日本映画の黄金時代を切り開きし、至宝の異色作!
携帯端末における鎖国ビジネスで、ガラパゴス化という言葉が浸透して久しからず。そこには幸か不幸か、国内だけで商売の採算がとれる国土と人口をもつ島国ならではの事情が窺えよう。
当状況は映画界にも当てはまり、国内興行でそれなりに稼げるがゆえ、ワールドワイドな視点が欠如しているといわざるをえない。TVドラマ、アニメ、特撮のオマケと化した、いわゆる“劇場版”の氾濫をはじめ、大作になればなるほどその傾向が強くなる悪循環に陥っているようにみえる。
もちろん、そうした状況は今にはじまった訳ではない。戦前から戦後にかけて日本映画界および一般の人々には、邦画文化を外国人が楽しめる筈がないという先入観があり、海外に輸出する発想すらなかった。現在と決定的に異なるのは、実際は知らず知らずのうちに当時の邦画が世界レベルのクオリティに達していたという事実である。
という訳で本作は、日本映画の名を一躍世界に知らしめた黒澤明監督の記念碑的名作である。
本邦公開時は内容のユニークさが賛否両論を呼び、どちらかといえば否が多く、さほどヒットもしなかったという。ところがイタリア映画の輸入配給を行っていたジュリアーナ・ストラミジョリ女史のたっての希望で人知れずヴェネチア映画祭に出品され、現地で大評判を呼び、まさかのグランプリ(金獅子賞)を受賞。アジア映画をなめきっていた世界の映画人たちに驚愕をもって迎えられ、大絶賛を浴びたのである。
海外の人々以上にびっくりしたのが、当の日本人であった。黒澤明をはじめ関係者も寝耳に水であり、日本中は大フィーバーとなる。
かように本作は、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞、古橋広之進選手の自由形長距離水泳の世界記録樹立と並び、敗戦後の劣等感に苛まれていた国民に勇気を与えるイコンとなった。
さらに、黒澤監督の後に続けとばかりに、数々の名匠たちがカンヌやベルリンといった国際映画祭で大躍進。TVの台頭で弱体化を迎えるまで、日本映画界は輝かしい黄金時代を迎えることとなる。
平安時代。戦乱と天災、疫病により荒廃した平安京を象徴するかのように朽ちた姿をさらす南西の正門、羅生門。激しい雨の日、雨宿りに一人の下人(上田吉二郎)がやってくる。するとそこには、杣売り(志村喬)と旅法師(千秋実)が放心状態で座り込んでいた。「さっぱりわからねぇ。こんな不思議な話は聞いたこともねぇ」と呟き、頭を抱えている二人。下人は退屈しのぎに二人の話を聞くことにする。
三日前、山科の藪の中で、杣売りが侍の金沢武弘(森雅之)の死体を発見。杣売りは、武弘と妻の真砂(京マチ子)が旅している姿を目撃した旅法師と共に検非違使に呼び出され、調べに協力する運びとなる。
やがて武弘を殺した下手人として盗賊の多襄丸(三船敏郎)が捕縛され、連行されてくる。その日、昼寝をしていた多襄丸は、たまたま前を通りかかった真砂に心を奪われ、言葉巧みに武弘を騙し、拘束。真砂を武弘の前で手籠めにし、その後、武弘と決闘し、殺害したという。
続いて、寺に逃げ込んだ真砂、巫女によって霊界から召喚された武弘が証言するのだが、三者三様、顛末がくい違い、何がウソで何がホントか真相が分からなくなってきて…。
本作は上記した日本映画初の海外快挙というインパクトにより霞みがちだが、実のところ、黒澤監督のフィルモグラフィの中ではかなり浮いた異質の存在となっている。
東宝の経営陣と従業員組合が激突した“東宝争議”の影響で、ホームグラウンドを一時的に離れていた黒澤監督は、『静かなる決闘』(49)に続き、大映で一本撮る運びになった。そこでネタを探していた黒澤監督の眼に止まったのが、無名の新人、橋本忍の記したシナリオ『雌雄』である。
