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Channel: 相木悟の映画評
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『華麗なるギャツビー』 (1974)

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成金男の哀しき人生に映し出される時代性!



幸せとは何か?
大金持ちになる?恋愛が成就する?やりたい仕事につく?はたまた夢を追っている過程?それとも平凡な日常?
答えの出ない問題を頭の中で巡回させた経験が誰しもあろう。そうしたテーマをズシンと胸に響かす傑作といえば、アメリカ文学史上、世紀の傑作と名高いF・スコット・フィッツジェラルド著の『グレート・ギャツビー』である。
F・スコット・フィッツジェラルドは、1986年ミネソタ生まれ。プリンストン大学を中退し、陸軍に入隊。除隊後の1920年、処女長編『楽園のこちら側』を出版し、ベストセラーとなる。第一次世界大戦という人類初のワールドサイズの戦争を経験し、価値観を一変させる大きな喪失感を味わった若者たち=“失われた世代”を代表し、未曽有の軍需好景気にわいた1920年代、国民が日がな一日、ジャズを聴いて遊びほうけていた、いわゆる“ジャズ・エイジ”を象徴する作家さんである。
私生活では、奔放な妻ゼルダに振り回され、世界恐慌でバブルがはじけた後は、急激に過去の人となり、結果、慢性的な財政難とアルコールに溺れながら44歳で死去。1925年に発表された『グレート・ギャツビー』が今日にいたる評価を受けたのは、死後十数年を経た後であった。
当作は何度も映画化されているが、一般的に成功作はないといわれている。
という訳で本作は、映画化作の中で最も有名なジャック・クレイトン監督作。
第47回アカデミー賞にて、衣装デザイン賞と音楽賞を獲得。当時、若手NO.1であった我らがロバート・レッドフォードをギャツビー役に招聘。同年に『ゴッドファーザーPART2』の公開を控え、まさに頂点を極めつつあったフランシス・フォード・コッポラが脚色を手掛けたヒット作である。

1920年代アメリカ、ニューヨーク郊外のロングアイランド。中西部から越してきた証券マンのニック(サム・ウォーターストン)は、従妹のデイジー(ミア・ファロー)と富豪の夫トム(ブルース・ダーン)と交流を深めていた。しかし、トムは馴染にしている修理工ウィルソン(スコット・ウィルソン)の妻マートル(カレン・ブラック)と不倫しており、二人の夫婦仲は冷えきっていた。
そんなニックが最近、気になっているのは、隣人の謎の大富豪ギャツビー(ロバート・レッドフォード)の存在。毎夜、大勢のセレブを邸宅に招き、豪華絢爛な宴を盛大に繰り広げるこの男は何者なのか?噂が噂を呼ぶ中、ニックもパーティの招待をうけ、ギャツビーと知己をえる。そしてニックはギャツビーの秘密を聞くことに。
貧困層出身であったギャツビーは、軍人時代にデイジーと出会い、愛し合う。ところがギャツビーが戦地に赴いている間にデイジーはトムと結婚。ショックをうけたギャツビーはデイジーを取り戻すべく、遮二無二働き、現在の地位に成り上がったのであった。
そうした事情を聞いたニックは、ギャツビーの想いを酌み、デイジーとの再会をお膳立てするのだが…。

比較的、流れは原作に忠実であり、傍観者である普通人ニックを語り部に、躁状態の時代を謳歌するミステリアスな大富豪ギャツビーというキャラクターの正体を暴いていく。
貧しい青年ギャツビーは自分を棄て、金持ちと結婚した元恋人デイジーが忘れられず、一念発起。裏稼業に手を染め、好景気の波に乗り、成り上がる。そしてわざわざデイジーの家の近くに大邸宅を構え、彼女を呼び寄せるべく大宴会を日夜、開催。静かにチャンスを待つ。アメリカ版『金色夜叉』といったところか。

たとえ大金持ちになっても、心が埋まらない人間の哀しき業。恋で盲目となり、薄っぺらい女の虜となる男の愚かさ。夜な夜な行われるギャツビーの虚飾の宴が、痛烈に人生の虚しさを訴える。これはまさに儚いジャズ・エイジの実感であろう。
そして一代の歴史しか持たないギャツビーという成金の空虚は、そのままアメリカという若い国の持つコンプレックスを象徴している。その点こそ本原作が当国の国民の心をわし掴む由縁といえよう。

F・スコット・フィッツジェラルドは、実生活を反映させて物語を紡ぐタイプの作家であり、本作においても、ニックやギャツビーといったそれぞれのキャラに自身を分散させ、デイジーに妻のゼルダを当てはめ、リアルな葛藤が表現されている。
派手好きのゼルダを養うべく、金になる大衆短編小説を書き続けねばならなかったフィッツジェラルドは思うように長編を書けなかった。だが反面、浮世離れしたゼルダの刺激がなければ、氏の作家的衝動は起動せず、そもそも『グレート・ギャツビー』の発想は生まれることはなかった訳である。その辺りの因果を登場人物に重ね合わせて観ると、より本作の理解が深まろう。

何となく原作よりのレビューになっているが、気を取り直し、本映画のキャスト陣をご紹介!
ギャツビーに扮したロバート・レッドフォードは全盛期であっただけあり、そのスマートな美しさはタメ息もの!謎めいた神秘の雰囲気を漂わせ、圧倒的な存在感を誇っている。まさにスターの横綱相撲!
ただ、如何せん育ちがよく見え、到底、裏稼業に手を染めた成金には見えない。本役はギラギラした野心、ダークサイドが垣間見える役者さんでなければ務まるまい。その辺りが少し、残念なところである。
対して、デイジーを演じたミア・ファローは、逆に生粋の金持ちのお嬢様には見えない。彼女こそ成り上がりに写る。
確かに魅力的ではあるが、あべこべな両者はミスキャストといえよう。演出的にも二人のメロドラマにより過ぎている気がする。美術、衣装、撮影と時代の空気をうまく再現してはいるのだが…。

さて。
かような本作だが、実は原作と全く印象が異なる作品に仕上がっている。
決定的であるのが、デイジーの描き方。原作ではデイジーの存在は曖昧なところが残り、人間性に関しては解釈をゆだねる形がとられている。妻ゼルダがモデルということもあり、フィッツジェラルドに当キャラ、いわば女性全般に対する温情及び理想があったのだろう。
一方、本作ではラストに数シーンを加えることで、デイジーは現金で理解不能な女に堕している。若干、思わせぶりな演出はあるにはあるが、ハッキリいって、最悪の女である。件の崇拝性は微塵もない。
ラストも原作では希望があるのだが、本作ではそうしたニックのモノローグもバッサリ甘さが切り捨てられ、救いようなく幕を閉じる。
ここはやはりアメリカン・ドリームが夢幻と化し、ニューシネマが勃興した公開当時の終末的な空気が影響しているのだろう。
もちろんそのことを批判している訳ではなく、名作文学の映画化のアプローチとして正しい在り方だと思う。普遍的な名作を各時代にマッチさせ、アレンジしてこそ造る意味があるというものだ。

とはいえ、ギャツビーの人生が与える感情は千差万別。
若きギャツビーがたてた健気な一日のスケジュールは、時代を越えて観る者の感涙を誘う。
結局、最後には何も残すことはなかった憐れな男の寂寞感…。そんな男に投げかけるニックのはなむけの言葉は、邦題の『華麗なるギャツビー』より、原題の『偉大なるギャツビー』の方が感覚として相応しかろう。


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