若き作家の情熱と血のりがほとばしる、スプラッター決定版!
今も昔も自主映画シーンにおいて、ホラー映画は隆盛を誇っている。現に劇中劇の自主映画といえば、皆、判を押したようにホラーを撮っている(笑)。
なぜか?
ホラーは他のジャンルと比べて、一種、独特な表現形態をもつ治外法権分野であり、“映像技術の手練手管で魅せる”という意味においては、実は極めて純粋な映画的魅力を秘めている。人生経験のない若造に土台、人間ドラマはハードルが高く、テクニックを特化して試せるホラーに群がるのは、当然といえば当然の成り行きといえよう。
という訳で本作は、スプラッター映画の金字塔として映画史に刻まれるサム・ライミ監督作。本作は仲間同士で造られた自主製作映画であり、いまや『スパイダーマン』シリーズ(02〜07)でヒットメイカーとなった大御所サム・ライミの名を一躍、世に轟かした伝説の一本である。
テネシー州。人里離れた山奥にある廃屋で休暇を楽しみに5人の男女がやってくる。イケメンのアッシュ(ブルース・キャンベル)と妹のシェリル(エレン・サンドワイス)、恋人のリンダ(ベッツィ・ベイカー)、友人のスコット(ハル・デルリ)と、その恋人のシェリー(セイラ・ヨーク)だ。不気味な気配と現象に不安を覚えつつ廃屋で過ごす5人。そして夜、地下室におりたアッシュとスコットが、髑髏の短剣とテープレコーダー、「死者の書」と記された古い本を発見する。面白半分でテープを再生してみると、そこには死霊を研究していた科学者が「死者の書」に記された呪文を朗読する声が聴こえてくる。その呪文により、森の中の“何か”が覚醒。危険を察知したシェリルが森に駆け出すも動き出した木々の襲撃をうける。辛くも逃げ帰り、半狂乱となったシェリルを連れ、山をおりようとするアッシュであったが橋が倒壊しており、それもかなわない。仕方なく夜明けをまつ一行であったが、やがてシェリルが死霊に憑りつかれ、凶悪な怪物に変貌し、4人に襲いかかってきて…。
ホラーの魅力とは一体何なのだろうか?
そのひとつは、ゾンビ映画を例に出すと分かり易いが、いわば、“飽食の時代への反動”が挙げられよう。豊かな時代において物質的には満たされながら、飢えを感じる人間の果てなき欲望の投影であり、一種、退廃的な庶民芸術なのである。
それがビデオの普及で勢いづき、安価な残虐ホラービデオが乱造され、ウィルスのように一気に広まった80年代。本作はその潮流に上手く乗り、劇場公開よりもビデオソフトでカルトな人気を博したという。
やがてそうしたホラービデオ文化の隆盛も、「不謹慎ナリ!」と良識派の摘発を受け、社会問題化。本作も急先鋒として槍玉にあげられ、裁判沙汰に巻き込まれることに。結果、ビデオにも規制が設けられ沈静化し、現在に至る。
我が国においても例外ではなく、ほとんどの方が当時の繁栄を忍ばせる百花繚乱たるB級ホラーの棚で、一際妖しく輝く本作を手に取られたのではなかろうか?