当時、橋本忍はサラリーマンをしながら伊丹万作監督のもとでシナリオを修行し、伊丹監督の没後は、同じ弟子筋の佐伯清監督に自作を託していた。その佐伯監督は黒澤監督のシナリオでデビューした経緯もあり、橋本氏の数冊のシナリオが黒澤監督に渡り、タイミングよくピックアップされたという訳である。
『雌雄』の原作は、芥川龍之介の小説『藪の中』。当原作は芥川龍之介が12世紀に書かれた説話集『今昔物語』にあったシンプルな一節に着想を経て、アメリカの作家アンブローズ・ビアスの小説『月に照らされた道』の話法を加味。殺人事件が発生し、三人の関係者の陳述がとられるも、すべて自分に都合のいい話を語るという、人間のエゴをえぐった独創的な小説を書き上げた。真相が分からなくなる現象を“藪の中”という語源となった名文学である。
当原作を正確に脚色したシナリオは、後年、数々の名作をモノにする橋本忍の得意技である時系列操作が垣間見られる注目の内容といえよう。
話をもとに戻して、当シナリオに可能性を感じとった黒澤監督は、原作の3つの証言に第4のオリジナル証言を加え、なおかつ橋本忍の咄嗟のアイディアである、同じ芥川龍之介の代表作『羅生門』の要素を組み込むことに決定。最終的に黒澤監督が最終稿をまとめた。
ほぼ『藪の中』の映画化といえる本作に『羅生門』のタイトルを付けたことにより、若干、古典に疎い後世の人々に混乱を与える弊害も生まれたが、この黒澤監督の融合術は天才的といえよう。羅生門という象徴的インパクトもさることながら、ラストに小説『羅生門』のエピソードとテーマに収束させる鮮やかさは見事という他ない。(橋本忍は、納得がいかなかったそうだが…)
ただ、この改変ぶりは、深刻ぶりなタッチとルーティンな展開と共に、とってつけたヒューマニズムと批判対象になってきたのは事実。しかし、僕はこの希望あふれるラスト・シークエンスがあるからこそ、本作は名画たりうると思う。
人間はたとえ霊魂になったとしても、総じて自分勝手で、ともすると最後に杣売りが語る目撃証言もウソかもしれない。それでも彼の最後の行動に一縷の希望を見出す、絶望しない姿勢が大切なのだと、本作は訴えかけているのである。「人間は人間を信じないと生きてはいけない。だから、いくら甘いといわれようがあのラストでいい」といいきった黒澤監督の言葉が心に沁みる。
本作はかような人間の業に迫る深いテーマ性と斬新な語り口が感銘を与えたのも確かだが、それと同等の衝撃を世界に与えたのが、何を隠そう宮川一夫の撮影である。
当時、宮川氏は稲垣浩監督作で実績を残していた名手であり、黒澤監督とは初タッグ。氏は黒澤監督のチャレンジ精神に応え、コントラストの強い光と影の美しいモノクロ映像を生み出した。中でもカメラを太陽に向ける行為がタブーとされていた当時、黒澤監督の「太陽を入れて撮って欲しい」という要望に応え、鏡照明で木の葉の間を洩れる太陽光線を表現した伝説はあまりにも有名だ。
この撮影技術の高さに世界は文字通り、度肝を抜かれたのである。
こうしてみると本作は橋本忍と宮川一夫というフレッシュな才能が、巨神、黒澤明よりさらに前面に押しでた珍しいケースといえよう。異色作たる由縁である。
もちろん、作品をコントロールした黒澤監督の演出力の高さもいわずもがな。豪雨とカンカン照り、森の中のドロドロとした人間の喧騒と検非違使のお白洲の静寂、等々、緩急をつけた展開も計算され尽くしている。
羅生門の荘厳な美術も、圧倒的な迫力!
評判はいまいちだが、“ボレロ”形式で作曲された早坂文雄の音楽もまた登場人物の感情の起伏に則り、実に効果的である。(よって、ラヴェルの「ボレロ」に似ているという指摘は、正しくない)
悪名轟く盗賊、多襄丸を演じたのは、お馴染み三船敏郎。野獣のような感覚的な演技でスクリーン狭しと暴れ回っている。
対して、静の演技をみせる武弘役を演じたのは、森雅之。作家、有島武郎の息子であり、育ちの良さがにじみでる高貴で知的な落ち着きが役と合致!
