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Channel: 相木悟の映画評
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『キャリー』 (1976)

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エモーショナルな鮮血青春ホラーを体感すべし!



ホラーと青春モノは、一般的にはセットなイメージがある。理由といえば、犠牲になるのがチャラい若者たちの方が映えるというより、精神が未熟かつ不安定で狂気をはらみ、ある種、死が身近にある若者の心情にホラーが引き寄せられているといえよう。
とはいえ、青春モノとしてきちんと成立しているホラーがどれだけあるかは疑問。そんな中、本作は両ジャンルが見事に融合された傑作である。
原作は、モダンホラーの帝王スティーヴン・キングの記念すべきデビュー作。当時、キングは小説家として鳴かず飛ばずで、教師をしながらクリーニング店でアルバイトをし、トレーラーハウスに住んでいた。そんな中で書かれた本原作だが、はじめは数ページ書いて挫折し、ゴミ箱に放り込んだところ、拾って読んだ妻に励まされて執筆を続行。完成した作品は、『エクソシスト』(73)が巻き起こしたオカルト・ブームに乗って話題となり、ベストセラーになる。
さっそく映画化権の争奪戦となり、怪奇色の濃いスリラーで評価を得ていた若手の奇才、ブライアン・デ・パルマを監督に招聘。結果、映画は大ヒットし、興行的成功に恵まれていなかったデ・パルマはメジャーの地位を固め、キングはご存じの通り売れっ子となった。
その後もキング作品は次々に映像化されたが、実際トホホな出来が多く、本作はその中でも本人が「一番忠実」と絶賛を惜しまない稀少な一本である。

メイン州チェンバレンのベイツ・ハイスクールに通うキャリー(シシー・スペイセク)は、気弱で内気な性格からクラスメイトからいじめを受ける辛い日々を過ごしていた。ある日、体育の授業後、シャワーを浴びていたキャリーは初潮をむかえるも知識のなかった彼女はパニックになり、同級生にはやしたてられ騒動に発展。その場は女性の体育教師コリンズ(ベティ・バックリー)により収められ、コリンズはいじめたメンバーを集め、居残り授業の罰を課すのであった。
キャリーは厳格なキリスト教信者の母親(パイパー・ローリー)と二人暮らし。性の欲望をバチあたりと嫌悪する母親のヒステリックなしつけに堪えるキャリーであったが、彼女には誰にもいえない秘密があった。実はキャリーは、感情の高ぶりにより物を動かしたり、破壊できるテレキネシスをもつ超能力少女だったのだ。
そんな折り、キャリーに対し罪悪感をもっていた同級生のスー(エイミー・アーヴィング)は恋人のトミー(ウィリアム・カット)に、キャリーを自分の代わりにプロム・パーティーへ誘うよう頼み込む。しぶしぶ了承したトミーはキャリーにエスコートを申し出るも、キャリーは怯えて逃げ去ってしまう。しかしコリンズの励ましもあり、キャリーは猛反対する母親を押しのけ、トミーとパーティーへ行く決心を固めるのであった。
一方、キャリーへの腹立ちがおさまらない、いじめグループのリーダー格クリス(ナンシー・アレン)は恋人のビリー(ジョン・トラヴォルタ)と共に、パーティーに向けてある恐ろしいイタズラを計画し…。

キャリーの母親は、ファナティックなキリスト教徒。浮気夫に逃げられたショックに折り合いをつけるように、キャリーを抑圧する。学友との交流も認められず、禁欲的な生活を強いられたキャリーは自然、浮世離れし、いじめの対象になる羽目に。
さらに心の内には、テレキネシスという自分でも手の付けられない暴性を抱え、キャリーはトリプルのプレッシャーに苛まれる。
いうまでもなくこれらは、青春時代に家族や教師、友人関係の下、誰もが抱く制御、理解できない内なる感情の誇張されたメタファーといえよう。

とことん抑圧された後、ようやく殻を破り、プロム・パーティーで解放の喜びに浸る絶頂で奈落に叩き落される―。パンパンに膨れたエモーションの風船が暴発するクライマックスは、スカッとする傍ら、どうしようもない切なさを伴う。まさに若さゆえの高揚と、期せずして加速度的に犯してしまう取り返しのつかない過ち。そこが本作の青春モノたる側面の真骨頂といえよう。
一方、観終わった後も地続きになる恐怖の余韻はホラーの面目躍如であり、他の追随を許さない。

そして、何といっても劇中で爆裂するブライアン・デ・パルマのテクニックと変態性にご注目。
バレーボールに興じる女子の体育授業を映し出したOPの長回しで、キャリーの性格、置かれた立場を一発で表現。続いて一転して、エロティックで美しいシャワー・シーンにつながる鮮やかさに唸る。
キャリーの自室で内なる狂気を示す鏡の使い方、あえてほんわか青春風の浮いたカットを挟む居心地の悪さ、ダンス・シーンでグルグル回るカメラ、“あるイタズラ”が発動するまで各キャラの動きをフォローするスリリングな超長回し、パーティーが地獄絵図と化す際の分割スクリーン、等々…。
母親と娘の最終決戦も、母親がキャリーの超能力(抑圧された鬱憤=性)にエクスタシーを感じる等、奥深い寓意に溢れている。
そして訪れる映画史に残るオチ!本作後、さんざん真似される有名シーンだが、はじめて観た時は冗談ではなくTVの前で飛び上がった覚えがある。
バーナード・ハーマンにオマージュを捧げたピノ・ドナッジオのサウンドトラックもまた必聴!

ただ不満をあげれば、キャリーのクラスメイト、スーの描き方にちょっと異議を申したい。このスーというキャラは、本作の中ではコリンズ先生と共に善意のキャラの代表格なのだが、不穏な空気を維持するためか、後半まであえてグレーに描かれている。よって、彼女とトミーが善なのか悪なのか雑念が先に立ち、ポジションが消化不良になっているといわざるをえない。

キャリーを体当たりで演じたのは、当時27歳(!)のシシー・スペイセク。本作のプロダクション・デザインを担当した夫ジャック・フィスクのプッシュもあり、並居るライバルを押しのけて本役を執念で獲得。線が細く挙動不審で不気味としかいいようのない前半から、パーティーで光輝く変貌ぶり&狂乱の暴走は鬼気迫る名パフォーマンスである。
本作後に『歌えロレッタ!愛のために』(80)でアカデミー主演女優賞を受賞し、名女優の仲間入りを果たした。
キャリーの母親を迫力たっぷりに演じたのは、『ハスラー』(61)の好演が有名なパイパー・ローリー。本作が久しぶりの復帰作となり、衰えぬ結果を刻んだ。
両者共、ホラー映画としては前代未聞のアカデミー賞ノミネートも納得の怪演である。

正直、本作はこのキャリーと母親のインパクトが強すぎて他は印象に残らないが、実は超豪華な脇役陣を誇っている。
原作では主役級である重要人物スーに扮したのは、エイミー・アーヴィング。『フューリー』(78)でもデ・パルマに役を与えられ人気女優となり、スティーヴン・スピルバーグのハートを射止め、結婚した。(後に離婚)
ちなみに実母の女優プリシラ・ポインターが劇中でも母親役を演じ、母娘共演を果たしている。
スーの恋人で、彼女の頼みでキャリーをプロム・パーティーに誘うトミーに扮したのは、ウィリアム・カット。はじめは気が乗らないものの、ドレスを着たキャリーの変身ぶりに心を奪われる好青年を爽やかにこなしている。
彼も後に、81年のTVシリーズ『アメリカン・ヒーロー』で人気者になった。

他方、いじめっ子で金持ちのお嬢であるクリス役のナンシー・アレンも、『殺しのドレス』(80)、『ミッドナイトクロス』(81)といった後のデ・パルマ映画や『ロボコップ』(87)でブレイク。79年に、デ・パルマ夫人となった。(こちらも後に離婚)
クリスの恋人ビリー役のジョン・トラヴォルタは、本作後の『サタデー・ナイト・フィーバー』(77)により大スターとなり、例のごとくデ・パルマの『ミッドナイトクロス』に主演。一時は低迷するもタランティーノに見出されて不死鳥の復活を遂げ、いわずと知れた現在の活躍に至る。

有名な逸話としては、本作のオーディションはデ・パルマの盟友ジョージ・ルーカス監督の『スターウォーズ』と同時に開催され、実はエイミー・アーヴィングはレイア姫、ウィリアム・カットはルーク役の有力候補であった。反面、キャリー役には、ご存じレイア姫役をゲットしたキャリー・フィッシャーの名が浮上するも、ヌードを拒否し、ご破算に。個人的にはキャリー・フィッシャーのキャリーは、ちょっと観てみたかった気がする。
また、ティッピ・ヘドレンの娘であるメラニー・グリフィスもオーディションに参加していたのだが、デ・パルマの無理難題にブチギレて帰ってしまったのだとか。ヒッチコキアンのデ・パルマを顧みれば、もしかしたら彼女が一番の候補であったのかもしれない。
本オーディションの初期段階の結果をみると、歴史的メガ・ヒットとなった『スターウォーズ』組のマーク・ハミルとキャリー・フィッシャーが一見、勝ち組にみえる。が、長い目でみると一概にそうではなかった事実が、歴史の妙味といえよう。

こうした経緯をみると、ルーカスとデ・パルマ共々、青春の花火を打ち上げた一作ともいえ、特に本作はデ・パルマのほとばしる感情が映画にのり移っているように思う。
デ・パルマのフィルモグラフィの中でも、商業性と作家性がいい具合に交わった忘れがたい一本である。


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『ウォータームーン』 (1989)

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長渕パワーみなぎる大珍作を体感すべし!



僕はシンガーソングライター、長渕剛の大ファンである。
いきなりどうでもいいカミングアウトだが、ご容赦を。
親の趣味で幼少時から車移動の度にカーステレオで聴かされ刷り込みをうけていた分、純粋培養のファンといって差し支えあるまい。
僕からみる長渕剛の最大の魅力は、ズバリ、“人間臭さ”。孤高のロッカーである永ちゃんやブルース・スプリングスティーンと違い、氏には人間的に弱い側面があり、そこを隠さず(隠せず)さらけ出す姿が共感を呼ぶのである。
例えば、サラサラヘアー型優男のフォークシンガーからハードなロッカーへ、ヤクザな兄ちゃんから仏教かぶれ、果ては筋肉ファイター、とコロコロとスタイルを変転さていく臆面のなさも、さもありなん。これほどあからさまに志向を何らかの影響に引っ張られたクリエイターは、そうはいまい。
このある種の不器用さが、悪口ではなく、ストレートに胸に響くのである。よって、一面の印象で長渕をとらえる世間の人々には、大きな誤解が生まれていよう。ファンは格好いいから信奉しているのではなく、失笑しつつ尊敬し、親心で愛しているのだ。
そんな長渕の偉業のひとつが、何を隠そう俳優業の成功である。TVドラマでは、それこそ数々の名作を残してきた。シンガーと俳優を長く両立させた人材は、氏と福山雅治ぐらいではないだろうか?
という訳で今回は、長渕剛の映画進出第2弾である。


※本稿は執筆内容上、ネタバレ全開となっているので、ご注意ください!






1989年。とある山寺の修行僧、竜雲(長渕剛)は、幼い頃から住職の崇禅老師(垂水悟郎)に育てられ、一切下界におりた経験がなかった。折にふれて都会への憧れを口にする竜雲。そんなある夜、いじめられていた若い修行僧、知念(萩原聖人)を助け、ケンカ沙汰を起こしたことをキッカケに、ついに老師は竜雲に山をおりることを許すのであった。
しかし実は竜雲の正体は、33年前、宇宙より長野県に墜落した物体から回収された異星人。“R”というコードネームで呼ばれる国家機密であり、一年に一度、血液交換をしなければ生きられない身体であった。今年の交換リミットが迫る中、国家公安部の奥野(小林稔侍)たちは東京に出た竜雲の追跡を開始する。
一方、町をさまよう竜雲は公園でサバイバル・ゲームに興じるサラリーマンに襲われ、重傷を負ってしまう。そんな竜雲を助けたのは、旅館の女中をしている盲目の女性、鹿野子(松坂慶子)であった。奥野たちの手が迫る中、竜雲は虐げられた生活を送る鹿野子の手を取り、旅に出るのだが…。

本作を語る上でどうしても捨て置けないのが、製作上のゴタゴタであろう。名著として誉高い『映画秘宝』のムック『底抜け超大作』でも取り上げられた有名なエピソードだが、とりあえず、ザッと経緯を記しておく。

まず序章として俳優、長渕剛について少々触れておくと、88年にリアルやくざ映画の金字塔『竜二』(83)に主演した金子正次の影響をもろに受けた、TVドラマ『とんぼ』の小川英二というキャラが創作された。長渕自身は公言していないが、ドスの利いたセリフ回しから、いわゆる世間一般に浸透した“長渕キック(松本人志命名)”に至るまで金子正次の完コピである。ちなみに名曲『泣いてチンピラ』の歌詞にも、『竜二』のモノローグが、そのまま引用されていたりする。
幸いにして『とんぼ』は高視聴率を叩き出し、パラレル・ワールドの劇場版『オルゴール』(89)も大ヒットを記録。それに気をよくした東映サイドから2作目の話が持ち込まれた訳である。

そこで長渕が新たに目指したのは、もう一人の憧れの俳優、松田優作であった。ご存じの通り、金子正次は松田優作の弟分であり、長渕の本格的な俳優デビューとなったTVドラマ『家族ゲーム』の映画版の家庭教師を演じたのが、松田優作その人である。
やはりよほどの思い入れがあったのか、長渕はこれを機に監督を工藤栄一、脚本に丸山昇一、撮影に仙元誠三といった優作組を収集し、前作に引き続き製作協力にセントラルアーツを加え、題材は『ア・ホーマンス』(86)もどきを選ぶという大胆なチャレンジにうって出た。

しかし、いざ製作がスタートすると、脚本は直前に改定するわ、監督の演出に口出しするわ、苛酷なロケ撮影を強要するわ、長渕のワンマン(=わがまま)ぶりにスタッフが振り回され反発を招いていく。共演の松坂慶子も熱の入った長渕の演技指導に辟易し、二人の仲は険悪化。果ては、うんざりした工藤栄一監督まで降板してしまい、半分は長渕剛監督作になってしまった。
奇しくも監督が途中降板し、自ら監督の座についた『ア・ホーマンス』の松田優作と同じ状況に陥った訳である。もし成功していれば、運命的な伝説となったであろう。

結局、最後まで長渕が好き勝手やったため、破綻した珍妙な作品が生まれてしまった。
考えてみれば、長渕も自腹で資金を出しているのだから、口出しは当然といえば当然。意気込みとは裏腹にスタッフの統制に失敗したのは、長渕にカリスマ性がなかったというより、造り手としての映画の才能およびキャリアの不足が原因であろう。
あくまで長渕は、シンガーソングライター、コンサートのプロデュースとしてのプロフェッショナルなのである。

公開された本作は悪評を浴び、カルト化。しかし長渕は、すぐさま主演TVドラマ『しゃぼん玉』(91)と音楽活動で再び大ヒットを飛ばし、復活。長渕人気が深刻に急降下するのは、続くTVドラマ『RUN』(93)終わりのゴタゴタ以後である。

という風に、外野にはさんざん袋叩きにあった本作だが…、実は僕、大好きなのである。長渕ソングに一番熱狂していた時代に観た影響もあるかもしれないが、480円で購入したレンタル落ちの中古VHSを、飽きもせず繰り返し観ていた。

ではせっかくなので、僕なりの本作の解釈を記すと、平たくいえば、世知辛い社会の不条理を歌った主題歌『しょっぱい三日月の夜』(劇中、しつこく二度流れる)の歌詞が、全てを物語っているように思う。
善人がバカをみて、悪人がのさばる理不尽な世の中を変えることはできない。でも、何処かにいるかもしれない“当たり前の男(逆にいうと、こんな世の中で普通に生きている理想の人物)”に会うことが竜雲の抱いた夢。いわば、それは世の理想を探す旅であり、そんな夢を叶えんとする行為は所詮、水の中の月(ウォータームーン)を追うようなもの。そうと分かってはいても、人はウォータームーンを目指して生きていくべきである、というのが本作のメッセージなのであろう。

異星人である竜雲は、どうやっても世間から弾かれてしまう。そこには東京に出てきて、馴染めない田舎者の悲哀も込められているのだろう。
盲目の鹿野子も優しい知念も同様に、何も悪いことをしていないのに、不幸を背負っている。ラスト、公安の奥野もおそらく竜雲を取り逃がした責任をとらされて絶望したのか、竜雲を殺害して自害しようと立ちはだかる。しかし達観した竜雲を前にして、土壇場で断念。劇中で示唆された通り、彼には守るべき家族があり、おそらく心中で残された妻や子に想いを馳せたのだろう。
ことほどさように、上記した「何をおいても、あきらめずに生きろ!それしかない!」というメッセージが劇中から絞り出されているのである。

今きちんと観た上で僭越ながら進言すると、僕的には竜雲をいっそのことテレキネシス等の超能力者という国家的脅威にしてしまい、ラストのとってつけたような奇跡はカット。結局、血液交換が間に合わずに竜雲が死んで、かすかに盲目の鹿野子に希望が残る―、というラストにすればよかったように思うのだが…。というか、もう少し整理すれば、いくらでも辻褄のあうストーリーにはなった分、残念でならない。元来の丸山昇一のシナリオを読んでみたいものである。

何はともあれ、支離滅裂な映画であるのは変わりなくとも、周囲を圧倒する長渕パワーがみなぎっており、一種、異様な観念的珍品であるのは間違いない。製作時の哀しきトラブルと共に世紀の奇作として、語り継がれるべきであろう。


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『KANO ~1931海の向こうの甲子園~』 (2014)

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全てを覆う球児のひたむきさに感涙せよ!



