若き巨匠が挑みし、野心的続編!
現在、映画界では続編商法、真っ盛りである。当然のようにヒット作には第2弾が派生し、のっけから~部作と銘打つパターンも頻発。背景には慢性的なネタ枯れ問題が横たわり、ファンの間でも賛否両論まき起こっている。ただ、続編に対する議論は現代病などではなく、実は映画黎明期から続いている命題であったりする。
という訳で本作は、黒澤明監督の唯一の続編モノだ。(※『用心棒』(61)の次作『椿三十郎』(62)は、姉妹編として別作品とみなす)
本作は、大ヒットした黒澤監督のデビュー作『姿三四郎』(43)に気をよくした会社側が、続編の製作を企画。この会社側の思惑について黒澤監督は、「興行部は、“柳の下のドジョウ”ということわざを知らないらしい」と批判し、あまつさえリメイクについても「食べ残しの材料で料理をつくるもの」と手厳しい持論を展開している。続編に対する黒澤監督の捉え方自体は、まんま現代に当てはまる。1945年の段階から全く変化がないのだから、さもありなん。
しかし、当時の監督はまだ2本撮っただけの若手であり、会社の要請を断れずに本作を製作した。それがよほど悔しかったのか、「二番煎じで気が乗らず、モチベーションを保つのに苦労した」とネガティブ発言を連発している。
よってあまり評判のよろしくない本作だが、実のところ、僕は大好きだったりする。『姿三四郎』よりも断然、こちら派。そんな本作の魅力とは、これ如何に…!?
明治20年、横浜。2年間の武者修行を終えて帰ってきた姿三四郎(藤田進)は、若い車夫の大三郎(石田鉱)がアメリカ人水兵に乱暴されている現場を目撃。即座に水兵を海に投げ捨て、大三郎を救出する。そんな三四郎の活躍を聞きつけたアメリカ領事館通訳官の布引(菅井一郎)は三四郎を訪ね、領事館の舞踏室でアメリカ人ボクサーとの試合を要請。見世物には出ないと断る三四郎であったが、拳闘に興味をそそられ見学することに。すると会場では三四郎の代わりに柔術家の関根(光一)がリングにあがっており、ボクサーに滅多打ちにやられるのであった。関根が柔道の台頭により柔術が廃れ、食い詰めたゆえの出場であった旨を知った三四郎は思い悩む。
そうして落ち込んだまま修道館に戻った三四郎のもとに、かつて倒した檜垣源之助の弟であり、唐手の達人の鉄心(月形龍之介)と源三郎(河野秋武)が兄の敵討ちに現れて…。
ストーリーはほとんど富田常雄の原作から離れたオリジナルとなり、前作の構成をそのまま流用した焼き直しとなっている。
冒頭、三四郎と水兵との海を背にしたバトルが前作の矢野正五郎(大河内傳次郎)と門馬一派との対決とオーバーラップするのを皮切りに、柔道と柔術の異種格闘戦が柔道VSボクシングとなり、暴風吹きすさぶ草原での決闘が寒風吹きすさぶ雪原へと変転。
もうここまでカブると、監督の狙いが見えてこよう。あえて会社への当てつけのように同じことを繰り返し、それでも面白いモノをつくってやる!という若き気概がみてとれる。
前作で置き去りにされた下駄で時間経過を描出したのが、本作では三四郎の弟子となった車夫の大三郎君の道場に座す姿を経過とともに映し出し、はじめは初々しかったのが徐々に傲慢になっていく成長を活写。師匠の矢野が三四郎をひたすら投げ飛ばして諭すシーンが、矢野が徳利相手に稽古して間接的に諭す味のあるシーンへと進化し、稚拙であった小夜とのラブ・シーンにもユーモアを追加。村井半助(志村喬)との他流試合にあたるアメリカ人ボクサーとのアクション・シーンや、クライマックスの雪原を舞台にしたVS檜垣鉄心との決闘も“間”が鮮やかになっており、全てにおいて前作よりグレードアップされている。
特に大幅に加えられたスラップスティック・コメディなノリや軽妙なギャグの多さは、黒澤作品の中でも特筆に値しよう。
また、三四郎が大三郎君という弟子を迎え、師となる新展開もきちんと用意されており、倒してきた人々の没落を目の当たりにして悩むのは前作と同じだが、その後の救済まで踏み込んで解答を用意している。
武道とは何か?勝負とは?
