笑いとペーソスに彩られた、チャップリン喜劇の真骨頂!
コメディーとして腹の底から大笑いさせつつ、辛辣な社会批評や反戦思想、純愛、といったテーマをエモーショナルに昇華させるチャップリンの作品群は、まさに人類の宝といえよう。そんな中、笑いとペーソスに特化させた世紀の大喜劇映画たる本作の存在を忘れてはならない。
前作『黄金狂時代』(25)の劇中、パントマイムの温床であるサイレント時代が終わりつつある実感を、ドタ靴(=自分)を食べることで表現したチャップリン。かような決意を受けて、最後に思いっきり得意技を披露してやろうと目論んだのが本作である。
10歳のころから喜劇一座で修行を積んだチャップリン自身の芸を培ったサーカスを題材にし、シンプルなドタバタに原点回帰。御大の名人芸を理屈抜きに堪能できるという点では、紛れもなく集大成といえよう。
極端にいえば、どの国のどんな人が観ても、きっと本作は楽しめる。こんな技術をもつ映画人は、おそらくもう出て来まい。
ある日、巡業サーカスにふらりとやってきた放浪者(チャールズ・チャップリン)は、ひょんなことからスリと間違えられ、警察官に追われる羽目に。本物のスリを交えて逃亡劇を繰り広げた放浪者は、なりゆきで本番中のサーカスに駆け込んでしまう。すると舞台上で放浪者と警官が演じた追いかけっこが観客には大ウケ。団長に腕を見込まれた放浪者は、サーカスに入団する運びとなる。
やがて放浪者は、いつも怒られてばかりいる団長の娘(マーナ・ケネディ)に恋をするも、娘は綱渡り師の青年(ハリー・クロッカー)に夢中になっており…。
放浪者の登場シーン。抱かれた赤ちゃんのホットドックを盗み食いする一連の笑いから彼のキャラ、性格、境遇に至るまでを瞬時に説明してしまう離れ業に唸る。そして、そこで警察に見つかったスリが、スッた財布を放浪者のポケットに入れたことから世紀の追いかけっこがスタート。単なる追う者と追われる者という構図ではなく、警察官とスリ、巻き込まれた不幸な第三者の放浪者という三すくみの複合的な構図がチャップリン・コメディーの真骨頂。
もうのっけからクライマックスといった按配で、からくり館のミラールームを駆使した攻防戦、人形に化けてスリを撃退する放浪者と、笑いが絶えることなくノンストップで快走。
サーカスに乱入し、ショーを台無しにするも客には喜ばれるという大騒動から、入団テスト、ライオンの檻に閉じ込められるヒヤヒヤから、なぜか放浪者を見ると突進してくる馬との因縁、等々、笑いが笑いを生む波状攻撃に腹がよじれるほど苦しめられる。
最大の見せ場となる綱渡りシーン。命綱ナシで実際にチャップリンが猿の襲撃を受けている当場面は、まさに生と死のコントラスト。緊張と緩和の笑いを、一大スペクタクルの如く味わえる。
予算を湯水のように浪費し、納得いくまで撮影に時間をかけ、それこそ“命がけ”でじっくり熟成された笑いの数々は圧巻の一言。全てのシチュエーションに工夫が凝らされており、観れば観るほど考え抜かれたアイディアに度肝を抜かれよう。
放浪者自身はいたって大真面目であり、周囲を笑わす気など全くない。でも彼が一生懸命になればなるほど事態はこじれ、爆笑が派生する。(逆に笑わそうとするサーカス団員の芸は、ひとつもウケない皮肉!)