特に日本人には直球に胸に突き刺さる感動大作である。
本作は、日本統治時代の台湾原住民による抗日暴動をダイナミックに描いた『セデック・バレ』(11)が高い評価をえたウェイ・ダーションの脚本、プロデュース作。長編映画初監督に挑戦したのは、同作に出演した俳優マー・ジーシアンだ。
『海角七号 君想う、国境の南』(08)、『セデック・バレ』と同時代を題材にしてきたダーションが今回ピックアップした題材は、台湾代表として甲子園に出場し、大会を席捲した嘉義農林学校野球チーム。『セデック・バレ』の準備中に歴史に埋もれていた快挙を知り、映画化を企画。野球少年だったマーが、監督に名乗りを挙げたという。
本作は台湾で公開されるや大ヒットを記録し、観客の熱い支持をうけるも、「日本統治を美化している」と親中勢力からバッシングを受け、台湾最大の映画賞、金馬奨では主要部門では無冠に終わり(観客賞と国際映画批評家連盟賞を受賞)、中国の圧力があったのではないか?とファンが疑問を呈し、騒動に発展した。
はたして、台湾を揺るがしたその内容は如何に…!?

1929年、日本統治下の台湾。かつて名門、松山商業野球部の監督として名を馳せた近藤(永瀬正敏)は、簿記の教師として働き、妻(坂井真紀)と幼い二人の娘を養っていた。そんな近藤に地元の嘉義農林学校から、野球部の監督へ就任要請がくる。松山時代の苦い経験から答えをしぶる近藤であったが、日本人、台湾人、台湾原住民が混成したチームの練習風景を見学するにつけ、そのあまりの不甲斐なさに野球人としての血が騒ぎ、監督を快諾。「台湾代表として甲子園出場!」という目標を掲げ、猛特訓を開始する。はじめはとまどったメンバーたちも近藤に必死に喰らいついていき、やがては日本人中心の台湾チームを破るまでに急成長。チームは一躍、地元の星として期待を浴びるようになっていき…。

1931年の嘉義農林学校野球部、“KANO”の活躍については、恥ずかしながらはじめて知る逸話であった。台湾の野球チームが甲子園に出場していたこと自体知らなかった。本チーム出身の呉昌征が日本のプロ野球入りして名選手となり、殿堂入りしたことも野球オンチなため無知であった。(本選手は劇中で、練習場に出入りしている少年として登場)
『バンクーバーの朝日』同様、こういう史実を映画を通して知るにつけ、まだまだ知っておかねばならないエピソードが山程あるであろう歴史の多彩さを痛感する。

ストーリーの構造は、実にストレート。過去にいきさつのあるコーチが僻地で、ダメダメ・チームを再建する『がんばれ!ベアーズ』(76)方式だ。
守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人、俊足の台湾原住民といった、人種から境遇まで異なるメンバーそれぞれの特性を活かし、チームワークの素晴らしさを提唱。なおかつプロセスと結果、勝つことの真の意義を訴えかける。
そして、選手と共に監督も過去のトラウマを乗り越え、成長。瑞々しくも野球経験があり、本格的な試合シーンで魅せる選手役の役者たちとスパルタ監督役の永瀬正敏の熱演も印象深く、涙、涙、涙の怒涛のクライマックスまで構成要素としては全く申し分ない。

ただ、そのままスポ根ものとして捉えれば、上映時間185分はあきらかに冗長である。
長尺の割に、エースで主将のアキラこと呉明捷(ツァオ・ヨウニン)の淡い身分差恋等、味付けはあるにはあるが、野球部の各キャラの個性の描き込みは総じて薄い。全体的に感傷に浸り過ぎて、間延びした面が目立つ。
しかし、そうした過剰なセンチメンタルが日本人と台湾人を揺さぶるのは確か。両国の人々特定で感動が倍加する一作といえよう。

分かり易いのは、甲子園の存在だ。高校球児たちの夢舞台である特別さを肌身で知る日本人にとって、そこを話の頂点にもってこられるのだから想いは格別であり、悪い気はしない。劇中の台湾の球児たちがはじめはバカにされつつも、地元民の期待を一身に背負い、快進撃を通して日本人の心をつかんでいく様子は問答無用に感動させられる。甲子園にピンと来ない他国の人々より、確実に感慨は深かろう。

また、統治時代の描写として、日本人が台湾の人々に圧政を加えているような描写がほとんどない。日本国内のシーンで、見下した差別描写があるぐらいである。それどころか、嘉南地域のダムや灌漑施設を指導し、台湾の農業発展に貢献した水利技術者、八田與一(大沢たかお)が、偉人として登場するのだから何をかいわんや。ウェイ・ダーションの「日本を美化したわけではない。悪く描かなかっただけだ」という発言は言い得て妙ではあるが、「これでいいの?」とむずがゆく心配してしまうほどである。
親中機関が本作を槍玉に挙げたのは、もちろんナンセンスだと思うが、危険視してやっかむ気持ちはよく分かる。

でも八田與一の存在や、多人種が織り成すチームプレイからは、そうしたしがらみを越えた平和共存のメッセージが響いてこよう。
そして、嘉義農林学校野球部に敗れた札幌商業学校の主将(青木健)が、1944年に陸軍大尉としてフィリピンへ出征前に、嘉農の練習場を訪れる一連のシークエンス。台湾人や台湾原住民たちが日本兵として共に戦地に送られる光景からは、戦争においてのチームプレイの皮肉が窺え、やりきれない思いが去来する。ここは重大に受けとめねばなるまい。

若干CGに残念な点がみられるが、些細な問題である。精緻で雄大なオープン・セットには圧倒されるし、何より日本人役者をちゃんと起用し、史実に則り、話される言葉がほぼ日本語という再現のこだわりにも敬意を表したい。
こんな誠意にあふれた映画をみせられたら、もう白旗を降るしかない。まいりました。


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『ジャッジ 裁かれる判事』 (2014)

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一粒で二度おいしい父子ドラマ×法廷サスペンス!



ふたつのジャンルを融合させた、味わい深い一品ではあるのだが…。
本作は、『アイアンマン』シリーズでお馴染みのチョイ悪親父スター、ロバート・ダウニー・Jr.主演作。妻と共に立ち上げた製作会社“チーム・ダウニー”の記念すべき第一回作品だ。
若くしてオスカーノミニーをうける等、一躍脚光を浴びるもドラッグで転落。悪童ぶりから業界から干され、あろうことかアメコミ・ヒーローとして大復活。いまや『アイアンマン』と『シャーロック・ホームズ』というヒット・シリーズをもつマネーメイキング・スターになった激動の男ダウニー。
そんな酸いも甘いもかみわけたノリにノッている俳優が、他者から与えられる役柄ではなく、自ら演じたい作品を自社で製作してしまうケースはままあり、トム・クルーズやジョージ・クルーニー、ブラット・ピットといった先達は良質作を生み出し続けている。はたしてそこに仲間入りした我らがダウニーは、どんな作品を生み出したのか…!?

シカゴで金持ち相手の弁護士として名を馳せるハンク(ロバート・ダウニー・Jr.)は、一見、順調にみえて、私生活は妻と離婚協議中で娘の親権争いの真っ最中。そんなハンクのもとにインディアナ州の故郷から母の訃報がもたらされる。こうしてハンクは久しぶりに故郷の田舎町に帰り、兄のグレン(ヴィンセント・ドノフリオ)と精神薄弱者の弟デイル(ジェレミー・ストロング)と再会を果たす。しかし昔から折り合いが悪く絶縁状態にあった判事の父ジョセフ(ロバート・デュヴァル)とは、いまだにうち解けないでいた。母の葬儀も終わり、さっそく帰ろうとするハンクであったが、そこでジョセフがひき逃げ殺人の容疑で逮捕されるという事件が発生。40年間、法廷で正義を貫き、世間からの信頼も厚いジョセフが殺人を犯すはずがない。帰るに帰れなくなったハンクは、ジョセフの選んだ弁護士のサポートをすることに。しかし被害者はジョセフがかつて軽罪に処したが、出所後、罪を犯した男。ジョセフに動機がある上、次々に疑わしい証拠が浮かんできて…。

なんとなく物々しい邦題のサブタイトルから法廷モノの印象を強くうけるがさにあらず。全体の印象としては、都会でバリバリ働いていた人間がふと田舎に帰り、原点に接し、人生を見つめ直す『ヤング≒アダルト』(11)、『エリザベスタウン』(05)よろしく定番ホームドラマである。

本作でピックアップされるテーマは、父子関係だ。男子にとって父親は、越えなければならない壁であり、子供の頃は驚異として立ち塞がる。が、大人になるにつれ、あれほど怖かった父親が老いていき、立場が逆転した時の切なさたるや…。
ハンクがジョセフの力になることで真の一人前になっていくプロセスは、誰もが多かれ少なかれ共感できよう。

かような父子ドラマを殺人事件のからむ法廷サスペンスにダブらせたところが、本作のミソ。判事であったジョセフをハンクが弁護する逆転構造、その中でのハンクとジョセフの対立、暴かれるジョゼフの哀しい真相、そして同時に明かされる父の愛にホロリと涙する。この辺りは実によくできている。

ハンクを演じるロバート・ダウニー・Jr.は、強欲で軽薄なプレイボーイで仕事は凄腕、でもチャーミングで憎めないという本役を、「俺に任せろ!」とばかりに、水を得た魚のように余裕で役をこなしている。
ジョセフ役のロバート・デュバルの切なくも雄々しい熟練の存在感もまた負けていない。いやむしろ食っている。
このWロバートの舌戦も見どころのひとつだ。

強敵感が半端ない検事役のビリー・ボブ・ソーントン。元カノ役でロマンス・パートを担う色気ムンムンのヴェラ・ファーミガ。他、怪優ヴィンセント・ドノフリオまで脇にキラリと光る役者がゾロッと揃っているのもダウニー兄貴の人徳か。

ただ本作、ノスタルジーな出戻りホームドラマとベタな法廷モノ、このひねりのないふたつを掛け合わせて面白かったかと問われると、「う~ん」と首を捻らざるをえない。相乗効果はあまりなく、先読み出来る分、どっちつかずのテンポの悪い冗長な流れになってしまったのが悔やまれる。個人的には、すっかり退屈してしまった。全米でいまいち興行が振るわなかったのもさもありなん。

今回はちょっぴり残念な結果であったが、ロバート・ダウニー・Jr.には、あり余る財力を駆使して、純粋に優れたプロットや若手をとりあげ、良質な作品を生み出してほしいものである。今後も期待しています。


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『007/ユア・アイズ・オンリー』 (1981)

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ユーモア路線の中にキラリと光る激シブ味の第12作!



おそらく一般の方々は、ボンドを演じる役者によって、シリーズをジャンル分けされていることと思う。そうした区別も決して間違ってはいないが、厳密にいえば、作品自体に個性があるのがホントのところである。例えば、ユーモア満載なスナック感覚路線と見なされるロジャー・ムーアの作品群も実は山あり谷ありバラエティに富んでおり、ひとつは『ムーンレイカー』(79)にて荒唐無稽スペクタクルの頂点を極めた。当作はインパクトでいえば、シリーズ中最強といっても過言ではあるまい。
そんな振り切れるまで振り切れた衝撃作の後をどうするか?製作陣は方向性について悩みに悩んだ。そして、スパイ・エンタメという原点回帰に軌道修正する旨を決定したのである。ともすると、せっかく前作までに獲得したファンの期待を裏切る方向転換であり、今にして思えば断腸の決断であったことは想像に難くない。
結果、決断が功を奏し、コアなファンと一般客に受け入れられ、シリーズの延命へとつながる。もしおバカ路線を突っ走っていたら飽きられて、シリーズは終焉を迎えていたかもしれない。
という訳で本作は、そんなある意味、シリーズ中の重要起点である第12作。内容はイアン・フレミングの二つの短編『読後焼却すべし』と『危険』の複合体となっている。

ギリシア、コルフ島沖イオニア海で、英国のスパイ船“セント・ジョージ号”が、謎の機雷攻撃で沈没させられる事件が発生。船内には軍事機密であるミサイル誘導装置“ATAC”が積まれており、慌てた英国国防省は秘密裡に海洋考古学者ハブロックに引き上げを依頼する。ところがハブロック夫妻は突然現れた水上機に銃殺され、その場に居合わせた娘のメリナ(キャロル・ブーケ)は惨劇を目撃してしまう。この結果をうけて国防省は、“MI6”のジェームズ・ボンド(ロジャー・ムーア)を派遣。さっそくボンドは、夫妻を殺害したパイロットのゴンザレス(ステファン・カリファ)が潜むマドリードに直行する。しかしゴンザレスはボンドが捕まえる前に、復讐に燃えたメリナの放った矢により絶命。ゴンザレスが接触していた殺し屋ロック(マイケル・ゴザード)の一味に狙われたボンドはメリナと共に、なんとかその場を逃げのびるのであった。
ロンドンに戻ったボンドは、Q(デスモンド・リュウェリン)の開発した照会システムを駆使し、ロックが北イタリアのスキー・リゾート、コルチナ・ダンペッツォに潜伏している旨を突き止める。現地に向かったボンドは情報屋のフェラーラ(ジョン・モレノ)を介し、大富豪クリスタトス(ジュリアン・グローヴァー)と会合。ロックが密輸業者コロンボ(トポル)の右腕である情報を得たボンドは、再会したメリナと共に事件の真相に迫っていくのだが…。

毎度お楽しみアバンタイトルは、亡き妻の墓参りに訪れるボンドの哀愁の姿から始まる。この亡き妻トレーシーは、『女王陛下の007』(69)のエピソードを継承し、あまつさえその後にペルシャ猫を抱いたスキンヘッドの車椅子男が登場。本編内では名は明かされないが、どう見てもシリーズ初期にボンドと死闘を繰り広げた国際犯罪組織“スペクター”の首領ブロフェルドその人である。
本シーンでは、ボンドが乗ったヘリコプターを遠隔操作する車椅子男とボンドとのバトルを活写。例のごとく車椅子男が悲惨な最期をむかえるのだが、実は本シーンはロジャー・ムーアが当初、ボンド役を拒否したため、新ボンドの区切りの出発という意味合いで生み出された。結果、ムーアが続投する運びとなり、ムーア・ボンドのイメージ刷新の象徴となった訳である。
車椅子男が無名になっているのは、当時、権利問題の関係で本家が“スペクター”と“ブロフェルド”の名称を使用できなかったゆえであり、本シーンはそうした外野のゴタゴタへの決別宣言でもあったのだろう。
ちなみに2012年にフェイスブックの公式イベント「シリーズの中で好きなシーン」のファン投票で、本シーンはようやく『“ブロフェルド”の死』として認められた。

主題歌『For Your Eyes Only』を歌うのは、シーナ・イーストン。後にスターになる新人の彼女だが、本時点でオープニング・タイトルに顔見せするというシリーズ唯一の恩恵にあずかっている。僕的には次作『オクトパシー』(83)の『All Time High』同様、しっとり系の本曲が大好き!