それらのテーマを爽やかに結んだラストは、一際感動的である。
とはいえ、批判されるだけの弱点があるのも否定できない。
三四郎は2年間の武者修行で一体何を学んだのか?戦時下で仕方ないとはいえ、三四郎と小夜のラブ・エピソードのおざなりぶり。何をクヨクヨ悩んでいるのか分からない三四郎の幼さ。アホっぽい異種格闘技戦(現在まで人気を博す当興行のパイオニアという、通の評価アリ)、等々…。粗さが目立つのは確か。
がしかし、そこが僕にとってはたまらなく魅力なのだ。これは完全に好みの問題だが、隙のない映画より多少遊び心がある方に愛着がわくのである。
笑顔がキュートな三四郎を演じたのは、もちろん藤田進。大河内傳次郎、轟夕起子、高堂国典とレギュラー・メンバーは続投。
中でも注目すべきは前作の敵役であった檜垣源之助と本作で初登場となる源之助の弟、鉄心の二役に扮した月形龍之介。いまや病み衰えた源之助と暴走するイケイケの鉄心とを見事に演じ分けている。
鉄心にかつての自分の愚かさをみる源之助の葛藤。三四郎に見送られて道場を出たところで、かつて愛した小夜と出くわし、落ちぶれた姿を隠すやるせなさ。前作でみせた強敵ぶりとのあまりのギャップに栄枯盛衰を感じ、胸がしめつけられる。
加えて、黒澤監督が創作意欲のよすがとなったと語る三男、源三郎のキャラのインパクトが本作の白眉といえよう。僕も漫画チックなこの兄弟が、超お気に入りである。
奇声を発するワイルドな鉄心も強烈だが、前作の修道館の壇義麿役から源三郎役にスライドした河野秋武の特撮番組の悪役のような異様な存在感は必見!“ものぐるい”を表す能の小道具である狂い笹を振り回し、ボサボサ頭で白塗り、真っ赤な唇をひいた童子のような風貌に機械仕掛けのようなその動作。まさに能の世界から飛び出したようである。
本役が能表現を組み入れる黒澤演出の第一歩である点は、認識すべきトピックといえよう。
しかしながら、とにかく狂犬のように向かってくる“道のない”兄弟は、よくよく考えれば『ダークナイト』(08)のジョーカーの不気味さに通底する。1作目で確立した主人公の価値観を挑発し揺さぶる2作目の敵キャラという点も合致しており、クリストファー・ノーランにぜひ観ていただきたいところ。
時代を先取りする巨神、黒澤明、やはり恐るべし!
他、前作の警視総監役から一転して、口八丁な胡散臭い通訳官を妙演した芸達者な菅井一郎、修道館四天王役で顔をみせる森雅之、宮口精二と脇役陣も見逃せない。
本作の公開は、1945年5月。3月に東京大空襲があり、8月に終戦を迎えるまさに戦争末期である。男という男が出征したためにポスト・プロダクションは女性陣が中心となり、空襲がある度にフィルム缶を抱えて防空壕に走る等、様々な苦労話が語り継がれている。
戦乱の影響で本作に対する批評が極端に少ないのもまた悲劇といえよう。
でもリアルタイムで当時の状況を知らない身としては、そんな切羽詰まった世情でも劇場で新作映画が公開され、楽しむ余裕のある人々がいた事実が単純に驚きである。巷では本作を観た子供たちが鉄心の真似をして奇声を発して遊んでいたというのだから、何をかいわんや。
劇中に登場する大勢の外人エキストラにもビックリ。(“上原組”と俗称されるグループの人たちで、大半がトルコ人だったとか)
また前作同様、矢野正五郎が三四郎に説く武道思想が、戦争を正当化させるプロパガンダが匂う側面も依然として存在する。ただ、それでも後世に残る娯楽作に仕上げてしまう黒澤監督の映画的運動神経は、やはり侮れない。
本作後、完璧主義に映画製作に取り組んでいく黒澤監督。そういう意味では、隙だらけの遊び心にあふれた本作は、至極貴重な愛らしい一本といえる。
