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Channel: 相木悟の映画評
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『エレファント・マン』 (1980)

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人間の尊厳を謳い、悪意を暴く至高の一本!



元来、黎明期において映画は見世物小屋の出し物であった。ショーやアトラクションを楽しむ感覚で、当時の人々は映画に接していたのである。発明者リュミエール兄弟の作品『列車の到着』で、映像内で向かってくる列車に観客が逃げ惑ったという逸話はいわずもがな。
そうした映画に対する怖い物見たさ、下世話な感情は連綿と受け継がれており、実際、人間が大量死するディザスター・ムービーやアクション、難病モノは現在も人気を集めている。
反面、内容に人生訓や道徳、芸術性を見出し、自らを高める映画の効能を観客及び造り手は見出してきた。
いわば映画は、人間の二面性を如実にあらわす娯楽といえよう。
という訳で本作は、そうした清濁併せ持つ人間の黒と白の側面を容赦なくあぶり出した問題作である。
我らがデヴィッド・リンチの監督第2作となり、本作は大ヒット及びアカデミー賞8部門ノミネートという興行、批評面でW高評価をゲット。監督は大躍進を遂げた。(特に我が国では、なんとその年の興行記録NO.1に輝いている。リンチ作品が1位とは、現在の感覚からすると全くリアリティがない)
結果、SF超大作『デューン/砂の惑星』(84)をまかされる経緯となるのだが、当作はモメにモメて大コケ。その後、メジャー路線から離れ、異端の地位を築き、今に至るのはご存じの通り。でもそうしたキャリアを顧みると、ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグの成功ルートをリンチが辿っていた事実に驚かされる。
よって本作は、およそリンチらしくない雇われ仕事と見なす向きが世間にはあるが、しばし待たれい。なかなかどうして、リンチ節が全開した傑作である。

19世紀の末、産業革命に沸く英国、ロンドン。ある日、優秀な外科医フレデリック・トリーブス(アンソニー・ホプキンス)は猥雑きわまる見世物小屋で、“エレファント・マン”として衆目の眼にさらされている青年ジョン・メリック(ジョン・ハート)と出会う。多数のこぶに覆われ肥大化した頭部、腫瘍に蝕まれた全身、右腕が利かず、歩行も杖がなければ困難で、言葉も明瞭に発せないメリックの悲惨な状態に息を呑むトリーブス。解剖学に造詣の深いトリーブスは、小屋の主人バイツ(フレディ・ジョーンズ)と交渉し、メリックを引き取り、病院の屋根裏部屋に保護することに。
トリーブスによるメリックを対象にした学会の研究発表は大きな反響を呼ぶも、結局は病気の原因は分からず、快復の見込みは皆無であった。病院長のカー・ゴム(ジョン・ギールグッド)は、そんなメリックを他に移すよう宣告。トリーブスはカー・ゴムを思い止まらせようと面会を設定するのだが、その席でメリックはなんと聖書の詩をそらんじ、実は高い知性をもっている事実を証明し…。

本編で描かれるジョン・メリック(実名は、ジョゼフ・ケアリー・メリック。トリーブス医師の回想録での意図した匿名が定着してしまったのだとか)は、実在の人物である。
氏はイングランドのレスターに生まれ、生後21ヵ月で身体の変形を来たし、母を亡くしてから親戚をたらい回しにされ、救貧院へ。不自由な身体と特殊な風貌からやむなく、見世物小屋に働き口を求めることに…。
本作はその時点から、史実を参考に氏の生涯をなぞりつつ、独自の解釈を加えたフィクションとなっている。(ちなみに近年の最新研究では、メリックの症状は遺伝的疾患群をさすプロメテウス症候群であるとする説が発表された)