本編がはじまると、英国の秘密軍事兵器をめぐり、KGBや密輸組織がからんだ争奪戦が繰り広げられるのだが、今回は東西冷戦の緊張感が高まっていた背景もあり、いつになく政治的なシリアスな雰囲気に包まれている。前作の『ムーンレイカー』との格差を考えれば、驚愕の一言(笑)。
多少、登場人物と筋が入り組んでいて、ややこしく感じるが、基本線は至ってシンプル。実はミステリー要素もなく、テンポよく矢継ぎ早に繰り広げられるアクションを楽しむ娯楽作に仕上がっている。
しかし上記したように、あくまでスタンスは抑え目なので、ボンドカーも活躍せずボンドはメリナの可愛い車シトロエン・2CVでカーチェイスに興じ、秘密兵器もナシ。
その分、スキーやボブスレーを使ったバラエティ豊かな雪上アクション、海中バトル(もちろんレギュラー・アニマルの鮫も登場)、『死ぬのは奴らだ』(73)でカットされたボート引きずられ拷問の復活、ロック・クライミング・サスペンス、等々、純粋に肉体を駆使したハラハラドキドキの活劇を堪能できる。

スペイン、イタリア、地中海と贅沢に飛び回るロケ地だが、個人的にはクライマックスの舞台となるギリシア北西部のメテオラに注目。かの地は、山奥に隕石が落下したような無数の巨岩がつらなり、奇岩群の上には修道院が建てられている一度は訪れてみたい神秘の景観地である。本作撮影時には、通俗的なシリーズに対する修道僧の抗議運動が巻き起こり、妨害に反対の旗を立てまくったために思うような画が撮れなかったそうな。おかげで素晴らしい風景を、あまり活かせていないのが残念でならない。

5度目のボンド役ロジャー・ムーアの見どころとしては、何といっても殺し屋ロックが乗った車を、一蹴りで崖の上から突き落とすシーン。およそムーア・ボンドらしからぬ無慈悲な行動であり、監督と議論になったそうだが、結局、監督の意見が通ることに。結果的には本シーンは、ムーアのシビアな一面を引き出す新境地となった。

ボンドガールは、モデル出身の超絶スタイルを誇るキャロル・ブーケ。黒髪のエキゾチックな美貌は、異色の風を吹き込んだ。お色気シーンが少なく、なんとボンドと途中で肉体関係を持たず、ボーガンを武器にガンガン戦う破格の扱い。シリーズのテコ入れと魅力が合致した、印象深いボンドガールの一人といえよう。
代わりにお色気を担当し、熟女パワーを振りまいたのは、リスル伯爵夫人役のカサンドラ・ハリス。実は彼女は、5代目ボンドのピアース・ブロスナンの奥さんであり、ブロスナンも撮影現場に陣中見舞に来訪。あまりに端正なルックスにスタッフ陣を魅了したのだとか。彼女は91年にガンでお亡くなりになり、夫の勇姿を見届けることはかなわなかったが、運命を結びつけたのは彼女の功績だったのである。
オリンピックのフィギュアで金メダルを目指す少女、ビビを演じたリン=ホリー・ジョンソンも印象深い。10代の彼女は、「おじさまステキ!」と天真爛漫にボンドを誘惑。ボンドが、たじたじになるというシリーズ屈指の珍ボンドガールとなっている。さすがのボンドも倫理的に少女には手を出さないというスタンスが微笑ましい限り。

悪役クリスタトスを、かつてボンド候補になったダンディなジュリアン・グローヴァーが好演。ビビを囲って金メダルの夢を託し、実際は男好きな彼女を純真なイコンとして可愛がるイタい一面がたまらない。憎めない人間臭い悪党である。
他、最終的にはボンドの助太刀をするコロンボに扮した名優トポルの、さすがの存在感もGOOD。豪華な脇役である。
ラストには公開当時の首相である“鉄の女”とその夫のそっくりさんが登場。007だからこそ効く横綱相撲の爆笑シーンが用意されているので要チェック。

あと、M役のバーナード・リーが撮影前に亡くなり、彼に敬意を表して劇中では休暇扱いとなっている。ボンドがマネーペニー(ロイス・マクスウェル)にそっと手渡す一輪の花が哀悼の意を示しており、胸をしめつけずにはいられない。

監督には、これまでのシリーズで編集及び第二班監督を務めてきたジョン・グレンが昇進。面白いものをみせてやる!というデビュー作らしい意欲が漲っており、その初々しさも本作のクオリティの要因であろう。シンボルに鳩を飛ばす茶目っ気もまたヨシ。

なんとなくダルトンやクレイグにおされて、なおかつ他のムーア作品のインパクトに埋もれ、悔しくも存在感が薄くなった本作。ぜひ『ムーンレイカー』とセットでおさえてほしい、見どころが詰まった秀作である。


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第87回アカデミー賞!予想編

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さあ、やって来ましたこの季節!
映画ファンなら、ハラハラドキドキ胸ワクワク!
そう、年に一度の映画界最大の祭典、アカデミー賞シーズンの到来であります!
ノミネートが発表されてから賞が決まる瞬間まで、議論百出、白熱の予想合戦を繰り広げるひと時こそ映画ファンの醍醐味といえましょう。
という訳で今年も、来る日本時間2月23日の授賞式に向けて主要6部門の大予想をしてみようと思います。
(これまでの相木&定やんの激闘の記録は、左記カテゴリー〈アカデミー賞予想〉からどうぞ!)


相木「それでは毎年お馴染み、僕と共に予想をしてもらうゲストを紹介します。浜村淳の後釜を狙う浪花のシネマ・アイ、“通天閣の定吉”さんです!」
定やん「いや~早い。一年経つのはホンマ早いなぁ。白鵬が大鵬の最多優勝記録を塗り替えるわ、『聖闘士星矢』リブート劇場版のアテナ役の声優にモモクロ・ピンクが抜擢されるわ、衆院選の戦後最低の投票率に呆れ果てるわ…、お、そこにおるのは理想の女性像を聞かれて、『未来少年コナン』のラナと即答して周囲にドン引きされた相木君やないかい!」
相木「もしくは『天空の城ラピュタ』のシータでも可です」
定やん「知らんがな!ちゅー訳で、今年はガンガン予想を当てさせてもらうで。去年はあんさんに花を持たせたからの」
相木「とはいえ、唯一監督賞をハズしてますから。僕の方こそ『リングにかけろ』の黄金の日本Jr.よろしく、今年こそ“完全勝利”の四文字を頂戴します。慢心は一切ありません」
定やん「おうおう、とっちゃん坊やが偉そうに。じゃあ、はりきっていきまひょか!」
相木「では例年通り、助演女優賞から!」


○エマ・ストーン(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡』)
○ローラ・ダーン(『Wild』)
○キーラ・ナイトレイ(『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』)
○パトリシア・アークエット(『6才のボクが、大人になるまで』)
○メリル・ストリープ(『イントゥ・ザ・ウッズ』)


定やん「さっそくやけど遠慮のう手堅くもらっとくで。ずばり、パトリシア・アークエットや!12年に渡ってリアルタイムで一家族の物語を追った『6才のボク~』で、色っぽいヤングママからドスコイ体型のオバチャン時代まで、ありのままをフィルムに刻んだその度胸で決まりやろ」
相木「あの映画の中で、一番損な役割だったかもしれませんね」
定やん「その分、一番心をうつ役柄やったちゅうこと。ずっと太りっぱなしのあんさんも、見習って体重の緩急つけたらどないや?」
相木「う…、絶対突っ込まれると思ってました。ほっといてください!でも『トゥルー・ロマンス』のアラバマがここまで上りつめたのは単純に感慨深い。でも感慨深いといえば、ローラ・ダーンも昨年の父親に続いてノミネートされたんですからドラマチックですよね」
定やん「ほう、ということは、予想はローラ・ダーンかいな。えらい渋いな」
相木「エマ・ストーンです」
定やん「なんでやねん!」
相木「好みです」
定やん「やっぱりかいな。どうでもいいけど、毎年、好みが入ってくるの」
相木「『アメイジング・スパイダーマン』のヒロインとしてブレイクした彼女ですが、アン・ハサウェイみたいに演技派としても今後頑張ってもらいたいのです」
定やん「19回のノミネートとなるメリル・ストリープについては、当たり前過ぎて驚きもないな」
相木「もはや仙人じみてきましたね。メリルにはったおされる前に助演男優賞いきましょう!」


●エドワード・ノートン(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡』)
●マーク・ラファロ(『フォックスキャッチャー』)
●ロバート・デュバル(『ジャッジ 裁かれる判事』)
●イーサン・ホーク(『6才のボクが、大人になるまで』)
●J・K・シモンズ(『セッション』)


定やん「興味深いんは、エドワード・ノートンVSマーク・ラファロ。『アベンジャーズ』シリーズの新旧ハルク対決やな」
相木「エリック・バナが加わったら完璧だったのに…」
定やん「という風に前フリしといて悪いが、今回はイーサン・ホークや。パトリシア同様のチャレンジ性もあるけど、監督業や小説家としてマルチな活躍で評価をうける彼も、そろそろ受賞の頃合いやろ」
相木「ガチガチの本命狙いでくると思いきや、意外ですね。じゃあ、若いジャズ・ドラマーをスパルタ・コーチする鬼教師役で話題沸騰のJ・K・シモンズをもらいます。氏はTVドラマやサム・ライミ版『スパイダーマン』シリーズの編集長役でお馴染みの名バイプレイヤーで、ついに脚光を浴びる時が来た、といった按配です。あと、エマ・ストーンと『スパイダーマン』つながりということで」
定やん「つながりがややこしいっ!まあ、シモンズは既定路線ではあるけども、なんせサプライズが起きるのが助演部門やからのう…。ムフフ」
相木「定やんの顔が、川合伸旺に見える!続いては、豪華絢爛な主演女優賞です!」


◇マリオン・コティヤール(『サンドラの週末』)
◇ジュリアン・ムーア(『アリスのままで』)
◇リース・ウィザースプーン(『Wild』)
◇ロザムンド・パイク『ゴーン・ガール』)
◇フェリシティ・ジョーンズ(『博士と彼女のセオリー』)


定やん「ココはテッパンで、若年性アルツハイマーの女性役で迫真の演技をみせたジュリアン・ムーア一択!」
相木「受賞経験者を省いて、功労賞的な意味合いでみると、ジュリアン一択ですね。でも僕はあえてロザムンド・パイクをいっときましょう。彼女だって今まで実力を上手く出せなかっただけで、やっと『ゴーン・ガール』の悪妻役に恵まれ、爆裂したインパクトは大です。『007/ダイ・アナザー・ダイ』の頃から注目している身としては、何を今さらと言いたいですが…」
定やん「もともと本役を演じる予定で、製作にも名をつらねるリース・ウィザースプーンが候補に入っとるのも因縁やな」
相木「若手のフェリシティ・ジョーンズを応援したいのも山々なんですが…。そういえば彼女も『アメイジング・スパイダーマン2』に出てますよ」
定やん「『スパイダーマン』はもうええっちゅうねん!」
相木「お次も豪華な主演男優賞!」


◆ベネディクト・カンバーバッチ(『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』)
◆エディ・レッドメイン(『博士と彼女のセオリー』)
◆スティーブ・カレル(『フォックスキャッチャー』)
◆ブラッドリー・クーパー(『アメリカン・スナイパー』)
◆マイケル・キートン(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡』)


定やん「どや、本部門は今年のひとつの見せ場となる天才科学者対決とシャレこもうやないか?」
相木「著名な数学者アラン・チューリング役のベネディクト・カンバーバッチと宇宙論の科学者スティーブン・ホーキンス役のエディ・レッドメインですね。OK、のりました。受けて立ちましょう」
定やん「わしはエディ・レッドメイン。身体の自由がきかなくなる難病におかされた博士を、見事に内面演技でみせきったと評判やし」
相木「では、僕はありがたくベネディクト・カンバーバッチをいただきます。若干、興行的な惨敗作もあったりしますが、『SHERLOCK シャーロック』にはじまる昨今の快進撃は凄まじいものがありますから。勢いは決定的に彼っスよ」
定やん「と言いつつ、実は本命はマイケル・キートンやったりするんやよな。本人を投影したような落ち目の元コミック・ヒーロー役者を好演した氏に票が集まるような気が…。やっぱ変えようかな」
相木「いまさら何ですか!」
定やん「ちょっとわしの分が悪いような気がしていた…。まあ、ええわい。気をとり直して監督賞いこか!」


☆アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』)
☆リチャード・リンクレイター(『6才のボクが、大人になるまで』)
☆ベネット・ミラー(『フォックスキャッチャー』)
☆ウェス・アンダーソン(『グランド・ブダペスト・ホテル』)
☆モルテン・ティルドゥム(『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』)


相木「僕から選ばせてもらうと、ウェスはマニアックで、ベネットとモルテンにはまだチャンスはあると考えますので、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥですかね。個人的には『バベル』で受賞していてよかった人材です」
定やん「2年連続でラテン系の快挙というのも素晴らしいな。けど、わしはリチャード・リンクレイターしかないと思うで」
相木「やっぱりですか。薄々勘付いてましたが、定やんは『6才のボク~』推しですか?」
定やん「そういうこっちゃ」
相木「対立軸がみえたところで、作品賞に流れましょう!」


★『6才のボクが、大人になるまで』
★『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
★『アメリカン・スナイパー』
★『グランド・ブダペスト・ホテル』
★『セッション』
★『Selma』
★『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』
★『博士と彼女のセオリー』


定やん「今年は、8本。天才科学者モノの対決や、凄まじい評価の追い上げをみせるキング牧師を主役にした歴史ドラマ『Selma』と、大ヒット驀進中のイラク戦争モノ『アメリカン・スナイパー』、サンダンス枠の格闘ジャズ映画『セッション』と話題は尽きんが、二人の予想は…」
相木「僕が『バードマン~』で―」
定やん「わしが『6才のボク~』というこっちゃ」
相木「スーパーヒーロー映画でかつて人気を博した役者がブロードウェイで再起をかけるドタバタを疑似の1カット長回しで描いた『バードマン~』の異彩さを僕は推します。性質上、編集賞にノミネートされなかったのが気になりますが…」
定やん「ばかっつら!異彩を放つというなら、『6才のボク~』にはかなわんやろ。なんせ12年間、同じ役者で物語を紡ぐことに成功したんや。しかも“時間”というテーマにも結実させとる。今後つくられるかどうか分からん、最初で最後の映画かもしれん。今あげとかんでどうすんねんっ!」
相木「あ、熱いっ!定やんの顔が、兄沢命斗に見える!実際、本企画の完遂に対する造り手の称賛は多いでしょうね。それは認めます」
定やん「要するにや、一瞬を切りとった『バードマン~』と、悠久の時を記録した『6才のボク~』との時間対決ゆう訳やな」
相木「刹那の時間に生きる僕と、人生を振り返りはじめた定やんとの見識の違いですかね」
定やん「計画性のない人生と堅実な人生の間違いやろ」
相木「そ、そんな言い方しなくても…。まあ、結果が出てからこの辺りは議論しましょうか」
定やん「御意」


相木「さて、ひと段落つきまして。今年、司会を務めるのはマルチ俳優ニール・パトリック・ハリス。トニー賞やエミー賞の司会をつとめたベテランですね」
定やん「去年も言うたけど、わしは安定感よりセス・マクファーレンのようなヒヤッとする毒ッ気が欲しいのう」
相木「他に注目は、何といっても長編アニメーション賞にノミネートされた高畑勲監督の『かぐや姫の物語』と、短編アニメーション賞にノミネートされた堤大介氏とロバート・コンドウ氏の共同監督作『ダム・キーパー』が受賞なるか?」
定やん「すっかり長編アニメーション部門は、『LEGO(R)ムービー』で決まりやと達観しとったけど、まさかのノミネート落選にはびっくらこいた」
相木「疑問視としては、白人オンパレードのノミネーション結果をうけて、アカデミー会員の思想の片寄りが批判されましたね」
定やん「ほとんどが白人で高齢という現実な。これだけ表面化すれば、手はうっていくんやろうけど、保守性は長年叫ばれてる問題やしのう…」
相木「批判といえば、アカデミー賞は全く関係ありませんが、昨今の説明的な邦題に物申したい。『6才のボク~』のそのまんま加減もどうかと思いますが、ヒドイのが『バードマン~』と『イミテーション・ゲーム~』の説明過多のサブタイトル」
定やん「内容の正しいイメージを浸透させるのが目的なんやろうけど、ちょっと観客をバカにしているような気がして映画ファンの心中は穏やかやないの」
相木「『バードマン~』なんて監督の名前同様、覚えきれませんよ。善処してもらいたいものです」


相木「それでは、最後に恒例の一言。アカデミー賞は世界一豪華な式典であり、かつエンターテインメントなショーです」
定やん「煌びやかなスターのファッションに見惚れつつ、名優の素の表情や政治姿勢が窺えるスピーチを堪能できまっせ!ぜひリアルタイムでご体感あれ!」
相木「それにしても、例によってノミネート作のほとんどがまだ未公開…」
定やん「“予想”というより“希望”やな…」
相木「ぜひ皆さん、今後続々と公開されるノミネート作を観に劇場へ足を運んでください!」


定やん「さあ、そんなこんなでわしと相木の予想は当たるのか、外れるのか?」
相木「泣いても笑っても〈結果編〉に続く!」


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『巨人と玩具』 (1958)

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普遍的な切れ味光る、社会派コメディ!