ちなみに僕が初めて本作を観たのは小学生低学年の頃、深夜のTV放送だった。当時は父親がTVのチャンネル権とビデオの録画権を独占しており、ホラーの類は観せてはくれなかった。よって、両親が寝静まった深夜にこっそり起き出し、暗闇の居間で一人、鑑賞。するとあまりの怖さに最後まで観れず、ベッドに飛び込み、ガタガタ震えて朝を待った。結局、夜に独りでトイレに行けなくなるほどのトラウマを植え付けられたのである。
後年、中学生になって幼き日の因縁に決着をつけるべく観直すと、本作が通り一遍の見世物ホラーではなかった事実に愕然とした。やはり良かれ悪しかれ、インパクトを与える作品は並の映画ではないのである。
上記したようにホラーの特質として、こと低予算スプラッターは、投げやりなそこはかとないデカダンスな香りをまとっている。
ところが本作に至っては、「俺の技術を見やがれ!面白いだろ!」とばかりに造り手の陽性の気概が無駄に漲っており、パワフルの一言。役者の契約が切れてからも、延々と長期間かけて特殊効果シーン等を撮影し続けた若いライミたちのありったけの情熱と執念が詰め込まれている。(編集にジョエル・コーエンが参加していることからも、彼らの自主製作仲間たちにスゴイ才能が集まっていた旨が窺えよう)
死霊眼線のカメラショット、自ら開発した原始的疾走移動カメラ“シェイキーカム”によるトリッキーなカメラワーク、木々が女性を強姦する悪ノリ、クレイアニメのようなレトロなコマ撮り、等々、既成概念に囚われないインディーズらしい自由な演出は、今観ても新鮮である。
中でも凝りに凝った効果音は特筆に値しよう。カメラの動きに音を付けるアバンギャルドな発想に要注目!かような一歩間違えばギャグになる擬音に加え、VS死霊のドロドロした血飛沫が大噴出する激烈なゴア描写もとことん突き詰めて、“笑い”へと逆転させる画期性にも唸らされる。
よって本作は、とんでもなく痛く怖く気色悪い内容であるにも関わらず、後味はそれほど悪くない。
また、エンタメとしてよく出来た脚本と、ジョン・コクトー作品といった古典へのオマージュにライミの映画的教養の高さが窺える。クラシックへ造詣が深く、基礎がしっかりしている点が、他の凡百のホラー作家と一味違う所為といえよう。
そうした映画的完成度が、本作がジャンルの枠を越えて名作として語り継がれる由縁である。
これらを20代そこそこの若者が造ってしまったのだから、奇跡としかいいようがない。
ちなみに本作には、『死霊のはらわた2』(87)と『キャプテン・スーパーマーケット』(93)という二本の続編が存在し、完全にコメディと化していく。
そして2013年に、本作の本格リメイクが公開され、ヒットを記録した。
本シリーズがライミのライフワークであることに変わりはなく、今後も正伝シリーズの続編および、リメイク・シリーズとのクロスオーバーが企画されているそうな。
僕としては本作のバランスが唯一無二であり、続編に関してはそこに冷や水をかけられたようで、あまり好きではない。でもまあ、シリーズの動向については一映画ファンとして楽しんで見守っていこうとは思うが…。どうなることやら。
また、今回ブルーレイであらためて鑑賞したのだが、こちらは正直、微妙であった。画像が鮮明過ぎるため、手造り特殊効果の限界といおうか、“見たくないモノが見えて”しまい、恐怖の興が削がれてしまったのだ(苦笑)。
やはり本作は、擦り切れたVHSの多少、粗い画像で観るのがベストであろう。
映画の楽しみ方も様々である。
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今も昔も自主映画シーンにおいて、ホラー映画は隆盛を誇っている。現に劇中劇の自主映画といえば、皆、判を押したようにホラーを撮っている(笑)。
なぜか?
ホラーは他のジャンルと比べて、一種、独特な表現形態をもつ治外法権分野であり、“映像技術の手練手管で魅せる”という意味においては、実は極めて純粋な映画的魅力を秘めている。人生経験のない若造に土台、人間ドラマはハードルが高く、テクニックを特化して試せるホラーに群がるのは、当然といえば当然の成り行きといえよう。
という訳で本作は、スプラッター映画の金字塔として映画史に刻まれるサム・ライミ監督作。本作は仲間同士で造られた自主製作映画であり、いまや『スパイダーマン』シリーズ(02〜07)でヒットメイカーとなった大御所サム・ライミの名を一躍、世に轟かした伝説の一本である。
テネシー州。人里離れた山奥にある廃屋で休暇を楽しみに5人の男女がやってくる。イケメンのアッシュ(ブルース・キャンベル)と妹のシェリル(エレン・サンドワイス)、恋人のリンダ(ベッツィ・ベイカー)、友人のスコット(ハル・デルリ)と、その恋人のシェリー(セイラ・ヨーク)だ。不気味な気配と現象に不安を覚えつつ廃屋で過ごす5人。そして夜、地下室におりたアッシュとスコットが、髑髏の短剣とテープレコーダー、「死者の書」と記された古い本を発見する。面白半分でテープを再生してみると、そこには死霊を研究していた科学者が「死者の書」に記された呪文を朗読する声が聴こえてくる。その呪文により、森の中の“何か”が覚醒。危険を察知したシェリルが森に駆け出すも動き出した木々の襲撃をうける。辛くも逃げ帰り、半狂乱となったシェリルを連れ、山をおりようとするアッシュであったが橋が倒壊しており、それもかなわない。仕方なく夜明けをまつ一行であったが、やがてシェリルが死霊に憑りつかれ、凶悪な怪物に変貌し、4人に襲いかかってきて…。
ホラーの魅力とは一体何なのだろうか?