キーとなる武弘の妻、真砂に扮したのは、京マチ子。純真さから狡猾さ、妖艶さ、ヒステリックと様々な女性の顔を演じ分け、凄まじい存在感を発揮している。
ただ黒澤演出の欠点として、からみがあるにも関わらず、あまりエロティシズムが感じられないのがもどかしいところ。本作限りの黒澤映画出演となったのが残念でならない。
本作で個人的に注目すべきは、そもそも黒澤監督は本作で、サイレント映画を再考し、『貝殻と僧侶』(27)や『ひとで』(28)といったフランス製実験映画のように純粋に映画技術を極めたアヴァンギャルドな表現を目指した点である。
ゆえに題材に古典を選び、換骨奪胎し、画期的な作品を生み出してしまったのだから、本懐を遂げたといえよう。
今ではこうしたリスキーな作品は、自主製作はともかく、なかなか造られづらい状況にある。反面、ネタになるコンテンツは、古典小説はもちろん、漫画、アニメと山のように蓄積されているのだから何をかいわんや。
ガラパゴス化の殻をやぶる第二の『羅生門』の誕生を期待したいところである。
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携帯端末における鎖国ビジネスで、ガラパゴス化という言葉が浸透して久しからず。そこには幸か不幸か、国内だけで商売の採算がとれる国土と人口をもつ島国ならではの事情が窺えよう。
当状況は映画界にも当てはまり、国内興行でそれなりに稼げるがゆえ、ワールドワイドな視点が欠如しているといわざるをえない。TVドラマ、アニメ、特撮のオマケと化した、いわゆる“劇場版”の氾濫をはじめ、大作になればなるほどその傾向が強くなる悪循環に陥っているようにみえる。
もちろん、そうした状況は今にはじまった訳ではない。戦前から戦後にかけて日本映画界および一般の人々には、邦画文化を外国人が楽しめる筈がないという先入観があり、海外に輸出する発想すらなかった。現在と決定的に異なるのは、実際は知らず知らずのうちに当時の邦画が世界レベルのクオリティに達していたという事実である。
という訳で本作は、日本映画の名を一躍世界に知らしめた黒澤明監督の記念碑的名作である。
本邦公開時は内容のユニークさが賛否両論を呼び、どちらかといえば否が多く、さほどヒットもしなかったという。ところがイタリア映画の輸入配給を行っていたジュリアーナ・ストラミジョリ女史のたっての希望で人知れずヴェネチア映画祭に出品され、現地で大評判を呼び、まさかのグランプリ(金獅子賞)を受賞。アジア映画をなめきっていた世界の映画人たちに驚愕をもって迎えられ、大絶賛を浴びたのである。
海外の人々以上にびっくりしたのが、当の日本人であった。黒澤明をはじめ関係者も寝耳に水であり、日本中は大フィーバーとなる。
かように本作は、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞、古橋広之進選手の自由形長距離水泳の世界記録樹立と並び、敗戦後の劣等感に苛まれていた国民に勇気を与えるイコンとなった。
さらに、黒澤監督の後に続けとばかりに、数々の名匠たちがカンヌやベルリンといった国際映画祭で大躍進。TVの台頭で弱体化を迎えるまで、日本映画界は輝かしい黄金時代を迎えることとなる。
平安時代。戦乱と天災、疫病により荒廃した平安京を象徴するかのように朽ちた姿をさらす南西の正門、羅生門。激しい雨の日、雨宿りに一人の下人(上田吉二郎)がやってくる。するとそこには、杣売り(志村喬)と旅法師(千秋実)が放心状態で座り込んでいた。「さっぱりわからねぇ。こんな不思議な話は聞いたこともねぇ」と呟き、頭を抱えている二人。下人は退屈しのぎに二人の話を聞くことにする。
三日前、山科の藪の中で、杣売りが侍の金沢武弘(森雅之)の死体を発見。杣売りは、武弘と妻の真砂(京マチ子)が旅している姿を目撃した旅法師と共に検非違使に呼び出され、調べに協力する運びとなる。
やがて武弘を殺した下手人として盗賊の多襄丸(三船敏郎)が捕縛され、連行されてくる。その日、昼寝をしていた多襄丸は、たまたま前を通りかかった真砂に心を奪われ、言葉巧みに武弘を騙し、拘束。真砂を武弘の前で手籠めにし、その後、武弘と決闘し、殺害したという。
続いて、寺に逃げ込んだ真砂、巫女によって霊界から召喚された武弘が証言するのだが、三者三様、顛末がくい違い、何がウソで何がホントか真相が分からなくなってきて…。
本作は上記した日本映画初の海外快挙というインパクトにより霞みがちだが、実のところ、黒澤監督のフィルモグラフィの中ではかなり浮いた異質の存在となっている。
東宝の経営陣と従業員組合が激突した“東宝争議”の影響で、ホームグラウンドを一時的に離れていた黒澤監督は、『静かなる決闘』(49)に続き、大映で一本撮る運びになった。そこでネタを探していた黒澤監督の眼に止まったのが、無名の新人、橋本忍の記したシナリオ『雌雄』である。
