広告合戦で民衆政治を問う社会派ムービー!
政治を伝えるメディア、受けとめる市民について、当たり前になった日常を改めて考えさせられる興味深い良品であった。
本作は、パブロ・ラライン監督による『トニー・マネロ』(08)、『検死』(10)に続くチリ独裁政権3部作の完結編。東京国際映画祭に出品され、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされた注目作、ようやくの一般公開である。軍事独裁政権下のチリで行われた国民投票の宣伝戦を綴った実録モノだが、今や全くの他人事に見えないのが怖いところ。国民の政治への無関心、一党の強引な政治体制、大手新聞すら信用を失墜させる惨状、等々、不穏な空気に覆われている我々に本作は一体何を投げかけるのか…!?
1988年、南米チリ。長年にわたるピノチェト軍事政権の独裁に対する国際的な風当りが強まる中、政府は信任継続を問う国民投票の実施を決定。それに伴い、投票までの27日間、政権支持派の「YES」と反対派の「NO」、両陣営に1日15分のテレビ放送のPRタイムがふり分けられる運びとなる。
そこで「NO」陣営の中心人物ホセ(ルイス・ニェッコ)は、友人の腕利き広告マン、レネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)にCM製作を依頼。はじめは政権が対外的に正当性をアピールするだけの出来レースと気乗りしなかったレネだが、やがてプロ根性を発揮。明るい未来への希望を謳いあげるレネがつくる資本主義の象徴のようなCMは、内外の党員の反感をかうも、諦めムードを覆し、国民の心をがっつりつかんでいく。途端に危機感を抱いた「YES」陣営は、あろうことかレネの上司グスマン(アルフレド・カストロ)を広報責任者に抜擢。権力をもちいて「NO」陣営を押さえこもうと画策するのだが…。
軍事政権の転覆をあつかった映画ともなれば、レジスタンスを主役に、権力による脅迫や拷問といった熾烈な妨害工作に立ち向かう構造になりがちである。本作の場合、確かにそういった要素もあるにはあるが、基本、双方の宣伝合戦を中心にそえたユニークな視点をとっており、全然、血なまぐさくない。
独裁政権からうけた迫害を告発する暗い内容をあえて避け、色鮮やかな虹をイメージカラーにテーマ曲『チリよ、喜びはもうすぐやってくる』で自由を謳いあげ、ウィットに富んだオシャレで楽しいCMをつくるレネ。
一方、上司グスマンは、どういった対抗策をとったのか?なぜそれが墓穴を掘る結果となったのか?(この辺りは、我が国でもつい思い当たる例があろう)
エキサイティングな宣伝合戦の模様は、ぜひご自身の眼でご確認していただきたい。
が、エキサイティングと書いたが、本作のタッチは終始落ち着いて淡々としており、退屈にすら感じよう。そこには実は監督の秘めた狙いがあるのだが、それは後述するとして、まずは広告マンのキャラクターである。ひとつに彼らはノンポリで(レネの妻(アントニア・セヘルス)は、左翼活動家であるコントラストが面白い)、あくまでビジネスとして関わっているスタンスは崩さない。そのクールさにある種の虚無的な感情が芽生える、投票結果をうけた際のレネのリアクションにご注目。さらにその後のレネとグスマンの身の処し方は、多分に示唆的である。
かようなメディアにノセられて盛り上がってしまう我々市民は一体何なのか?つい我が身を振り返って煩悶してしまうことうけあいだ。
ではなぜ監督は、本作をこういった渋い作風に仕上げたのか?やろうと思えば『アルゴ』(12)のようにバランスをとったエンタメとして、いくらでも盛り上げられたはずである。
そこでチリの辿ってきた歴史的経緯を簡単にみてみよう。
1970年代初頭、反共産主義を掲げる陸軍総司令官ピノチェトの勢力をアメリカが支援。CIAエキスパートの協力をうけたピノチェトは軍事クーデターを起こし、政権を奪取。独裁体制を敷き、反対勢力を徹底的に弾圧した。
そんなピノチェト政権により、資本主義が当国に持ち込まれたのだが、最後は国民投票という形で終止符をうたれる羽目となる。当政権は自分たちが拡げた資本主義の魅力により、皮肉にも首をしめられた形である。
しかしその後、レネのつくった資本主義讃美のコマーシャルのように皆幸せになったかといえば、さにあらず。企業が肥大化し、格差はひろがり、現在は様々な問題が噴出している。その流れの起点が、民主主義を回復した本作の時点にあったとするのが、監督の観点なのだ。本作をハッピーエンドにできない思惑がそこにある。
そして、本作を現代に直結させるためにとった演出が、あえて画質を当時に近づけんとわざわざビンテージカメラを使った撮影法。美術や衣装といった再現性の高い画造りも伴い、劇中のアーカイブと自然につながっているのだから、その効果は推して知るべし。
要するに、現代から過去を振り返っているという感覚を無くさせることにより、逆に今日性を打ち出しているのである。
演説も選挙方法も、一昔前と全くスタイルが変わらない旧態依然とした日本の政治家たちを見ていると、いつ本作のような裏の第三者による革命が起きて、その波に操られ知らずに流されてしまう日がくるのでは?とリアルに思う。
もしかすると2014年に公開されたのは、天の警告なのかもしれない。
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政治を伝えるメディア、受けとめる市民について、当たり前になった日常を改めて考えさせられる興味深い良品であった。
本作は、パブロ・ラライン監督による『トニー・マネロ』(08)、『検死』(10)に続くチリ独裁政権3部作の完結編。東京国際映画祭に出品され、アカデミー外国語映画賞にもノミネートされた注目作、ようやくの一般公開である。軍事独裁政権下のチリで行われた国民投票の宣伝戦を綴った実録モノだが、今や全くの他人事に見えないのが怖いところ。国民の政治への無関心、一党の強引な政治体制、大手新聞すら信用を失墜させる惨状、等々、不穏な空気に覆われている我々に本作は一体何を投げかけるのか…!?