世の中が情報化社会と称されるようになって幾星霜。いまやメディアのつくった流行に大衆は確信犯的に踊らされ、なおかつ警戒は怠らない処世術を皆が備えるようになっている。でも自覚はあれど、なんだかんだで結果的に手の内で転がされている現状は、かなしいかな変わってはいない。
さらにネットに溢れる有象無象の情報に溺れ、情報ジャンキーの症状が蔓延。刻一刻と時代は変化し、その都度問題が噴出するがゆえ、未来への不安の種は尽きない。
本作は、1958年の段階でそうした社会情勢へ警鐘を鳴らし、鋭く問題に切り込んだ社会派喜劇の傑作である。芥川賞作家の開高健がサントリーの前身、寿屋の宣伝部員時代の経験を活かして執筆した同名短編小説の映画化だ。

大手お菓子会社、ワールド製菓では主力商品のキャラメルの売り上げ不振に、早急な対応を迫られていた。宣伝課課長の合田(高松英郎)は、新人社員の西(川口浩)と共に、子供の注目を集める景品を模索。と同時に、喫茶店でたまたま見かけた虫歯だらけの少女、京子(野添ひとみ)に可能性を直感した合田はすかさず彼女をスカウト。写真家の春川(伊藤雄之助)に京子を託すと、写真上の彼女はたちまち天性の輝きを放ち、雑誌メディアの話題をさらっていく。一方、西は学生時代の友人であり、ライバル会社のジャイアンツ製菓に勤める横山(藤山浩一)と再会。横山から同じくライバル会社のアポロ製菓に勤める雅美(小野道子)を紹介され、情報交換に興ずるのであった。
やがて宇宙服を景品とするワールド、ポケットモンキーといった小動物を景品とするジャイアンツ、子供への奨学金という異例の景品を打ち出したアポロ、とメジャー三者による特売合戦が開幕。京子をイメージ・キャラクターに抜擢したワールドは評判を呼ぶも、母親層をターゲットにしたアポロの成績が一歩抜きんでて…。

監督は、大映で斬新な意欲作を量産した名匠、増村保造。大映に入社後、溝口健二や市川崑のもとで助監督を務め、一方、黒澤明論を執筆する批評家の一面を持ち、イタリアに映画留学。フェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティに学び、英文で論文を発表する等、まさに映画史と職人的現場に精通したハイ・スペック超人である。
東大法学部で三島由紀夫と同期であり、後に作品をコラボすることからも映画界の三島由紀夫という先鋭インテリ・イメージを持たれている方も多かろう。

監督デビューを果たしてからは、批評的見地からかつてなかった人物像やモダンな表現技法を打ち出し、邦画界を席捲。新時代の旗手と持て囃される傍ら、いまいち大衆の支持は得られなかった。我が国では、どうしても海外仕込みの優等生は外国かぶれと排他される傾向が観客側、業界側共に依然として強く、実はそれは今でも変わってはいない。
極めて完成度の高い全57作という膨大な監督作を発表しているにも関わらず、あまり世間に浸透していない現状評価は明らかに不当であろう。
個人的には、数年前にケーブルテレビで監督特集を観て、その偉大さを痛感させられた。折にふれて再評価の機運が高まっている監督さんである。

本作『巨人と玩具』もキネマ旬報のベスト・テンにはじめて選出される栄誉こそ得たが、ヒットには恵まれなかった。「俺は10年早かった」というのが監督の口癖だったそうだが、まさに言い得て妙。本作も早すぎた名作といえよう。

主人公の新入社員、西洋介は「いい商品を堅実につくれば、客は自動的に着いてくるのでは?」という良心的な思想をまだもっている。しかし、会社はそんな西を青くさいと切り捨て、「愚かな大衆を我々が導き操る!」といわんばかりの上から目線の洗脳商法を展開。疑問を抱きつつも西は生き馬の眼を抜く宣伝戦争に飲み込まれ、感覚が麻痺し、気付けば会社の歯車と化していく。
西の上司の合田竜次は、上司の娘を娶り出世街道を驀進する野心家。遮二無二、利益を求めて暴走していくうちに人間性を失っていき、疲れを癒すために薬物に手を出し、ついには体調を崩して身を滅ぼしてしまう。
合田に見出された島京子は、急激に世間に祀り上げられ、タクシー会社の事務員という貧しい境遇から一気に、(今でいう)アイドルへと大躍進。天真爛漫で垢抜けなかった彼女が、どんどん洗練され高飛車になっていく様子に呆然…。

この三者三様の変転を通して、仕事中毒やアイドル・ブームといった“使い捨て”文化を的確に捉えた先見の明に唸らざるをえない。当時ショッキングな内容であった本作が、今観るともはや定番といえる在りきたりの物語になっているところが妙味というか何というか…。冒頭で記したように、むしろ進化のなさに空恐ろしさを覚えよう。

本作の構造は、至ってシンプル。大手製菓会社の宣伝対決の行方、西&京子&雅美の恋の鞘当ての顛末や、合田の破滅、等々、ストーリーはオーソドックスに進む。
だが、本作がアバンギャルドであるのは、その語り口!登場人物は速射砲のようにとにかくしゃべりまくり、カットもテンポよく切り替わり、スピーディーな展開にあれよあれよという間にエンドマークをむかえてしまう。
こうした手法は監督の得意技ではあるのだが、本作に関しては観客に考える余地を与えないことで、メディアの洗脳を体感させる狙いがみてとれよう。要は無意識下に入ってくる巧みな宣伝戦略を、身をもって分からせているのである。
そうしたアプローチでエンタメに仕上げてしまうのだから、監督の演出力にただただ脱帽。今観ても度肝を抜かれることうけあいである。
僕も子供の頃、たまたま本作をTVで眼にし、訳もわからず最後まで引き込まれてしまったトワイライトな体験が忘れられない。

増村監督との名コンビで数々の傑作を送り出した脚本家、白坂依志夫の卓越した脚色術にもご注目。氏に関しては、月刊シナリオ誌連載のエッセイで明かされた華やかな女性遍歴に圧倒されたが、本職においても天賦の才に疑いナシ!原作の情緒に訴える場面をオミットし、膨大な活きたダイアローグでまとめたチャレンジングな作劇は見事の一言である。

初々しい大映トップスターの川口浩、後に実生活でその妻となる野添ひとみ、悪役俳優としての凄みをみせる高松英郎、強かに社会を渡る魔性の女の小野道子(=長谷川季子、長谷川一夫の娘さんですな)、等々、役者陣も怒涛の増村演出に必死に喰らいついている。
特に増村監督が好んで描いた日本人の女性像を覆すヒロインを体現した野添ひとみは、伝説の好演。事務員ながら社員に「エバるな、お茶ぐらい自分で入れろ!」と毒づき、マイペースに世を闊歩する姿は今観ても鮮烈である。
また、奔流の中で余裕の怪演をみせる伊藤雄之助の存在感も要チェック。

ラスト。主人公の西がさらす滑稽な姿は、傍からみれば異常な世界にのめり込んでいる当時のサラリーマンの比喩であり、未来への警鐘である。
しかし、現在は正社員になれず、まともに働くことすら困難なご時世となり、違った意味で身に迫ってこよう。高度経済成長に向かうイケイケの時代が、如何に幸福であったか…。
名作は時代を越えて、別解釈でも感銘を与えてくれるのだ。


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『エクソダス:神と王』 (2014)

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装いも新たに甦る“十戒”伝説!



昨今、流行の新解釈聖書モノの真打ちであり、唸る部分も多いのだが…。
本作は、老いてなおエネルギーみなぎる巨匠リドリー・スコット監督作。SF、ミステリー、犯罪サスペンス、戦争アクションとなんでもござれのスコット監督。今回の題材は、旧約聖書の出エジプト記だ。本パートをもとにした映画といえば、セシル・B・デミルの最後の大作『十戒』(56)のイメージが濃いが、それを『グラディエーター』(00)、『キングダム・オブ・ヘブン』(05)と歴史叙事詩をモノにしてきた御大が巨費を投じて映像化するというのだから、ワクワクせずにはいられない。
…が、全米で大コケし、白人仕様のキャスティングに物言いがつくという不安な空気が漂ってきている本作。『プロメテウス』(12)、『悪の法則』(13)と妙なベクトルに振り切れ、ある意味、前人未到の領域に踏み込んでいる当監督により、一体どんな作品に仕上がったのか…!?

紀元前1300年。古代エジプト王国は、セティ王(ジョン・タトゥーロ)のもと、王子ラムセス(ジョエル・エドガートン)と、兄弟同然に育てられたモーゼ(クリスチャン・ベール)のツートップの武勇により隆盛を誇っていた。しかし王宮の占い師により、“一方の命を救った者が指導者になる”という予言をうけ、近隣勢力のヒッタイトとの戦場でモーゼに命を救われたラムセスは、モーゼに不信感をもつようになる。
一方、王国に奴隷として苛酷な労働を強いられている約40万人のヘブライ人の集落を視察に訪れたモーゼは、長老ヌン(ベン・キングスレー)と会合をもつ。そこでモーゼはヌンから、実は自分はヘブライ人で、王宮に拾われた身であることを聞かされる。一笑に付すモーゼであったが、やがてその秘密がセティ王の死後、王に即位したラムセスの知るところとなり、モーゼは一人、国を追放されてしまい…。

とにもかくにも映像自体は、魔術師リドリー・スコットの安心印。期待を裏切らない圧巻のスペクタクルが画面狭しと繰り広げられる。豪華絢爛な宮殿や、隅々までアリのように人々が蠢き、巨大偶像を建造するダイナミックな光景、大軍勢が激突する迫力の戦闘シーン等々、とにかく人、人、人の人海戦術の桁違いのスケールに眼が点になる。1万人以上のエキストラ、千人を数える美術スタッフという規格外の陣営で挑んだ、CGに頼らないマン・パワーは伊達ではない。
奴隷の身分であったヘブライ人たちを先導し、“約束の地”へ大移動する預言者モーゼの壮大な旅を充分過ぎるほど実感できよう。

内容は、リアル指向で現代に再現したセシル版『十戒』リブートといった按配であり、エジプト王国を襲う、血の色に染まるナイル川から、カエルの大量発生、空を覆うイナゴ、民を襲う疫病等々、ご存じ“十の災い”の超常現象も極力説明がつくよう施されている。
モーゼ像もまたヒロイックではなく、悩める等身大の人間臭い男になっている。
中でも注目すべきは、神の描き方だ。エジプト王国の巨大偶像信仰に反し、モーゼの到達した一神教の境地たる新アプローチが、そのお告げの“姿”に表れていよう。信仰は人外の力にすがり、崇めるものではない、というメッセージの体現が“あの姿”とはいえまいか。そのある種の純粋性は、神秘の力で与えられる代物ではない劇中の“十戒”に形にも重なろう。要は、神とその教えである“十戒”は純粋でも、あつかう人間は過ちを犯すものであり、それはモーゼも例外ではない。その折り合いが、信仰というものなのではないか。
あくまでこれは僕の拙い頭を使っての勝手な解釈であるが、かなり大胆なアプローチにみえる。ゆえに今日まで続く宗教戦争に対し、普遍的なテーマを打ち出していよう。

ただ、それらの試みはいいのだが、観ていて面白いかというと、正直ちっとも面白くなかった。狙いとして創り話感をおさえたのかもしれないが、せっかくのエピックなのだ。運命劇のケレン味が、もっとあってもよかった。とかくモーゼとラムセスの兄弟の確執が盛り上がらず、真に迫ってこない。
そのくせ“十の災い”のグロ描写には異様に力が入っているのだから何をかいわんや。その間、モーゼは置いてけぼりである。この辺り、昨今のリドリー・スコットの暴走がみてとれる。
極めつけは、モーゼ一行が紅海に面した有名シーン。前作との差別化を図り、本作の独自アプローチとしてはアレで正解なのかもしれない。事実、サスペンスフルではある。でも、当場面を楽しみにしてやってきた観客からすれば、肩すかしもいいところ。あそこぐらいは現代のテクノロジーで、おもいっきり遊んでもよかったのはなかろうか?

結果、一番心を揺さぶられたエモーショナルな局面は、本作をトニー・スコットに捧げるという献辞であった。う~ん…。
昨今のリドリー・スコットの不良性を顧みると、やはり後に控える『プロメテウス』、『ブレードランナー』の続編に期待します。


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『ジョーカー・ゲーム』 (2015)

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誕生なるか、和製スパイ・エンターテインメント!



新進気鋭の才能による新しき日本産娯楽作の登場を祝いたいのは山々なのだが…。
本作は、インディーズ映画『SR サイタマノラッパー』(09)の成功以降、着々とキャリア・アップを刻んでいる入江悠監督作。柳広司の同名ベストセラー小説の映画化という華々しい舞台で、ついにメジャー進出である。
原作は、ライトノベルほど軽くはないが、扱っている題材にしては噛み砕いた読み易いエンタメ小説であった。ただ日本では馴染のないスパイものだけに、アニメならまだしも実写化するのは微妙なラインではある。この辺りは、演出と脚色の実力が問われる訳だが、はたして入江悠監督と渡辺雄介氏は、どんな世界を切り開いてくれたのか…!?

第二次世界大戦前夜。訓練中に上官を殴り、死刑宣告をうけた青年軍人(亀梨和也)は、執行直前に謎の男、結城(伊勢谷友介)に救い出される。交換条件として、結城が設立した諜報組織“D機関”の一員になった青年は、民間出身の仲間たちから軍人であった身分を蔑まれつつ、厳しい訓練を突破。一人前のスパイになり、国際都市“魔の都”に送り込まれる。任務は、写真家の嘉藤という人物になりすまし、米国大使グラハムがもつ新型爆弾の設計図“ブラック・ノート”を奪うこと。策略をたててグラハムに接近する青年であったが、不審な動きをするメイドのリン(深田恭子)や英国、ロシア、ドイツのスパイ、さらに日本の軍部といった身内まで、様々な邪魔がその前に立ち塞がり…。

構成としては、“D機関”の各スパイたちの活躍を紡いだ短編集の原作を、各エピソードのいいところをつまんで、嘉藤を主人公に映画仕様のヒロインをからめて一本にまとめた按配である。
原作は、滅私奉公、死の美学にとりつかれた軍部との確執の中、「死ぬな、殺すな」をモットーに、冷静な思考を失わないプロフェッショナルなスパイたちの仕事ぶりを丹念に描出。スパイという職業を卑劣な行為(いわんや、男らしくない)と見下し、性質上、根付かなかった日本の風土を論評しつつ、そこをはみ出たスパイ機関の在り様を平易に綴った渋い一作であった。

対して、映画化である本作では、そんな原作のリアル指向に背を向け、純然たるエンタメ、架空の国の無国籍アクションたるアプローチをとっている。静から動へ、冷徹なスパイ合戦の妙味はどこへやら。頭脳ゲームといったロジカルな趣きは霧散し、終始ドタバタ騒がしい。世界を揺るがす“ブラック・ノート”奪取という中二的なストーリーラインと、漫画じみたキャラが入り乱れた、お子様ランチと化してしまった。
原作ファンからすると、「何をしてくれてるんだ!」と怒り心頭であろうが、個人的にはこれはこれでアリだと思う。そもそもシリアスな和製スパイものでは、『陸軍中野学校』シリーズ(特に増村保造の一作目は、別格)という傑作があり、市川雷蔵や加藤大介を相手に挑んで敵う道理はない。

…がしかし、それで面白くなっていれば万事OKなのだが、残念なことに本作、驚くほどつまらなかった。
というのも、スパイものにしては上記したリアリティの欠如から緊張感がまるでない。“D機関”のスパイ連中も総じてゆるゆるで、平気で対面して打ち合わせするわ、ハニートラップにまんまとひっかかるわ、アホなミスの連発におよそ凄腕とは云い難い。ちなみに原作では、情報交換も完璧に他人を装い、仲間であろうと誰であろうと絶対に心を許さない等、精緻で苛酷なスパイ描写に気が配られている。

役者陣も亀梨君はエキセントリックなスター然としていい雰囲気をまとっているし、伊勢谷友介、小澤征悦、山本浩二、渋川清彦とクセ者が揃っており悪くはないのだが、とんでも展開の中、失礼ながらどうしても現代人がコスプレして遊んでいるみたいにみえる。深キョンの鈍重な大根ぶりもそこに拍車をかける悪循環。

アクション描写における『プロジェクトA』(83)や『バック・トッゥ・ザ・フューチャー』(85)へのオマージュ等々、監督がメジャーという場をおもいっきり楽しんでいる感じは伝わってきて微笑ましいが、どうも地に足がついていない。意気込みが空回りしているといおうか。
荒唐無稽の中、世界観をきちんと成立させている『007』や『M:I』、『ジェイソン・ボーン』シリーズが如何にスゴイか、本作を観ると身に沁みてよく分かった。

でも、ラストでは、ちょっとしたどんでん返しもあり、「『ルパン三世』かよ!」という突っ込み、あからさまな続編の匂わし等々、あまりの能天気さにニンマリして気分が救われたのも確か。
ただ、今回は原作が足かせとなった分、コレをやるならオリジナルで好き勝手やった方は絶対よかったと思う。続編は、ナシであろう。

今回は無念な結果であったが、インディーズ出身の奇才がメジャーを手掛ける道筋は強く推奨したいところ。入江悠監督には、今後も大きなステージでがんばっていただきたい。


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『フォックスキャッチャー』 (2014)

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突き刺すように冷たい戦慄の実録ドラマ!



