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Channel: 相木悟の映画評
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『ウォータームーン』 (1989)

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長渕パワーみなぎる大珍作を体感すべし!



僕はシンガーソングライター、長渕剛の大ファンである。
いきなりどうでもいいカミングアウトだが、ご容赦を。
親の趣味で幼少時から車移動の度にカーステレオで聴かされ刷り込みをうけていた分、純粋培養のファンといって差し支えあるまい。
僕からみる長渕剛の最大の魅力は、ズバリ、“人間臭さ”。孤高のロッカーである永ちゃんやブルース・スプリングスティーンと違い、氏には人間的に弱い側面があり、そこを隠さず(隠せず)さらけ出す姿が共感を呼ぶのである。
例えば、サラサラヘアー型優男のフォークシンガーからハードなロッカーへ、ヤクザな兄ちゃんから仏教かぶれ、果ては筋肉ファイター、とコロコロとスタイルを変転さていく臆面のなさも、さもありなん。これほどあからさまに志向を何らかの影響に引っ張られたクリエイターは、そうはいまい。
このある種の不器用さが、悪口ではなく、ストレートに胸に響くのである。よって、一面の印象で長渕をとらえる世間の人々には、大きな誤解が生まれていよう。ファンは格好いいから信奉しているのではなく、失笑しつつ尊敬し、親心で愛しているのだ。
そんな長渕の偉業のひとつが、何を隠そう俳優業の成功である。TVドラマでは、それこそ数々の名作を残してきた。シンガーと俳優を長く両立させた人材は、氏と福山雅治ぐらいではないだろうか?
という訳で今回は、長渕剛の映画進出第2弾である。


※本稿は執筆内容上、ネタバレ全開となっているので、ご注意ください!






1989年。とある山寺の修行僧、竜雲(長渕剛)は、幼い頃から住職の崇禅老師(垂水悟郎)に育てられ、一切下界におりた経験がなかった。折にふれて都会への憧れを口にする竜雲。そんなある夜、いじめられていた若い修行僧、知念(萩原聖人)を助け、ケンカ沙汰を起こしたことをキッカケに、ついに老師は竜雲に山をおりることを許すのであった。
しかし実は竜雲の正体は、33年前、宇宙より長野県に墜落した物体から回収された異星人。“R”というコードネームで呼ばれる国家機密であり、一年に一度、血液交換をしなければ生きられない身体であった。今年の交換リミットが迫る中、国家公安部の奥野(小林稔侍)たちは東京に出た竜雲の追跡を開始する。
一方、町をさまよう竜雲は公園でサバイバル・ゲームに興じるサラリーマンに襲われ、重傷を負ってしまう。そんな竜雲を助けたのは、旅館の女中をしている盲目の女性、鹿野子(松坂慶子)であった。奥野たちの手が迫る中、竜雲は虐げられた生活を送る鹿野子の手を取り、旅に出るのだが…。

本作を語る上でどうしても捨て置けないのが、製作上のゴタゴタであろう。名著として誉高い『映画秘宝』のムック『底抜け超大作』でも取り上げられた有名なエピソードだが、とりあえず、ザッと経緯を記しておく。

まず序章として俳優、長渕剛について少々触れておくと、88年にリアルやくざ映画の金字塔『竜二』(83)に主演した金子正次の影響をもろに受けた、TVドラマ『とんぼ』の小川英二というキャラが創作された。長渕自身は公言していないが、ドスの利いたセリフ回しから、いわゆる世間一般に浸透した“長渕キック(松本人志命名)”に至るまで金子正次の完コピである。ちなみに名曲『泣いてチンピラ』の歌詞にも、『竜二』のモノローグが、そのまま引用されていたりする。
幸いにして『とんぼ』は高視聴率を叩き出し、パラレル・ワールドの劇場版『オルゴール』(89)も大ヒットを記録。それに気をよくした東映サイドから2作目の話が持ち込まれた訳である。

そこで長渕が新たに目指したのは、もう一人の憧れの俳優、松田優作であった。ご存じの通り、金子正次は松田優作の弟分であり、長渕の本格的な俳優デビューとなったTVドラマ『家族ゲーム』の映画版の家庭教師を演じたのが、松田優作その人である。
やはりよほどの思い入れがあったのか、長渕はこれを機に監督を工藤栄一、脚本に丸山昇一、撮影に仙元誠三といった優作組を収集し、前作に引き続き製作協力にセントラルアーツを加え、題材は『ア・ホーマンス』(86)もどきを選ぶという大胆なチャレンジにうって出た。

