仮面が訴えるホロにがバンド・ムービー!
一見、奇抜なインパクトをうけるも、その実、直球に胸をえぐる青春映画であった。
本作は、『アダムとポール』(04)、『ジョジーの修理工場』(07)と、国際的に高評価をうけてきたアイルランド人レニー・アブラハムソン監督作。主演は米映画サイトが選出した“世界でもっともハンサムな顔100人”で第1位に輝いたスター、マイケル・ファスベンダーだ。がしかし今回、彼が扮するのは、カルト的人気を博したミュージシャン兼コメディアンのクリス・シーヴィーによる被り物キャラクター、“フランク・サンドボトム”を模した“フランク”役。(物語も当キャラが率いるバンドに在籍していた脚本家ジョン・ロンソンの実体験に基づいている)つまり彼は劇中ずっと張りぼての被り物をしており、顔出しナシというチャレンジングな役柄なのである。もうそのバカげた試みだけで笑みがこぼれ、猛烈に興味がわいてくるのだが…。
イギリスの片田舎。サラリーマンとして働きながらもミュージシャンになる夢を捨てきれない青年ジョン(ドーナル・グリーソン)は、ある日、海岸で一人の男が入水自殺を試みている現場に遭遇する。病院に搬送された男はインディー・バンド“ソロンフォルブス”のキーボード奏者であり、すかさずジョンは代役をアピール。めでたく夜のライブに参加する運びとなるも、バンドのフロントマン、フランク(マイケル・ファズベンダー)と会ってビックリ仰天。フランクは大きな張りぼての手作りマスクを被った究極の変人であった。おまけに演奏する音楽もアバンギャルドで、戸惑うばかり。虚をつかれたままその夜を終えるのであった。
後日、ジョンは半強制的に、バンドのレコーディングに参加する運びに。こうしてフランクはアイルランドの人里離れた山奥の一軒家に連れていかれ、メンバーと共同生活を送る羽目となり…。
冒頭。平凡な環境に生まれ育った主人公のジョン君は、何とか曲と詩をひねり出そうと街を練り歩くも何のインスピレーションも浮かばず、凡庸なものしか創作できない。自身の人間的な面白味と才能のなさに悩みもがくジョン君。もうここで一気に彼に感情移入し、のめり込んでしまった。素晴らしい導入部である。
そんなジョン君が、ひょんなことからフランクという天才肌のミュージシャンと出会い、負けず劣らずの奇人変人揃いの“ソロンフォルブス”のメンバーとの共同生活が綴られていく。
食事は流動食をとり、風呂も寝る時も絶対に仮面をとらないフランクの不気味な生活のディテールの可笑しさたるや。無表情なフランクの仮面に、いつしか愛着がわき表情が見えてくるから不思議である。とにかく全編通してこの不思議キャラの正体、いつ仮面を脱ぐのか?の興味の吸引力が半端ではない。
既成概念にとらわれない現代音楽製作の現場の興味深さ、新興宗教のような奇妙な隠遁生活に凡人が放り込まれた悲喜こもごもをオフビートな笑いで包み込む。ハリウッド・コメディのように冴えてはいないが、クセになるようなユルい味がある。
やがて皆に馴染んできたジョン君の主張により、メンバーは音楽の方向性を巡って対立。しかもフランクを取り合い、彼と依存関係にあるテルミン奏者のクララ(マギー・グレンホール)と妙な三角関係になる始末。
この辺りのジョン君の「認められたい!」という欲望と焦燥も、手にとるようによく分かる。そしてそれがバンドとフランクの運命を捻じ曲げてしまう。
そもそも、なぜフランクは初ステージの場でジョン君に眼をつけたのか?フランクもどこかで変化を望んでいたのであろう。ここから次第に本編はシリアス・モードへと変転する。終盤のジョン君の成り行きは、あまりに切ない。
最後にフランクの仮面の真相が分かり、なぜマイケル・ファスベンダーが配役されたのかにも合点がいく。
待ち受ける感動のラスト。名曲誕生の瞬間に涙し、一方、人生のホロ苦さに胸が締めつけられる。
“仮面を脱ぎ捨てる”=一人の人間が大人へと階段をのぼる通過儀礼の成長物語ともとれるし、“天才”と“凡人”の内訳を説いた物語にもみえる。(ダニエル・ジョンストンやキャプテン・ビーフハート等のアウトサイダーをミックスしたカリスマ・ミュージシャンぶりについては、元ネタを知らないので不明であるが…)
また、他人を感動させるアーティスト活動とはどういうものなのか?ものをつくるとはどういうことなのか?人と人をつなげる音楽の役割とは?