震えるほど恐ろしい、人間の底知れぬ闇を覗き込む一級品であった。
本作のメガホンをとったのは、『カポーティ』(05)、『マネーボール』(11)と通好みな高品質作をハズレなしで生み出しているベネット・ミラー監督。第67回カンヌ国際映画祭、監督賞受賞作だ。当監督の演出力の高さは、本年度アカデミー賞で監督賞にノミネートされている実績からも明らか。今回の題材は、ロックフェラー、メロンにならぶ三大財団デュポン社の御曹司が、オリンピック・メダリストを射殺した実際の事件。なんせノンフィクションを“料理”する手腕に長けた監督さんである。当事者から抗議も受けたという本作では、一体どんな鋭利なメスをふるったのか?興味津々でスクリーンに向かったのだが…!?

1984年のロサンゼルス・オリンピックで兄弟そろって金メダルに輝いたレスリング選手、デイヴ(マーク・ラファロ)とマーク(チャニング・テイタム)であったが、その後の生活は対照的であった。社交的でコーチとしても優秀な兄デイヴは家族に恵まれ、生活も安定していたが、弟マークは引っ込み思案な性格から仕事にあぶれ、冴えない日々を送っていた。
そんなある日、マークのもとに全米屈指の大企業デュポン財閥の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)から連絡が入る。デュポンはソウル・オリンピックで金メダルをとるべくレスリング・チーム“フォックスキャッチャー”を結成したので、プロジェクトにマークとデュポンを招きたいという。渡りに船とマークは申し出に飛びつくも、家族との別居を嫌ったデイヴはそれを固辞。結果、マークのみペンシルベニア州の広大なデュポンの敷地に移住し、最新設備の整った施設でトレーニングを開始する。しかしデュポンと親密になるにつけ、その奇行が眼につくようになり…。

夢は、大金持ち―。幸福の目標として一理あろう。でも生まれた時点から、あり余るお金を持っていたらどうか?お金で買えるモノは何でも手に入り、YESマンに囲まれた味気ない生活。空っぽの自分を埋めるため、高級な競争馬に入れ込むようにスポーツ選手や芸術家の後援に回る。それは“キツネ狩り”のような遊戯でありながら、実は切羽詰まった存在確認の足掻きともいえよう。

他方、スポーツ選手や芸術家の成功者の多くは、出は貧しくとも鍛錬や才能で成り上がるアメリカン・ドリームの体現者である。ただ、実際に芸で食べていこうとすれば、通用するのは運のいい一握りだけの厳しい世界。劇中のマークのように金メダリストでもマイナー・スポーツである分、世を渡る器用さがないと苦しい生活を強いられる。
そこで手を差し伸べてくれる富豪と選手の利害は一致いよう。
が、どうしてもお金が絡むと、やがてはプレッシャーや欲の魔力に飲み込まれ、関係に綻びが生まれる。

こういうケースを見ていると、人間にとって成功とは?幸せとは何なのか?と暗澹たる気分に陥ってしまう。本作は、その袋小路の魂の彷徨を淡々と綴っていく。
また、親代わりであったデイヴにずっと依存してきたマークと、母親や財閥という後ろ盾に依存してきたデュポンのゆがんだ友情(?)、そしてそこにデイヴが入り込みことで、さらにゆがんだ三角関係、ダークなホームドラマの様相を呈していくのだからドロドロ極まりない。

音楽すら廃し、生活音に人物の心情を代弁させる等、極限まで説明を削ぎ落としたベネット・ミラーの丹念な演出は、圧巻の一言。静謐の中、常に不穏な空気感が充満し、息苦しさと冷たさに押しつぶされそうになる。

かように対象から一歩引いたアプローチであるがゆえ、登場人物たちへの感情移入は阻まれる。しかしそこに生命を与えた役者陣の熱演は、ただただ必見!
付け鼻をしてジョン・デュポンを演じたスティーブ・カレルの不気味さは、特筆に値しよう。精神を病み、底が読めない能面が心底怖い!『カポーティ』のフィリップ・シーモア・ホフマンのごとく、怪人に見事に血を通わせているのだから、オスカーノミネートもさもありなん。
マーク役のチャニング・テイタムの朴訥さもまた、役にピッタリ。リアリティ溢れる、まさかの名演をみせている。
デイヴを文字通り、好演したマーク・ラファロの上手さは、いわずもがな。唯一まともな人間である彼の存在が、より本作の狂気を際立たせていよう。
マーク・ラファロはともかく、コメディと大味アクションのイメージがあるカレルとテイタムの双方をキャスティングし、演技派に高めたミラーの力量はやはりたいしたものである。
また、デュポンの闇を読み解くキーマンの母親役ヴァネッサ・レッドグレイヴの幽玄さもまた適材適所だ。

本作は、事件の顛末を解き明かすようなノンフィクションではなく、客観的なスタンスを貫き、一定の解釈は出来こそすれ、真相は曖昧なままである。その曖昧さが、人間なのだといわんばかり。名誉欲や金銭欲に溺れる人間の弱い部分が、身に沁みていくと共に、裏を返せば滑稽そのもの。「よく分からないけど、スゴイものを観てしまった…」という感慨である(笑)。
ことほど左様にシネフィルにとっては、映像の只ならぬ迫力と役者陣の存在感で始めから最後まで圧倒される至高の心理スリラーである。が、一般的にみると恐ろしくテンポが悪く退屈で、およそ面白い映画とはいえまい。

よって、アカデミー賞において常々、作品賞と監督賞がセット受賞しないのはおかしいと思ってはいるが、本作に限っては作品賞のノミネートを逃したのは頷ける。


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『味園ユニバース』 (2015)

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過去に向き合い、未来に突き進む熱唱!



定番の再生ストーリーながら、コテコテの浪花節が身に沁みる快作であった。
本作は、前田敦子、“乃木坂46”と最近アイドルづいている奇才、山下敦弘監督作。今回主演に迎えるのは男性アイドルグループ、“関ジャニ∞”の渋谷すばるだ。加えて、クセ者監督をコンプリートする勢いのシネフィルのミューズ、二階堂ふみのダブル主演というのだから胸は躍る。
しかし、さらに惹きつけられるのが、“大阪”とバンド“赤犬”のキーワード。大阪芸術大学映像学科の卒業制作で世に出て、同大学のメンバーで構成された“赤犬”と組んで初期作品を製作した山下監督。原点回帰というか、何か取り組むべきテーマに取り組んだ気概を感じる。大阪出身者としては大いに気になるところだが、はたしてその内容は如何に…!?

大阪。刑務所を出所したばかりの男(渋谷すばる)が何者かに捕えられ、半殺しで路上に放り出される。なんとか一命をとりとめた男は、ふらふらと広場で行われていた地元バンド“赤犬”のライブに乱入。マイクを奪うと、和田アキ子の『古い日記』を歌い出し、高い歌唱力で観客を圧倒。歌い終わるなり、意識を失ってしまう。
目覚めた男は記憶喪失になっており、仕方なく“赤犬”のマネージャー兼貸スタジオの経営者カスミ(二階堂ふみ)のもとに居候する運びとなる。こうして“ポチ男”と命名された男は、交通事故にあった“赤犬”のボーカルに代わり、ステージにたつ羽目になるのだが、徐々に男の荒んだ過去が明らかになってきて…。

“味園(みその)”とは、1956年に開業した大阪千日前に建つ複合施設ビル。“ユニバース”は、そこに入っていた豪華キャバレーであり、長らく人気を博すも2011年に営業終了。現在は貸ホールとして活用されており、サブカルチャー、アングラ芸術の発信地として、その昭和の古き良き香りを残す建物は、依然、光を帯びている。
スーパー真面目少年だった僕は、ケバケバしいネオンが嫌でも目につく看板を横目に自転車で通り過ぎたことがある程度で、全く関わりはなかった。

本編の物語は、過去(記憶)を失ったポチ男と、ある悲劇から時間がとまったカスミという訳アリ同士の心を補う交流を、オフビートな山下節で活写。結果、積み上げていく未来の大切さを謳った、よくある話ではある。
本作はそのオーソドックスな流れを、大阪のディープスポット“ウラナンバ”の下町人情でコーティングしているのだが、「温かい」というよりむしろヘタレな登場人物の生々しさに包み込まれる。上っ面な映画が多い中、絵空事にしてはいない。例えば、ポチ男の過去を握る豆腐屋の夫婦(松岡依都美と宇野祥平)の内面はもちろん店の外装のくたびれ加減たるや。暗鬱な画ではあるが、下町をファンタジックに描くのではなく、工場地帯の匂いすら漂ってくる寂れ感を伝える姿勢に敬意を表したい。甘い映画ではないのだ。

タイトルに冠した、“味園”を舞台にしたのもツボである。上記したビルの栄枯盛衰の歴史と、ポチ男とカスミのドラマがオーバーラップし、味わいが増そう。
要は、人間も街も同じなのだ。人や街に染みついた“におい”、いわゆる過去は捨て去れるものでなく、また捨てさっていいものでもない。古きものと新しいもの、両者の共生が必要となる。大げさかもしれないが、“味園”とポチ男とカスミの到達点は、昨今の地域創造の名のもとに横行される古きものを根絶やす政策へのひとつの解答となろう。

かようなメッセージを魂の熱唱で体現したのが、ポチ男役の渋谷すばる。“関ジャニ∞”のメンバーだそうだが、恥ずかしながら初めて知った。っていうか、この人、本当にアイドルなのか?歌が上手いのは分かるが、身体全体から発するやさぐれ感は本物のチンピラにしか見えない。こんな逸材がアイドル界にいたとは…。
事実上、本作を引っ張っている堂々主演の二階堂ふみに関しては、一言、「関西弁が、めちゃカワ」。この自然さは、特筆モノである。『じゃりン子チエ』のチエちゃんよろしくオッサンを手玉にとる肝っ玉少女ぶりがたまらない。観ている間は、尻に敷かれる“赤犬”メンバーに完全に同化し、ひれ伏していた。個人的に昨今、一番ハマったキャラである。
そんな“赤犬”メンバーの決して前に出ず背景でノロノロ蠢き、本作の世界観を形作る存在感もまたGOOD。ボーカルの粋な役割にも拍手だ。正直、音楽性についてはよく知らないが、劇中歌もホットであった。

実名で登場する“味園ビル”や“赤犬”(ビル内にあるメンバーが経営するバー『マンティコア』もちゃっかり登場)、そして“ユニバース”の復活祭である“赤犬”のワンマンライブがクライマックスに組み込まれている点にもご注目。
このノンフィクションとフィクションの融合は、前作の『超能力研究部の3人』(14)から続く山下演出の進化系にもみえる。リアルな空間をきりとる元来の手法を、現実と地続きのテーマに昇華させる特殊技へ、監督は今後極めていくのかもしれない。

展開にご都合主義が蔓延し、最後の重要なところで強引な手を使ったりと、残念な箇所が眼につくのは確か。手放しで傑作とは言い難い。でも大阪人の最高の賛辞を送りたい。
「しょーもな」


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『ミュータント・タートルズ』 (2014)

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賑やかなるカメ忍者アクションを楽しむべし!



キモ可愛いキャラたちのドンチャン騒ぎに身を任せる、極上のアトラクション・ムービーではあるのだが…。
本作は、1984年にデビューした同名老舗アメコミの映画化。亀のミュータントにして忍者という日本テイストが味付けされた原作は、アニメ、映画、ゲームと各ジャンルで人気を博し、我が国でも比較的なじみの深い作品である。でも僕は映画版を観た記憶があるぐらいで、ほとんど愛着はない。(映画の内容も覚えていない)
しかし今回、生誕30周年記念の大作としてリブートされ、全米で大ヒットを記録し、続編も決まったというのだから、海の向こうではそれなりの需要があったのだろう。例のごとくマイケル・ベイが絡んでいるだけに評価はさんざんであるが、はたしてどんな娯楽作に仕上がっていたのか…!?

ニューヨーク。最近、街を蹂躙している犯罪組織フット団を追っていた地元TV局のレポーター、エイプリル(ミーガン・フォックス)は、ある夜、港でフット団が悪事を働く現場に遭遇。しかも、当のフット団を一瞬にしてやっつけ、あっという間に去っていく謎のヒーロー4人組を目撃する。さっそく上司(ウーピー・ゴールドバーグ)に報告するも相手にしてもらえず、エイプリルは危険をおかしてフット団が襲った地下鉄に潜入。案の定、登場したヒーローたちの後をつけ、その驚愕の姿に気を失ってしまう。彼らはレオナルド、ラファエロ、ミケランジェロ、ドナテロと名乗る“亀”のミュータントだったのだ。その後、エイプリルは彼らが遺伝子操作を研究していた亡父の研究対象であり、自身が面倒をみていた子亀であったことを突きとめ、あらためて下水道を住処にする彼ら(=“タートルズ”)と接触をもつのだが…。
一方、その背後ではフット団がタートルズの細胞を利用し、ニューヨークを危機に陥れる陰謀を進めており…。

昨今のアメコミ映画のリアル指向ブームの下、数多のヒーローが現実世界に実体をもって甦ってきた。本作のタートルズもまた然り。最新技術で甦る亀人間の姿は、その質感から何から必見のクオリティである。が、コミックやアニメのイメージでは可愛らしいマスコット風味なのに、本作の彼らはなまじリアルなだけに実にグロテスク。気合を入れて再現しすぎであろう。それでも観ているうちに慣れてくるという噂であるが…、ごめんなさい、最後までダメでした。というのも、亀4人の人間性(?)をきっちり描いていない為、愛着がわかないのだ。これは痛恨の一撃であった。

ストーリーも真面目にやって、なおかつ笑いを誘っているのが微妙なところ。タートルズや師匠のネズミ、スプリンターが格闘技を覚え、鍛練するプロセスも丁寧に描いている割にはいい加減である。拾った教本で覚えるとは、どういうことだ?どうも匙加減がチグハグだ。

ただ、マイケル・ベイ印のノリだけは快調で、猛スピードのテンポでタイトな上映時間を疾走。一応ノンストップで楽しめはする。
日本刀のレオナルド(リーダー格)、三叉の釵のラファエロ(暴れん坊)、棍棒のドナテロ(頭脳派)、ヌンチャクのミケランジェロ(お調子者)と、専用の武器でバトルに挑むタートルズの、縦横無尽に跳ね回る落ち着きのないアクションも観応えたっぷり。甲羅をボードに雪上で大チェイスを繰り広げるシークエンスの迫力は特筆モノだ。
紅一点のミーガン・フォックスのエロさもまた、眼福。
ある意味、抜かりのないエンターテインメントであり、多くを求めなければ割り切って楽しめよう。次の日は完全に内容を忘れる軽さに、スカッとリフレッシュするのみである。

ちなみに日本描写は、さぞいい加減かと別段期待していなかったが、意外に見るべきところはあった。(役者の日本語演技がヒドかったからか、字幕版でも日本人声優で吹替えられていたのもグッジョブ)
注目すべきは、主従関係。タートルズとスプリンター先生との関係性、そして命の恩人であるエイプリルへの忠義という、己を滅して他人のために尽くす日本人の美徳をきっちり押さえている。これらにアメリカ人が、深層で憧れを抱いている旨がよく分かろう。
またそれは同時に畏怖でもあり、敵側にも洗脳という形で同じ関係性をダブらせているところがミソである。この辺りは興味深い設定なのだが、内容に活かされているかどうかは別問題である。

見かけは年齢不詳ながら、中身は思春期のティーンエイジャーという、タートルズたちの明るさとどうしようもなさもまたチャーミング。そこにもう少し不遇な青春におかれた哀しさといった情を滲み出させてほしかった。

こうしてみると、うまくやれば深みのある面白さが出た可能性もあったと思う。続編ではインパクトのある悪役を配し、この辺りを活かすと、もしかしたら本シリーズ、化けるかもしれない。期待せずに待っていたい。


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『アメリカン・スナイパー』 (2014)

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深き余韻が刻まれるスナイパーの一生!