そのひとつは、ゾンビ映画を例に出すと分かり易いが、いわば、“飽食の時代への反動”が挙げられよう。豊かな時代において物質的には満たされながら、飢えを感じる人間の果てなき欲望の投影であり、一種、退廃的な庶民芸術なのである。
それがビデオの普及で勢いづき、安価な残虐ホラービデオが乱造され、ウィルスのように一気に広まった80年代。本作はその潮流に上手く乗り、劇場公開よりもビデオソフトでカルトな人気を博したという。
やがてそうしたホラービデオ文化の隆盛も、「不謹慎ナリ!」と良識派の摘発を受け、社会問題化。本作も急先鋒として槍玉にあげられ、裁判沙汰に巻き込まれることに。結果、ビデオにも規制が設けられ沈静化し、現在に至る。
我が国においても例外ではなく、ほとんどの方が当時の繁栄を忍ばせる百花繚乱たるB級ホラーの棚で、一際妖しく輝く本作を手に取られたのではなかろうか?
ちなみに僕が初めて本作を観たのは小学生低学年の頃、深夜のTV放送だった。当時は父親がTVのチャンネル権とビデオの録画権を独占しており、ホラーの類は観せてはくれなかった。よって、両親が寝静まった深夜にこっそり起き出し、暗闇の居間で一人、鑑賞。するとあまりの怖さに最後まで観れず、ベッドに飛び込み、ガタガタ震えて朝を待った。結局、夜に独りでトイレに行けなくなるほどのトラウマを植え付けられたのである。
後年、中学生になって幼き日の因縁に決着をつけるべく観直すと、本作が通り一遍の見世物ホラーではなかった事実に愕然とした。やはり良かれ悪しかれ、インパクトを与える作品は並の映画ではないのである。
上記したようにホラーの特質として、こと低予算スプラッターは、投げやりなそこはかとないデカダンスな香りをまとっている。
ところが本作に至っては、「俺の技術を見やがれ!面白いだろ!」とばかりに造り手の陽性の気概が無駄に漲っており、パワフルの一言。役者の契約が切れてからも、延々と長期間かけて特殊効果シーン等を撮影し続けた若いライミたちのありったけの情熱と執念が詰め込まれている。(編集にジョエル・コーエンが参加していることからも、彼らの自主製作仲間たちにスゴイ才能が集まっていた旨が窺えよう)
死霊眼線のカメラショット、自ら開発した原始的疾走移動カメラ“シェイキーカム”によるトリッキーなカメラワーク、木々が女性を強姦する悪ノリ、クレイアニメのようなレトロなコマ撮り、等々、既成概念に囚われないインディーズらしい自由な演出は、今観ても新鮮である。
中でも凝りに凝った効果音は特筆に値しよう。カメラの動きに音を付けるアバンギャルドな発想に要注目!かような一歩間違えばギャグになる擬音に加え、VS死霊のドロドロした血飛沫が大噴出する激烈なゴア描写もとことん突き詰めて、“笑い”へと逆転させる画期性にも唸らされる。
よって本作は、とんでもなく痛く怖く気色悪い内容であるにも関わらず、後味はそれほど悪くない。
また、エンタメとしてよく出来た脚本と、ジョン・コクトー作品といった古典へのオマージュにライミの映画的教養の高さが窺える。クラシックへ造詣が深く、基礎がしっかりしている点が、他の凡百のホラー作家と一味違う所為といえよう。
そうした映画的完成度が、本作がジャンルの枠を越えて名作として語り継がれる由縁である。
これらを20代そこそこの若者が造ってしまったのだから、奇跡としかいいようがない。
ちなみに本作には、『死霊のはらわた2』(87)と『キャプテン・スーパーマーケット』(93)という二本の続編が存在し、完全にコメディと化していく。
そして2013年に、本作の本格リメイクが公開され、ヒットを記録した。
本シリーズがライミのライフワークであることに変わりはなく、今後も正伝シリーズの続編および、リメイク・シリーズとのクロスオーバーが企画されているそうな。
僕としては本作のバランスが唯一無二であり、続編に関してはそこに冷や水をかけられたようで、あまり好きではない。でもまあ、シリーズの動向については一映画ファンとして楽しんで見守っていこうとは思うが…。どうなることやら。
また、今回ブルーレイであらためて鑑賞したのだが、こちらは正直、微妙であった。画像が鮮明過ぎるため、手造り特殊効果の限界といおうか、“見たくないモノが見えて”しまい、恐怖の興が削がれてしまったのだ(苦笑)。
やはり本作は、擦り切れたVHSの多少、粗い画像で観るのがベストであろう。
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