生活では、チャップリンは二人目の妻リタ・グレイとの間で泥沼の離婚騒動に巻き込まれるというダブルパンチ。
ことほどさように苦難の時期に撮られた経緯を慮ると、本作はまた違った見え方ができよう。
ひょんな勘違いから人気者に祀り上げられた放浪者に対し、大衆は彼自身の正体にはとんと無頓着。道化としての彼の面白さのみを求める。また、放浪者が娘の幸せを願って裏側で尽力した苦労も、彼自身はなんら報われない。もちろんチャップリンは正真正銘のプロだが、いわばプライベートとパブリックとの狭間の苦しみが本役に投影されているように見える。
そう考えると、ラストのむなしさがより胸を迫り、またそれでも歩いていく後姿は、大衆の求めに応え続ける決意表明ともとれよう。

本作は第1回アカデミー賞で監督賞、主演男優賞にノミネートされたが、特別賞に一括され、ノミネートは取り消されてしまった。その際、チャップリンはこうコメントを残している。
「少数の人間が決めた賞など、大した名誉ではない。私が欲しいのは大衆の喝采だ」
この想いが本作のラストの放浪者の後姿にダブって仕方ない。

本作以降、チャップリンはさらなる政治的な荒波に飲み込まれ、それに伴い作品も社会性を孕み、よりヘビーで説教臭いテーマ性を帯びてくる。そういう意味では、喜劇王としての葛藤を投射した本作は、一番純粋なチャップリン・コメディーの到達点といえるのかもしれない。


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『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』 (2015)

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仮面ライダーの歴史の重みを感じる特別編!ではあるのだが…?!



歴史に埋もれしヒーローの復権と、マシンを駆る仮面ライダー同士の最速を決するレーシングバトルという二度美味しい好企画ではあるのだが…。
ファンの批判を浴びながらも出がらしのように続けている春の“ヒーロー大戦シリーズ”。今回ピックアップされたのが、シリーズ第1作『仮面ライダー』の新キャラとして考案され、児童書に登場するも出番がないまま番組は終了、装いも新たに『仮面ライダーV3』がはじまったために幻の存在となった“仮面ライダー3号”だ。次から次へと知られざるネタが出てくる仮面ライダー史の凄みを感じずにはいられない。
また、車に乗る掟破りの現役シリーズ『仮面ライダードライブ』に合わせて、同じく専用車ライドロンを使う『仮面ライダーBLACK RX』が取り上げられるとなると、黙ってはいられない。『BLACK』及び続編の『RX』は、個人的にリアルタイムで熱中した思い入れの深いライダーである。離れ小島のごとく時代が孤立しているゆえ、『仮面ライダーSPIRITS』でも取り上げられない等、不遇な扱いを受けている当2作。こうして陽の目が当たっただけでも嬉しさがこみ上がるが、はたして如何なる内容に…!?

1973年2月10日。仮面ライダー1号&2号の活躍により、秘密結社ショッカーは壊滅。世界に平和が訪れたかにみえた矢先、謎の戦士、仮面ライダー3号が出現。1号と2号は、3号の前に敗れ去り、以降の歴史は改変されてしまう。
2015年。ショッカーが統治する世界で、仮面ライダードライブこと泊進ノ介(竹内涼真)はショッカーの一員として、歯向かう仮面ライダーに敵意を燃やしていた。しかし、ショッカーに反旗を翻す仮面ライダーBLACKこと南光太郎(倉田てつを)の正義の雄叫びを聞き、さらに子供を盾にするショッカーの卑劣さを目の当たりにし、世界の在り方に疑念を抱くようになる。そしてそんな進ノ介の前に、仮面ライダー3号こと黒井響一郎(及川光博)が立ちはだかって…。

OPから第1作『仮面ライダー』の最終回がそのまま映し出され、3号登場に繋がる流れにグッときた。(音声は新規アフレコ)
でも、すぐに「まてよ?!」と疑問がよぎる。コレって、未見の人の興を削ぐのでは?ネタバレにも程があろう。不運にも最終回を先に見せられたちびっ子ファンが不憫でならない。もう初っ端から躓いた按配である。