冒頭から30分を経るまで、メリックの姿を映さない底意地の悪い演出が鮮烈である。一見、飢餓感から観客の好奇心を高める『ジョーズ』(75)等のヒッチコック・テクニックのスリリングさを思い出すが、さにあらず。本演出により観客は、否応にも金を払って“エレファント・マン”を見る劇中の野次馬と同化してしまうのだから、只事ではない。
本編で、病院の警備員(マイケル・エルブィック)がメリックに鏡を突きつけて面白がるシーンがあるが、その鏡に映るモノは観客そのものの姿といえよう。

外科医のトリーブスは、たまたま見世物小屋で発見したメリックを憐れみと研究心から、外の世界へ救い出す。
するとメリックはトリーブスと親交を深めるうちに、これまで生きるためにあえて封印していた知能と感受性を解放。心優しく芸術を愛するメリックの本性に感銘をうけたトリーブスは、彼に病院内ではあれ、人間らしい生活を提供する。
そして募金をつのる報道により存在が世間に知られ、上流階級の人々がこぞってメリックのもとを訪れるブームが到来。そこでトリーブスは悩み始める。メリックを“宝物”と偏愛し、見世物にしていたバイツと、己のステータスのためにメリックを利用し、貴族を引き合わせ、研究欲と名誉欲を満たさんとしている自分は同一ではないか?と。

一方、メリックはトリーブスとの出会いにより心を開き、人間として成長。心のよりどころであった美しい母親の写真と共に部屋を紳士淑女の来客者たちの写真で飾り、窓から先端が見える聖フィリップ寺院の模型を想像で作っていく。
後半、ある悲惨なアクシデントにより、バイツのもとに舞い戻るのだが、尊厳を取り戻したメリックはもう従うことはない。メリックの意志は仲間のフリークスたちの心をも動かす。「私たちのような境遇の人間には、運が必要だ」とメリックを援助するフリークスたち。
そして公衆の渦中、図らずも好奇な悪意に晒されたメリックは、心の限り叫ぶ。
「私は人間だ!」。
そんなメリックの姿からは、人間の醜い部分を知ったからこそ、あらためて覚醒した気高さがみてとれよう。やはり負の部分を自覚しないと進展はなく、臭いものには蓋をする規制だらけの風潮の愚かさを本作は教えてくれる。

クライマックス。ある状況でメリックは人々の喝采を浴びる。何も考えないでみれば、ごく普通の感動場面だが、喝采を送る側と受け取るメリックとの意識のかけ違いを考えれば、自ずと本シーンが放つ深く辛辣なテーマ性が見えてこよう。
人生とは何か?を考えさせられる、メリックが下す最後の決断は、涙なくしては観られない。

本作をして監督のデヴィッド・リンチこそ興行師、偽善者だという評はあまりにも的外れである。
むしろリンチでなければ、本作はこれほどの名作にはなってはいまい。いくらでもお涙頂戴にできたところをそうはせず、抑制したスマートな語り口に終始。特にメリックを支援する実在の女優ケンドール夫人に『奇跡の人』(62)でサリヴァン先生を演じたアン・バンクロフト(プロデューサーを務めたメル・ブルックスの奥さんでもあった)を起用しつつ、当役を善でも悪でもない限りなくグレーに描いた点に好感をもてる。
また、産業革命時の英国という物質的進化と人間の精神性の変化のなさを対比し、配管や蒸気を不気味に映しだす表現はリンチ節炸裂!中でも人間の悪意が渦巻く宴シーンの狂乱ぶりは、圧巻の一言!まんま『ブルーベルベット』(86)である。ラスト・シーン等、ほのかに漂う幻想性もまた然り。
『イレイザーヘッド』(77)という奇作一本しか実績のない若干33歳のリンチに本作を委ねたプロデューサー、メル・ブルックスの慧眼に唸る。

また最近、ブルーレイで観直してフレディ・フランシスによるモノクロ撮影の美しさに息を飲んだ。
音楽ジョン・モリスの切ない旋律も静かに心をうつ。

人間の善良さと残酷さを克明に暴いた、美しくも哀しい傑作である。


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