1988年、南米チリ。長年にわたるピノチェト軍事政権の独裁に対する国際的な風当りが強まる中、政府は信任継続を問う国民投票の実施を決定。それに伴い、投票までの27日間、政権支持派の「YES」と反対派の「NO」、両陣営に1日15分のテレビ放送のPRタイムがふり分けられる運びとなる。
そこで「NO」陣営の中心人物ホセ(ルイス・ニェッコ)は、友人の腕利き広告マン、レネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)にCM製作を依頼。はじめは政権が対外的に正当性をアピールするだけの出来レースと気乗りしなかったレネだが、やがてプロ根性を発揮。明るい未来への希望を謳いあげるレネがつくる資本主義の象徴のようなCMは、内外の党員の反感をかうも、諦めムードを覆し、国民の心をがっつりつかんでいく。途端に危機感を抱いた「YES」陣営は、あろうことかレネの上司グスマン(アルフレド・カストロ)を広報責任者に抜擢。権力をもちいて「NO」陣営を押さえこもうと画策するのだが…。
軍事政権の転覆をあつかった映画ともなれば、レジスタンスを主役に、権力による脅迫や拷問といった熾烈な妨害工作に立ち向かう構造になりがちである。本作の場合、確かにそういった要素もあるにはあるが、基本、双方の宣伝合戦を中心にそえたユニークな視点をとっており、全然、血なまぐさくない。
独裁政権からうけた迫害を告発する暗い内容をあえて避け、色鮮やかな虹をイメージカラーにテーマ曲『チリよ、喜びはもうすぐやってくる』で自由を謳いあげ、ウィットに富んだオシャレで楽しいCMをつくるレネ。
一方、上司グスマンは、どういった対抗策をとったのか?なぜそれが墓穴を掘る結果となったのか?(この辺りは、我が国でもつい思い当たる例があろう)
エキサイティングな宣伝合戦の模様は、ぜひご自身の眼でご確認していただきたい。
が、エキサイティングと書いたが、本作のタッチは終始落ち着いて淡々としており、退屈にすら感じよう。そこには実は監督の秘めた狙いがあるのだが、それは後述するとして、まずは広告マンのキャラクターである。ひとつに彼らはノンポリで(レネの妻(アントニア・セヘルス)は、左翼活動家であるコントラストが面白い)、あくまでビジネスとして関わっているスタンスは崩さない。そのクールさにある種の虚無的な感情が芽生える、投票結果をうけた際のレネのリアクションにご注目。さらにその後のレネとグスマンの身の処し方は、多分に示唆的である。
かようなメディアにノセられて盛り上がってしまう我々市民は一体何なのか?つい我が身を振り返って煩悶してしまうことうけあいだ。
ではなぜ監督は、本作をこういった渋い作風に仕上げたのか?やろうと思えば『アルゴ』(12)のようにバランスをとったエンタメとして、いくらでも盛り上げられたはずである。
そこでチリの辿ってきた歴史的経緯を簡単にみてみよう。
1970年代初頭、反共産主義を掲げる陸軍総司令官ピノチェトの勢力をアメリカが支援。CIAエキスパートの協力をうけたピノチェトは軍事クーデターを起こし、政権を奪取。独裁体制を敷き、反対勢力を徹底的に弾圧した。
そんなピノチェト政権により、資本主義が当国に持ち込まれたのだが、最後は国民投票という形で終止符をうたれる羽目となる。当政権は自分たちが拡げた資本主義の魅力により、皮肉にも首をしめられた形である。
しかしその後、レネのつくった資本主義讃美のコマーシャルのように皆幸せになったかといえば、さにあらず。企業が肥大化し、格差はひろがり、現在は様々な問題が噴出している。その流れの起点が、民主主義を回復した本作の時点にあったとするのが、監督の観点なのだ。本作をハッピーエンドにできない思惑がそこにある。
そして、本作を現代に直結させるためにとった演出が、あえて画質を当時に近づけんとわざわざビンテージカメラを使った撮影法。美術や衣装といった再現性の高い画造りも伴い、劇中のアーカイブと自然につながっているのだから、その効果は推して知るべし。
要するに、現代から過去を振り返っているという感覚を無くさせることにより、逆に今日性を打ち出しているのである。
演説も選挙方法も、一昔前と全くスタイルが変わらない旧態依然とした日本の政治家たちを見ていると、いつ本作のような裏の第三者による革命が起きて、その波に操られ知らずに流されてしまう日がくるのでは?とリアルに思う。
もしかすると2014年に公開されたのは、天の警告なのかもしれない。
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