従軍し、英雄になった男に、戦争はどんな影響を与えたのか?その心理を垣間見る重い人間ドラマであった。
本作は、映画界の長老クリント・イーストウッド監督作。イラク戦争で公式記録160人を撃ち抜いた最強スナイパー、クリス・カイルの自叙伝の映画化だ。
イスラム国の台頭等、中東情勢に関心が集まる中、公開された本作は、本国でメガ・ヒットを記録。そんな中、マイケル・ムーアをはじめとした著名人による批判、擁護がいちいち話題になり、英雄か否かアプローチに関して論争がヒート・アップ。イーストウッド史上、というか戦争映画NO.1を塗り替える社会現象となった。はたして、イーストウッド御大は、どんなメッセージを投げかけたのか…!?

1998年、テキサス出身のクリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)は、アメリカ大使館爆破事件をテレビで見て、愛国心から海軍に入隊。特殊部隊ネイビー・シールズに配属され、厳しい訓練に耐える中、最愛の女性タヤ(シエナ・ミラー)と出会う。
2011年、同時多発テロが発生し、イラク戦争が勃発。クリスは、タヤとの結婚式の日に出撃が決まり、スナイパーとして戦地に赴く。そして類稀な狙撃の精度で次々に成果をあげたクリスは、味方からは“伝説”と讃えられ、反政府武装勢力からは“悪魔”と恐れられ、その首に懸賞金がかけられる。
一方、故国で二人の幼い子供を育てるタヤは、クリスのおかれる危険な状況に心配を募らせて…。

何となく『スターリングラード』(01)よろしく、スナイパーが活躍する戦争アクションという事前イメージが個人的にあったが、さにあらず。肌触りとしては、『ハートロッカー』(08)や『ディア・ハンター』(78)、『帰郷』(78)といったPTSDに苦しむ帰還兵モノである。
もちろん、イーストウッドの装飾を削ぎ落した職人芸的演出により、陰鬱ながらも分かり易く、『ハートロッカー』みたいにとっつき難くはない。『ミリオンダラー・ベイビー』(04)のミッキーのTシャツを着てお見舞いにくる家族のように、戦場でクリスが妻と携帯でやりとりする「狙い過ぎでは?」というシーンも散見されるが、その直球さもまたイーストウッドだ。

主人公のクリスは、幼い頃から父に「弱い羊を守る牧羊犬になれ。狼にはなるな」と教えをうける。いじめられている弟を助け、相手を叩きのめす。いわんや、愛する者に危害を加える悪は、やられる前に倒す。かような絶対的な定義を受け継いで、クリスは戦場へ向かう。仲間の命を奪おうとする敵であれば、女子供であろうと容赦なく撃ち殺す。そこに迷いはない。
イーストウッドはそんなクリスのスナイパーとしての活動をエンタメにせず、淡々と描写する。敵側の凄腕スナイパー(サミー・シーク)との死闘といった見せ場も用意されているが、エモーショナルな感慨はない。全編を支配するのは、人が人を殺す緊迫感だ。彼らを送り込んだ張本人たちや政治的背景には、あえて触れられてはいない。
そして、4度のイラク派遣の狭間に帰国したクリスと家族との物語を差し挟み、定点観測のように人生を紡いでいく。

クリスには、上記した如く確固とした信念があり、いくら人を殺しても揺らぐことはない。…はずなのだが、一般社会での生活では、小さな物音に怯えたり、激しやすくなったりと、うまく適応できない。結果的に精神は蝕まれ、病んでしまっている。
このクリスの意識と無意識の分裂した葛藤が、観る者に問いかける。あたかも戦争が起こるメカニズムを理解し、起こるべくして起こると諦念しながらも、同種間殺人を拒否する生物本能とでもいおうか。彼の悲痛な姿は、人間の矛盾の鏡写しといえよう。
そう観ると、余計にやるせない顛末が胸に迫る。まさに人間の業を描いた息詰まる一級ドラマである。

問題であるのがエンド・クレジットの映像だ。個人的には本シークエンスこそがアメリカで保守、リベラルを巻き込んだ論争の火種になったと思う。靖国神社の遊就館で特攻隊員の手記から受けるようなこの崇高な感動を、愛国心の高揚と捉えられても仕方あるまい。正直、門外漢の僕ですら心を揺さぶられ、ポロリと涙がこぼれた。プロパガンダととるか、一人の男の人生の軌跡ととるか。本シークエンスをぜひご自身で体感して判断していただきたい。続く無音のローリングタイトルで、いやがうえにも沈思黙考させられよう。
加えて、この映像が実際の記録映像であるところがミソである。イーストウッドの計算ではおそらくないと思うが、実録とはいえフィクションの映画が地続きに現実に波及した効果があろう。本編では政治描写を避けていただけに余計に意図的にうつる。
ことほど左様に本シークエンスが内容の理解をボカしたような気もするが、これがないと注目作にはなっていなかったかもしれない。
そういう意味では、奇作である。


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『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』 (2015)

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妖しき世界にいざなうエロティック・ドラマ!ではあるのだが…!?



危険なムード漂うライトなお色気ムービーではあるのだが、如何せん事前情報を得て向かわないとツライ一作であった。
本作は、50ヶ国以上で翻訳され、全世界で1億部を越えるベストセラーになっている同名官能小説の映画化。原作者は主婦で、『トワイライト』シリーズのファンであり、ファンサイトに本小説を投稿。そこで話題となり、怒涛の勢いで時の人になったというのだから、J・K・ローリングもかくやのサクセス・ストーリーである。
…と、知ったかぶりで記したが、本小説に関しては、全く知識ナシ。満を持しての映画化となり、予告編ダウンロードが1億回を記録する等、盛り上がっているそうだが、どこ吹く風。この全く覚えられないタイトルの作品の正体は一体何なのか?確かめるべく劇場へ向かったのだが…!?

アメリカ、シアトル。平凡な女学生アナ(ダコタ・ジョンソン)は、風邪をひいたルームメイトのケイト(エロイーズ・マンフォード)の代役で、学生新聞の取材のため、若くして巨大企業のCEOを務める億万長者クリスチャン・グレイ(ジェイミー・ドーナン)のもとを訪れる。一目会って惹かれ合った二人は、その後も交流をもつも何処かグレイの態度は煮え切らない。ある夜、アナはバーで酔っぱらい、親友だと思っていたホセ(ヴィクター・ラサック)の猛アタックを受け困っていたところを、グレイに助けられる。そのまま成りゆきでグレイの高級ペントハウスに泊まったアナは、ついにグレイと愛を確かめ合う。しかしグレイはあろうことか秘密保持の誓約書と、自分と付き合う条件として、ある“契約”を持ちかけてきて…。

原作未読の人間からすれば、なるほど前半はスリリングで観応えがあった。
純粋でおっちょこちょいな女子大生アナとイケメンの大企業CEOのグレイという二人の、少女漫画のような格差恋愛が展開。ヘリで移動し、グライダーで優雅に舞うグレイの財力にものをいわせた大スケールのアピールに、メロメロになるアナ。でもグレイはどこかミステリアスで、振り回されてしまう。
かようにベタベタなシンデレラ・ストーリーに、普通なら「勝手にやってろよ」となるところだが、本作の場合は全てがひっくり返る不穏な雰囲気に包まれているのだから眼が離せない。このピンと張りつめた緊張感がいつ破裂するかの興味に、グイグイ引き込まれた次第である。

そして、明かされるグレイの秘密。有名小説なだけにバレバレではあろうが、一応伏せておく。その嗜好の描写は、さすがにメジャー映画なので随分とソフト。女性監督らしいオシャレなタッチで、えげつなさは全然ない。愛好者の方からは失笑をかうかもしれないが、むしろよくやっていると思う。エロに関しては、女性はもちろん男性もそこそこ満足できるラインには達していよう。(バラエティあふれる巨大なボカシには心底興ざめであったが…。どうにかならなかったのか)

何より、アナ役のダコタ・ジョンソンとグレイ役のジェイミー・ドーナンのお二人が、体当たりの演技をみせており、好感度大。
祖母はディッピ・ヘドレンで、メラニー・グリフィスとドン・ジョンソンの娘である芸能一家出身のダコタ・ジョンソンの可憐さに、眼が釘付けであった。惜しげもない度胸のよさに拍手喝采。明日のスター誕生といってよかろう。

ただココからが問題である。当シーンから緊張の糸がプツリと切れて、ダレにダレてしまった。もう急激につまらなくなる。本来は、この時点からこそが本番であったと思う。
フィーリングで理想の相手に出会ったと思いきや、それぞれに求め合うものが異なる残酷な現実。それがロマコメでボカしてきた、ズバリ、性癖の問題であるのがミソ。多かれ少なかれ、カップルや夫婦がぶち当たる壁の象徴でもあろう。好きだけど、受け入れられない。感情と現実にどう折り合いをつけていくのか?そこをカリカチュアライズして、官能系にコーティングしたのが、本作の味である。(でも“マミー・ポルノ”という名称は、大げさだと思うが…)いわば、ティーン小説の進化系とでもいおうか。契約書をめぐるグダグダや、グレイがそうなるに至った過去の経緯など、たいした問題ではない。この衝突のドラマが、メインである筈である。

にも関わらず、本作はその辺りが一向に進行せず、ダラダラした挙句、途中でサービス・シーンを挟んでお茶を濁す始末。そして、アナとグレイの服従者と支配者の立場がいつしか皮肉にも入れ替わり、ようやく核心に近づいたと思ったら、「ここで終わり!?」とハシゴが外されたようにエンドロールが流れる。しばし呆然とした。2時間、一体何を観せられたのか、と。一本の作品として、およそ成立していまい。

おそらく「次作に続く!」ということなのだろうが、だったら「パート1」と銘打っておいてほしい。(原作は3部作だそう)昨今、こうした悪徳宣伝方法が多々あるが、ちと度が過ぎていよう。
くれぐれも被害に合わぬよう、お心積もりを。


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『テラスハウス クロージング・ドア』 (2015)

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人間の愚かさと愛おしさを覗き見る、リアリティショー劇場版!



これを新時代の観客参加型映画と好意的にとるか否か?なかなかにユニークな映画体験であった。
リッチな家をシェアして暮らす男女6人の日々を追い、人気を博したリアリティショー『テラスハウス』(12~14)。本作は、ファンに惜しまれつつ放送終了したかにみえた当番組のまさかの復活であり、真の最終章となる劇場版だ。
昨今は、バラエティ番組の一企画が映画になったりと、革新的状況に「コレってどうなんだ?」と正直困惑していたが、いざ自分が好きだった番組がそうなると普通に盛り上がってしまうのだから我ながら勝手である。当番組は恥ずかしげもなく、毎週楽しみに視聴。主音声とスタジオメンバーがVTRを実況トークする副音声の両方をチェックするハマりようであった。
という訳で、本作も公開初日のバレンタインデーに、男一人で観に行くという暴挙に出た次第である。周囲はカップルだらけの極限状態の中、はたして精神は崩壊せずに済んだのか?本邦初のリアリティショー映画の成否や如何に…!?

日本においてもアメリカにおいても、リアリティショーは今も昔もTV番組の人気ジャンルであり、様々な作品が生み出されてきた。『テラスハウス』は、『あいのり』(99~09)の流れをくむ恋愛系リアリティショーなのだが、僕はそれらを観たことはない。本番組については、“たまたまTVをつけた時にやっていた”という偶然が数回続き、気付けば本格的に夢中になっていたという按配である。リアリティショーについては、全くの初心者であるので、その点はご勘弁を。

出演者の人気がブレイクしたり、人格的にバッシングされたりと話題に事欠かず、熱心な支持者がいたのに本番組が終了した経緯については、“やらせ”疑惑や裏側のスキャンダラスな報道等、まことしやかに囁かれている。が、世界の亀山社長が言うように、出演者が有名になり過ぎて安全維持が困難になり、コストと視聴率を考慮した結果というのが正しいところであろう。
僕的には、“やらせ”に関しての批判は、低次元な物言いだと思う。お題目のように唱える「台本は一切ございません」という宣言は、確かに微妙な表現ではある。番組サイドが認めているように、台本こそなくても作家による「こういう風に行動したら?」という誘導とお膳立てがあったのは事実であろう。視聴者はかような作為は承知の上であり、それでいて各キャラのリアクションを楽しんでいるのだから、さして問題ではあるまい。少なくとも僕はそうだった。要は、アンチもつい観てしまい、心をざわつかせる“放ってはいけない”魔力があるということである。これは公開前から観てもいない人物からバッシングを浴びている劇場版も然り。

本番組のスタンスは、美男美女(時には個性派も交じる)の共同生活を、オシャレに描写。必然的に出演者は芸能関係者もしくは志望者、いわんや売名目的(←別に悪くはなかろう)の人物が多くなるのはやむナシといったところ。華やかなりし彼らの光と闇、恋愛や仕事上の悩み、裏の策略、そしてバカさ加減を、憧れの眼差しと笑いものにする姿勢で、突っ込みながら観るのが本番組の楽しみ方である。金持ちをコケにするコメディの構図と同様である。
自分とは別世界にいながら、生々しい生態を放つ彼らの人間観察として、僕はいちいち興味深かった。

という訳で今回の劇場版であるが、内容を書き殴りたくてウズウズするものの、やめておく。ここはできるだけ予備知識ナシで挑んでほしい。(ファンは特に)
TV放送の最終回、ミスター・テラスハウスのてっちゃんが家を出ようとした際に、扉の先に新メンバーが現れ、新たな生活がスタート。どんなメンバーが加入し、どんな恋愛模様が繰り広げられるのか。個性的なキャラが加わり、テッパンの展開に大いに笑い、最後には、ちょっと泣いた。

不満を記しておくと、観ていて痛感したのが、TV放送の30分の尺の適切さ。いいところでバタンッと“次週に続く”と終わって身もだえするぐらいが、やはり丁度いい。本作の場合、終わりがあるのが分かっているだけに、観ていて疲れるのだ。
それに2時間という尺と正味3ヶ月程度の期間では、皆に見せ場をという訳にはいかず、ポジション不明のキャラもおり、如何せん内容が薄い。
せっかくの映画なのに、内容はTVシリーズの延長に過ぎず、かつスケール感がないというのは寂し過ぎよう。

しかし、製作サイドが本作の意図として、「SNSで感想をシェアしてリアルタイムの交流でファンが盛り上がっていたTV版から進化し、劇場という空間でファン同士が現実の時間をシェアしてほしい」という試みには賛同したい。現に満員の館内の皆で、てっちゃんのトホホぶりに爆笑し、性悪女にムカムカし、期待を裏切らない男、今井洋介のミラクルな行動にスタンディング・オベーションを送る共有感は至福の時であった。

また、本作は一見さんも充分面白いと思う。TV放送を観ていないからと敬遠するのはあまりに勿体ない。そのために狂言回しのキャラが用意されているのだが、あまりうまく起用していなかったのは残念ではあるが…。
ファンの贔屓目ではなく、とかく観ておいて損はない珍作である。


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『悼む人』 (2015)

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死生観を問いかける異色ヒューマンドラマ!



死とは生きる者にとってどういう意味をもつのか?あらためて件の命題に心を揺さぶられる異色作ではあるのだが…。
本作は、08年度第140回直木賞を受賞した、天童荒太の同名小説の映画化。監督と脚本は、12年に当作の舞台版を成功させた大森寿美男と堤幸彦だ。堤監督といえば、同じ原作者とのタッグ作『包帯クラブ』(07)は個人的に名作であった。
9.11のテロをひとつのきっかけに、本書を執筆した天童氏。それが時を経て、どう装いも新たに原作のテーマを今の世に問うたのか?堤監督の作品への入れ込みようには並々ならぬものを感じ、期待していたのだが、はたしてどんな仕上がりに…!?