ストーリーはパラレル・ワールドを舞台に、正規の時間軸の記憶を残す霧子(内田理央)を入口にして、改変された中で正義に目覚めていくライダーたちの奮闘を綴っていく。
そんな中、メインとなる仮面ライダー3号は、悪なのか正義なのか?真意はどこにあるのか?謎が謎を呼び、真相は二転三転。彼を巡るドラマは、なかなかの観応えであった。存在意義に迷う姿は、期せずして歴史の闇に葬られた現実の3号がダブり、切ないのなんの。世の中には、こうした忘れられた存在が山のようにあろう。
演じるミッチーも役に敬意をはらい、愛情たっぷりに妙演。ライダーには欠かせない哀愁を自覚している等、好感度は高い。

自慢のマシンを持ち寄る平成ライダーの世紀のレースといった、ありそうでなかったシチュエーションも単純に楽しかった。『ベン・ハー』(59)よろしく、容赦ない殲滅戦を繰り広げながら勝敗を決する進行に、ちゃんと3号の信念が乗っていたのもGOOD。
惜しむらくは、そうするならば、もっとマシンを主体にした物語性がほしかった。仮面ライダーはマシンあってこそであり、車をパートナーにする『ドライブ』が物議を醸しただけに、テーマの掘り下げようがあったように思う。

他、何といっても今回の目玉は上記したごとく、仮面ライダーBLACK&RXこと南光太郎だ。オリジナルキャストの倉田てつをが衰えぬ熱演を見せ、氏の力強いセリフと皮手袋に心底しびれた。氏はヒーロー役者としてまだまだイケる!
大人の事情でNGだったのかもしれないが、願わくば当シリーズのBGMを流してほしかった。そうすれば鳥肌モノで、点数大幅UPだったものを…。

かように見どころはそこそこあるのだが、如何せん本劇場版シリーズのセコさは相も変わらず。お祭りの有難味なんぞ、もはや求めるべくもない。
久しぶりの仮面ライダーゼロノスこと桜井侑斗(中村優一)の勇姿、期待通りのダメキャラぶりをみせる仮面ライダーギャレンこと橘さん(天野浩成)、衰えぬビジュアルに驚く仮面ライダーファイズこと乾巧(半田健人)といった、スケジュールの合う人を集めました的な寄せ集めメンバー然り。(声だけだが『仮面ライダーブレイド』一派の勢揃いや、原作準拠の立花藤兵衛(井出らっきょ)、異様な存在感があるブラック将軍(高田延彦)、クライマックスに降臨するライダー○○のケレン味、と悪くない点もあるのだが…)
超強引な『手裏剣戦隊ニンニンジャー』の入れ込み、配信ドラマ『仮面ライダー4号』の促販である尻切れのラストと、「如何なものか?」という作劇も目に付く。

いわんや、脚本の突っ込みどころの多さはいつもの通りなのだが…。
TSUTAYAで特集レンタルされ、にわかに再評価の気運が高まっている東映プログラムピクチャーを改めて観るに、正式に当社の伝統を継いでいるのは仮面ライダーシリーズである旨を痛感する。映画産業が衰退し、食いつめたスタッフたちが『仮面ライダー』畑に流入したのは紛れもない史実であり、そのまま作劇術を踏襲しているのである。時代劇のスターシステム、要するにスターを魅せることのみに終始し、整合性は度外視。とにかく見せ場の連続で観客を楽しませるサービス精神。ヒットすれば、スピンオフを乱発し、飽きられるまでとことんコンテンツを吸い尽くす貪欲さ。こうした黄金時代の東映京都のノウハウを、『仮面ライダー』シリーズは現代に体現していることがお分かりになろう。
一般の観客はまだしも、少なくとも論者はこの点を今一度見つめ直してもいいのではないかと、僕は最近思いはじめている。
これもまた歴史の継承。奇しくも本作のテーマと同じである。


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『マジック・イン・ムーンライト』 (2014)

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魔法とマジックに心躍りし、ロマンティック・コメディ!



デートに最適!ウディ・アレンのほくそ笑む顔が浮かぶような小粋なラブ・ストーリーであった。
本作は、サラリーマンのごとく映画製作のノルマを自らに課し、年一本コンスタントにメガホンをとり続けている名匠ウディ・アレンの2014年度ムービー。熟練の技術で送り出される作品群は、小品ながら佳作揃いで、たまに『ミッドナイト・イン・パリ』(11)や『ブルージャスミン』(13)といった賞レースを賑わす傑物が飛び出すのだから油断禁物。
そんな中、本作はといえば、評価&興行共に箸休めの部類に入ろうが、そこはウディ・アレン。こうした目立たない一作の中にこそ、馴染み客が舌鼓をうつ信用の味があるのも確か。はたして今宵は、どんな味を提供してくれたのか…!?