しかし、いざ製作がスタートすると、脚本は直前に改定するわ、監督の演出に口出しするわ、苛酷なロケ撮影を強要するわ、長渕のワンマン(=わがまま)ぶりにスタッフが振り回され反発を招いていく。共演の松坂慶子も熱の入った長渕の演技指導に辟易し、二人の仲は険悪化。果ては、うんざりした工藤栄一監督まで降板してしまい、半分は長渕剛監督作になってしまった。
奇しくも監督が途中降板し、自ら監督の座についた『ア・ホーマンス』の松田優作と同じ状況に陥った訳である。もし成功していれば、運命的な伝説となったであろう。

結局、最後まで長渕が好き勝手やったため、破綻した珍妙な作品が生まれてしまった。
考えてみれば、長渕も自腹で資金を出しているのだから、口出しは当然といえば当然。意気込みとは裏腹にスタッフの統制に失敗したのは、長渕にカリスマ性がなかったというより、造り手としての映画の才能およびキャリアの不足が原因であろう。
あくまで長渕は、シンガーソングライター、コンサートのプロデュースとしてのプロフェッショナルなのである。

公開された本作は悪評を浴び、カルト化。しかし長渕は、すぐさま主演TVドラマ『しゃぼん玉』(91)と音楽活動で再び大ヒットを飛ばし、復活。長渕人気が深刻に急降下するのは、続くTVドラマ『RUN』(93)終わりのゴタゴタ以後である。

という風に、外野にはさんざん袋叩きにあった本作だが…、実は僕、大好きなのである。長渕ソングに一番熱狂していた時代に観た影響もあるかもしれないが、480円で購入したレンタル落ちの中古VHSを、飽きもせず繰り返し観ていた。

ではせっかくなので、僕なりの本作の解釈を記すと、平たくいえば、世知辛い社会の不条理を歌った主題歌『しょっぱい三日月の夜』(劇中、しつこく二度流れる)の歌詞が、全てを物語っているように思う。
善人がバカをみて、悪人がのさばる理不尽な世の中を変えることはできない。でも、何処かにいるかもしれない“当たり前の男(逆にいうと、こんな世の中で普通に生きている理想の人物)”に会うことが竜雲の抱いた夢。いわば、それは世の理想を探す旅であり、そんな夢を叶えんとする行為は所詮、水の中の月(ウォータームーン)を追うようなもの。そうと分かってはいても、人はウォータームーンを目指して生きていくべきである、というのが本作のメッセージなのであろう。

異星人である竜雲は、どうやっても世間から弾かれてしまう。そこには東京に出てきて、馴染めない田舎者の悲哀も込められているのだろう。
盲目の鹿野子も優しい知念も同様に、何も悪いことをしていないのに、不幸を背負っている。ラスト、公安の奥野もおそらく竜雲を取り逃がした責任をとらされて絶望したのか、竜雲を殺害して自害しようと立ちはだかる。しかし達観した竜雲を前にして、土壇場で断念。劇中で示唆された通り、彼には守るべき家族があり、おそらく心中で残された妻や子に想いを馳せたのだろう。
ことほどさように、上記した「何をおいても、あきらめずに生きろ!それしかない!」というメッセージが劇中から絞り出されているのである。

今きちんと観た上で僭越ながら進言すると、僕的には竜雲をいっそのことテレキネシス等の超能力者という国家的脅威にしてしまい、ラストのとってつけたような奇跡はカット。結局、血液交換が間に合わずに竜雲が死んで、かすかに盲目の鹿野子に希望が残る―、というラストにすればよかったように思うのだが…。というか、もう少し整理すれば、いくらでも辻褄のあうストーリーにはなった分、残念でならない。元来の丸山昇一のシナリオを読んでみたいものである。

何はともあれ、支離滅裂な映画であるのは変わりなくとも、周囲を圧倒する長渕パワーがみなぎっており、一種、異様な観念的珍品であるのは間違いない。製作時の哀しきトラブルと共に世紀の奇作として、語り継がれるべきであろう。


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