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現在、映画界では続編商法、真っ盛りである。当然のようにヒット作には第2弾が派生し、のっけから~部作と銘打つパターンも頻発。背景には慢性的なネタ枯れ問題が横たわり、ファンの間でも賛否両論まき起こっている。ただ、続編に対する議論は現代病などではなく、実は映画黎明期から続いている命題であったりする。
という訳で本作は、黒澤明監督の唯一の続編モノだ。(※『用心棒』(61)の次作『椿三十郎』(62)は、姉妹編として別作品とみなす)
本作は、大ヒットした黒澤監督のデビュー作『姿三四郎』(43)に気をよくした会社側が、続編の製作を企画。この会社側の思惑について黒澤監督は、「興行部は、“柳の下のドジョウ”ということわざを知らないらしい」と批判し、あまつさえリメイクについても「食べ残しの材料で料理をつくるもの」と手厳しい持論を展開している。続編に対する黒澤監督の捉え方自体は、まんま現代に当てはまる。1945年の段階から全く変化がないのだから、さもありなん。
しかし、当時の監督はまだ2本撮っただけの若手であり、会社の要請を断れずに本作を製作した。それがよほど悔しかったのか、「二番煎じで気が乗らず、モチベーションを保つのに苦労した」とネガティブ発言を連発している。
よってあまり評判のよろしくない本作だが、実のところ、僕は大好きだったりする。『姿三四郎』よりも断然、こちら派。そんな本作の魅力とは、これ如何に…!?
明治20年、横浜。2年間の武者修行を終えて帰ってきた姿三四郎(藤田進)は、若い車夫の大三郎(石田鉱)がアメリカ人水兵に乱暴されている現場を目撃。即座に水兵を海に投げ捨て、大三郎を救出する。そんな三四郎の活躍を聞きつけたアメリカ領事館通訳官の布引(菅井一郎)は三四郎を訪ね、領事館の舞踏室でアメリカ人ボクサーとの試合を要請。見世物には出ないと断る三四郎であったが、拳闘に興味をそそられ見学することに。すると会場では三四郎の代わりに柔術家の関根(光一)がリングにあがっており、ボクサーに滅多打ちにやられるのであった。関根が柔道の台頭により柔術が廃れ、食い詰めたゆえの出場であった旨を知った三四郎は思い悩む。
そうして落ち込んだまま修道館に戻った三四郎のもとに、かつて倒した檜垣源之助の弟であり、唐手の達人の鉄心(月形龍之介)と源三郎(河野秋武)が兄の敵討ちに現れて…。
ストーリーはほとんど富田常雄の原作から離れたオリジナルとなり、前作の構成をそのまま流用した焼き直しとなっている。
冒頭、三四郎と水兵との海を背にしたバトルが前作の矢野正五郎(大河内傳次郎)と門馬一派との対決とオーバーラップするのを皮切りに、柔道と柔術の異種格闘戦が柔道VSボクシングとなり、暴風吹きすさぶ草原での決闘が寒風吹きすさぶ雪原へと変転。
もうここまでカブると、監督の狙いが見えてこよう。あえて会社への当てつけのように同じことを繰り返し、それでも面白いモノをつくってやる!という若き気概がみてとれる。
前作で置き去りにされた下駄で時間経過を描出したのが、本作では三四郎の弟子となった車夫の大三郎君の道場に座す姿を経過とともに映し出し、はじめは初々しかったのが徐々に傲慢になっていく成長を活写。師匠の矢野が三四郎をひたすら投げ飛ばして諭すシーンが、矢野が徳利相手に稽古して間接的に諭す味のあるシーンへと進化し、稚拙であった小夜とのラブ・シーンにもユーモアを追加。村井半助(志村喬)との他流試合にあたるアメリカ人ボクサーとのアクション・シーンや、クライマックスの雪原を舞台にしたVS檜垣鉄心との決闘も“間”が鮮やかになっており、全てにおいて前作よりグレードアップされている。
特に大幅に加えられたスラップスティック・コメディなノリや軽妙なギャグの多さは、黒澤作品の中でも特筆に値しよう。
また、三四郎が大三郎君という弟子を迎え、師となる新展開もきちんと用意されており、倒してきた人々の没落を目の当たりにして悩むのは前作と同じだが、その後の救済まで踏み込んで解答を用意している。
武道とは何か?勝負とは?