不慮の死をとげた人々を現地で悼むべく、日本全国を放浪している青年、坂築静人(高良健吾)。ゴシップ記者の蒔野(椎名桔平)は、ある事故現場で静人と遭遇。静人に興味をもち、取材を開始する。すると静人の実家では母親の巡子(大竹しのぶ)が末期ガンを患い、死期が迫っていた。
一方、静人は旅先で、自殺願望のあった夫(井浦新)を誘導されて殺害し、服役を終えたばかりの女性、倖世(石田ゆり子)と出会う。自ら手にかけた夫の亡霊に悩まされる倖世は、吸い寄せられるように静人の旅に同行し…。

戦争末期の1945年、8月5日から6日にかけて愛媛県今治は空襲にさらされ、多大な犠牲者を出した。現在、8月6日には原爆を投下された広島において、平和のメッセージが毎年発信されている。今冶が一般に取り上げられることはない。
この状況に関する劇中エピソードが示すように、世の中にはニュースで報道されない不遇の死がたくさん存在する。
そして、人は大切な人が亡くなっても、その死を忘れてしまう。
死者は生者の幸せを望んでいるというのは、生者の勝手な言い分なのではないだろうか?でも全ての命を平等に、悼むことはできない。それでも劇中の静人は巡礼者のように旅を続け、事件や事故現場で死者について情報を集めた上、膝をついて祈る。自らの眼につく範囲の死をいつまでも心に留め、悼んでいく。
彼がそうするに至った経緯は語られるものの、その行為が正しいかどうかは彼自身も分からない。そこを明らかにしていく展開にもならない。静人を通して、人が当たり前に折り合いをつけている死生観を本物語は揺さぶっていく。

よって、主人公は静人ではなく、周囲の人々である。
死者に眼を向けるばかり、静人自身の人生を犠牲にしている罪を問うのが、末期ガンを患う母と、静人の存在により婚約者と別れた身重の妹、美汐(貫地谷しほり)の家族パートだ。と同時に、死にゆく母と、生まれてくる新しい赤ん坊という連綿とつらなる命の輪が描写されていく。

DVにさらされ続けた悲惨な人生により、絶望の淵にいる倖世と、同じく父親との確執から世をスネて、やさぐれている蒔野。倖世は亡き夫を、蒔野は断絶していた父親を悼み、結果的に二人は静人の影響で心を浄化される。
その顛末は、物事の見方の柔軟性を説いているのだと思う。死と向き合い、凝り固まった概念を違う視点でほぐし、生者と死者の人生を今一度考え直してみようと。そこから時に“許し”が導き出され、死が生者の再生につながることもある。
それが答えがひとつではない本作の提示する、“悼み”の意味なのだと僕は受け取った。何かと殺伐としてきた現代に、当テーマはより一層響くことであろう。

しなやかな所作が印象的な静人役の高良健吾は、誠実な雰囲気を身にまとった本役にピッタリ。
倖世役の石田ゆり子の薄幸で危うげな美しさも、ますます磨きがかかっており、凄みすら感じさせる。
静人に疑いの眼差しを向け、化けの皮をはがぞうとする蒔野役の椎名桔平のグレ加減も絶妙である。
母親、巡子役の大竹しのぶの熱演も然り、皆、迫真の演技で圧倒されんばかりである。

かような役者陣を受け止める自然豊かな映像も、厳かで格調高い。
それだけにストレートな表現で話を紡いだ方がよかったように思う。少し演出がクドすぎやしまいか。いちいちその作為性がノイズになった。特にクライマックスの幻想性には辟易。気合が入っているのは分かるが、本作に余計な装飾は必要ではなかった。
う~ん、もったいない!


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『ソロモンの偽証 前篇・事件』 (2015)

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世の不条理に真正面から立ち向かう裁判ドラマ、立志篇!



役者陣と製作陣の直球の熱意に圧倒される、実に観応えのある力作であった。
本作は、ベストセラー作家、宮部みゆきが集大成と位置付け、執筆に9年を費やした単行本三巻にわたる巨編ミステリーの映画化。2部作の前篇だ。メガホンをとったのは、『八月の蝉』(11)等、骨太な名作を放つ正統派の成島出監督。配役は有名役者に頼らず、メインとなる中学生役を大規模オーディションで新人を選ぶといった昨今の邦画界では珍しい本格志向。期待を裏切らないその誠実な姿勢は、好感度大である。
これまであまり映画化作品に報われていない宮部女史。ついに名作誕生なるか!?結果を見届けるべくスクリーンに臨んだのだが…。

1990年、クリスマスの夜。城東第三中学校2年生の生徒、柏木卓也(望月歩)が校舎の屋上から転落死する事件が発生。警察は自殺と断定し、ひとまず事態は収束する。ところがそこに、柏木卓也は自殺したのではなく校内の札付きの不良グループ、大出(清水尋也)ら3人に殺されたとする告白状が関係者に届く。さらに担任の森内恵美子(黒木華)が、受けとった告発状を破棄した疑いをかけられ、そのことを投書により嗅ぎつけていたマスコミの報道が過熱。学校の対応も後手にまわり、混乱に拍車がかかる。
そんな中、父(佐々木蔵之介)が刑事ということから告発状をうけとっていた藤野涼子(藤野涼子)は、柏木卓也と小学校時代に同級であった神原和彦(板垣瑞生)と出会う。神原と柏木卓也に対するある印象について共感した涼子は、死の真相を明らかにするべく生徒主導の学校内裁判の開催を決意して…。

とかく長大な原作を二部作とはいえ、どう圧縮したのか?やはり一番気になって不安がよぎるのはココであろう。本作の場合、原作では主役級であった人物のエピソードを潔くカットする等、ピックアップする人物を大胆に絞り、改変整理する作業の他、原作に散りばめられたミステリー色を排除。宮部女史が語っている通り、真相は早い段階でわざと察するように出来ており、ミステリーとしてはもともと弱い。ゆえに謎を解くというよりも、端から人間ドラマに重きをおく今回のアプローチは大正解であったと思う。
(ただ予告編や宣伝では、相変わらず「暴かられる驚愕の真相!」といったミステリー風味で煽っている。興味を惹きたい意向は分かるが、商売っ気が見え見え。清廉な本作の唯一の残念点である)

ソロモン王は、神託を受けて人を裁くことを許された人物であり、そうした正義と権力を持つものが、嘘をついている現状、いわんや現在の社会、学校の危うい現状をタイトル『ソロモンの偽証』は表している。
劇中で発生した中学生の自殺事件は、表向きの解決には至っており、実はその点に間違いはない。本作はそこを覆すドラマではないのである。
事件の裏では、直接的かつ間接的に“いじめ”や“家庭問題”にさらされる種々雑多な人間の感情が渦巻いており、偶然が重なってメディアを巻き込んだ大騒動に発展。果ては、無垢な生徒が犠牲になる不幸な事故をも引き起こしてしまう。
そして生徒たちは右往左往する大人たちをよそに、自らの力で自分たちが納得する真相を導き出そうと裁判に立ち上がる。
世の中では、様々な問題をどこか曖昧なままに捨て置き、突き詰めることなく見て見ぬふりを決め込み、罪悪感から眼をそらして皆生きている。世界の何処かで起きている紛争を他人事に眺め、未来に悲劇の種を蒔く可能性のある法案に対し、反対は口にすれどもデモにいかない。
劇中、根拠のない風聞にまみれ、物的証拠がない逆境の中、疑念に必死で向き合う中学生たちの純粋な姿は遍く胸をうとう。

かようなテーマに本作は奇をてらわず、ストレートに取り組んでおり、上記したごとく何といってもオーディションで選ばれた若き役者陣の瑞々しさに襟を正される。こんな聡明な中学生いるかよ!といった突っ込みも封殺だ。
代表格である主人公、藤野涼子役を射止め、役名を芸名にする“早乙女愛”方式でデビューする藤野涼子の存在感に圧倒される。お世辞にも上手いはいえず、表現もワンパターンで固い。だが、ひたむきさが伝わってきて理屈抜きに観る者の心に迫り、本作を牽引していく。
若手陣のサポートに徹する実力派を集めた大人の俳優たちも清々しい。
決して現在のアイドルや若手役者が悪いという訳ではなく、これらはおそらく造り手の意識の問題なのだろう。

いうまでもなくタイトル通り、本作は前篇であり、いわば準備篇。物語の本番は裁判篇となる後篇となる。
SNSや携帯電話のない時代だから成り立った本設定が投げかけるメッセージ。どんな些細な事件の裏にも、大勢の人間の感情が絡み合っている真理。そして原作執筆中に顕在化した事なかれ主義の学校の不祥事といったタイムリーな話題。…等々、社会問題を考えさせられ、エモーショナルな思春期のドラマが錯綜する後篇への期待は尽きない。
出来れば前後篇、一気に観たかった!


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第87回アカデミー賞!結果編

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ついにこの日がやってきました。
日本時間2月23日、ところはLAドルビー・シアター。
全世界の映画ファンが固唾を飲んで見守る中、映画界最大の祭典、第87回アカデミー賞授賞式が開催されました!
それではさっそく、主要部門の受賞結果をどうぞ!!


作品賞●『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
監督賞●アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』)
主演男優賞●エディ・レッドメイン(『博士と彼女のセオリー』)
主演女優賞●ジュリアン・ムーア(『アリスのままで』)
助演男優賞●J・K・シモンズ(『セッション』)
助演女優賞●パトリシア・アークエット(『6才のボクが、大人になるまで』)


相木「初っ端の助演賞発表から本命をおさえた波乱のない展開に流れるかと思いきや、美術、メイクアップ、衣装デザイン賞を『グランド・ブダペスト・ホテル』がさらい、録音、編集賞に『セッション』、オリジナル脚本賞に『バードマン~』、脚色賞に『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』と徐々に賞が分散。予想がつかない中、結果、『バードマン~』が作品賞と監督賞を制覇しました。個別に見ていく前に、もし〈予想編〉をまだ読んでいない方がいらっしゃれば、良ければ合わせてご覧頂ければ幸せでございます。それではさっそく、お馴染みのゲストを紹介しましょう。浜村淳の後釜を狙う浪花のシネマ・アイ、“通天閣の定吉”さんです」
定やん「わしらの予想もキレイに分散したのう。今回は引き分けか」
相木「確かに3対3ですけど、あくまで数の上です。作品賞と監督賞を的中させた僕の方に分があるのでは?」
定やん「甘いな。東京駅開業記念Suicaの販売数の見通しを誤ったJR並みに甘いな。わしは本命をあえて外して主演男優賞を当てたんやぞ。この功績は讃えられて然るべきちゃうか?」
相木「いやいや、彼は対抗馬でしたし、そういう意味では僕の監督賞だって―」
定やん「ギャーギャーうるさいやっちゃな。器の小さい。はよ結果みていくぞ!」


助演男優賞●J・K・シモンズ(『セッション』)
(予想:相木→J・K・シモンズ 定やん→イーサン・ホーク)


相木「本命中の本命の受賞となりましたが、やはり若手監督の低予算作品で、彼のような堅実な仕事をしてきたベテランが受賞するのは感動的な構図ですね」
定やん「公開時29歳の監督に全力で応えて、結果を残すんやから役者魂ココにありやな」
相木「スピーチも人格者らしく、身につまされました」
定やん「徹底的に主人公をしごく音楽学校の鬼教師役を演じた氏から、親を大事にするよう諭されたら、そりゃ直立で襟を正すわな」
相木「親不孝ばかりしている身を、反省しました。こうやって自分の世話になってきた人たちに感謝をする意義を学べるのも、授賞式鑑賞の醍醐味です」
定やん「と言いつつ、J・K・シモンズの監督への感謝は、いやにあっさりしとったな」
相木「そこは突っ込まないでおきましょう」


助演女優賞○パトリシア・アークエット(『6才のボクが、大人になるまで』)
(予想:相木→エマ・ストーン 定やん→パトリシア・アークエット)

定やん「こちらも大本命がゲットや。スピーチも女性問題に触れて大盛り上がり!」
相木「メリル・ストリープの余裕の同調ぶりが、印象的でしたね。さすが大御所」
定やん「やはり前にも言うた通り、女優として12年間を、体型の変化まで含めてリアルに記録した覚悟は尊敬に値するわ」
相木「また6才から大学生まで成長する子供に対する重要なリアクションを担い、観客を見事に共感させた彼女の功績は大きいですよ。納得の受賞です」
定やん「『トゥルー・ロマンス』のヒロイン辺りから注目され、その後はTVシリーズでコンスタントに活躍するも、いまいち代表作に恵まれんかった彼女に、ようやく花火がうちあがって感無量や」
相木「個人をみると、さらに長く時の流れが絡んでくる訳ですか。そういえば、僕と定やんとの予想合戦ももう7年目になるんですね…」
定やん「何を唐突に遠い目をしとるんや!後ろを振り返ってる間もなく次いくで!」


主演男優賞◆エディ・レッドメイン(『博士と彼女のセオリー』)
(予想:相木→ベネディクト・カンバーバッチ 定やん→エディ・レッドメイン)


相木「実在の学者対決!と題して、はりきって予想対決をしましたが、正直、本部門はマイケル・キートンが受賞すると思ってました」
定やん「予想編でももらしたが、実はわしもそう思ってた」
相木「僕たち、何やってるんですか」
定やん「キートン以外のノミネート4人が実在の人物役という触れ込みやけど、実際のところ、キートンの役も落ち目の元ヒーロー俳優という自分自身の投影やから」
相木「要するに、全員が実在の人物をモチーフにしてて、キートンは役者仲間からこれまでの実績への評価と、自虐性に同情票を集めるという道理ですね」
定やん「それまでの『バードマン~』の勢いもあり、これでテッパンやと思いきや…」
相木「身体の自由がきかなくなる難病ALSにおかされた科学者スティーブン・ホーキング博士を演じたエディ・レッドメインは、それこそオスカー好みの難易度の高い芝居をクリアし、絶大な支持を得てはいましたから大穴という程ではないですが…」
定やん「予想を当てといて何やけど、ココは人情として、役者人生の集大成の役で、60才を過ぎて初ノミネートされたキートンにあげたかったなぁ。他のノミニー男優にはまだチャンスがあるやろし」
相木「オスカーはこれからの人材の弾みになる場合もありますが、その逆に押しつぶされる例もありますから」
定やん「コラ、縁起でもないこと言うたらアカン!」
相木「すみません。でもマイケル・キートンへの尊敬の念は、今回のノミネートにより消えることはありません」
定やん「もちろん!」


主演女優賞◇ジュリアン・ムーア(『アリスのままで』)
(予想:相木→ロザムンド・パイク 定やん→ジュリアン・ムーア)


相木「こちらは無難に本命が受賞。ようやくジュリアン・ムーアが報われましたね」
定やん「うむ。スピーチもビックリしてテンパってた初々しいレッドメイン君と対照的に、落ち着いとった。すごい貫録や。まあ今年は彼女以外、考えられんやろ」
相木「若年性アルツハイマーを患い、徐々に自我を失っていく女性を熱演した彼女は、ちゃんと病気に対するメッセージも放つ等、社会性のある発言もしているから立派です」
定やん「さっき言い忘れてたけど、レッドメイン君もその点はちゃんとおさえてたな」
相木「こういった役作りの苦労が眼に見えて分かる、いわゆる難病役がオスカーをとり易いのは分かります。ですが、たまには『博士と彼女のセオリー』でレッドメイン君を支えたフェリシティ・ジョーンズのような地味ながら縁の下の力持ちな役柄が受賞してもいいのでは?」
定やん「あんさんの推す『ゴーン・ガール』のロザムンド・パイクみたいな悪女役もそうやな」
相木「今回の主演賞の受賞をうけて、さらに難病役の需要が増すかもしれません」


監督賞☆アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ(『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』)
(予想:相木→アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 定やん→リチャード・リンクレイター)


定やん「という訳で、本日最大のサプライズのお目見えや!」
相木「さっきの定やんじゃないですが、僕もココは、自分で予想しといてアレですけど、リチャード・リンクレイターがゲットするとみてました」
定やん「なんせ、12年という歳月をかけてリアルタイムでキャストの時間経過を追うという途方もない物語を成立させたんやからな。公開の見込みもないし、いつ頓挫するか分からん企画を続ける労力たるや、想像つかんわ」
相木「その奇跡に対しての評価は、少なくとも監督賞という形で示すとてっきり想像していたのですが…」
定やん「去年の『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロンに続き、メキシコ勢の奮闘は素晴らしい成果やけど…。やっぱ腑に落ちん」
相木「う~ん、結果として『6才のボク~』が、1部門しか受賞しなかったというのは、さすがに少ないかもしれませんね」
定やん「とりあえず、話題を次の作品賞に持ち越そか」