1928年。英国人マジシャンのスタンリー(コリン・ファース)はベルリンで、怪しい中国人に化けて見事なマジック・ショーを披露し、喝采を浴びていた。そんな彼のもとに旧友のハワード(サイモン・マクバーニー)が訪ねてくる。ハワードいわく、南仏のとある大富豪がアメリカ人占い師に入れあげており、占い師が売りにする霊能力のタネを暴いてほしいと依頼する。
さっそく現地に飛んだスタンリーは、問題の占い師ソフィ(エマ・ストーン)と対面。インチキを暴こうと眼を光らせるも、降霊会での超常現象や次々に秘密を言い当てる姿に圧倒され、あまつさえ徐々にチャーミングな彼女に魅了されていき…。

ベテラン・マジシャンのスタンリーは、マジックを駆使して観客を楽しませるエンターテイナーでありながら(あるがゆえ)、超現実主義。魔法や超能力など合理性を欠くオカルトは、一切認めない堅物である。そんな彼が最もバカにする類の霊能力者ソフィの起こす数々の奇跡を前に陥落。皮肉にも恋に落ちてしまう。
実のところ、この恋愛感情が一番不可解な超常現象といえよう。ソフィは若く可憐ではあるものの、苦手で嫌いなタイプの人間であり、富豪の子息(ハミッシュ・リンクレイター)をメロメロにし、求婚されている身である。しかも当のスタンリーにも婚約者がいる始末。それでも説明がつかない感情のスイッチが入り、制御がきかない。
風光明媚なコート・ダジュールを舞台に、かように不器用な恋愛の駆け引きが、ウィットにとんだ会話劇で軽妙に紡がれていく。

スタンリーに扮したオスカー俳優コリン・ファースは、毒舌で皮肉屋、擦れていながらピュアという役どころを愛嬌たっぷりに体現。ソフィに振り回され、恋心に戸惑うキュートさはオジサン好きのハートを射抜くこと間違いない。
ソフィ役のエマ・ストーンは、いわずと知れた今乗りに乗っているアイドル女優。彼女ですら熱望するのだから、アレン映画出演のステータスの貴重さが窺えよう。もうその旬の可愛さたるや殺人級だ。世の男性陣は楽天的で好奇心旺盛、無邪気な笑顔に100%陥落しよう。
二人のキャラを英米の人間性の象徴と捉えるのは、ちと失礼か。とにもかくにも両者の微笑ましい掛け合いは、ずっと観ていられるぐらいハッピーである。

“恋はマジック”とは月並みな表現だが、ひょんなはずみ、偶然の産物で、ふいに恋愛感情が芽生えてしまうミラクルは誰しも経験があろう。劇中の二人はタイトルが示す“ムーンライト”のアクシデントがきっかけとなるが、この不思議を合理的に説明するのは多分不可能である。理屈ではない。
期せずして映画という娯楽も、こうしたミラクルを観客に提供する代物である。映画と観客との出会いもまたひとつのラブ・ストーリーなのだ。そうした出会いのささやかな幸福を、本作はいい気分で味あわせてくれる。

例によって、年の差恋愛や、シニカル思想といったウディ・アレンの人生観を重ね合わせると生々しいものが見えてくる。でもそれはひとまず置いておく。
また、終盤へ向かってのちょっとしたどんでん返し等、「後々それでいいの?」と、よくよく考えたら色々と腑に落ちない展開もある。が、ヒューヒューと口笛を鳴らしたくなるようなラストは、アレンの作劇術が冴え渡り、唸りに唸る。

その軽さから最近評価された作品群に比べて見劣りするのは否めない。でも個人的には毒が薄めの、これぐらいのアレン流ロマコメを推したいところである。


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『ジュピター』 (2015)

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ウォシャウスキー姉弟が放つ壮大でチープなSF絵巻!



ティーン向けと頭を空に割り切って臨めば、シンプルに楽しめるスペース活劇ではあった。
本作は、SF映画界の奇才ラナ&アンディ・ウォシャウスキー姉弟監督作。『マトリックス』シリーズ以来となるオリジナルストーリー!という謳い文句からも分かる通り、いまだに当作のインパクトに縛られている当姉弟。以降の迷走ぶりはいわずもがな。本作においても、過去の遺恨からか批評家を呼ばずにサンダンス映画祭でサプライズ上映を敢行。思わず観客の不評を浴び、のっけから躓いてしまった。結果、興行も振るわず、早々と失敗の烙印を押されている本作。でも個人的にはB級のノリが嫌いではない分、拾い物を期待して劇場へ向かったのだが…!?