当然それらは全てサイレントの“動き”の笑いである。この一点をみても、常に奇人変人を出して笑いをとるTVのお笑いとの差は歴然であろう。
そして、抱腹絶倒のお笑いジェットコースターから急転直下、ラスト・シーンに急激に訪れるペーソスは、文字通り、“祭りのあと”といえる寂しさ。愛していた娘のために裏で献身的に立ち回り、仲をとりもった放浪者。でも一握りのプライドからサーカスの車には乗らず、一人残されテクテクと去っていく…。いくら貧乏人でも誇りだけは失わない、と前向きではあるものの、観る者の心をえぐる道化の哀愁たるや!完璧に寅さんの原型といえよう。
一切無駄のない、見事な流れにタメ息をつく他ない。
本作の撮影は、天変地異に見舞われセットが破壊されるわ、現像ミスで撮影したフィルムがダメになったりと数々の不運に見舞われた。しかも私生活では、チャップリンは二人目の妻リタ・グレイとの間で泥沼の離婚騒動に巻き込まれるというダブルパンチ。
ことほどさように苦難の時期に撮られた経緯を慮ると、本作はまた違った見え方ができよう。
ひょんな勘違いから人気者に祀り上げられた放浪者に対し、大衆は彼自身の正体にはとんと無頓着。道化としての彼の面白さのみを求める。また、放浪者が娘の幸せを願って裏側で尽力した苦労も、彼自身はなんら報われない。もちろんチャップリンは正真正銘のプロだが、いわばプライベートとパブリックとの狭間の苦しみが本役に投影されているように見える。
そう考えると、ラストのむなしさがより胸を迫り、またそれでも歩いていく後姿は、大衆の求めに応え続ける決意表明ともとれよう。
本作は第1回アカデミー賞で監督賞、主演男優賞にノミネートされたが、特別賞に一括され、ノミネートは取り消されてしまった。その際、チャップリンはこうコメントを残している。
「少数の人間が決めた賞など、大した名誉ではない。私が欲しいのは大衆の喝采だ」
この想いが本作のラストの放浪者の後姿にダブって仕方ない。
本作以降、チャップリンはさらなる政治的な荒波に飲み込まれ、それに伴い作品も社会性を孕み、よりヘビーで説教臭いテーマ性を帯びてくる。そういう意味では、喜劇王としての葛藤を投射した本作は、一番純粋なチャップリン・コメディーの到達点といえるのかもしれない。
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コメディーとして腹の底から大笑いさせつつ、辛辣な社会批評や反戦思想、純愛、といったテーマをエモーショナルに昇華させるチャップリンの作品群は、まさに人類の宝といえよう。そんな中、笑いとペーソスに特化させた世紀の大喜劇映画たる本作の存在を忘れてはならない。
前作『黄金狂時代』(25)の劇中、パントマイムの温床であるサイレント時代が終わりつつある実感を、ドタ靴(=自分)を食べることで表現したチャップリン。かような決意を受けて、最後に思いっきり得意技を披露してやろうと目論んだのが本作である。
10歳のころから喜劇一座で修行を積んだチャップリン自身の芸を培ったサーカスを題材にし、シンプルなドタバタに原点回帰。御大の名人芸を理屈抜きに堪能できるという点では、紛れもなく集大成といえよう。
極端にいえば、どの国のどんな人が観ても、きっと本作は楽しめる。こんな技術をもつ映画人は、おそらくもう出て来まい。
ある日、巡業サーカスにふらりとやってきた放浪者(チャールズ・チャップリン)は、ひょんなことからスリと間違えられ、警察官に追われる羽目に。本物のスリを交えて逃亡劇を繰り広げた放浪者は、なりゆきで本番中のサーカスに駆け込んでしまう。すると舞台上で放浪者と警官が演じた追いかけっこが観客には大ウケ。団長に腕を見込まれた放浪者は、サーカスに入団する運びとなる。
やがて放浪者は、いつも怒られてばかりいる団長の娘(マーナ・ケネディ)に恋をするも、娘は綱渡り師の青年(ハリー・クロッカー)に夢中になっており…。