作品賞★『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
(予想:相木→『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』 定やん→『6才のボクが、大人になるまで』)


相木「じゃあ定やんは、『6才のボク~』は、作品賞は逃すとみていたと」
定やん「当作のプロジェクトの偉大さと語りかける“時間”のテーマは皆認めるけど、純粋な出来自体は凡庸という評価も多かったからな」
相木「まあ、ルックはホームビデオで撮ったような、日常をきりとった繊細なインディーズ映画ですからね」
定やん「簡単にいうと、保守層の高齢アカデミー会員にはウケがよくなかったんやろ」
相木「同じ実験性でも、『バードマン~』の最新技術を駆使した1カット長回し技法は、受け入れる度量がまだあったと」
定やん「業界モノやし、内輪ウケもよかったんちゃうか」
相木「となると、インディーズ映画とメジャーの壁は、アカデミー賞でも厚いんですね」
定やん「だから、それは仕方ないにしても、監督賞ぐらいはあげてもええんちゃうの?同じ気持ちの人、多いはずやで」
相木「『6才のボク~』の仕打ちは、またまたアカデミー協会に波紋を呼びそうですね」
定やん「会員の平均年齢が60才を越えてるんやもの、推して知るべしや」


相木「さてさて、一息つきまして、他部門で何といっても残念だったのが、長編アニメーション賞の高畑勲監督『かぐや姫の物語』と、短編アニメーション賞の堤大介氏とロバート・コンドウ氏の共同監督作『ダム・キーパー』の落選です」
定やん「『戦隊シリーズ』と『ドラえもん』をごっちゃにした日本リスペクトに溢れた『ベイマックス』が受賞して、日本情緒を全開させた本家『かぐや姫~』が逃すとは、どういこっちゃ!?革新性から深淵なテーマから、格の違いは明白やろうに」
相木「ですよね。これは僕も納得いきません。まあ、なんせ向こうは大ヒット作ですから、アカデミー賞があくまでアメリカの映画賞であるという枠組を顧みれば、しぶしぶ頷くしかないですが…」
定やん「短編アニメ賞に輝いた『愛犬とごちそう』にも、わしは異議アリや!内容は素晴らしいが、一言、犬に人間の食べ物を与えちゃアカン!以上」
相木「ご、ごもっともです。授賞式自体はどうでした?」
定やん「司会のマルチ俳優ニール・パトリック・ハリスはさすがに芸達者で、オープニングの造り込まれたパフォーマンスから無難なすべり出し。テンポがよくて楽しかったな」
相木「でも来年には、普通過ぎて飽きてるような気がしないでもないです。僕は追悼パフォーマンスは、前みたいに映像を流して、観客の歓声をONにしてもらいたいですね。ジェニファー・ハドソンの歌は圧巻でしたが」
定やん「『Selma』の『Glory』等、歌曲賞のパフォーマンスは毎度のことながら、心を奪われるわ」
相木「レディー・ガガが熱唱した『サウンド・オブ・ミュージック』製作50周年のトリビュート・パフォーマンスも、ジュリー・アンドリュースが登場し、感動的でしたね」
定やん「でもサプライズには欠けたなぁ。去年のピザ出前ぐらいはしてもらわんと。パンツ一丁とマジックでは、ちょっとなぁ」


相木「という訳で、第87回アカデミー賞はちょっぴりシコリを残しながら、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』が制しました」
定やん「よっしゃ、来年はもっと冒険して、あっと驚く的中率で圧勝したるわ!…と言いたいところやが、相木君、3月一杯で映画評論業を引退されるそうで…」
相木「ハイ。これからは、本業の脚本家の仕事に全精力を傾けます」
定やん「巳年うまれなだけに、往生際が悪いのう」
相木「読者の皆様、僕と定やんの予想合戦は今回で休戦いたします。映画評論は3月一杯で終了いたします。本ブログを読んでくださっている方がどれほどいらっしゃるか分かりませんが、この場をかりまして、ご愛読ありがとうございました」
定やん「また会おや!」


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『花とアリス殺人事件』 (2015)

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ちょっぴりエキセントリックな、ほんわか青春グラフィティ!



ロトスコープと岩井俊二マジックが融合した不思議な味わいを堪能できる好編であった。
本作は、日本を代表する映像派、岩井俊二監督作。岩井氏といえば、かつての伝説的活躍を顧みるに、てっきり日本映画界を変える世界の巨匠になるだろうと確信していたが、最近はすっかり後進にかすみ、沈静化。まだまだこれからの才能だと思うが、氏の起こした革命にリアルタイムで接した身としては、なんともはや寂しい限り。
今回の題材は、04年の長編『花とアリス』の前日譚を描いたアニメーション。岩井俊二とアニメ、しかも『花とアリス』がモチーフとなれば、なんとなくクオリティの想像はつく安全パイである。いや、それでも何か想像を越えた化学反応があるかもと、期待して劇場へ向かったのだが…!?

石ノ森学園中学校に転校してきた有栖川徹子、通称アリス(声:蒼井優)であったが、クラスメイトは彼女に一線を引き、疎外されてしまう。原因は自分が座った二つ並んだ空席にあるようで、床には不可解な魔法陣が描かれていた。そして「ユダが4人のユダに殺された」と噂される、1年前に当席で起こった意味不明の事件を聞き、頭がこんがらがるアリス。やがてアリスの隣家“花屋敷”に住む、引きこもりの同級生、荒井花(声:鈴木杏)がユダについて詳しいと情報をえたアリスは、さっそく花屋敷に潜入するのだが…。

青春映画の続編ともなれば、難しいもの。特に役者陣が急激に齢をとる学園モノを継続キャストで成立させるのは、至難の技であろう。ましてや前日譚など、言語道断。それをアニメでやってしまおうという、ありそうでなかった試みが本作だ。ダブル主人公の声優を実写版と同じ蒼井優と鈴木杏が務めているのだから、“あの感動よ、再び”である。

物語は、アリスが花の家の隣に引っ越してくるシーンからはじまり、転校生の彼女が、花が引きこもる原因となった禁断の学園事件をさぐっていく運びとなる。
小説家をしているマイペースな母親との二人暮らしという、やや複雑な家庭環境をもつアリスは、シニカルでありながら優しく、向こう見ずで騒ぎを起こすドジな一面も併せ持つ。そんな肩の力を抜いた彼女の自然体なメンタルの強かさに、大いに癒される。

ちょっと知的で神秘の要素を絡める岩井俊二のストーリーテリングも冴え渡り、青春ミステリーとしても凝っていて観応えたっぷりだ。
ハッとするようなシーンの連続に、あらためてその瑞々しい感性に恐れ入る。例えば、アリスと花が夜の駐車場でバレエを練習する何気ない短いシーンが、うっとりするほど印象深い。

アリスが花と出会い、成りゆきでちょっとした冒険にかり出され、いつもとは違う景色に遭遇。知らない街の夜といった子供時代の小冒険の空気が心地良い。それから何となく友達になっていくプロセスもまた共感度大で、まさに『花とアリス』ワールドのエピソード・ゼロである。
個人的には、『生きる』(52)にオマージュを捧げたアリスと見知らぬ老人が触れ合う一連のシークエンスに胸打たれた。10年前に実写版を観た時と比べ、アリスをみる眼線が老人よりになっている事実に驚愕。アリスの眩い若さについ眼を細める現実を突き付けられた次第である。岩井俊二、意地悪である。

実写で撮影した映像を、セル画にトレースするアニメ手法ロトスコープは、動きが自然でセリフのアドリブ感も含めて、実写を観ているような錯覚をしてしまう。でも、なめらか過ぎて、これはファンタジーやアクションには向くまい。むしろ大人のドラマ分野には、3DCGより威力を発揮するように思う。新しい大人アニメ・ジャンルの開拓に期待がかかる。
本作に関しては、そうしたリアルにしてちょっとファンタジー要素が入っている岩井俊二の世界観に合っていた。でも、アニメならではの“らしさ”もちゃんとあり、水彩風の景色や、コミカルな表情、ギャグ丸出しの脇キャラなど、アニメならではの味であろう。
違うフィールドを自分に引き寄せ、見事に使いこなしてしまうのだから、岩井俊二、恐るべし!である。

とはいえ、本音としては実写世界でがんばっていただきたいもの。新作を期待しています。


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『續 姿三四郎』 (1945)

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若き巨匠が挑みし、野心的続編!



現在、映画界では続編商法、真っ盛りである。当然のようにヒット作には第2弾が派生し、のっけから~部作と銘打つパターンも頻発。背景には慢性的なネタ枯れ問題が横たわり、ファンの間でも賛否両論まき起こっている。ただ、続編に対する議論は現代病などではなく、実は映画黎明期から続いている命題であったりする。
という訳で本作は、黒澤明監督の唯一の続編モノだ。(※『用心棒』(61)の次作『椿三十郎』(62)は、姉妹編として別作品とみなす)
本作は、大ヒットした黒澤監督のデビュー作『姿三四郎』(43)に気をよくした会社側が、続編の製作を企画。この会社側の思惑について黒澤監督は、「興行部は、“柳の下のドジョウ”ということわざを知らないらしい」と批判し、あまつさえリメイクについても「食べ残しの材料で料理をつくるもの」と手厳しい持論を展開している。続編に対する黒澤監督の捉え方自体は、まんま現代に当てはまる。1945年の段階から全く変化がないのだから、さもありなん。
しかし、当時の監督はまだ2本撮っただけの若手であり、会社の要請を断れずに本作を製作した。それがよほど悔しかったのか、「二番煎じで気が乗らず、モチベーションを保つのに苦労した」とネガティブ発言を連発している。
よってあまり評判のよろしくない本作だが、実のところ、僕は大好きだったりする。『姿三四郎』よりも断然、こちら派。そんな本作の魅力とは、これ如何に…!?

明治20年、横浜。2年間の武者修行を終えて帰ってきた姿三四郎(藤田進)は、若い車夫の大三郎(石田鉱)がアメリカ人水兵に乱暴されている現場を目撃。即座に水兵を海に投げ捨て、大三郎を救出する。そんな三四郎の活躍を聞きつけたアメリカ領事館通訳官の布引(菅井一郎)は三四郎を訪ね、領事館の舞踏室でアメリカ人ボクサーとの試合を要請。見世物には出ないと断る三四郎であったが、拳闘に興味をそそられ見学することに。すると会場では三四郎の代わりに柔術家の関根(光一)がリングにあがっており、ボクサーに滅多打ちにやられるのであった。関根が柔道の台頭により柔術が廃れ、食い詰めたゆえの出場であった旨を知った三四郎は思い悩む。
そうして落ち込んだまま修道館に戻った三四郎のもとに、かつて倒した檜垣源之助の弟であり、唐手の達人の鉄心(月形龍之介)と源三郎(河野秋武)が兄の敵討ちに現れて…。

ストーリーはほとんど富田常雄の原作から離れたオリジナルとなり、前作の構成をそのまま流用した焼き直しとなっている。
冒頭、三四郎と水兵との海を背にしたバトルが前作の矢野正五郎(大河内傳次郎)と門馬一派との対決とオーバーラップするのを皮切りに、柔道と柔術の異種格闘戦が柔道VSボクシングとなり、暴風吹きすさぶ草原での決闘が寒風吹きすさぶ雪原へと変転。
もうここまでカブると、監督の狙いが見えてこよう。あえて会社への当てつけのように同じことを繰り返し、それでも面白いモノをつくってやる!という若き気概がみてとれる。

前作で置き去りにされた下駄で時間経過を描出したのが、本作では三四郎の弟子となった車夫の大三郎君の道場に座す姿を経過とともに映し出し、はじめは初々しかったのが徐々に傲慢になっていく成長を活写。師匠の矢野が三四郎をひたすら投げ飛ばして諭すシーンが、矢野が徳利相手に稽古して間接的に諭す味のあるシーンへと進化し、稚拙であった小夜とのラブ・シーンにもユーモアを追加。村井半助(志村喬)との他流試合にあたるアメリカ人ボクサーとのアクション・シーンや、クライマックスの雪原を舞台にしたVS檜垣鉄心との決闘も“間”が鮮やかになっており、全てにおいて前作よりグレードアップされている。
特に大幅に加えられたスラップスティック・コメディなノリや軽妙なギャグの多さは、黒澤作品の中でも特筆に値しよう。

また、三四郎が大三郎君という弟子を迎え、師となる新展開もきちんと用意されており、倒してきた人々の没落を目の当たりにして悩むのは前作と同じだが、その後の救済まで踏み込んで解答を用意している。
武道とは何か?勝負とは?
それらのテーマを爽やかに結んだラストは、一際感動的である。

とはいえ、批判されるだけの弱点があるのも否定できない。
三四郎は2年間の武者修行で一体何を学んだのか?戦時下で仕方ないとはいえ、三四郎と小夜のラブ・エピソードのおざなりぶり。何をクヨクヨ悩んでいるのか分からない三四郎の幼さ。アホっぽい異種格闘技戦(現在まで人気を博す当興行のパイオニアという、通の評価アリ)、等々…。粗さが目立つのは確か。
がしかし、そこが僕にとってはたまらなく魅力なのだ。これは完全に好みの問題だが、隙のない映画より多少遊び心がある方に愛着がわくのである。

笑顔がキュートな三四郎を演じたのは、もちろん藤田進。大河内傳次郎、轟夕起子、高堂国典とレギュラー・メンバーは続投。
中でも注目すべきは前作の敵役であった檜垣源之助と本作で初登場となる源之助の弟、鉄心の二役に扮した月形龍之介。いまや病み衰えた源之助と暴走するイケイケの鉄心とを見事に演じ分けている。
鉄心にかつての自分の愚かさをみる源之助の葛藤。三四郎に見送られて道場を出たところで、かつて愛した小夜と出くわし、落ちぶれた姿を隠すやるせなさ。前作でみせた強敵ぶりとのあまりのギャップに栄枯盛衰を感じ、胸がしめつけられる。

加えて、黒澤監督が創作意欲のよすがとなったと語る三男、源三郎のキャラのインパクトが本作の白眉といえよう。僕も漫画チックなこの兄弟が、超お気に入りである。
奇声を発するワイルドな鉄心も強烈だが、前作の修道館の壇義麿役から源三郎役にスライドした河野秋武の特撮番組の悪役のような異様な存在感は必見!“ものぐるい”を表す能の小道具である狂い笹を振り回し、ボサボサ頭で白塗り、真っ赤な唇をひいた童子のような風貌に機械仕掛けのようなその動作。まさに能の世界から飛び出したようである。
本役が能表現を組み入れる黒澤演出の第一歩である点は、認識すべきトピックといえよう。
しかしながら、とにかく狂犬のように向かってくる“道のない”兄弟は、よくよく考えれば『ダークナイト』(08)のジョーカーの不気味さに通底する。1作目で確立した主人公の価値観を挑発し揺さぶる2作目の敵キャラという点も合致しており、クリストファー・ノーランにぜひ観ていただきたいところ。
時代を先取りする巨神、黒澤明、やはり恐るべし!

他、前作の警視総監役から一転して、口八丁な胡散臭い通訳官を妙演した芸達者な菅井一郎、修道館四天王役で顔をみせる森雅之、宮口精二と脇役陣も見逃せない。

本作の公開は、1945年5月。3月に東京大空襲があり、8月に終戦を迎えるまさに戦争末期である。男という男が出征したためにポスト・プロダクションは女性陣が中心となり、空襲がある度にフィルム缶を抱えて防空壕に走る等、様々な苦労話が語り継がれている。
戦乱の影響で本作に対する批評が極端に少ないのもまた悲劇といえよう。
でもリアルタイムで当時の状況を知らない身としては、そんな切羽詰まった世情でも劇場で新作映画が公開され、楽しむ余裕のある人々がいた事実が単純に驚きである。巷では本作を観た子供たちが鉄心の真似をして奇声を発して遊んでいたというのだから、何をかいわんや。
劇中に登場する大勢の外人エキストラにもビックリ。(“上原組”と俗称されるグループの人たちで、大半がトルコ人だったとか)

また前作同様、矢野正五郎が三四郎に説く武道思想が、戦争を正当化させるプロパガンダが匂う側面も依然として存在する。ただ、それでも後世に残る娯楽作に仕上げてしまう黒澤監督の映画的運動神経は、やはり侮れない。
本作後、完璧主義に映画製作に取り組んでいく黒澤監督。そういう意味では、隙だらけの遊び心にあふれた本作は、至極貴重な愛らしい一本といえる。


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