当時、橋本忍はサラリーマンをしながら伊丹万作監督のもとでシナリオを修行し、伊丹監督の没後は、同じ弟子筋の佐伯清監督に自作を託していた。その佐伯監督は黒澤監督のシナリオでデビューした経緯もあり、橋本氏の数冊のシナリオが黒澤監督に渡り、タイミングよくピックアップされたという訳である。
『雌雄』の原作は、芥川龍之介の小説『藪の中』。当原作は芥川龍之介が12世紀に書かれた説話集『今昔物語』にあったシンプルな一節に着想を経て、アメリカの作家アンブローズ・ビアスの小説『月に照らされた道』の話法を加味。殺人事件が発生し、三人の関係者の陳述がとられるも、すべて自分に都合のいい話を語るという、人間のエゴをえぐった独創的な小説を書き上げた。真相が分からなくなる現象を“藪の中”という語源となった名文学である。
当原作を正確に脚色したシナリオは、後年、数々の名作をモノにする橋本忍の得意技である時系列操作が垣間見られる注目の内容といえよう。
話をもとに戻して、当シナリオに可能性を感じとった黒澤監督は、原作の3つの証言に第4のオリジナル証言を加え、なおかつ橋本忍の咄嗟のアイディアである、同じ芥川龍之介の代表作『羅生門』の要素を組み込むことに決定。最終的に黒澤監督が最終稿をまとめた。
ほぼ『藪の中』の映画化といえる本作に『羅生門』のタイトルを付けたことにより、若干、古典に疎い後世の人々に混乱を与える弊害も生まれたが、この黒澤監督の融合術は天才的といえよう。羅生門という象徴的インパクトもさることながら、ラストに小説『羅生門』のエピソードとテーマに収束させる鮮やかさは見事という他ない。(橋本忍は、納得がいかなかったそうだが…)
ただ、この改変ぶりは、深刻ぶりなタッチとルーティンな展開と共に、とってつけたヒューマニズムと批判対象になってきたのは事実。しかし、僕はこの希望あふれるラスト・シークエンスがあるからこそ、本作は名画たりうると思う。
人間はたとえ霊魂になったとしても、総じて自分勝手で、ともすると最後に杣売りが語る目撃証言もウソかもしれない。それでも彼の最後の行動に一縷の希望を見出す、絶望しない姿勢が大切なのだと、本作は訴えかけているのである。「人間は人間を信じないと生きてはいけない。だから、いくら甘いといわれようがあのラストでいい」といいきった黒澤監督の言葉が心に沁みる。
本作はかような人間の業に迫る深いテーマ性と斬新な語り口が感銘を与えたのも確かだが、それと同等の衝撃を世界に与えたのが、何を隠そう宮川一夫の撮影である。
当時、宮川氏は稲垣浩監督作で実績を残していた名手であり、黒澤監督とは初タッグ。氏は黒澤監督のチャレンジ精神に応え、コントラストの強い光と影の美しいモノクロ映像を生み出した。中でもカメラを太陽に向ける行為がタブーとされていた当時、黒澤監督の「太陽を入れて撮って欲しい」という要望に応え、鏡照明で木の葉の間を洩れる太陽光線を表現した伝説はあまりにも有名だ。
この撮影技術の高さに世界は文字通り、度肝を抜かれたのである。
こうしてみると本作は橋本忍と宮川一夫というフレッシュな才能が、巨神、黒澤明よりさらに前面に押しでた珍しいケースといえよう。異色作たる由縁である。
もちろん、作品をコントロールした黒澤監督の演出力の高さもいわずもがな。豪雨とカンカン照り、森の中のドロドロとした人間の喧騒と検非違使のお白洲の静寂、等々、緩急をつけた展開も計算され尽くしている。
羅生門の荘厳な美術も、圧倒的な迫力!
評判はいまいちだが、“ボレロ”形式で作曲された早坂文雄の音楽もまた登場人物の感情の起伏に則り、実に効果的である。(よって、ラヴェルの「ボレロ」に似ているという指摘は、正しくない)
悪名轟く盗賊、多襄丸を演じたのは、お馴染み三船敏郎。野獣のような感覚的な演技でスクリーン狭しと暴れ回っている。
対して、静の演技をみせる武弘役を演じたのは、森雅之。作家、有島武郎の息子であり、育ちの良さがにじみでる高貴で知的な落ち着きが役と合致!
キーとなる武弘の妻、真砂に扮したのは、京マチ子。純真さから狡猾さ、妖艶さ、ヒステリックと様々な女性の顔を演じ分け、凄まじい存在感を発揮している。
ただ黒澤演出の欠点として、からみがあるにも関わらず、あまりエロティシズムが感じられないのがもどかしいところ。本作限りの黒澤映画出演となったのが残念でならない。
本作で個人的に注目すべきは、そもそも黒澤監督は本作で、サイレント映画を再考し、『貝殻と僧侶』(27)や『ひとで』(28)といったフランス製実験映画のように純粋に映画技術を極めたアヴァンギャルドな表現を目指した点である。
ゆえに題材に古典を選び、換骨奪胎し、画期的な作品を生み出してしまったのだから、本懐を遂げたといえよう。
今ではこうしたリスキーな作品は、自主製作はともかく、なかなか造られづらい状況にある。反面、ネタになるコンテンツは、古典小説はもちろん、漫画、アニメと山のように蓄積されているのだから何をかいわんや。
ガラパゴス化の殻をやぶる第二の『羅生門』の誕生を期待したいところである。
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