とかく色々な議題が去来し、深く考えさせられよう。
またネット社会についても鋭く切り込んでおり、ジョン君を調子に乗らせる原因として批判的に問題提起。かと思えば、最後にきっちり良い面も描くフォローが入れられ、バランスに抜かりはない。
上映時間95分にして、中身は驚くほど豊か。変てこだが、心に沁みるいい映画である。
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一見、奇抜なインパクトをうけるも、その実、直球に胸をえぐる青春映画であった。
本作は、『アダムとポール』(04)、『ジョジーの修理工場』(07)と、国際的に高評価をうけてきたアイルランド人レニー・アブラハムソン監督作。主演は米映画サイトが選出した“世界でもっともハンサムな顔100人”で第1位に輝いたスター、マイケル・ファスベンダーだ。がしかし今回、彼が扮するのは、カルト的人気を博したミュージシャン兼コメディアンのクリス・シーヴィーによる被り物キャラクター、“フランク・サンドボトム”を模した“フランク”役。(物語も当キャラが率いるバンドに在籍していた脚本家ジョン・ロンソンの実体験に基づいている)つまり彼は劇中ずっと張りぼての被り物をしており、顔出しナシというチャレンジングな役柄なのである。もうそのバカげた試みだけで笑みがこぼれ、猛烈に興味がわいてくるのだが…。
イギリスの片田舎。サラリーマンとして働きながらもミュージシャンになる夢を捨てきれない青年ジョン(ドーナル・グリーソン)は、ある日、海岸で一人の男が入水自殺を試みている現場に遭遇する。病院に搬送された男はインディー・バンド“ソロンフォルブス”のキーボード奏者であり、すかさずジョンは代役をアピール。めでたく夜のライブに参加する運びとなるも、バンドのフロントマン、フランク(マイケル・ファズベンダー)と会ってビックリ仰天。フランクは大きな張りぼての手作りマスクを被った究極の変人であった。おまけに演奏する音楽もアバンギャルドで、戸惑うばかり。虚をつかれたままその夜を終えるのであった。
後日、ジョンは半強制的に、バンドのレコーディングに参加する運びに。こうしてフランクはアイルランドの人里離れた山奥の一軒家に連れていかれ、メンバーと共同生活を送る羽目となり…。
冒頭。平凡な環境に生まれ育った主人公のジョン君は、何とか曲と詩をひねり出そうと街を練り歩くも何のインスピレーションも浮かばず、凡庸なものしか創作できない。自身の人間的な面白味と才能のなさに悩みもがくジョン君。もうここで一気に彼に感情移入し、のめり込んでしまった。素晴らしい導入部である。
そんなジョン君が、ひょんなことからフランクという天才肌のミュージシャンと出会い、負けず劣らずの奇人変人揃いの“ソロンフォルブス”のメンバーとの共同生活が綴られていく。
食事は流動食をとり、風呂も寝る時も絶対に仮面をとらないフランクの不気味な生活のディテールの可笑しさたるや。無表情なフランクの仮面に、いつしか愛着がわき表情が見えてくるから不思議である。とにかく全編通してこの不思議キャラの正体、いつ仮面を脱ぐのか?の興味の吸引力が半端ではない。
既成概念にとらわれない現代音楽製作の現場の興味深さ、新興宗教のような奇妙な隠遁生活に凡人が放り込まれた悲喜こもごもをオフビートな笑いで包み込む。ハリウッド・コメディのように冴えてはいないが、クセになるようなユルい味がある。
やがて皆に馴染んできたジョン君の主張により、メンバーは音楽の方向性を巡って対立。しかもフランクを取り合い、彼と依存関係にあるテルミン奏者のクララ(マギー・グレンホール)と妙な三角関係になる始末。
この辺りのジョン君の「認められたい!」という欲望と焦燥も、手にとるようによく分かる。そしてそれがバンドとフランクの運命を捻じ曲げてしまう。
そもそも、なぜフランクは初ステージの場でジョン君に眼をつけたのか?フランクもどこかで変化を望んでいたのであろう。ここから次第に本編はシリアス・モードへと変転する。終盤のジョン君の成り行きは、あまりに切ない。
最後にフランクの仮面の真相が分かり、なぜマイケル・ファスベンダーが配役されたのかにも合点がいく。
待ち受ける感動のラスト。名曲誕生の瞬間に涙し、一方、人生のホロ苦さに胸が締めつけられる。
“仮面を脱ぎ捨てる”=一人の人間が大人へと階段をのぼる通過儀礼の成長物語ともとれるし、“天才”と“凡人”の内訳を説いた物語にもみえる。(ダニエル・ジョンストンやキャプテン・ビーフハート等のアウトサイダーをミックスしたカリスマ・ミュージシャンぶりについては、元ネタを知らないので不明であるが…)
また、他人を感動させるアーティスト活動とはどういうものなのか?ものをつくるとはどういうことなのか?人と人をつなげる音楽の役割とは?
とかく色々な議題が去来し、深く考えさせられよう。
またネット社会についても鋭く切り込んでおり、ジョン君を調子に乗らせる原因として批判的に問題提起。かと思えば、最後にきっちり良い面も描くフォローが入れられ、バランスに抜かりはない。
上映時間95分にして、中身は驚くほど豊か。変てこだが、心に沁みるいい映画である。
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