それらのテーマを爽やかに結んだラストは、一際感動的である。
とはいえ、批判されるだけの弱点があるのも否定できない。
三四郎は2年間の武者修行で一体何を学んだのか?戦時下で仕方ないとはいえ、三四郎と小夜のラブ・エピソードのおざなりぶり。何をクヨクヨ悩んでいるのか分からない三四郎の幼さ。アホっぽい異種格闘技戦(現在まで人気を博す当興行のパイオニアという、通の評価アリ)、等々…。粗さが目立つのは確か。
がしかし、そこが僕にとってはたまらなく魅力なのだ。これは完全に好みの問題だが、隙のない映画より多少遊び心がある方に愛着がわくのである。
笑顔がキュートな三四郎を演じたのは、もちろん藤田進。大河内傳次郎、轟夕起子、高堂国典とレギュラー・メンバーは続投。
中でも注目すべきは前作の敵役であった檜垣源之助と本作で初登場となる源之助の弟、鉄心の二役に扮した月形龍之介。いまや病み衰えた源之助と暴走するイケイケの鉄心とを見事に演じ分けている。
鉄心にかつての自分の愚かさをみる源之助の葛藤。三四郎に見送られて道場を出たところで、かつて愛した小夜と出くわし、落ちぶれた姿を隠すやるせなさ。前作でみせた強敵ぶりとのあまりのギャップに栄枯盛衰を感じ、胸がしめつけられる。
加えて、黒澤監督が創作意欲のよすがとなったと語る三男、源三郎のキャラのインパクトが本作の白眉といえよう。僕も漫画チックなこの兄弟が、超お気に入りである。
奇声を発するワイルドな鉄心も強烈だが、前作の修道館の壇義麿役から源三郎役にスライドした河野秋武の特撮番組の悪役のような異様な存在感は必見!“ものぐるい”を表す能の小道具である狂い笹を振り回し、ボサボサ頭で白塗り、真っ赤な唇をひいた童子のような風貌に機械仕掛けのようなその動作。まさに能の世界から飛び出したようである。
本役が能表現を組み入れる黒澤演出の第一歩である点は、認識すべきトピックといえよう。
しかしながら、とにかく狂犬のように向かってくる“道のない”兄弟は、よくよく考えれば『ダークナイト』(08)のジョーカーの不気味さに通底する。1作目で確立した主人公の価値観を挑発し揺さぶる2作目の敵キャラという点も合致しており、クリストファー・ノーランにぜひ観ていただきたいところ。
時代を先取りする巨神、黒澤明、やはり恐るべし!
他、前作の警視総監役から一転して、口八丁な胡散臭い通訳官を妙演した芸達者な菅井一郎、修道館四天王役で顔をみせる森雅之、宮口精二と脇役陣も見逃せない。
本作の公開は、1945年5月。3月に東京大空襲があり、8月に終戦を迎えるまさに戦争末期である。男という男が出征したためにポスト・プロダクションは女性陣が中心となり、空襲がある度にフィルム缶を抱えて防空壕に走る等、様々な苦労話が語り継がれている。
戦乱の影響で本作に対する批評が極端に少ないのもまた悲劇といえよう。
でもリアルタイムで当時の状況を知らない身としては、そんな切羽詰まった世情でも劇場で新作映画が公開され、楽しむ余裕のある人々がいた事実が単純に驚きである。巷では本作を観た子供たちが鉄心の真似をして奇声を発して遊んでいたというのだから、何をかいわんや。
劇中に登場する大勢の外人エキストラにもビックリ。(“上原組”と俗称されるグループの人たちで、大半がトルコ人だったとか)
また前作同様、矢野正五郎が三四郎に説く武道思想が、戦争を正当化させるプロパガンダが匂う側面も依然として存在する。ただ、それでも後世に残る娯楽作に仕上げてしまう黒澤監督の映画的運動神経は、やはり侮れない。
本作後、完璧主義に映画製作に取り組んでいく黒澤監督。そういう意味では、隙だらけの遊び心にあふれた本作は、至極貴重な愛らしい一本といえる。
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