放浪者の登場シーン。抱かれた赤ちゃんのホットドックを盗み食いする一連の笑いから彼のキャラ、性格、境遇に至るまでを瞬時に説明してしまう離れ業に唸る。そして、そこで警察に見つかったスリが、スッた財布を放浪者のポケットに入れたことから世紀の追いかけっこがスタート。単なる追う者と追われる者という構図ではなく、警察官とスリ、巻き込まれた不幸な第三者の放浪者という三すくみの複合的な構図がチャップリン・コメディーの真骨頂。
もうのっけからクライマックスといった按配で、からくり館のミラールームを駆使した攻防戦、人形に化けてスリを撃退する放浪者と、笑いが絶えることなくノンストップで快走。
サーカスに乱入し、ショーを台無しにするも客には喜ばれるという大騒動から、入団テスト、ライオンの檻に閉じ込められるヒヤヒヤから、なぜか放浪者を見ると突進してくる馬との因縁、等々、笑いが笑いを生む波状攻撃に腹がよじれるほど苦しめられる。
最大の見せ場となる綱渡りシーン。命綱ナシで実際にチャップリンが猿の襲撃を受けている当場面は、まさに生と死のコントラスト。緊張と緩和の笑いを、一大スペクタクルの如く味わえる。
予算を湯水のように浪費し、納得いくまで撮影に時間をかけ、それこそ“命がけ”でじっくり熟成された笑いの数々は圧巻の一言。全てのシチュエーションに工夫が凝らされており、観れば観るほど考え抜かれたアイディアに度肝を抜かれよう。
放浪者自身はいたって大真面目であり、周囲を笑わす気など全くない。でも彼が一生懸命になればなるほど事態はこじれ、爆笑が派生する。(逆に笑わそうとするサーカス団員の芸は、ひとつもウケない皮肉!)
当然それらは全てサイレントの“動き”の笑いである。この一点をみても、常に奇人変人を出して笑いをとるTVのお笑いとの差は歴然であろう。
そして、抱腹絶倒のお笑いジェットコースターから急転直下、ラスト・シーンに急激に訪れるペーソスは、文字通り、“祭りのあと”といえる寂しさ。愛していた娘のために裏で献身的に立ち回り、仲をとりもった放浪者。でも一握りのプライドからサーカスの車には乗らず、一人残されテクテクと去っていく…。いくら貧乏人でも誇りだけは失わない、と前向きではあるものの、観る者の心をえぐる道化の哀愁たるや!完璧に寅さんの原型といえよう。
一切無駄のない、見事な流れにタメ息をつく他ない。
本作の撮影は、天変地異に見舞われセットが破壊されるわ、現像ミスで撮影したフィルムがダメになったりと数々の不運に見舞われた。しかも私生活では、チャップリンは二人目の妻リタ・グレイとの間で泥沼の離婚騒動に巻き込まれるというダブルパンチ。
ことほどさように苦難の時期に撮られた経緯を慮ると、本作はまた違った見え方ができよう。
ひょんな勘違いから人気者に祀り上げられた放浪者に対し、大衆は彼自身の正体にはとんと無頓着。道化としての彼の面白さのみを求める。また、放浪者が娘の幸せを願って裏側で尽力した苦労も、彼自身はなんら報われない。もちろんチャップリンは正真正銘のプロだが、いわばプライベートとパブリックとの狭間の苦しみが本役に投影されているように見える。
そう考えると、ラストのむなしさがより胸を迫り、またそれでも歩いていく後姿は、大衆の求めに応え続ける決意表明ともとれよう。
本作は第1回アカデミー賞で監督賞、主演男優賞にノミネートされたが、特別賞に一括され、ノミネートは取り消されてしまった。その際、チャップリンはこうコメントを残している。
「少数の人間が決めた賞など、大した名誉ではない。私が欲しいのは大衆の喝采だ」
この想いが本作のラストの放浪者の後姿にダブって仕方ない。
本作以降、チャップリンはさらなる政治的な荒波に飲み込まれ、それに伴い作品も社会性を孕み、よりヘビーで説教臭いテーマ性を帯びてくる。そういう意味では、喜劇王としての葛藤を投射した本作は、一番純粋なチャップリン・コメディーの到達点といえるのかもしれない。
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