アメリカ、シカゴ。清掃員として働くジュピター(ミラ・クニス)は、貧しいながらも母と親戚の家に居候し、平穏な日々を送っていた。ところがある日、謎の異星人の襲撃をうけたことから生活は一変。間一髪、ピンチを救ってくれた男ケイン(チャニング・テイタム)は説明する。宇宙で最も権威ある王朝の女王が亡くなり、現在、3人の子供たち、バレム(エディ・レッドメイン)、タイタス(ダグラス・ブース)、カリーク(タペンス・ミドルトン)が王位継承を争っている。しかし女王の遺伝子をもつジュピターの存在が発覚し、順当にいけば生まれ変わりである彼女が即位する運びとなる。それを阻止するべくバレムは刺客を送り込み、逆にケインは護衛するようタイタスに雇われたという。あまりに突飛な事態を飲みこめないジュピターであったが、刺客は手を緩めず次々に訪れ、やがては宇宙を飛び回る大騒動に巻き込まれていき…。

はじめにいっておくと、ヴィジュアル面に関しては、さすがウォシャウスキー姉弟。独創性、真新しさこそないが、反重力ブーツといったガジェットの造り込み、市街地の破壊アクション、各惑星の威容、宇宙船や王宮の荘厳な美術と衣装デザイン等々、観る者を圧倒するクオリティを誇っている。スクリーンで鑑賞する価値は充分あろう。

そこに、価値観をひっくり返すストーリーの仕掛け、宗教神話を絡めた寓意性といった作劇の妙が融合したのが、革命作『マトリックス』(99)であった。ただ、マッチングをしくじると、どれだけの惨事になるのか、本作を観ればよく分かる。
本作においても、主人公の謎めいた出生、これまでの常識が一変してしまう巨大な力が作用した想像も及ばない世界の裏側(人類起源)、シェイクスピアのような格差恋愛&陰謀劇、等々、姉妹らしい示唆に富んだ様々な意匠が凝らされてはいるのだが…、残念ながら総じてスベってしまっており、チープこの上ない。

まず、狙ってやったのかと思うほど主役コンビの悪ふざけが過ぎよう。
訳アリの下級戦士ケインに、ヒーローとしての魅力がないのが致命傷である。全然似合っていない濃いメイクと、狼の遺伝子が加味されたという中二設定の成果が“とんがり耳”だけという無駄加減に脱力を禁じえない。演じるチャニング・テイタムは、せっかく『フォックスキャッチャー』(14)で演技派として株を上げたのに、すぐさま暴落である。不憫で仕方ない。
ジュピター役のミラ・クニスも存在感が軽くコメディに見えて、どうも真に迫ってこない。本役はもっとフレッシュな人材を起用するべきであった。
他、ペ・ドゥナ、ショーン・ビーンも出てくるが、かなしいほど活きていない。
一番、割をくったのは、悪役バレムを演じたエディ・レッドメインだ。気持ち悪い怪演ぶりは認めたいが、キャラがあまりに薄っぺらい。ポストプロダクションの遅れで彼のオスカー受賞後に公開された経緯は、本作にとっては有利に働いたが、彼にとっては不幸でしかあるまい。

主役コンビがたっていないばかりか、筋運びも問題である。敵にジュピターが捕らわれて、ケインが助ける、というワン・パターンの芸のなさ。ジュピターが落下して、ケインが拾う繰り返しに辟易した。終始ワクワクドキドキしない。

高度なヴィジュアルとやってることの幼稚さとのギャップの凄まじさに頭クラクラである。もしかしたら、アニメに造詣の深いウォシャウスキー姉弟のこと、わざとこういう風につくっているのかもしれない。
となると、こちらも見方を変えねばなるまい。なるほど、完全におバカ映画に接する心持ちで捉えれば、姉弟は莫大な予算でB級を撮ってくれる貴重な存在に思えてくる。これはこれで魅力であろう。
次があるか分からないが、カルト映画ファンたちよ、ウォシャウスキー姉弟を大切にしようではないか。


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